不愉快な自我


■-1

 死ねない事は問題であるが、問題の根幹ではないとは気付いていなかった。
 いつか、飛んでいる小鳥を友とした。地上にいては肥大化する肉に呑まれてしまうからだ。
「君の名前は?」
 中心部を訪ねた鳥は、何もかも呑み込み吸収する肉塊の姿を恐れなかった。問われて考える。以前幾らか聞こえた声で自身に製造番号があるとは知っていたが、それが鳥の言うところの名前を意味しない事も知っていた。そのような知恵を、鳥の言葉を解するだけの知能を、何故か与えられて造られている。
「名前が無いんです」
「そう、じゃあ……」
 鳥は悩むように小さく呟いた後、提案した。
「レグレルグ、レグリエダ、どっちがいい?」
「どちらもは、駄目ですか」
「ううん。いいよ」
 初めて聞いた響きが途方も無い喜びだった。
 他愛も無い会話を交わし、鳥は飛び疲れると何処かへ去る。その間は淋しかったが、再度自身の元へ来る事を心待ちにするのは悪い感覚ではなかった。いつの間にか鳥の存在を絶対的に信じていたのだ。
「レグ、また大きくなったね」
 いつか、戻ってきた鳥に言われて気付く。肥大化を続ける体は非常に広範囲へ広がっており、有機物や無機物、大地や水分でさえも徐々に吸収を続けていた。さながら肉塊の島だ。
 鳥は困ったように告げる。
「行ける止まり木が無くなっちゃった」
 言葉で大きな後悔に襲われた。此処を離れたならば、逃げたならば、鳥はこうはならなかっただろう。
「此処までも遠かったから、実はもう限界なんだ」
 体の端が漸く攻撃を受け始めていた。損傷するのは容易だが、傷を癒やす為に中心である此処まで収縮するには到底足りなかった。
「あとね、もうすぐ此処に爆弾を落とすんだって。それでも君は死なないんだろうね」
 鳥へ何かを言いたかったが、涙声にしかならない。
「だからね、レグ、僕は君の側にいたい」
 鳥は時折落下しかけながら告げる。
「君は優しいから、きっと未来があるよ。そんな君と一緒になったほうが、ただの灰よりもずっといい」
 こちらへ向かってくる轟音を体の端が聞いた。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
「いいんだよ。僕がそうしたかったんだから」
 腕のような肉塊を差し出すと、鳥は遂に降り立った。物体を感知した肉塊は鳥を包み込み一瞬で潰すと、血肉を余さず吸収する。
 程無くして、レグレルグ・レグリエダの慟哭は爆発に掻き消された。



 慟哭から我に返ると世界を渡っていた事に気付く。レグレルグの体はまたしても肥大化を始めたが、一悶着の後に損傷し、収縮して一時的に落ち着いた。
 身体構造を解析し、肉塊の正体を紐解いた世界夢工場の主へ、レグレルグは自身の殺害を懇願する。先程レグレルグの肥大化を止めた受付係が呆れている様子も目に入らなかった。
「殺してやるものか。嫌なのでな」
 害悪であるとの判断の上で放たれた主の言葉は不機嫌極まりない。
「どうして……!」
 黒猫に似て非なる姿をしている世界の主は、愕然とするレグレルグを侮蔑さえ込めた眼差しで見遣る。
「第一に、死体の処理が面倒だ。第二に、此処は夢の手伝いのみ行う場だ、叶えるのは己の力でしろ。最後の第三はその、他力本願という名の八つ当たりが気に食わん」
「はは……、そう、ですね……。自分の事を誰かに頼ってたら、いけませんよね」
 全き正論にレグレルグは打ちのめされ、自嘲の笑いすら漏れた。その様子を見た世界の主から、不機嫌をその侭に告げられる。
「まあ、夢の手伝いはする。死ねる体をやろう。そのあとは、知らん」
 意識は其処で途切れている。



 気付けば見知らぬ土地にいた。周囲は木々が生い茂り、近くには清らかな水が川となって穏やかに流れ、空は澄んだ青色が広がっている。現在地は世界までもが違うのかもしれない。
