ナゲキバト


■-1

 王と王妃は苦悩していた。
 平和な自国を見遣りながら、確かに感じていた。
 民からの期待が、よもや怪物になろうとは。



 王と王妃は、子を成せない体だった。世継ぎの出来ない事実を知った二人は嘆き、嘆きの末に外法へと手を伸ばす。
 それは二人に応え、顕現する。今も尚美しさを絶やさぬ、かつては愛を司った堕天使だった。
 堕天使は二人の願いを聞いて笑う。嘲笑すら美しい。
「では貴様らに、男児を一人くれてやろう。その対価として、私に興を見せろ」
 優美な音楽に似た声が紡ぐ。
「五年後に、男児の至宝を破壊する。容易かろう?」
 それが何であるのか。深く考えず、二人は要求を呑んだ。
 そうして授かった、誰とも血の繋がらぬ男児を、二人は慈しんだ。深く愛した。そんな二人を男児も愛した。
 日々を過ごし、堕天使との約束も記憶から消えかかっていた頃、丁度五年目を迎えた。
 深夜。麗しき声が響く。
「時は来たり」
 その声に二人は目を覚ました。途端、体の肉という肉が波打つ。どうした事だ、王が問うと声は答えた。
「男児の至宝を破壊するだけの事よ」
 波打つ肉は膨張して声も呑み込み、肉塊となったそれは軽い音を立てて爆ぜた。



 聞いた事の無い優しげな声に導かれ、父と母の寝室へと向かう。
 そっと扉を開けると、其処には鮮血の海と散乱した肉が見えた。何故か室内の明かりが全て点いており、光景はよく見えた。
 茫然自失の王子と惨状が発見されるのは、まだ随分と後の事である。



 虚ろな王子は、朝を過ごし、昼を過ごす途中で、ふと思い出した。
 母から秘密裏に授かった、一本の鍵と小箱。己が五歳になるその時まで、全てを誰にも見せないよう言いつけられていたものだ。
 今日が五歳の誕生日だった。
 虚ろな瞳に僅かな光が戻る。隠し続けていた小箱を取り出し、鍵を差し込む。容易く開いた小箱には、紙が入っていた。
 読み進め、初めて知る。両親が堕天使と取り引きをした結果授かったのが自分であるという事。五年後に自分の大切なものを破壊されるという事。
 王子は絶望した。人であるかも解らない、人の子ではない自分。対価は自分が払わなければならなかった事実。己の全ては国の存続の為に利用されただけの空虚だと。
 王子は小箱と鍵、手紙を無造作に暖炉の炎へと放り捨てた。炎は手紙に続いていた陳腐な愛の言葉も、瞳に差した希望も、全てを焼き尽くして隠してくれた。



 幾度も起こった内乱も生き延び、王子は王となった。
 絶望は彼を賢くさせた。彼はそれを要らぬものだと思っていた。
 愚者ならば死ねただろうに。下手に知恵付いたばかりに生き延びてしまった。故に死のうという気力が生まれてくれない。これを真に愚者と呼ぶ事も知っている。
 政も滞りなく、今日も国は平和だ。
 そんな希薄な人生で、自分は終わるしかないのだ。



「まただった、と」
「申し訳ございません……」
 寝台に横たわる兵士が恐怖を滲ませるが、それは彼へのものではない。
 何ヶ月か前、古い書物に伝えられるしか存在を確認出来なかったものが領地の山にて発見されたというのだ。『識の水』と言われる、この世の知識を集めるものだと記されていた。
 内密に調査し続け、洞窟の壁に書かれた図柄や文字を照らし合わせた結果、どうやら本物であるという結論に至り、幾人かで組まれた隊が識の水を汲み上げに向かったのだが、其処からが問題だった。
 汲み上げに参加した者は洞窟から出てくるなり狂乱し、他を手にかける者と自害する者とで惨状を作り上げたのだという。
 これは何かの呪いではないかと判断し、識の水を封印する方針へと変更したのだが、事態は相変わらず惨状に阻まれて進まなかった。眼前の兵士は惨状からの逃走に成功した数少ない人物だが、右腕は逃げきれなかったようだ。処置は完了しているが、包帯に滲む血液はまだ新しい。
「済まないな、目覚めたばかりで、つらい事を尋ねて」
「滅相もございません……」
 こう言っておけば支障あるまい。



