ナゲキバト


■-2

 正気の割合が少しだけ増えた頃だろうか。
「陛下!」
 乱暴に開けられた扉の向こうが、血を見て一瞬恐怖する。
「なに……」
 手首からの血に濡れた寝台から、ぼんやりとした心地で返事をした。
「精霊が攻めてきました!」
 ああ、そう。言おうとした口は何とか動かずにいた。



 外に出ると、有翼の美しい女性達が空を舞っていた。
 風の精霊か、と片隅で理解する。精霊はその全てが友好的という訳ではない。人間と同じように、同種族の精霊でも考え方が違えば敵になる。人間を目の敵にする精霊もいた。
 ふと、こちらへ向かってくる精霊を見付けた。風の結晶だろうか、その手にある歪な剣からの一撃を軽くかわすと、その体を斬る。断末魔の叫びを上げた精霊から溢れるのは清らかな水だ。精霊にとっての血液である。
 間違って斬り捨ててしまうかもしれないので、出来るだけ人々を視界に入れないように戦った。
 次々に斬り殺す所為か、あまり意識がはっきりとしない。民が混じっていなかっただろうか。
 思考が霞む。死にたくない、と声が響き、再び正気を手放しそうな時だった。
 誰かが精霊から逃げている。躓き転んで無防備になったその時、兵士が精霊を斬る。助けられた者は倒れた体を必死に起こそうとした。
 その時だ。精霊が最後の力を振り絞り、獲物の背中へ手を伸ばす。叫び声が聞こえ、見ると精霊の腕は血も出さず背中に埋まっていた。そして思いきり、何かを引き摺り出される。
 藤色の翼だった。それは精霊達と同じものだ。
 翼を引き摺り出した精霊は其処で息絶えた。
 この場において、隠れていた同種族という事実が意味するもの。次の瞬間兵士が、正体を現した事に激怒して斬りかかった。
 叫びが上がり、羽根が舞う。
 あの精霊はこの侭殺されるのだろうか。ふと、やけにその景色が近付いて見えた。



『どうして? どうしてみんな私を殺すの?』
『何故許してくれないの?』
『どうして、貴方まで殺されて、私まで殺されるの?』
『嫌、嫌よ、嫌よいやああいやあああああああああアアアアガアアアアアッアアアヅウウウウアアアアアヅイィィィィィィィィッ』
 これは、エルフに恋をしたダークエルフが燃える記憶。



 全身が熱い。苦しい。焼け爛れる。
 光景が目の前まで迫った時、こちらに気付いていた兵士の首が飛ぶ。
 あの精霊は動いていない。誰だ、攻撃の軌跡を目で追うと、其処には自分の腕があった。
 その光景を別の兵士が遠くで見ていた。
「陛下が乱心されたああっ」
 そう叫び、逃げていく。
『あいつらが、あいつらが私を殺そうとする』
 あの時の炎の音が耳に響く。
 突然空が炎に包まれる。空だけではない、炎の壁が国を包んだ。起こしたのは自分だ。
 正体を知った時、奴らは逃げて、怯えて、襲ってきた。
 何もしないのに。
 応戦するしかなかった。
 何もしたくないのに。
『私を燃やしたのはこいつらだこいつらがこいつらがああぁぁぁっ』
「あぁぁああああああああっ」
 自分の絶叫で頭が揺れる。走り出し、見える生き物全てを斬り飛ばす。恐怖に歪む顔を斬ると、何故だか安心する。
 獣人が背後から取り付き、顔に爪を立てた。爪は目にかかり、右目が破け瞼も巻き添えになる。幸か不幸か、狂乱した体はそれでも死ななかった。
 獣人を何とか殺すと、術師が自分に向けて光弾を放つ。避ける事など頭に無かったので、直撃を目に食らう。すると目の前が濃霧に包まれた。
 何も見えない。だが、体は敏感に命あるものを察知した。突き動かされるが侭に走り、殺し尽くした。



 炎の壁は昼の日差しのうちに消滅した。
 枯れ果てそうな熱い空気の中を歩く。もういない、生きている者はいない。逃がさず全て殺した。何故かそれだけははっきりと解った。
 あの一人はあそこにいるのだろうか。残った片目は視力を失い、もう何も見えない。
 歩く途中で足が限界だと主張して倒れる。倒れた地面は水っぽく、腥い。焦げのにおいも混ざっている。
 体が痛むのは記憶の所為だけではなかった。恐らく瀕死だ。
 液体の跳ねる音がする。何が何をしているのか、もう解らなかった。
 体に何かが覆い被さった。
「……ひっく、う、うえぇぇ」
 それは弱々しく震えて泣く。一捻りすれば死にそうだった。
「君は……誰……?」
 今頃こんな事を尋ねていた。



