ただ君を願うこと
■-2
現場を速やかに離れ、帰りの一台目の馬車を諦める。オーゼルの行方不明についてあらぬ嫌疑をかけられては堪らず、何より事態にこれ以上関わりたくなかったからだ。
晴れてはいるがまだ湿る道をゆき、日も暮れて暗くなった頃に街道から外れた林の中で野宿の準備を進める。弱ったハーキュリーズへ動かないよう伝えてから、ジェイスンは一人で枝や枯れ葉を集めていった。しかし湿っているので無事に火が点くかは怪しい。
とにかくまずは火種を作ろうと、ジェイスンはほどいた麻紐の塊へ火打ち石を打ち始める。すると背後から声がかかった。
「済まなかった」
「なんで?」
手を止めずに応えたのでハーキュリーズの表情を窺えなかったが、あまりに暗い声音だ。
「結局金も時間も、手間も浪費しただけで、お前を巻き込んでしまった」
「そんな、やってみないと解らなかったしさ、仕方無かったんだよ。それに、付いていくって最後に決めたのは俺だし」
次第に火種が出来始めたので、息を吹きかけて火を大きくさせる。程良いところで振り回し、大きく燃え上がったものを枯れ葉に投げた。あとは枝まで燃えてくれるのを願う。黙りこくったハーキュリーズが気になるが、まだ火に構わねば消えてしまうかもしれない。
「取り敢えず、これからはもう無理しないようにしたらいいんじゃないか? みんなだって今回の事を怒ったりしないだろうし、この仕事も失敗は付きものだし」
言葉にハーキュリーズは返事をしなかった。胸騒ぎを覚えた頃にやっと枝に火が点いたので、ジェイスンは焦りの侭に背後を振り返る。木に凭れていた筈のハーキュリーズは地面に倒れており、炎に照らされた顔色も蒼白でいた。
「ハーキュリーズ!」
駆け寄って抱き起こした体は氷のように冷たい。生命力である魔力が大量に失われた結果、全身から熱までも失われているようだ。魔力を分け与える方法が無いジェイスンはハーキュリーズを包むように抱いて温めるしかなかった。
伝わる温もりに意識が少しだけ力を取り戻す。
「ジェイスン……」
火の弾ける音にも掻き消されそうな声だった。声音に恐れの色は無い事にだけ、ジェイスンは安堵する。
「うん」
「お前が、前まで一人でいたのは……怖かったからか」
瀕死でありながら他者を気にかける行為にハーキュリーズらしさが感じられ、余力があるとも感じられたので話を続ける事にした。
「うん……」
ジェイスンは申し訳無さそうに頷き、パーシアスとハーキュリーズから勧誘を受けた日を思い出す。薄れもしない、鮮明な侭の出会いだった。
宿に居着いてから初めて声をかけてきた二人は、一人きりで遣り繰り出来ているその力が欲しいと正直な言葉を投げかける。しかしジェイスンは最初から断ろうと決めていた。
「ごめん、上手くやれる自信が無いんだ」
すると傍らにいた、ハーキュリーズと名乗った人物が感心する。
「ほう、つまり自信だけが無いのだな?」
「えっ」
根性無しとでも罵られる予想をしていたのだが、目を細めたハーキュリーズはジェイスンから目を逸らさない。
「ならばその、無い自信は私達が支えていこう。求めるだけでは不公平だからな」
言葉が何処か懐かしかったのは、父へ告げた母の言葉に似ていたからなのだろう。
記憶をそっとしまい込んで、ジェイスンは天に昇る煙を見る。枝が湿っていた為にその量は多い。
「悪魔が混じってるなんて知られたら、みんなに迷惑かけるかもって……ずっと怖かったんだ」
「そうか……、やはりお前は優しいな」
「えっ」
驚くジェイスンへ、ハーキュリーズは顔を上げて弱々しくだが微笑む。
「自分ではなく他人を第一に気にかけるなど、甘い程に優しいものだ。そして厳しくもあるのは、きっとお前の親譲りなのかもな」
ハーキュリーズ程ではないとは思ったが、今は素直に言葉を受け取る事にした。
「そうなのかな……。有り難う」
ハーキュリーズの存在が大きく感じられたが、腕の中の体は非常に小さく感じる。その小さな体の中に詰まった恐怖はどれ程なのだろうか。
