禁断と安息


■-1

 温もりが隣から消えているのを感じて目が覚めた。毎夜の悪夢こそ見なかったが、すぐ側にいる筈の姿は部屋中を見回しても無い。一抹の不安はすぐに塗り固められ、大きなものとなって起き抜けの頭を重々しく満たした。
 小さく名前を零した次には飛び起きて、最低限の身支度をする。廊下に出て名前を呼びつつ扉を開けていくが、求める姿は無い。体を冷えたものに絡め取られる心地になり、普段のものとは別の悪夢を見ている気分だった。
 やがて階下の食堂へと辿り着き、勢いよく扉を開ける。其処には朝餉と、探していた姿をやっと見付けたのだが、強い違和感を覚えて止まった。柔和な微笑みはいつもと変わらないが、違和感は静寂と共にある。
「ユーズトーリュ」
 彼女は小首を傾げて、半ば答えを物語っていた。
「少し、喋ってみて」
 彼女は困ったように笑い、熱に震えた溜め息をつく。
「かくせ ません ね……」
 声には原型が殆ど無かった。



 軽い病に罹った、とはユーズトーリュの弁だ。彼女の過剰な生命力の根源でもある『子供達』の力で抑え込んでいたらしく、すぐ側にいたアローネへ伝染してはいないが、気を抜いた拍子に表立って発症してしまったのだという。気を抜いた原因は安心であり、酷い皮肉だと思うしかなかった。触れてみると酷く上昇した体温が返り、本当に軽いのかと不安になる。
 この世界で病に罹る事は死に直結する事が多い。彼女の場合は生命力が勝り、明日には治せるだろうとの事だったが、付いて回る事実の為に全く安堵出来ないでいた。
 そして休ませようにも、ユーズトーリュが何もしなければ生活が成り立たない。身分による役割分担とはいえ、何も出来ない己にアローネは無力を感じるしかなかったが、互いが出来る限りをこなすしかなかった。
 今日は視察の予定があり、アローネは早々に出かける。しかし強い不安が集中力を途切れさせ、判断力も鈍りを見せた。結局思うようにはいかず、醜態を晒してしまうに終わる。反省に浸るも、己に出来る解決策が無い事実へ苦しむだけとなった。
「アローネ卿、今日は如何されました」
 最後に視察した果物屋の店主が不安そうに尋ねる。隠すか否か迷った末に、正直に伝える事にした。
「ごめん……。ユーズトーリュの事が心配で、つい」
「ユーズトーリュさんに、何かあったのですか?」
 使用人を酷く心配する時点で通常ならば異常だと言われるのだろうが、店主もまた二人の関係性を知るところである。
「病に罹ってしまって……」
「何ですってっ、少々お待ちくださいっ」
 驚きの声を上げ、途端に焦りを露わにした店主は店の奥に駆け込んでしまう。アローネは言われた通り待つしか出来ず、やがて戻ってきた店主の手に林檎が一つあるのを見付けた。少し時間がかかったのはよく色付いたものを探していた為だろうか。店主はアローネへ恭しく差し出して告げる。
「ユーズトーリュさんへ、どうかこちらを」
「有り難う、ええと……」
 値札を確認しようとしたアローネへ、店主は首を横に振った。
「その侭お持ちください」
「えっ、けれど……」
 普段負担を強いている立場が申し訳無さを連れてくるが、店主は再び首を横に振り、譲らない。
「ユーズトーリュさんにも、皆大変助けられております。元気の無い者に逸早く気付き、的確にお言葉を下さるのです」
 ユーズトーリュの洞察力にはアローネも度々助けられているが、領民へも発揮されているらしい。それはアローネが知らなかった彼女の姿であり、知るものと変わらぬ彼女の姿でもあった。
 店主はふと困ったような笑みになる。
「そんな訳ですから、わたくし共も淋しいのです」
 己と重ねられた言葉に、アローネも同じような笑みを返す。領民達の持つ強さに支えられている事実を改めて知った気分だった。
「そっか……。彼女もきっと喜ぶよ。有り難う」
 甘く香る、禁忌を閉じ込めたような林檎は光に輝いていた。



