ただ君を願うこと
■-1
望まぬものからの激痛に苦悶し、藻掻くも無意味だった。
一刻も早く排除したいが、排除の意味する事への恐怖も湧き上がる。そして葛藤を余所に、元凶は徐々に移動していた。
狂乱の中で痛みが僅かに余韻となり、証拠を示すように声が上がる。己とまだ繋がっている存在が視界の端に映り、惨めさに絶望しか出来なかった。
依頼をこなし、軽く談笑しながら宿へ帰ってきた時だった。
「お前達、ちょっといいか」
「何かあったのかい?」
宿の亭主の声に足を止めた六人の中で、アキリーズが穏やかに尋ねる。締まり無い微笑も今は馴染みのあるものだ。
「お前達に……いや、正確にはハーキュリーズ宛てに依頼があってな」
そうして差し出された依頼書を六人が覗き込む。一人は字が読めないので眺めるだけだ。
依頼者名にはオーゼル・ヘルタと記されている。学者である彼が、魔法生物であり両性具有であるハーキュリーズを研究したいとの内容だった。拘束期間は三日間だという。
読み進める中、二人の表情に明らかな変化が表れる。
「こいつはなあ……」
顰め面のシーシアスの声音には珍しく重さがあった。ハーキュリーズはそれを聞いても眉一つ動かさず、依頼書の一部を指差す。
「よく見ろ、報酬は銀貨四千枚とある」
破格の報酬だが、シーシアスは悩ましげに唸って首を縦に振らずにいた。納得出来ないシーシアスに代わってパーシアスが尋ねてみる。またしても表情は重いものだが、不満より不安が勝っていた。
「お前は大丈夫なのか?」
「ただの研究だろう、どうという事はあるまい」
ハーキュリーズは軽く首を横に振って答えたが、パーシアスの不安は消えない。其処へユリシーズが決定的な一言を投げた。
「おまえ、嘘ついたの、どうして?」
ユリシーズの風読みの力はハーキュリーズの若干動揺した呼吸を見破ったらしい。言葉が軽くながら的確に刺さり、堪らずハーキュリーズは目を逸らす。
「そうだと、しても……」
珍しく言い淀むハーキュリーズへ、アキリーズは少し考えながら告げた。
「それが君の為になるのなら、僕には止められないかな。答えには迷っているようだけど」
言い当てられ、ハーキュリーズは考え込むように目を伏せて黙り込んでしまう。重い沈黙が続いたが、遠慮がちな声がそれを破った。
「あの……あのさ」
途端に五人分の目が向けられ、緊張した面持ちでジェイスンは言葉を続けた。
「もし受けるんなら、誰か付いていったらいいんじゃないか」
「うん、同行者を禁ずるとは書いていないし、賛成するよ」
アキリーズの言葉に他の者が頷くのだが、それはまさか。
「言い出した者が率先すべし、か。悪くはないがな」
解答の代弁に続いた言葉には普段の余裕が乗っていた。
依頼者であるオーゼルの研究室へは馬車を二台使っておよそ二日かかる。そう長期間でもないが、ハーキュリーズとジェイスンは必要物資の買い出しに追われていた。出来るだけ早めに発たねば心証に関わる。携帯食や薬品を一通り買い揃えて非常時の準備も完了すると、他の四人は既に別の依頼で宿を発っていた。
「それじゃ、俺達も出発だな」
「ああ」
依頼書を眺めているハーキュリーズは明らかに生返事だ。気の抜けた様子が如何にもらしくなく、ジェイスンの胸中にも一抹の不安があった。シーシアスとパーシアスは事情を知っているようだが、遂に教えてもらえず今に至る。しかしジェイスンへハーキュリーズを任せる事に異存が無かったのは、二人がジェイスンを信頼しているからなのかもしれない。それを無下にはとても出来ず、出来ないなりに応えるしかないだろう。
一つ仕切り直すように息を吸って、ジェイスンは決意した。
「ハーキュリーズ」
突然両肩を持たれ、ハーキュリーズは弾かれたように顔を上げる。表情には今まで見た事の無い怯えの色すらあった。
