不愉快な自我
■-2
川沿いに進む内に日が沈み始め、徐々に周囲の見通しが利かなくなる。休める場所を探すと、人一人が入れる大きな洞穴が見付かった。
「レグ、入れるか?」
ランドに促され、レグレルグは軽くかぶりを振る。
「えっ、ランドさんは」
「俺も入るぞ」
言うなりランドの体が急速に縮み、やがてレグレルグの掌に乗る程度の大きさになった。
「こんなもんかな」
「凄いですね」
「はは、便利なもんだ。構成要素さえ守っとけばいいみたいでさ。効力は元の侭だから気を付けてくれ」
そうして二人で穴の中へと入り、腰を落ち着ける。気分まで落ち着いてくるとレグレルグは急激に目眩を感じ、思わず額に手を当てた。
「どうした」
ランドが不安げに顔を覗き込んでくるが、重く落ちてくる瞼は言う事を聞かない。
「これは……多分、ですけれど……眠気、だと、思います……」
これまで常に覚醒状態だったレグレルグは、現在の体が普遍的な生物の仕組みを持っている事実を改めて思い知る。初めての眠りへ恐怖さえ覚えたが、もはや抗う術が無かった。
「ああっそっか、お前は寝ないとだよな。済まん」
慌てるランドには睡眠の概念が無いらしい。眠りへと引き込まれていくレグレルグは既に舟を漕いでいる。
「ゆっくり寝ろよ。おやすみ」
言葉が届くか否かに、レグレルグは眠りに落ちた。
「レグ……、レグ……!」
ランドの小さな、しかし切迫した呼び声でレグレルグは目を覚ました。座った侭眠った為に多少体が痛むが、それに構う暇も無く声の方向である出口を見ると、出会った当初の大きさに戻ったランドが外を見ているさまがあった。
「ランドさん?」
「静かに。あっち見てみろ」
言われるが侭に音を立てないようにしながらランドの向こうにある茂みを見ると、其処から唸り声が聞こえる。獣のようだ。
「俺達は余所者だったみてえだな」
ランドの言葉の後に茂みが揺れ、巨体が姿を現した。毛に覆われた体は熊のようだが、尾は長く太い。二人に向かって大いに威嚇するところ、この洞穴の主なのだろう。縄張りたる住処を荒らされたと判断したようだ。
「こうなったらやるしかねえな。レグ、動くなよ」
言うなりランドは前に出る。暫くは睨み合っていたが、先に動いたのは獣だった。四つ足で走り出し、ランドの眼前で前足を振りかぶる。ランドは素早く混沌を伸ばして振り下ろされた前足を受け止めると、別に伸ばした混沌で獣の尾を掴んで前方へ投げ飛ばした。巨体が勢いよく吹き飛び、木の幹に当たったところにランドが更に混沌を伸ばし、獣の首に巻き付ける。
「これで、どうだっ……!」
絞め上げられた獣が意識を失うまでを見ていたレグレルグは、不意に背後から近寄る気配へ気付いた。振り向いた瞬間首筋に衝撃を感じ、その侭質量に体ごと押し潰される。番いが最初から洞穴の奥にいたのか、別の入り口から来たのか、考える余裕も無かった。
「ぐあっああぁぁっ!」
「レグ!?」
叫びにランドが振り返ると同時に洞穴の入り口へ血飛沫が散る。食い千切ったようだ。獣は動かなくなったレグレルグをすぐさま奥へ引き摺り込み、見えなくなった。
「待てよ!」
ランドが混沌を洞穴の中へ突き込んだのと同時に、奥から剥き出しの肉塊が押し寄せてくる。触れてはならないと直感し、ランドは即座に混沌を引いて洞穴から距離を取った。
「なんだこれ……」
入り口から溢れた肉塊は一時は蠢いていたが、やがて引き潮のように洞穴の中へと縮んでいく。引き摺られた跡に残る血も猟奇性が苦手であるランドの恐怖を掻き立てたが、それ以上にレグレルグの安否が危ぶまれ、ランドは恐る恐る洞穴を覗いた。
「ランドさん」
奥からレグレルグの声がする。涙声だった。やがて洞穴から這い出てきたレグレルグは、血に塗れてはいたが傷一つ無い姿でいる。
「レグ、あの獣は」
ランドの問いに、力無く座り込んでいるレグレルグは怯えるように小さくかぶりを振った。
「吸収、して、しまいました……」
「じゃあ、あの肉塊がお前の言ってたやつか」
「はい……」
体の能力として残っていたとは些かも思わず、レグレルグは血塗れの掌を見詰めながら恐怖に涙を零す。自らによる大いなる裏切りのようにも思えた。
「僕は……やっぱり……」
「レグ」
言いかけた言葉を遮るようにランドから呼ばれ、レグレルグは顔を上げる。見えたランドの表情に苦々しさは無い。
「前は制御不能だったんだよな、けど今はそうでもなさそうだ。現に用が済んだらこうして元に戻ってるし、って事は制御出来るかもしれねえぞ」
ランドは恐れもせずにレグレルグの頭を混沌で撫でた。
「何事も鍛錬ってやつだし、焦ったり諦めたりすんのはまだ早えんじゃねえかな」
言いながら快活に笑ってみせるランドにレグレルグは目を丸くし、やがて小さく吹き出す。
「本当に、貴方という人は……凄い人ですね」
「はは、まあなっ」
わざとらしくランドが踏ん反り返った。その仕草にも愛嬌が感じられ、レグレルグは涙を手で拭いながら笑う。