意を決したジェイスンの表情に、ハーキュリーズが不思議そうな顔をした。
「なあ、ハーキュリーズ。今回の依頼で何が怖かったんだ」
目を見開くハーキュリーズへ、ジェイスンは続ける。
「言いたくないかもしれないけど、これじゃ俺ばっかりで不公平だって思うんだ。少しくらい支えさせてくれないか」
ハーキュリーズはジェイスンの胸元に顔を伏せ、らしからぬ消え入りそうな声で告げた。
「……つまらん昔話だぞ」
「いい。絶対に全部聞くから」
預けられた体を抱く腕へ無意識に力が入る。己の覚悟如きでどうにかなるのならば、安いものだった。
「怖かったのは、また実験体になる事だ」
「また、って?」
気付けばハーキュリーズは耐え忍ぶように固く拳を作り、一つ吐き出した息も震えていた。
「私は、検体として生み出されたからな」
「何、の……」
おぞましい響きにジェイスンは表情を引き攣らせる。ただ身勝手の為に生み出されたならば、ハーキュリーズの尊厳は欠片も守られなかっただろう。
「様々な生物と交配させ、産まれた生物の性能を見ていたようだ」
答えには、抱える苦しさと吐き出す苦しさからの重々しさがあった。ジェイスンは事実に震え上がる心地だったが、当人であるハーキュリーズは想像以上のものに今も耐えているのだと思うと気を奮い立たせるしかない。
「其処からは、逃げられたのか?」
「いや。雌部分が壊れた時、廃棄を兼ねて見世物を扱う商人へ売られた。その頃の私には全てへの殺意しか無かったが、それが功を奏してくれた」
「何か……いい事が?」
喜ばしい事ではないかもしれない不安で言い淀んだが、ハーキュリーズは小さく笑う。
「確かにいい事だ。全てを憎む目に生きる意志があったと、シーシアスとパーシアスから後で言われてな。あいつらは私を買い取って連れ帰った。ただし無理があったらしく、宿に着いた途端二人共倒れたな」
ぎらついた目で二人を見る暇もあまり無かった。宿の亭主から倒れた二人と同じように介抱され、呆気に取られた事を覚えている。その後は疲労に任せて三人共々眠り続けていた。
「そっか……だから二人に恩返しがしたかったんだな」
「ああ。あいつらが何と言おうと、命の恩人である事に変わりはない」
ハーキュリーズの日常に漸く差した光は、ハーキュリーズ自身の存在を照らすものであり、周囲をも照らすものだった。見えてきた世界の広さと目映さが、現在の人格にも繋がるものとなったのだ。
「じゃあ、俺も二人に感謝しないとなあ」
「お前が?」
若干の驚きにハーキュリーズは顔を上げる。
「だって、ハーキュリーズに会えたのも、二人のお陰だから」
はにかんだジェイスンの瞳に、茫然としているハーキュリーズが映っていた。己の間抜けぶりにハーキュリーズは顔を背ける。
「……些か言葉を間違っていないか」
するとジェイスンは首を横に振り、今度は穏やかに微笑んだ。それを横目で見ても安心感を覚えてしまうのは何故なのか。
「ううん。もしもハーキュリーズに会えてなかったら、俺はきっとずっと一人だった。そりゃあ、あの時はパーシアスもいたけど、俺の事を支えてやるってはっきり言ってくれたのはハーキュリーズだったから」
ハーキュリーズがそっと顔を向けてみると、目の前の無邪気な嬉しさが見て取れる。身の奥に感じる温かさを、果たして受け取っても良いものかハーキュリーズは恐れたが、恐れもやがて穏やかさに包まれて溶けていった。
「だから……母さんの受け売りなんだけど、言っておきたい事があるんだ」
恐れの溶けた跡から顔を出した淋しさは凍えきっている。それすらも温めてくれた。
「ハーキュリーズ。乗り越えて、此処まで来てくれて、ありがとう」
綯い交ぜの感情をどうしたものか、しかしどの感情も結論は一つであり、ハーキュリーズは迷いの末に笑った。
早朝から歩いていると、予定と同じ道を行く馬車を捕まえる事が出来た。
狭い馬車の隅に座り込んでいたが、昨晩火の番をしていたジェイスンは寝不足と疲労で早々に眠ってしまう。揺れが馬車とは違うと気付いた時には、ハーキュリーズに肩を軽く揺さぶられていた。