「俺に出来る事なら何でも言ってくれよ。その為に付いていくんだからさ」
「ああ。有り難う」
言葉でハーキュリーズが苦笑交じりに微笑む。何らかの覚悟をしているならば、出来る限りの助力をするしかあるまい。
一日目は快晴のもと滞りなく進むと思われたが、突如として立ち込めた暗雲が大雨を降らした。途端に荒れた道を馬車は懸命に進み、何とか予定の町近郊へ到着する。暗くなる前に急ぎ町へと向かうと幸いすぐに宿を取れたので、宛がわれた部屋へ寒さと疲れに任せて転がり込むように入った。
「ううぅ、冷えた……」
「全くだな」
雨に濡れて重くなった外套を脱ぐが、その下もかなり濡れている。体を温め服や荷物を乾かすのを優先し、夕食を我慢する事で意見が一致した。
寝台の近くで手早く服を脱いでいくが、ジェイスンは気を遣っているのかハーキュリーズへ背を向けている。露わになった体にはよく見れば傷痕が幾つか見られるが、戦いに身を投じる冒険者ならば別段変わった事でもない。精霊と何かとのハーフだというが、体の何処を見ても人間との差違は見付からなかった。
ハーキュリーズは己に目を移す。黒い呪印が走る体には、男と女が確実に息付いている。どちらの機能も使いたいとは思わなかったが、実際を思うと重い感覚しかない。
「それじゃ、おやすみ」
不意にかけられた声へ顔を上げると、ジェイスンがブランケットへ潜り込むさまが見える。こちらには目を向けずじまいでいたらしい。
「ああ、おやすみ」
果たして声は寒さに震えただけだったのか。
雨は降りやんだが道は大いにぬかるみ、二日目の馬車の速度もやや落ちた。どうにか夕日が沈みかける頃には目的地近辺の村へ辿り着く。依頼書によれば、依頼者は近くの林を抜けた先に住んでいるらしく、夜分遅くに訪ねるのは避けて宿を取った。
早速食堂で食事を注文し、ジェイスンは少々肉が入った野菜炒めを頬張る。とろみのあるソースが絡んで確かに美味いが、同時に普段の味への恋しさも連れてくるものだ。
ふとテーブルの向かいに座るハーキュリーズへ目を遣ると、確かに食べ進めているがそれだけであり、いつものように食事を楽しんでいるようにはとても見えなかった。此処までハーキュリーズを不安定にさせるものとはどのようなものなのか、少しだけ触れてみても良いのだろうか。
「なあ、ハーキュリーズ」
「……何だ?」
かなり遅れた返事にも不安の片鱗が見える。
「今回の依頼、嫌なのにどうして受けたんだ」
するとハーキュリーズは食べる手を止めて俯いてしまう。俯いた先に何を見ているのかは解らない。
「受けたのは……」
言葉が淀んだところで顔を上げたハーキュリーズの表情はやや暗かったが、理由の全てを語ろうとはしないものだ。
「あの二人、シーシアスとパーシアスへ何か返したかったのかもな」
「そういえば、元々は三人パーティなんだっけ」
「ああ。私は二人に恩返しがしたかったのかもしれない」
取って付けたような言い回しは気になるが、嘘でもないらしい。実際にハーキュリーズの不安を察知出来たのは二人だけだとも、依頼書を見た時の反応で窺い知れる。
「そっか……。でも、絶対に無理するなよ。無理したって二人共嬉しくないと思うし」
言葉にハーキュリーズは再度俯いた。つまり今は相当な無理をしているらしい。
「解っている。早く終わらせて帰るとしよう」
また食事に戻ってしまったハーキュリーズは、何処か他者へ頼る事を恐れているようにも見える。シーシアス以上に思慮深く、パーシアス以上に生真面目な性格がそうさせるのだろうか。或いは、他の何かが。
翌朝、オーゼルの住まいを目指して林を行く。鬱蒼と茂ってもいないので歩くのに然程苦労はしなかった。やがて見えたのは小さな邸だが、造形の小綺麗さが無ければただの小屋だと思っただろう。壁に雑草の這う有り様からしても、あまり手入れがされていないらしい。
