此処から見えるあなた


■-1

 泥に近い土を片足で擦りながら進む。多量には出血していないが、走るには支障をきたす鈍痛が焦りを連れてきた。仮に今すぐに襲われたとして、まだ余裕のある魔力で一度二度の撃退は出来るだろうが、それだけである。手負いの獲物への三度目が無いとは言いきれない。共にいた仲間の一人が風の精霊ならではの力で見付けてくれそうだと、やや強い希望を持てる事が唯一の救いだった。
 いつの間にか降り出した小雨で、何回目かの溜め息もそろそろ震えが混じる。捜索の為にもあまり動かないほうが良いのだが、雨具も無くこの侭濡れ続けていては病に罹りかねない。雨宿り出来そうな場所を探して、ひとまず進んでいたのと同じ方向へ歩いた。違うのは高さだけだ。
 山の斜面を派手に滑落したが、途中何かで片足を負傷した以外は奇跡的に無事でいた。滑落の原因となった狼に似た怪物はどうなったかと傍らを見て、折れた木の枝が槍のように貫いていた光景に思考が凍り付いたが、まさしく奇跡的な幸運だったのだろう。
 盛大にくしゃみをして、先程の奇跡にも震え上がる。明日は我が身、その可能性が常にある事実へ一層触れた気がした。
 転げ落ちた距離からして、仲間が此処へ辿り着くのもかなり時間がかかるだろう。それまで何としても生き延びなければならない。そして約束の為にも、死ぬ訳にはいかない。
 改めて確認した己の意志のしぶとさに口の端をつり上げ、パーシアスは歩を進めた。