そうして差し出された混沌を掴み、レグレルグは立ち上がった。冷たくもない、温かくもない、感触も形容しようがない混沌は、堪らなく優しい。
川で体を洗ってからまた進み始め、日が変わらない内に雨が降り始めた。川の近くは避け、レグレルグが時折ぬかるむ地面で足を滑らせそうになりながらも雨宿り出来そうな場所を探すが、夜になろうと見付からなかった。その日は仕方無く木の下で休息を取る。
その後も雨が降り続け二日経った頃、漸く岩のせり出した場所を見付けたが、レグレルグは体に変調をきたしていた。冷えた体が震え、悪寒が止まらない。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
岩の強度を確かめながらレグレルグへ尋ねるランドは平然としている。雨の冷たさや寒さは全く堪えないらしい。
寒気がするが、意識を歪ませる火照りも感じてレグレルグは額に手を当てる。掌に伝わった熱さは発熱を物語っていた。呼吸も不安定になっており、全身が重い。
「これは……病気になって、いるのかも……」
「病気!? とにかく早く中入れよっ」
途端に焦りを露わにしたランドから半ば押し込められるようにして、レグレルグは岩の下へと潜り込む。その際に冷えた体の温度がランドに伝わった。
「冷てえっ、濡れるのが悪かったのか、気付かなくて済まん」
ランドが生物の性質に無頓着なのは、自らには発生しない事柄であるからなのだろう。岩の下は座れる高さはあるものの体が怠く、レグレルグは身を起こしていられずに地面へ倒れた。
「ちょっ、おい! しっかりしろ!」
レグレルグは傍らのランドへかける言葉を考えようとして、朦朧とする意識が片隅にあった思考を摘まみ上げる。気付けば口から零れていた。
「死ぬ、のかな……」
薬など無い状況下において病が悪化するのは容易い。体に抵抗力がどれ程あるのかも解らない以上、どのような病も死と隣り合わせのものになりかねなかった。
言葉にランドは一瞬固まったが、次には怒りを滲ませた。
「馬鹿言うんじゃねえ」
誰にも触れられない両手が拳を作る。
「お前には見たいものがあるんだろ、やりたい事があるんだろ、やっとそう思う事が出来たんだろ。だからその為に頑張ってみろよ」
言いながらランドは自らの頭に生っている赤い実を摘み取った。いつか信者が想像した、強い生命力を含んだ実だ。
「気味わりいだろうけど、一粒でいい、頼むから食ってくれ」
返事は期待出来なかった。ランドは小さな実を食べやすいよう混沌で潰し、レグレルグの口元へ宛がう。レグレルグは焦点が合っていない目を向けたが、微かに唇を動かして口を開いた。其処へ潰した木の実を流し込み、少ししてレグレルグの喉が動く。
「よし……、あとはもう寝とくくらいしか出来ねえな」
ランドの呟きが終わらない内に、レグレルグの目は閉じられていた。
レグレルグへ背を向け、ランドは天を仰ぐ。雨はますます酷くなり、水溜まりは池のように広がっていた。それが思考に思案が溜まるさまを思わせる。
レグレルグはランドにとって、初めて普遍的な会話を交わせた相手だ。誰かと笑い合う事など、これまでに一度も経験が無い。その相手が死に瀕したこの時に、ランドは自らの性質を思い知り、それを初めて恐ろしいと感じた。
「俺は最低だな……。世界の民を好きなだけで、愛しちゃいなかったんだ」
世界を潰した瞬間も悲しみはあったが、それは世界の民を滅した事実へのものだ。世界の民個々人への悲しみではない。ランドには喪失への恐怖が無かった。今初めて失う恐怖に襲われ、自身の行いの悲しさ、消された者の重い恨みを思い知る。
「俺も一生懸命、生きてみてえなあ……」
それはランド自身たるものとしての、いわば生き方の模索だった。
背後を振り返ると、多少呼吸が落ち着きを取り戻したレグレルグがいる。まだ顔色は優れないが回復の兆しも見えて、ランドは無意識に安堵の笑みを浮かべた。
雨は朝になると降り止み、日の光が差し込んでくる。
背後から聞こえた小さな呻きに、ランドは勢い良く振り返った。眠っていたレグレルグは緩々と瞼を開いたが、眩しさにすぐ半眼になる。
「おはよう、ございます……」
逆光でもランドの混沌はよく見えて、それが安心に繋がるのは親しみによるものだろう。
「おはよ。具合、大丈夫か」
「はい、お陰様でかなり良くなりました。有り難うございます」
「……そっか」
言われてランドは困ったように笑った。誰かの為を思っての行動など初めてであり、崇めるのではなく対等に礼を言われる事もまた知らなかったランドにとって、その新鮮味は擽ったささえある。そしてそれはランド一人では成立しない。
「頑張ったな、レグ」
言葉にレグレルグは泣き出しそうな自身に気付く。どのようなものであれ、褒められた経験は今までに無かった。だが涙したくない思いもあり、せめぎ合った果てにその思いが勝つ。
「はい」
認められる事の喜びを胸の内にしまい込み、レグレルグは顔を綻ばせた。
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