玄関に立って、ふとジェイスンは傍らのハーキュリーズを見遣る。ハーキュリーズは重々しい印象のドアノッカーを見詰めて、それきりだった。
「ハーキュリーズ」
小声で呼びかけてみるとハーキュリーズは跳び上がりそうな程に体を震わせる。普段は頼れる存在であり、からかいにジェイスンが手玉に取られる事もあるが、今は立場が逆転しているとすら感じる程に弱々しい。この依頼に関してはやはり良からぬ因縁があるようだ。
「ジェイスン」
虫の羽音にさえ負けてしまいそうな声でハーキュリーズが呼んだ時には、その手がジェイスンの腕を掴んでいた。
「離れないでくれ」
明らかに震える手へ、ジェイスンは己の手を重ねる。
「うん。約束するよ」
言葉に小さく頷いたハーキュリーズの手から力が抜け、離れた後にはドアノッカーを掴んだ。自ら玄関を叩いたハーキュリーズの表情からは怯えた色も消え去っている。
程無くして向こう側からせわしい足音が聞こえた。
「はーいはいはい」
間の抜けた声に肩透かしを食らい、ジェイスンは疑問の声を出しかけてしまう。程無くして開けられた扉の向こうには、表情だけは人の良さそうな男の姿があった。寝癖混じりの髪や何か解らないもので汚し放題の服が外見への無頓着を物語る。
「あの、貴方がオーゼル?」
「そうそう、そうです、オーゼルです」
ジェイスンの問いに答えるのもそこそこに、オーゼルの視線は既にハーキュリーズへ釘付けだ。
「呪印がありますね、貴方がハーキュリーズさん?」
「ああ、間違い無く……」
ハーキュリーズも勢いに気圧されており、表情に浮かぶ若干の恐怖は別の意味かもしれない。
「ああっこれは失敬、お連れさんもよくお出でくださいまして。お名前は何と?」
「は、はい……、ジェイスンっていいます」
オーゼルの矢継ぎ早の言葉は個性なのだろうが、想像する研究者像とはかけ離れている。オーゼルは深く感心して何度も頷いているばかりだったが、やがて話を進めた。
「ほうほうほう……。有り難うございます、さてさて立ち話も何ですから中へどうぞ、まあ散らかっていて外よりよっぽど歩きにくいかもしれませんね、あははは」
手招きをしながら廊下を小走りに行くオーゼルは早速箱で躓いており、足元に注意しながら二人も邸に入る。窓からの光を遮る程に雑然と物が積み上がっているさまから、見た目には頓着しない性格が窺い知れた。
やがて小部屋に辿り着くとオーゼルは物を粗雑にどけ、その下から現れたソファへ座るよう促す。腰を落ち着けるとまたもオーゼルが口を開いた。
「いやはやお茶の一つも出せませんがお許しを」
「い、いや、お構い無く」
ジェイスンが慌てる傍らでハーキュリーズはあくまでも静かだ。そして普段通りの冷静な声で告げる。
「気遣いを貰っておいて済まないが、本題に入りたい」
しかしハーキュリーズの膝の上には拳があり、恐怖心を必死に抑えているのかもしれない。幸い事実へ気付いたのはジェイスンだけのようで、オーゼルは顔色を変えていなかった。
「そうそう、そうでした。ハーキュリーズさん、済みませんがまずは確認させてもらえませんか」
「確認?」
首を傾げるジェイスンの隣でハーキュリーズが一つ頷く。
「証拠はこの身一つしかないからな。徹底的に調べてもらって構わない」
「有り難うございます、お話が早くて助かります、はい」
「あ……あの」
遠慮がちに、しかし慌ててジェイスンが口を挟んだ。
「はい? 何でしょう、何なりと」
「その……確認に付き添ってもいいですか?」
ハーキュリーズを一人にしてしまうのは避けたいが、オーゼルは明らかに困った顔で唸る。
「ううん、済みませんが部屋が非常に狭いんです、何処も此処みたいな有り様でして」
「そうですか……解りました」
座る場所の確保にも一苦労する部屋を引き合いに出されては引き下がるしかなく、ジェイスンは身を縮こまらせた。