 彼は考える。
 これ以上犠牲者を出す訳にもいかない。死者の数が膨れ上がる事でいずれ、無駄に臣下を殺した王として悪評が立つだろう。
 仕方無い。彼は決断する。
 自ら出向くしかない。



 小規模の隊を編成し、山へと赴く。
 鬱蒼と茂る森を抜け、岩壁にぽかりと空いた洞窟に辿り着いた。彼は数人精鋭を連れて中へと入る。
 魔力の光で洞窟を照らすと、壁に何かが書かれている。これこそが識の水である事を証明するものなのだろう。
 足元が湿り気を帯びている。鈍重に響いて聞こえるのは水が湧く音か。そうして長々と歩き、最奥部まで到達した。
 壁一面に何かが書かれた其処には小さな泉があった。水は絶えず地下から湧き出ており、隆起する水面も見える。何処にも流れている様子が無く、しかし溢れてはいない、不思議なこの水が元凶なのだろう。早々に封印してしまおうと、連れてきた術師を呼ぶ。
 術師が土を行使しようと魔力を集中させる。やがて生まれた土塊が、まずは湧き水の出口を塞いで水を止めた。続けて湖の周囲を土が覆い始め、湖の存在を隠すように壁となる。
「封印完了。帰還するぞ」
 そうして背を向けた時、背後から砕けるような音がする。何事かと振り向くと、何かによって破壊されたのか、穴の空いた土壁の向こうで水が発光している様が見えた。
 何故、と疑問を感じた次の瞬間、水は生物のように伸び、身をくねらせて飛びかかった。そうして全員をすっかり濡らすと、水は満足したように発光をやめて静かになる。
「皆、何か変化は……」
 危機感を感じて問う途中で、彼は異変に気付いた。頭の中に知識が流れ込んでくる。これは魔力行使法、大半が攻撃面の知識だ。知識が能力となり馴染んでくる。
 すると兵士達が声を上げる。
「これは……なんと発達した医学か」
「こちらは生物の歩み、全ては海から来たと」
「世界とは……」
 どうやら識の水の蓄えた知識が伝わっているらしい。やはりこれは本物だったのだ。
 今のところ狂乱に陥る者も見られない。ひとまずは此処を出なければならないだろう。新たな知識に翻弄されつつ、来た道を引き返した。



 洞窟から出てきた自分達を見て安堵する臣下達へ、まずは説明した。
 識の水は本物である事。封印は水に阻まれ出来なかったが、この水は呪いではない事。
 現に知識が備わっただけだ、と言おうとして、背後から剣を抜く音が聞こえたので咄嗟に振り向いた。
「……あぎああああぁぁぁああああっ」
 兵士の一人が剣を突いた。彼は紙一重でそれを避け、別の兵士の首を貫いてしまう。
 彼は剣を抜きざまに、狂乱する兵士の首を斬り飛ばした。どよめきと、王を守れという声が響く。
 途端に始まった戦いの中で、狂乱しているのはやはり洞窟に入った人員だった。
 何が彼らを狂乱に陥れたのか。考えている内に、頭の中がざわめいた。
「う……うおぉぉぉぉおおおおおおああああぁぁぁ!」
 思わず絶叫する。
「陛下!?」
「おおぉぉあぁぁぁああああ!」
 彼の声に呼応して大地が蠢き、次にはその場にいた全員を岩の槍が貫いていた。



 どうやってあそこから帰ってきたのか解らない。
 血塗れでただ一人帰還し、臣下に介抱される中で彼はこれだけを絞り出した。
「あれは、し、たくさんの、し」
 そうして意識は闇へ落ちる。



 水は知識を集めていた。
 そして意識も集めていた。
 生と死、膨大な数の意識が混ざり合う中で、死という存在は非常に濃度が高かった。
 数えきれない死の意識達が生者を侵食した結果が、狂乱の正体だ。



 目が覚めても死は離れなかった。
 死にたくない、死にたくない、ぐるぐると頭を巡る意識達が叫ぶ。
 違う、それは自分ではない。何度も言い聞かせ、抵抗した。
 抵抗の果てに、その証拠を手首に刻む。爪を立て削げ落とす痛みは、自分のものだと。



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