禁断と安息


■-2

 不安に付け入った悪夢はまたもアローネを苛む。しかし今回は少しだけ変化があった。普段ならば恐怖と激痛の中で何も考えられないのだが、苦悶の中で反抗心を持つ。掴み取りたい未来と、現在の為に、過去へ負けてはいられなかった。
 目を覚ますと、苦しみのあまり額に汗が滲んでいた。気分はやはり良くないが、僅かに前進したような心地もある。現在身に付いた強さが徐々に悪夢へも及んでいる事実には、微かな希望を見出しても良いのだろう。
 身支度をしようと起き上がった直後、部屋の扉が開く。扉の向こうの微笑みは普段通りだ。
「ユーズトーリュ! 具合はどう?」
「おかげ さま で びょうま は さり ました」
 声も聞き慣れた彼女のもので、アローネは思わず安堵の息をつく。
「良かった……本当に良かった」
 抑え込んでいた心細さが溢れてしまう。ユーズトーリュは歩み寄るとその想いを優しく抱き留めた。伝わる温度は異常なものではなく、熱も下がったようだ。
 不意にユーズトーリュが何かを差し出す。
「はんぶん たべ ません か?」
 見ると、昨日は食べられなかった林檎が手に乗っていた。
「いいの?」
「かんち の いわい と いう もの です」
 楽しげに笑うユーズトーリュも、アローネと同じように嬉しいのだろう。
「じゃあ、一緒に食べようかなあ」
 共有とはやはり甘く誘惑するものだった。



 ソファに並んで座り、切り分けられた林檎を一口食べると芳醇な甘みに満たされる。隣からも小気味良い咀嚼の音が聞こえ、ふとユーズトーリュが食事を取る姿を初めて見た事に思い当たる。
「そういえば、君の好きな食べ物って何?」
 するとユーズトーリュは首を横に振った。
「わかり ません、しょくじ を とった こと が なかった ので」
 過剰な生命力は眠りのみならず、食事すら必要としなかったらしい。この林檎が初の食事という事になる。
「そうだったんだ……。じゃあ、今日は何か美味しそうなものを買って帰るよ」
「なぜ です か?」
 ユーズトーリュとしては、食べずとも保つ体に食事の必要を感じていないようだ。しかしアローネは苦笑して言葉を返した。
「食事って、誰かと楽しくするものなんだって。僕もそういう事を出来なかったから、君としてみたいなって思ったんだ」
 ユーズトーリュは一瞬面食らったが、やがて照れたように微笑む。
「ふっふふ、では おねがい します」
 普遍的とされた事をことごとく経験出来ずにいたが、憧れの成就への歩みに心躍っているのだと互いに自覚するしかなかった。



 執務を一区切り付け、休憩に街へと出かける。すれ違う領民からかけられる挨拶へ応えながら、目的のものに頭を悩ませていた。彼女と食べたいもの、と考えるあたり、自身も楽しみが膨れ上がっているのだろう。
「アローネさま、こんにちは」
 ふと話しかけてきたのはまだ幼い子供だ。アローネは屈んで目線を合わせてから挨拶を返す中で、思いきって尋ねてみる事にした。
「こんにちは。……そうだ、ちょっと訊いてもいいかな」
「うん。どうしたの?」
「君が一番好きな食べ物って、何かな」
 すると子供は少し考えて、嬉しそうに答える。
「えっとね、おかあさんの、クッキー!」
 出てきた人物に一欠片の羨望を抱きつつ、挙げられたもので菓子という選択肢に気付く。アローネも口にした事が無く、適していると感じた。
「そっか、お菓子……。教えてくれて有り難う、参考になったよ」
「えへへ、どういたしまして!」
 駆けていく子供を見送り、菓子店を目指す。菓子店への視察の回数は少なく、あまり品揃えを把握していない事に思い当たった。程無くして辿り着いた菓子店からは甘い香りが漂い、思わず腹を刺激される。
 近付いて棚の菓子を眺めていると、奥にいた店主がアローネに気付いて声をかけた。
「おや、アローネ卿。いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「こんにちは。品物を見せてもらってもいいかな」
「はい、どうぞごゆるりと」
 アローネが何を選ぶのか、選ばないのか。店主の気がかりを若干緊張した面持ちから窺い知れて気にはなったが、やはり最優先事項はユーズトーリュの口に合いそうな、美味そうな菓子を探す事だ。黄金色に焼けた菓子は食べた事が無いのだがどれも美味そうに見えて、不思議にも思う。
 そうしてふと目に留まったのは、分厚い菓子だった。両手で持つ程度の直径を持ち、やや半球状の上には網状に細い生地が重ねられている。切られた一部分の断面には何か挟んであるさまが見えた。
「これは?」
 無知極まりないのだろうが、晒す事に抵抗は無い。寧ろ正直に眼前の菓子が気になっていた。
「アップルパイでございますね。生地は小麦を粉にして捏ねたもの、その中に林檎を挟み、焼き上げたものにございます」
 聞く内に垂涎しそうになり、的を定めた。彼女にしてみればまた林檎なのだが、これは食べ応えもありそうで、何より美味そうに見える。
「じゃあ、これを二切れ貰おうかな」
「畏まりました。少々お待ちを」
 それが二人分であると、誰へのものかと伝わっただろうが、言及されないところは優しい配慮なのだろう。