夕暮れに染まる慣れた道を行き、やがて宿に帰り着く。ジェイスンは食堂である一階を見回すと、親しい顔ぶれを見付けて手を振った。
「ただいま!」
「おかえり」
食べる手を止めてアキリーズが穏やかに返事をする。他の面々も今し方食事を取り始めたらしく、二人も合流して料理を注文した。
着席してふと、ユリシーズがハーキュリーズをじっと見詰めているのに気付く。視線には納得があった。
「おまえ、楽しんでる、一緒で」
「えっ、それは、その……」
反応したのはジェイスンであり、既に事を半ば以上物語ってしまう。
「まあ、そういう事だな」
ハーキュリーズの実質の肯定にパーシアスが思わず食べる手を止め、シーシアスはからかうように笑みを浮かべた。
「二人共、もしかして……」
「おやおやあ、ご両人何とも睦まじいようで」
「あの、えっと」
ますます動揺するジェイスンへ、ハーキュリーズからぽつりと言葉が零される。
「違うのか?」
萎縮しているような声はジェイスンの胸中深くへ突き刺さり、その色を伝染させた。身を縮こまらせたジェイスンは俯き、弱々しいが確かに聞き取れる声で答える。
「……違わない」
ハーキュリーズは小さく笑って頷くだけだが満足げだ。答えにパーシアスは茫然とし、シーシアスが陽気に囃し立てた。様子を見ていたユリシーズは、穏やかに傍観しているアキリーズへ首を傾げる。
「何かする?」
「くく、見ているだけでも効果がありそうだよ」
アキリーズは目を細めて癖のある笑いを零し、明らかに状況を楽しんでいた。
祝いと称して少々高価な酒まで注文し、大いに賑わう。しかし依頼の話になったところで軽々しく話せる筈も無く、二階の部屋に移動した。
「無事に帰ってきたんだし、酒はそんなに不味くならねえとは期待していいかね?」
シーシアスが部屋に酒を持ち込んだのは、期待を裏切らないだろうとの願いを込めての行動だろう。ハーキュリーズに目を遣って頷きを確認してからジェイスンも頷く。
「うん。依頼自体は騙されたんで、赤字だったんだけど……ごめん」
「美味すぎる話とは思ったけれど……そんなものだよな」
パーシアスの声音は落胆より労いの色が濃く、全員が結論と同じく甘くない世の仕組みを理解していた。酔いの気怠さを隠さずにいるアキリーズが、熱くなった吐息を一つ零してから告げる。
「君の本題は、それよりもずっと重いようだね」
「うん。もう此処にいられなくなるかもしれないけど、俺の事をみんなに話しておきたくて」
ちらりと目を遣ると、ハーキュリーズの表情に不安が見て取れた。しかし静観しているところ、ジェイスンの覚悟に水を差すまいとしているのだろう。ジェイスンはゆっくりと深呼吸し、意を決して口を開いた。
「話したいのは、俺の生まれの事。悪魔の父さんと精霊の母さんが、融合して生まれたのが俺なんだ。依頼中に別の悪魔……俺のじいちゃんとも会ってきた」
不浄な存在を許さない組織が多く存在する中で、部分的にでも悪魔である事実は目の敵にされるだろう。時に手段を選ばない彼らから追い回されれば、他の五人へかかる負担も大きなものとなるのは想像に難くなかった。
「ええと……」
パーシアスから漏れた声は悩ましげだったが、危機感は無い。
「訊きたい事があったら、何でも答えるよ」
ジェイスンの言葉にパーシアスは素直に頷く。
「それじゃあ。精霊って、みんながみんな無性じゃなかったのか」
「えっ、えっと、いや、母さんも無性だったけど、まあ便宜上……?」
「やっぱりそうなのか。人格はそれぞれの個性によるところが大きいんだな」
全く迫るものの無い質問に却って気圧される心地になりながら答えると、アキリーズが何とも無いように告げた。
「生まれがはっきり解るだけ羨ましいかな。多分僕も似たようなものだしね」
「えっ!?」
今度こそ驚いたジェイスンへ、アキリーズは無防備に笑う。
「てっきりあの時知ったかと思ったよ。僕は堕天使が作り上げた、人間の形をした何かだね」