「欠陥品なの」
 上から降ってくる声を聞く。
「あれは、女の形をしていたでしょう、でも、この体は無いの、間違ったものだって、失敗だって、捨てるものだって、いてはいけないって」
「でも、死にたくなかったん、だね」
 そう告げると、顔にぽたぽたと水が落ちる。
「どうしても、死にたくなかった、逃げて、隠れて、ずっと、怖かった」
 乏しい語彙量を必死に活用するような印象の口調だ。
「解らない、どうして、解らないよ、生きるって何? もう……」
 腕を伸ばす。空を彷徨ったが、何とかその頬を見付けて撫でる。
「解らないよ……。死にたくないって、思うだけだよ……」
 多くの死が教えてくれたのはこれだけだった。頭の中で悲鳴が響いている。
「ねえ、これから、どうしたいの?」
 頬に当てた手を、大事そうに絡め取る。その手は温かくもなく冷たくもない。
「死にたくない……死にたくない……」
 その泣き声を聞いて、何故か落ち着けた。
「死にたく、ないね……」
 温かいものが頬を伝う。血なのか、上からなのか、自分の目からなのか。
『どうして許してくれないの』
 この記憶の感情からなのか。
「いっしょに生きていい……?」
 それに疑問を感じる事は無かった。
 もう一人では生きられない。怯えるだけで死に至る。がたがたと死に震える体は、寄せ合って温め合うしかない。
「死にたくない、だから……生きよう」
 頭の中は煩く混沌としていたが、心は暗く静かだ。
「でも、君を残して、死ぬかもしれない」
 それにはか細い声が返る。
「独りぼっちでも、もう淋しくない、いっしょだから……」
 彼は軽く腕を引いて、精霊は身を伏せる。
 死の淵で繋いだものを、離すものか。



 傷は幾つか塞がったが、互いにまだ傷に塗れ、潰れた目はその侭だった。
「ごめんなさい、治癒、上手くないから……」
 首を横に振る。魔力による回復の術は、自分には無い。
「有り難う。これから城に行きたいんだけど、手を引いてくれないかな」
「どうして?」
 これは目的か理由か。判断するのは面倒で両方答えた。
「此処を出て行くから、身支度をしようと思って。でも目が見えないんだ」
「それなら、あげる」
 何を、と尋ねる前にそれは入ってきた。感覚を満たす清涼感。次第に、妙な心地を覚える。
 確かに視力は無いのだが、解る。目の前の形、広がる色、距離、ある程度の背後。
「……これは?」
「風をあげたの」
 風の精霊は視力のみで状況を判断しないようだ。
「でも、君が困らないかい」
「ううん、少しだけだから」
 少しだけでこれだけ力があれば十分だった。瞳の焦点が合っているか解らないが、彼は苦笑を浮かべる。正直に笑うのは初めてかもしれない。
「何もお返しが出来ないね」
 すると精霊は悩んだ末に告げる。
「じゃあ……ちょっと、貰うね」
 言って、精霊が顔を近付けた。そして少し背伸びをする。
 感覚にびくりと体が跳ねた。まだ真新しい右目の傷に舌を差し入れられ、中に残っていた残骸を軽く吸われる。
 顔を離した精霊が、赤く染まった白磁の唇で紡いだ。
「……いっしょ」
 その囁きは何より甘美に聞こえた。



「全部、焼き払おうと思うんだ」
 金目の物を探しながら告げる。なるべく小さくて高価そうなものを一通り袋に詰めた。
「あとは服かな」
「これじゃ駄目?」
 精霊が破れた血塗れの服で不思議そうに問うところ、その辺り無頓着らしい。
「あんまりね。……そうだ、あと一つ」
「何?」
「新しく名前を付ける。無いと困る事もあるし」
「付け方、あるの? 知らないよ」
 訊かれて悩んでいると、棚に何冊か本が収まっているのを見付ける。一冊を手に取り、簡単に目を通すと文学の本だと解った。これならば登場人物に名前があるだろう。
「面倒だからこれから取ってしまおうか」
 適当にページをめくる。適当なところでめくる手を止めた。
「……アキリーズ、これにしようかな。君はこれでどうかな」
 精霊も本を覗き込むが、指で示されたそれに首を傾げる。
「これ、なんて言うの?」
「ユリシーズ」
「ゆり、しーず……、うん、えっと……」
 暫く考えて、ぱっと明るく笑った。
「アキさん!」
 こんな顔を見たのは初めてだった。



 旅に出るにはあまりに軽装な格好だった。精霊は好きだったのか装飾品を着け、それ以外は実に粗末だ。彼はローブを着込み、余裕のある袖口が包帯を巻いた腕を隠す。
 国を出て数歩、彼は魔力で炎を発動させようと手を差し出す。
「手伝うよ」
 精霊が隣に立った。二人で集中して魔力を込める。重い空気が渦を巻き、一つになる。
 発動したのは巨大な炎と風が混ざり合った嵐だった。あらゆる空間に炎が走り、死体を焼き、建造物を焼く。暫くして嵐は消えたが、その爪痕は巨大な影絵として其処にあった。
「有り難う」
 彼は精霊に笑いかける。精霊もまた笑う。
 やがて崩れていく影絵に背を向けて、アキリーズとユリシーズは歩き出した。



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