「さてさて、ジェイスンさんはひとまずこちらでお待ちを。ハーキュリーズさん、お願いします」
「解った」
席を立って部屋を出る二人の背中を見るジェイスンへ、ハーキュリーズが少しだけ振り返る。其処にあった苦笑は心配しているようで、これではどちらが支えているのか。扉が閉まった後、ジェイスンは不甲斐無い己の頬を両手で叩いた。
案内された室内は元々狭く、ジェイスンを入れなかった理由が嘘ではないと一目で解る。積まれた物に囲まれた中央には人一人寝転がれる台があり、多少の清潔感を加味しても不気味さは拭えなかった。
言われるが侭にハーキュリーズは衣服を取り去り、無防備な体を台の上に晒す。オーゼルは何かの器具に紐で繋がったものを幾つかハーキュリーズの体へ貼り付けていった。やがて器具が小さな音を立てて光るのを認めると、オーゼルが驚きの声を上げる。
「おおお、こんなに魔力反応が、凄いぞ凄いぞ」
続けて体をやや乱暴に弄られる。粗雑さは他者にも発揮されるのかと呆れる振りをして、ハーキュリーズは震えた息をついた。
「ふむう、まさしく貴方は両性具有の魔法生物、いやあこれはとても」
オーゼルが何かを言いかけた瞬間、体に貼り付けられたものから弾けるような音が聞こえた。
「がっ……!」
強力な衝撃を浴びせられ、短い叫びの後にハーキュリーズの意識は吹き飛んでいた。
まだ少し経っただけなのだろうが、妙に胸中がざわつく。ジェイスンは身じろぎを止められず、室内を何度も見渡した。見ても何の道具なのか、道具であるのかさえ解らないものが堆く積まれている室内に目新しさも無くなり、退屈と不安が募る。
ハーキュリーズはどうしているのだろうか。思考は辿り着く場所も無く頭の中を回り続けており、そろそろ痺れを切らしてしまいそうだが、無闇に邪魔をする訳にもいくまい。
何度目かの溜め息をついた時、背後に奇妙な感覚を察知してジェイスンは振り向いた。突然の魔力の流れを感じる事が出来たのは己の特性なのだろうか。
背後の空間には黒い渦が発生しており、徐々に大きさを増している。明らかな異常にジェイスンは帯剣の中でも短いものを抜き放って構えた。狭い室内で普段の大剣は使えない。
「……かんのいいやつめ」
姿を現して惜しんだのは赤黒い体表の小型な生物だった。人型に近いが背には皮膜の羽を生やし、獣染みた牙や爪が光っている。
「まさか、悪魔!?」
ジェイスンが思わず零した言葉へ異形は聞き心地の悪い声で笑った。
「ぎぎっ、さっしのいいやつめ!」
空中を突進する悪魔の爪を剣で受け、腹へ渾身の蹴りを見舞う。吹き飛ばされた悪魔は積まれた荷物へ衝突して崩れた物に埋まったが、ジェイスンの狙いは定まっていた。物に紛れて移動しようとした悪魔の喉元へ剣が迫り、正確な突きに貫かれる。
動きが止まった事を確認して部屋を飛び出す。異界に住まう筈の悪魔がこれ程簡単に出現したのだ、契約を交わした人物がいると推測され、心当たりは一人しかいない。悪魔の召喚には贄も必要であり、何故ハーキュリーズを求めたのかも合点がいった。魔力の塊は豪勢な贄であり、両性具有の体は反発する筈の陰陽を持つものとしてまた格別だろう。
邸の奥を目指して走ると、空間へ次々に発生した黒い渦から悪魔と思しき生物が飛び出してくる。即座に魔力を使ってこないところを見ると、どれも下級のものらしい。普段魔力を行使するのはやや不得手なジェイスンにとって有り難い要素だった。
狭い場所では攻撃方法が限られるが逃げ場も無い。飛びかかる悪魔達をまとめて突き刺す事も出来た。背後に現れた渦からの奇襲も、渦から出てきた瞬間に貫く。