「はあー、賑やかなのは種族もだったってえ事さな」
シーシアスも感心するだけで特に問題視せず、話を肴に酒を楽しんでさえいた。
「……おまえ」
今まで黙っていたユリシーズはかなり不機嫌なようで、厳しい目付きをジェイスンへ向ける。
「う、うん」
「おまえだろう、おまえ。それなのに、それだけが、おかしいのか?」
呆れすらしているユリシーズの言葉が的確に胸中へ衝撃を与え、ジェイスンは目を丸くしたが、やがてゆっくりと首を振って否定した。
「ううん……。そうだよな、ユリシーズの言う通りだよ」
ユリシーズにしてみれば非常につまらない事で悩んでいたに過ぎない。そして他も概ね同意見であり、ジェイスン自身を確かに見ていた。ジェイスンにとってその事実は大いなるものだ。
「ありがとう、みんな」
「良かったな、ジェイスン」
やっと微笑んだハーキュリーズの事を嬉しいと思うのも、大いなる喜びだった。
「そんじゃ、たけなわではございますが。そろそろ夢の中と洒落込もうや」
酒瓶を空けて満足げなシーシアスの提案に従って、各々が就寝しようとブランケットへ潜り込む。災難もあったが、今夜は良い夢が見られそうだった。
重い瞼を強い光で開ける。光が昼頃の日差しであると気付き、ハーキュリーズは弾かれたように身を起こした。まさか全員寝坊したのかと周囲を見渡すと、他の寝台には誰の姿も無い。殆どの荷物も無くなっており、どうやら仕事に出かけているようだ。何故置いて行かれたのかと考えるが、考えようとすると妙な疲労感に襲われる。
思わず額を押さえると部屋の扉が開き、若干驚いて振り向いた。
「あ、おはよう」
姿を現したのがジェイスンである事に胸を撫で下ろす。しかし疑問は晴れず、ハーキュリーズは重い頭で口を開いた。それすらも少々疲れる。
「あいつらは……」
「もう依頼受けて出かけてる。お前全然起きないし、もう少し休ませようってみんなで決めたんだ」
「そうか……、済まないな」
溜め息混じりなのは大部分が疲労の所為だ。ジェイスンも疲れた声音に気付いて側へ歩み寄る。
「熱とか無いか?」
「熱は無いが……とにかく怠いな、頭も働かない……」
宿へ帰り着くまで張っていた気が緩んだのも一因だろう。ジェイスンからもう一度寝るように促され、素直にブランケットへ潜る。
「なんか注文してくるよ、何食べたい?」
「粥の類いがあれば、それで頼む」
返事をしてジェイスンが部屋を出ていく。料理が出来るのを待つ中で天井を見詰めていると妙に心細さを感じるが、臆病な心を嫌わない自身がいた。己にとって充分な弱点になると共に、掛け替えの無い強さにもなってくれると確信が出来るところ、自分は思うより単純なのだと苦笑が浮かぶ。
暫くすると扉を叩く音が聞こえ、ジェイスンが料理を持って戻ってきた。身を起こして器の中身を見るとリゾットのようで、細かく切られ煮込まれた野菜が蕩けた米に埋まっている。漂う良い香りが腹の虫を刺激するようだった。
盆ごと受け取って足に乗せ、料理を口へ運ぶ。広がるのはやはり望んでいた味で、いつもより美味い気がした。
ふと横を見ると嬉しそうなジェイスンがいる。何が楽しいのか、解る気がしてハーキュリーズは小さく笑った。
「うん?」
首を傾げながらも相変わらず嬉しそうなジェイスンへ、ハーキュリーズは食べる手を止める。胸の内も温かになるのは、料理だけの所為ではなかった。
「これから、こうして二人で過ごす事も増えるといいな」
ハーキュリーズの言葉にジェイスンは目をしばたたかせたが、やがて満面の笑みを浮かべる。
「うん。沢山増やしていきたいよ」
互いに、誰かと共にいる幸福は知っているつもりだった。しかしこうしてただ一人の事を強く意識するのは初めての事であり、大きな変化は恐れや淋しさまでも連れてきたが、今は全ての感情が穏やかにある。
何を気負うでもなく、二人で歩む道へ喜びを重ねるのは、まだこれからだ。
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