 帰りを出迎えたユーズトーリュはやはり声を発しなかった。激しい喉の痛みもあるだろうが、枯れ果てた声で不安にさせまいとの気遣いが最たる理由だろう。林檎を渡した時には、もう少しで笑い声が聞こえそうな吐息があっただけだ。
 いつものように夕餉を用意し、雑事を片付ける彼女を不安に思う暇も無く、アローネは執務をこなす。普段よりも必死になっていたかもしれない。いつもならば雑事後には彼女が側に控えているのだが、休むように伝えたので今日はずっと一人で過ごしていた。今や不慣れとなった孤独がどうにも不安と寂しさを連れてくる。気付けば執務も終了し、どうしたものかと焦る気を落ち着ける事も難しかった。
 ふと思い付き、布巾と桶、水は何処にあったかと階下へそっと下りる。しかし用具の場所さえ知らない自分は案の定探し物を見付ける事にすら苦戦した。散らかしても彼女の仕事が増えるだけであり、闇雲には探せない。幾度も迷い、辿り着いた炊事場で目的のものを全て見付けた。本来の用途とは違うのだろうが、仕方無く桶に水を汲み、布巾を浸す。
 薄暗い廊下を忍び足で歩き、ユーズトーリュが寝ている筈の部屋の扉をそっと開けた。彼女は苦しいのか横になっており、突然の来訪に驚いた表情を浮かべる。
「ごめん、じっとしていられなくて」
 ユーズトーリュの吐息はかなり荒く、何も言えないでいる。今が最も症状が重いらしい。
「看病くらいしたかったから……駄目かな」
 本来ならば戻るように促すのが正しいのだろうが、ユーズトーリュは迷う途中で己の心細さへ気付いてしまう。最も危惧していた伝染の心配は無い、『子供達』が気遣うように伝えた事実で、耐え忍ぶ事への限界に容易く達してしまった。
「おねがい します……」
 苦笑して久々に発した声はあまり音が乗らない。それでもアローネはユーズトーリュの甘えへ一欠片の安堵を覚えて微笑んだ。
「うん。有り難う」
 布巾を絞るにも苦心し、何とか水が垂れない程度にしてから額に乗せてやる。冷たい感覚にユーズトーリュは小さく溜め息を零すと、熱に潤む目を閉じた。苦しみで意識も混濁しているだろうが、眠りを知らない体は完全に休む事を許してくれなかったようだ。
 傍らに跪いて様子を窺う。渡した林檎はやはり食べられなかったようで、頭のすぐ横に置かれていた。わざわざ側に置いたのは大事に思っていたのだろうか。力無く投げ出されていたユーズトーリュの手を取ると異様な熱さが伝わる。白すぎる細指には人々が利用しながら恐れた強大なものなど到底感じられず、今は弱々しい彼女が此処にいる事だけを物語った。
「こんなに君が苦しいんだから、子供達も苦しいよね……」
 不安を隠しきれずに呟くと、ユーズトーリュは微笑みを浮かべる。
「ふっふふ……、うれしい ことば です ね」
「どうして?」
 苦しげな声は落ち着いてもいて、緩やかに訳を紡ぐ。
「おもい を うけ とり、こどもたち は はじめて いのち に なれ ました。そして ユーズトーリュ も また、いのち に なれる の です」
 捨てられ、尽きた命は認識すらされず、寂しさと無念から生を妬むものとなったが、こうして感情を向けられる事で存在が確固たるものとなっている。ユーズトーリュにおいても、彼女への想いが彼女の個を呼び起こしたのだ。それらがたとえアローネ一人の力であったとしても、存在の否定を消すには大いなる力を持つものだった。
「僕もそうだよ。君が、君達がいなかったら、僕は此処にいないから」
 言葉に彼女は声にならない声で、小さく笑う。
 もしユーズトーリュがいなければ、確実に死へ落ちていた。彼女がアローネを救った当時の目的こそ歪んでいたが、歪んでいた彼女へ二人で向き合うきっかけでもあった事を思うと、複雑な事象の絡み合いに不思議なものを覚える。恐らく今は当時よりも更に歪み、戻れないところまで来ているのだろうが、何も後悔は無かった。
 慰めるようにユーズトーリュの手を撫でていると、ふと彼女が口を開いた。
「もう よふけ です ね……」
 普段ならば明確に休むよう告げるのだろう。惜しさの込められた言葉にアローネはユーズトーリュの激情を垣間見て、自身にも湧く激情を認めながら彼女の手を額に付けて明日を願った。
「おやすみ、ユーズトーリュ」



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