悪魔の数は奥に進む程増えたので、奥に進ませたくないのだと考えていいだろう。悪魔の死体さえ邪魔になる廊下を進み、やっとの事で最奥にあった扉を注意して開けると、物がひしめいて狭い室内に台があるだけだった。しかし部屋の隅にハーキュリーズの身に付けていた一式があるのを見付けて、やはり此処に来たのだと、そして此処から先があるのだと知る。
まずは正面にあった本棚を調べようと歩を進めると、不意にざらついたものを踏んだ。床は石造りである、もし隠し通路が床にあるならば、蓋となる石が床とこすれて僅かに削れたのかもしれない。現に他の場所は埃っぽいだけだった。
蓋の作動装置を探すが時間だけが過ぎていく。やがてめぼしい場所も探し終えてしまい、ジェイスンは覚悟を決めた。
「ちょっと、だけ……!」
己に懇願すると、ジェイスンは狙いの床へ逆手に持った剣を構える。刀身が白く輝き始めた頃に切っ先から押し潰す力が生まれ、石の蓋を砕いた。狙い通り通れるようになったのを見てすぐさま力を消すが、やはり多少は消耗したらしく軽い目眩に襲われる。親から受け継いだ重力操作の力は負担が大きいので、闇雲には使えない。
地下へ続く長い階段を下りながら考える。オーゼルは常習的に悪魔と契約を交わしているようだ。儀式には手慣れているのかもしれない。ハーキュリーズを贄とするならば、強大な力を持つ悪魔と契約する気でいるだろう。
覚悟するよりも苛烈な戦いになるかもしれないが、ジェイスンに迷いはなかった。あの時、ハーキュリーズに弱々しく掴まれた箇所が疼くのは気の所為ではないのかもしれない。
やがて見えた大きな両開きの扉を蹴り開けると広い部屋に出た。天井は奥に行くほど高くなり、教会のような荘厳な造りが却って不気味さを醸し出す。部屋の奥に広がる魔法陣と傍らの犯人、そして陣の中心に倒れている人物を見付けて思わず叫んだ。
「ハーキュリーズ!」
かなり弱っているのか、ハーキュリーズはこちらを振り向いて何事かを言いたげに唇を動かしただけだった。
「やあやあ困った、下級とはいえ悪魔だったんですがねえ」
魔法陣の外側に立っているオーゼルが持った杖の石突き部分は赤く染まっており、血か何かで陣を書いていたのだろう。
「しかし時間は稼げました、っと!」
杖の先で陣を突いた瞬間、起動し輝き出した魔法陣がハーキュリーズから魔力を吸い取り始める。魔法生物にとって無理矢理魔力を吸い取られる事が致命的なのは想像するまでもない。
「うあ、ああぁぁああっ」
「このっ、やめろ!」
ジェイスンはハーキュリーズの元へ駆け寄るが、結界と化した陣に体ごと跳ね返されてしまう。素早く起き上がり、今度は結界を剣で斬り付けてみるが、またしても丸ごと跳ね返され床を転がった。
「無駄です無駄です。発動した以上、もう誰にも止められない。僕を殺しても止まりません」
オーゼルの締まりの無い笑みが今は不気味極まるが、それを気にする余裕は無い。
「ジェイ、スン……」
光の中でハーキュリーズが声を絞り出す。
「逃げろ……」
この侭では二人共に助からないだろうが、煮え滾るような悔しさがジェイスンに満ちる。
「嫌だ! 約束しただろ!」
あらん限りの声にハーキュリーズは困り、困り果てて苦笑した。
「さあて、陰陽を押し込めた魔力の塊だぞ、不味い訳が無いだろう!」
膨大な魔力が空間に干渉し、魔法陣の上には大きな黒い渦が生まれる。渦からは巨大な腕が突き出され、オーゼルが感嘆の声を上げた。いよいよ渦から出てくるものを迎え撃とうと、ジェイスンが力を全解放しようと集中したところに声が響く。
「やめとけ」
声は確かに渦から聞こえたが、あまりに緊張感の無い声音だった。そしてジェイスンは大きな違和感を覚え、危機的状況だと理解しながら言われるが侭に立ち尽くしてしまう。
魔法陣の光が消え、渦が完全に生成される。魔力の大半を失っただろうハーキュリーズは辛うじて意識を保っていたが、呼吸も大いに乱れておりかなり弱っていた。