 ふと横を見ると大きな木のうろが見えた。人一人が収まれそうな、雨宿りにも丁度良さそうな場所だ。鈍い動作で腰を下ろし、疲れきった体を収める。草むらではあるが辺りは少々開けており、不意討ちも困難だろう。うろの狭さを除けば陣取る条件は悪くない。雨はまだ止みそうになく、木を打つ雨音も大きさを増しているように感じられた。寒さと疲れの所為か段々と眠気に襲われ、パーシアスはいつの間にか下を向いていた顔を上げる。
「ちー」
 不意に前方から小さく声が聞こえ、パーシアスはその侭固まった。声だけでは何の生物か、大きさすらも全く判断が付かない。すぐさま雷の結晶剣を振るえるよう、立ち上がれる体勢で前を見据える。
 何かが正面の茂みから飛び出してくる。それはまさしくパーシアスにとって何かでしかなかった。
 楕円形の平たい体に無理矢理蛇の頭と短い尻尾を付ければこうなるのだろうか。鱗に覆われた土色の体表も蛇に似ている。小さな一対の羽があるがまともに飛べるようには見えず、何より小動物と形容すべき小さな生物だった。赤い実を咥えている口に牙も歯も見当たらず、食事は丸飲みするのだろうか。
 円らな瞳がじっとパーシアスを見詰めているだけだったが、やがて芋虫のように身を折って這い摺り、こちらへ近付いてくる。もしやこの木のうろは住処だったのか。
「済まん、すぐにどく」
 通じるとは思えなくとも言葉が出てしまうのは単なる性格だ。しかし立ち上がろうとして痛みに膝が折れてしまう。その間にも正体不明の生物が近付いてくるが、何故か敵意だけは感じられなかった。やがて足元に辿り着いた小動物は、咥えていた赤い実を置くと口の先でつつく。時々疲れて動きを止めるが、実が崩れるまでつつき続けた。其処まで見守ってしまったが、小動物はパーシアスと潰れた実を交互に見て鳴く。食べろと言っている訳では無いようだ。
「もしかして……」
 指で実を掬い取り、傷口に恐る恐る塗ってみる。かなり染みたが、出血が止まる程度まで急速に塞がっていく。どうやら多少の魔力が篭もる実らしい。
「ちー、ちー」
 小さな羽を動かしているさまは喜ぶように見えて、楽になった感覚もあり思わず笑みが零れた。
「有り難う、助かった」
 指先で頭を軽く撫でてやると、甘えるように瞼を閉じる。撫でながら触れても良いものか、毒性など無いかと思ったが、相手の治療を試みたのだ、触れるだけで侵すような毒性があればそもそも近付かなさそうだとも思う。
 小動物はのそのそと近付くと、傍らで伏せて動かない。よく見れば木のうろの更にへこんだ箇所には様々な木の実が見えた。この生物が集めてきたとなると、やはり此処は住処らしい。
 見上げると、衰えないが増してもいない雨が降り続いている。傷は癒えたが、残る憂鬱は果たして解決するのか不安が過り、溜め息が出ていた。
「ぷしゅっ」
 小動物がくしゃみをする。そういえば木の実置き場に先程の実は無く、もしやわざわざ雨の中探しに行ったのだろうか。
 パーシアスは小動物に手を伸ばす。変温動物か否か解らなかったが、触れた体はかなり冷たくなっていた。その侭抱えて温めてやる。
「済まん、これくらいしか出来なくて」
 小動物は大人しく収まり、瞼が潰れてきていた。蛇は瞼ではなく瞬膜があるのだが、蛇とは異なる生物のようだ。少し経つと間の抜けた呼吸音が聞こえ始め、いびきをかいて眠っているらしい。
 野生にしては初対面の生物に警戒心が無さすぎるが、正体不明の生物が飼われていたとは考えにくい。たとえ知識がパーシアス個人の基準だとしても、此処まで心当たりが無い生物は初めてだ。そして、何処までの成長度合いかも解らないが、今まで無事なのは自然の中で暮らす力があったからなのだろう。
 感心しかけて、すぐさま思考を切り替える。小動物も短い尻尾を張り、警戒しているようだ。
「ちー……」
 心配そうに鳴く小動物に一つ頷き、傍らへ丁寧に下ろすとパーシアスは立ち上がる。
「お前の住処はきっと守るさ」
 右手に魔力を込める。そして正面の草むらへ向けたと同時に稲光が迸った。姿を現しかけた熊型の怪物が叫ぶ。右手に形成した雷の結晶剣へ更に魔力を込め、傾ぐ巨体を追撃の鎌鼬が斬り刻んだ。
 見る間に崩れた体の向こうにもう一体が見える。突進する巨体を避けようとして、避ければ後ろの木が一溜まりも無い事実が過り、足が鈍った。
「ちー!」
 突如横から小動物が飛びかかり、巨体の側頭部へ強烈にぶつかった。寸でのところで体当たりは逸れ、せり出した土壁に激突する。脳震盪を起こしたのか、巨体は起き上がろうとしてふらついていた。その隙に剣を一閃し、発生した幾多の雷撃が巨体を焼く。内側まで焼かれ、倒れた巨体を確認してから辺りの草むらを掻き分けると、先程吹き飛んだ小動物を見付けたが脱力して動かない。
「大丈夫か!?」
「ちー……」
 外傷は見当たらず、目を回しているだけのようだ。抱え上げてふと住処の木を見ると大いに傾いでおり、倒れるのは時間の問題だろう。
「済まん……」
 大口を叩いておきながら、結局助けられまでして守り通せなかったのだ。情けなさと申し訳無さに苦い心地になるが、小動物は住処からパーシアスに視線を移して一声鳴いた。
「ちー」
 羽をせわしく動かし、喜んでいるような仕草に責めるようなものは感じられない。
「……有り難う」
 何も解らない同士だろうが、何か通じ合ったような気分だった。
「――パーシアス!」
 聞き慣れた声に横を向くと、駆け寄る仲間の姿が見える。手を振って無事を伝える中、ふと腕の中から聞こえた声でこれからに気付いた。屈んで小動物を地面に下ろし、いつの間にか苦笑している自身がいる。
「色々有り難う。迎えが来たから、もう行かないと」
 小動物は黙ってパーシアスを見詰めている。視線に止められそうになりながら、立ち上がって背を向けた。
「元気でな」
 歩き始めたが、仲間の一人であるジェイスンがすぐに背後を指差す。
「なんか付いてきてるぞ?」
 振り返ると懸命に跳ねて後を追う小動物と目が合ってしまい、思わず立ち止まった。何事かと様子を窺う仲間達の視線にも物怖じせず、小動物は追い付くと足元に擦り寄り、明らかに甘えている。
「あのなあ」
 パーシアスは再び屈んで小動物を見るが、円らな瞳が言葉無く語っている気がしてならない。
「俺の住処はずっと遠くの、自然の無いところにあるんだぞ」
「ちー……」
 小動物は俯きもせず、パーシアスから目を逸らさない。観念するのは自身のほうだと悟り、パーシアスは溜め息をついてからまた小動物を抱き上げた。



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