 川へと近付き水面に映った自身を見ると、剥き出しの肉で出来た管状の器官がある以外は人のような姿だった。前に一度だけ見た、完全収縮した際の姿とほぼ同様だ。管からは赤い気体を吐き出し続けているが、その正体は解らない。着ている服は夢工場の主が見繕ったものか。
 体は肥大化もせずに静かだ。手近にあった木の枝の先端を手の甲に当て、意を決して掻いてみる。出来た掻き傷は再生こそしたが速度が多少鈍い。もし以前のような爆撃を浴びれば、一瞬の内に死ぬのかもしれなかった。
 その予想が次に運んできたのは、一欠片の安堵と多大なる恐怖だった。死ぬ事を望んでいたのは確かだ。だがそれは、自身を止める方法として最後に残った手段である。その必要は今や無くなった。死ねるが、死ななくても良いのだ。
 ふと、鳥の言葉を思い出した。数々の他を呑み込んできた自身に未来などあるのだろうか。向けられる悲しみや怒り、恨みまでも潰してきたというのに、生きて未来へと歩を進める事が出来るのだろうか。
「僕は……」
 死すべきか。生きるべきか。死すが良いのか。そのいずれも声に出せなかった。
 思案を巡らせていると喉の渇きに気付く。初めて感じた飢えの感覚は負傷する苦痛に似た耐え難さをもたらし、思わず両手で水を掬い上げた。夢中で水を飲むと渇きが癒え、満足感すら覚える。生物としての行動が抑えられなかった事には恐怖したが、他の存在へ加える危害が生命維持の為の最小限で済む事実には僅かに安堵した。
 一つ息をつき、顔を上げる。新緑が時折吹く風に揺れ、何を語るでもなくざわめいている。これまで周囲にある音といえば悲鳴や断末魔、潰れる音が主であり、こうして穏やかに何かを聞く事も稀だった。感覚の一つ一つが彩りに溢れ、その奔流に目頭が熱くなる。
 叫び声がしたのはその時だった。体が驚きに跳ねる。悲鳴の方角へ恐る恐る歩を進め、進路を塞ぐ茂みを掻き分けて向こう側を見ると、レグレルグからですら奇妙としか言いようのない姿が其処にあった。
「ぎゃああああっ!?」
 突如現れたレグレルグを見てまたも絶叫した人物は、上半身こそ人の形だが髪と思しきものは葉が生えた木で出来ており、実まで生っている。境目が揺らめいている白と黒の両腕も気になるが、最も奇妙なのは下半身だ。暗い色に光が明滅している、さながら闇そのもので構成されていた。
「ごめんなさい、叫び声が聞こえたので」
 ひとまず驚かせてしまった事へ謝罪すると、奇妙な姿の人物は何故か腕ではなく闇の端で頬を掻く。
「あ、ああ……、済まん、つい」
 声音には悲しみが篭もっており、言い終わると項垂れて深い溜め息をついた。
「何かあったんですか」
 沈んだ表情へ何の気無しに尋ねてみる。
「あったんだけど、さあ……。お前も俺から離れたほうがいいぞ」
「貴方から? どうしてですか?」
 首を傾げるレグレルグへ、異形は白と黒の両腕を広げながら答えがあった。
「どっちでも、俺の腕に触ったやつは消えちまう。さっきだって獣がじゃれて右腕に触っちまった。右腕は早戻しだ、生まれる前に戻って消えちまった。左腕は早送り、老いて朽ちて死ぬ」
 答えを聞いてレグレルグは絶句する。仕組みも真偽も解らないが、それでも容易く死をもたらす存在が目の前にいる事実は衝撃でしかない。
 レグレルグの様子を見ていた異形は諦めたように溜め息をつき、項垂れる。
「やっぱ怖いよな」
 呟かれた言葉でレグレルグは我に返り、咄嗟に口を開いた。
「いいえ!」
 強い語調に異形が顔を上げ、驚いたように目を白黒とさせる。レグレルグも自身の勢いに驚いたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「僕は、怖いとは思いません。ただ……不思議だなって思ったんです」
「随分穏やかな感想じゃねえか。なんでそう思う?」