完全に姿を現した巨大な悪魔は下級のそれと違い、姿は何処か神々しささえある。悪魔はまずジェイスンを見据えると、片手を上げた。
「よう」
気さくに呼びかけてきた悪魔へジェイスンは懐かしさを覚えたが、理由が思い出せない。不思議そうなジェイスンを見遣る悪魔は寂しそうな苦笑を浮かべる。
「おぉい、僕がお前を召喚したんだけどなあっ」
狂喜から一転して苛立つオーゼルの声へ、悪魔は顔を不機嫌に歪ませた。
「喧しい、黙っとれ」
「ひっ」
凄まれてオーゼルが縮こまったところで、悪魔はジェイスンへ向き直る。
「二つが融合したんだ、記憶がごちゃごちゃでも仕方無いってもんだな」
「えっ、何でそれを」
「お前の……父親になるかね。あいつは俺のせがれだからな。ついでに整頓してやろう」
悪魔はジェイスンへ仄かに光る指先を弾いた。飛んできた光を額に受けると、途端に脳裏へ記憶が噴き出してくる。
破壊神に近いとまで言われたが、当の本人は力に全く興味が無かった。
種族から来る不自由に嫌気が差し、自由を求め、その中で一人と出逢う。一人もまた種族なりに不自由であり、自身と関わる事で拍車がかかった。
「済まん、つらい思いをさせて」
「いいんだよ。支え合うって、そういう事だよ」
やがて不自由を抜け出したいと思うようになり、答えを導き出す。二人ではいられないならば、二人でなければいいのだと。
「面白い事をしよう。これから、もっと」
「そうしよう。……頼んだぞ、俺達よ」
自由の為に二人は、破壊の後に混ざり合う。再構築された一人は何処にでもいるような者になり、何処にでもあるような自由を得て、誰にも後悔は無かった。
悪魔の父と精霊の母の記憶を漁り、ジェイスンは思い当たる。
「じゃあ、じいちゃん、なのか」
「はっは、そう呼ばれると嬉しいったらありゃしないな」
悪魔はからからと笑い、知っている悪魔像とはまるで正反対の明るさだった。
ふと悪魔が足元に目を遣る。目を丸くしてハーキュリーズが事態を見ていた。
「お前の仲間はちゃんと生きてる。だが消耗が激しい、たっぷり休ませてやれ」
「うん」
ジェイスンは結界が消えた陣の中へ足を踏み入れ、ハーキュリーズを努めて優しく抱き起こす。
「ごめん、約束したのに」
「今から取り返してもらうからな」
疲れきった顔でも微笑みは温かで、ジェイスンは一つ頷く。
「さて」
仕切り直すように声を漏らした悪魔は、逃げ出しかけていたオーゼルに腕を伸ばすと引っ手繰るように体ごと掴んだ。オーゼルが潰れた声を上げる。
「随分と俺達が好きなようじゃないか」
「ひっ、ひひっ!?」
表情を引き攣らせるオーゼルへ、悪魔はにやりと笑った次に厳しい目を向けた。
「お礼にこっち側へご招待だっ!」
「ぎっああぁぁっ!」
オーゼルを勢いよく投げた先には瞬時に渦が生まれ、その侭吸い込まれてしまう。途切れるように何も聞こえなくなったところ、向こう側は完全に遮断されているらしい。
両手をぱたぱたと払って悪魔は一仕事終えた息をつき、それから指先で背後の空間をつつくと、魔法陣で作った大きな渦が容易く現れた。悪魔とは自主的に隔離生活をしているのかもしれない。
「それじゃ俺も帰るわ、いい土産になった」
「じいちゃん……」
大きな渦へ入ろうとした背中へ、ジェイスンは正直に言葉を伝える事にした。
「俺、生まれて良かったよ。ありがとう」
声に振り返った顔には不敵な笑顔があり、人と何ら変わりない。一概に悪魔といえど、その多様性は人と同じなのかもしれなかった。
やがて渦も消え去った後を見遣りながらハーキュリーズが呟く。
「何とも爽やかな人だったな」
「うん」
ハーキュリーズの気遣いへ密かに感謝して、ジェイスンは一つ頷いた。
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