 夕刻に邸へ帰り着き、早速ユーズトーリュへ土産の事を伝える。すると茶を淹れるので少し時間が欲しいと告げられ、大人しくソファに沈み込んで待つ事にした。本来は客間として使用する部屋だが、本格的な食事の席ではない二人分の席を確保するとなると此処しか無かった為である。
 やがて扉が開き、ユーズトーリュが二人分の茶器と皿に乗せたアップルパイをソファ前の卓に並べる。並べ終わるのを見計らって彼女へ声をかけた。
「隣で、いいかな」
 誘い文句にしては妙なもので、自身でも恥じらいに笑いが込み上げそうになる。それを察してなのか彼女は微笑み、断りを入れてから隣へ腰かけた。
「林檎のお菓子らしいんだけど、甘くて美味しそうに見えてね。君の口にも合うといいんだけど……」
 パイを持ち、香りを嗅いでみると林檎の甘さが感じられた。いよいよ口にしようとしてふと傍らを見ると、パイを眺めている彼女に気付く。
「どうしたの?」
 もしや香りの時点で嫌いだったのかとも考えたが、それにしては彼女の顔は穏やかだった。
「たべる こと が、おしい と かんじ て しまう の です」
「どうして?」
「これ は、アローネさま から の いただき もの。それ が、とても うれしい の です」
 思えば、彼女へ何かを贈る行為を自然に出来たのは今回が初めてだ。それまでは様々な壁に阻まれ、彼女を想う事すら侭ならなかった。彼女もまた、自然に想い、想い合う事に憧れるしか出来ない身を寂しく思っていたのだろう。その寂しさを僅かでも癒やしたい、今ならば願いの一部を実行出来る事も知る。
 迷いがちにしていたが、やがて彼女はパイを食べる。小さな一口をじっくりと味わってから、小さく嚥下の音が聞こえた。
「とても……とても、おいしい です」
 長い睫毛に涙が絡み始め、瞼を伏せると言葉と同じようにゆっくりと零れ落ちた。彼女が今だけは無防備な姿でいられる現実に、切なさと緩やかな心地を覚える。
 彼女に倣って一口パイを食べると、甘酸っぱい味が身の奥に沁みるような感覚がした。
「うん。美味しいね」
 二人きり、二人だけで共有する喜びにどちらともなく笑みが零れ、アローネは一層彼女へ惹かれている自身に気付く。そうしていつまでも、何度でも惹かれるのだろうと容易く予想出来た。
 茶の湯気が緩く揺れ、やがて空間に混ざって消えていく。温かく儚い幸福も今だけなのだろう。いつか冷えきる時への怯えも、今しか出来ない。形こそ悲しいが、それは間違い無く幸福なのだ。



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