 訝りさえある険しい表情に若干臆しながらも、レグレルグは答える。
「僕は……ついさっきまで死ねなくて、それでも死のうとしていました。そんな僕の前に、簡単に誰かを殺せる貴方がいるなんて、不思議だと思ったんです」
「死のうとしても死ねなかったって、お前何だったんだ?」
 問いが過去形を考慮したものであると理解しながら、レグレルグは苦笑した。
「話が長くなるのは許してくださいね」
 手で座るのを促し、浮いていた異形が座るような仕草をしてからレグレルグも腰を下ろして語り始めた。
 レグレルグは兵器として製造された。肥大化しながら何もかもを呑み込み吸収する肉塊の体を持ち、何度か戦場へ投入されては敵勢力の全てを呑み込んだ。罪の意識に苛まれる精神は不具合の一つとされたが、問題はそれ以上の不具合だ。やがて肥大化を制御出来なくなり、世界渡航させての廃棄処分となった。当然、廃棄先の都合など考えてもいない。
 廃棄先での出逢いと先程の出来事までを話し終えると、静かに話を聞いていた異形は闇で顔を覆う。
「お前さあ、今は死のうとしてないんだよな?」
「今は……多分そうです。死なないといけない理由は、無くなったかもしれないので」
 レグレルグの答えには、まだ生きる意志を持つ事は躊躇うものだとの思いが端々にあったが、生まれつつある意志の息吹もまた間違い無くあった。
 しかし答えに反応が返らない。気分を害したのだろうかと、レグレルグが闇の隙間を覗き込もうと腰を上げかけた時だ。
「うう……」
 聞こえてきたのは嗚咽であり、肩がしゃくり上げている。
「そっか……、やっとお前らしく生きられるんだな……。世界の民ってのはそうあるべきなんだよ……」
「世界の民って、そんな壮大なものでは……」
 違和感を問うレグレルグへ、涙を闇で乱暴に拭った異形は闇と同じ色の瞳を向ける。
「俺からしたらそうなんだよ。……そうだな、聞いてばっかだし、俺の事も話さないとな。長話はお互い様って事にしてくれ」
「いいんです、僕も気になりますから」
 レグレルグが居住まいを正すと、異形は一つ息をついてから話し始めた。
「世界の民は俺をランドランドール・ランドラって呼んだから、それが俺の名前になった。長ったらしいしランドでいい」
 あまり名前を好んでいないらしく、ランドの表情からも不満が窺える。
「世界神為学、創造神校偶像部所属だっつってもぴんと来ねえよな。平たく言やあ、神を育成する世界だ。其処で俺も創造神として勉強してた」
「神の育成……、やっぱり、ものや世界を創るんですか?」
 神という名称は宗教的な絶対を指す意味の他、規模を問わず世界を創造した者を指す。後者であれば不可能ではないが、途方も無い技術を要するので稀なものでもあった。
「そうだな。限定的に創ったり、全部引っくるめて創ったり色々いる。そんで、俺は全部のほう、世界を一から創る創造神コースで、上手くやれば偶像が貰えるやつだった」
「偶像って確か、形のあるものですよね。貴方は形を持たなかったんですか?」
 レグレルグの疑問にランドは気付いたような声を漏らす。
「あっ、そうだった。神為学の住人は精神体なんだよ。偶に世界に来る生物の為に物質で構成された場所とかはあるけど、距離とかは基本超越してて、住人全員が空間に溶けてる感じっつーか……物理的に説明すんのは難しいかもな」
「いえ、今ので少し想像出来ました」
「そっか。まあ解らなくなったらまた訊いてくれ。……んで、創造神コースでの俺の事だけど、万年赤点だった。世界は平面で限りがあるし、創造も基礎しか出来なかったから殆ど進化頼りだった。けど、此処まではまだ良かったんだ」
 ランドの顔色が急速に青褪め、自身の肩を抱くように闇を絡み付かせた。
「信者が出来て嬉しかったのも最初だけだった。……あの狂信者共、生き血だの首だの捧げ始めてほんっとうに怖えのなんの。おまけに偶像としてこんな体を想像し始めやがったから、つい途中で世界潰しちまったよ。それで下半身が混沌になっちまった」
「潰したって……、じゃあ、貴方の創った世界の全ては……」
 レグレルグの声が若干震えている。その恐怖をランドは苦々しく受け止めた。
「解ってんだ、俺のした事が最低で、世界の民からしたら酷え理不尽だってのは。この事は神為学からも無茶苦茶怒られて、俺を初期化させろって……死んでもらうって言われてる。だから、俺は神為学に消される」
「そんな」
 ランドの行いと末路がレグレルグ自身と重なり、思わず声が出ていた。多数を死に追いやった存在は生きるべからずと宣告されたような心地は、生きてみたいとの願いを塗り潰してしまう。
「その命令からは、逃げられないんですか」
 だが、塗り潰された下から滲み出る願いは諦められなかった。
「えっ……、そりゃ確かに帰ってこいって言われてるし、あっちからは来ないんだろうけど……。通達もなんかいつの間にか聞こえなくなったけど、さあ……」
 驚く辺り、ランドは逃走を考えてもみなかったのだろう。その事実にレグレルグはランドの神為学へ対する従属を悟った。
「貴方が沢山の命を奪ってしまったのは確かな罪なんでしょう。けれどそれを、生きる事を諦める理由にするには無責任すぎませんか。それに、貴方は死にたいようには見えません。それって、贖罪を覚悟している証拠じゃないんですか」
 言いながらレグレルグは胸を掻き毟るような苦しみに襲われたが、それだけだった。そしてそれだけでは済まされないのだとも理解する。
 ランドは驚きの表情で固まっていたが、やがて顔を歪めた。
「俺は、神為学に従わずに、生きてていい、のかな……」
「いいかどうかは僕にも解りません。ただ、誰かの生死を他の誰かが決めてはいけないんだと……たとえそれが自分に殺された人であっても、決めてはいけないんだと思います」
 生者の勝手な言い分なのだろうとは解っていたが、そうでないとそもそも生物は生きてゆけない。そして奪った命を糧とするかしないかは、奪われる側には関係の無い事だ。
 ランドはまた浮かび始めていた涙を混沌の端で拭う。
「そっか……。レグレルグ、お前はもう贖罪の覚悟は出来たのか」
「出来たかどうかは解りません。けれど、しないといけないし、覚悟出来なくても、僕の罪の為にも生き抜かないといけないと思うんです」
 告げながらレグレルグは決心を固める自身に気付く。弱りきっていた筈の精神の何処にこの力があったのかとも思うが、これこそが生きている証なのだと知った。
「そのくらい強くなくちゃいけないよな。俺もお前もまだ生きてるんだから」
「はい」
 ランドの言葉にレグレルグは頷く。其処でふと、ランドが混沌の両端をもどかしげに絡めて動かした。
「それでさ。正直なとこ、その……心細くてさ。もしいいなら、お前に付いてっていいか? 勿論両腕は気を付けるし、お前の邪魔もしない。どうだろ……」
 怖ず怖ずとされた頼みへレグレルグは微笑む。
「あまり難しく考えなくていいですよ。宜しくお願いします、ランドさん」
 そうして歩み寄ったレグレルグから差し出された手を見て、ランドも顔を綻ばせた。腕の代わりに混沌を差し出し、しっかりと握手を交わして立ち上がる。
「宜しくな、レグレルグ」
「レグで構いませんよ」
「そっか。じゃあレグ、お前は何処か行きたいとこはあるか?」
「そうですね……、海が見たいです、見た事が無いので」
 答えにランドは快活に笑った。先程までの暗い顔が嘘のようであり、それはレグレルグにも言えるのだろう。
「いいなそれ! この土地の感じだとずーっと歩きゃ着くかもだし、行こうぜ!」
 道無き道を二人で進み出したこの時、漸く二人は自身として生き始めたのかもしれない。



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