その頃
■-2
グロードート帝国。この国を愛する者はいないほうが自然だった。
帝国全土で行われる検査は否応無しに民を選別した。検査には遺伝子を用いるとの情報が公開されていたが、遺伝子の存在を理解している国民は少ない。その検査基準は一握りの人物しか知らないとの噂だが、本当にそのような基準が存在するのかさえ不明だった。そして一旦は選ばれし国民も、劣悪なものへの変異が認められれば国外追放となる。財産の持ち出しは許されておらず、支給された慰み程度の物資で亡命を果たすしかない。安定や安心とは無縁であり、国を離れる者も珍しくなかった。そうして国に残った、優越感に魅入られた者と行き場の無い者とが織り成す強欲と絶望は、常に暗い影を落としている。
夜明け前の影の中で、老いた男は上等な椅子に沈んだ侭で溜め息をついた。この国で選ばれる事に価値を見出した人々と後ろ暗い遣り取りをしてきたが、満たされた事は一度たりとも無い。贅の限りや快楽、危機であっても心揺さぶるものにはならなかった。そうして日々は過ぎ、何の起伏も感じられない侭に終わりを迎えようとしている。
男は、己の為に何も出来なかった己を悔いた。ただ疲労するだけだった生涯には輝きの一つも存在しない。昔聴いた詩人の詩を思い出すと後悔は大きかった。真偽は定かではないが、ある使用人風情は詩となって語り継がれている。比べて己は悪名を轟かせた訳でもない。己の為した事は何も成せずに、自己満足すら成せずに終わるのだ。
男はもう一度溜め息をついた。そして独り言つ。
「惨めなもんだ」
しゃがれた声は目の前の影へと溶け、消えるかに思えた。
「じめじめ、惨め、湿っぽいねえ」
男は目を見開く。立ち上がろうとしたが、限界を迎えようとしている体に力が入る事は無かった。
影とは違う暗闇色が眼前に滲む。それが世界渡航を可能にする歪みであると知識が告げた。声はその向こうからしたのだろう。やがて中からは、獣よりも小汚い毛の生えた異形が現れる。痩せぎすの体躯は人間の赤子程度しかないが、裂けた口から覗く牙や三本指に生えた爪は凶暴な印象を与える。
「今際は随にさせてくれんもんかね」
目の前に浮かぶ異形の目的が良いものではないとだけは理解して、男は顔をしかめた。
「まあまあ、そう言わず。取って食おうってもんじゃないってんで」
異形が軽く頬を掻く。頬も指もどす黒い緑色をしていた。
「あたしはあんたに、とびきりのいい機会を持ってきたんだよ」
話をするのも面倒になり返事をしなかったが、異形は構わず牙の並ぶ口を開いた。
「そうそう、まずは贈り物をしよう」
言葉の後に異形は舌を長く伸ばす。先端には透明な硝子の嵌まったペンダントがぶら下がっていた。ややくすんだ金色だが小綺麗に見える。動けない男の首へペンダントを勝手にかけると、異形は顎に手を当てて頷いた。
「さあさあ、あとは願うだけさね。願いの続く時間分、あんたの体から差っ引くよ。願いは返品変更待った無し、時間が過ぎればあるべき姿に戻るだけ、それまで溜め込んだ結果は据え置きだよ。願いと別に努力した分は嘘つかないって寸法さ」
男は口の端だけで嘲笑しながら、一つ思い出した。一週間前、貧民街の闇に紛れて取り引きをした帰りだ。一人の少年が大人の男に殴られていた。漏れ聞こえた言葉によれば稼ぎを持ってこなかった罰だという。殴る大人の異常な顔付きや赤黒い顔色からして、手遅れなまでに酒へ溺れているのだろう。殴られながらも少年の目には鋭い光があった。光らせた反抗心は好むところであり、男には一種の憧れですらあった。
今ならば、あの輝きを刃の閃きにでも出来るのだろうか。
ひとまず願ってみる。一分間、あの少年の現在を見たい。
突如として男の思考が風景に塗り潰される。空から降ってくる視点が到達したのは、暗い路地裏で蹲っている少年の姿だった。眠っているのか肩が僅かに上下するだけで動かない。投げ出された裸足の前に鼠が立ち止まったところで思考が戻ってきた。
男は目をしばたたかせ、次には枯れた吐息混じりに笑った。かけ時計に目を遣り、続けて願う。一時間半、朝が来るまで、あの少年の元へ。
唐突な気配に鼠が驚いて逃げていく。少年は先程見た通り眠り続けていた。
「おい」
声をかけると少年の体が跳ね、弾かれたように顔を上げる。寝惚け眼だが、目の前に座り込んだ老人を認めると逃げだそうとした。
「まあ待て、悪いようにゃせんよ」
男が努めて穏やかに告げると、少年は迷いながらもまた腰を下ろす。男を恐れてはいるが、決して怯えてはいない眼差しには力がある。
「お前と取り引きをしたい」
少年が眉根を寄せた。何も持ち合わせが無い己への提案だとは思えなかったのだろう。
「今からお前に、戦う為の力を二十年間与える。その間、俺の面倒を見ちゃあくれないか。こりゃあ契約だ」
少年の口の端から乾いた笑いが零れた。男は続ける。
「信じられなくたっていい」
男が深く息を吐くと、少年の笑いが固まる。男の眼差しに染み付いたどす黒さが見えたかは定かではなかった。
「やるか、やらないか。それだけさ」
少年の生唾を飲む音が微かに聞こえた。
男は思う。今を選べる少年に、かなわなかった己を見ているのかもしれない。大層無様だったが、次世代への期待など大抵そのような形をしているのだろう。
「……どうすればいい」
少年の問いかけへ男は徐に頷いた。
「まずはじっとしてろ」
告げた瞬間、男の体に変化が起きた。皺に塗れた肌が蠢き、整う。変化が収まった時には明らかに四十歳は若返っていた。
「これで出来た筈だ。試しに動いてみろ」
男の変化へ茫然としていた少年は目を覚ますようにかぶりを振ってから、手近に落ちていた小石を手に取り、立ち上がる。小石を宙へ放り、落ちてきたところへ拳を放った。正確で強烈な突きに小石は猛烈な速さで吹き飛び、彼方で壁に当たった音を立てる。真っ直ぐに飛んだようだ。
「動ける、解る……」
驚く少年へ男が笑う。
「加減も解るだろう? 済んだら此処へ戻ってこい」
「解った。一通りしてくる」
これからを考えて殺さぬようにとの意図を汲んだ返答をして、少年は軽やかに走り出した。
「何処ほっつき歩いてたぁ」
低い声の言葉は最早耳に入らなかった。振り下ろされる酒瓶も鈍重な動きに見える。
少年は僅かな動きで凶器を避けると空を切る腕を掴み、勢いを利用して流れるように自身よりも大きな体を投げ飛ばした。酒瓶が手から離れ、転がる。背中から落ちて呻いたところへ、少年はすかさず顔目がけて踵を振り下ろした。命中した顔は鼻血と折れた歯からの血に塗れたが、まだ意識があるようで何事か言おうと口が動く。
「う、ひ……ぅ」
言葉にならない声に虫唾が走る事も無かった。無感動は決別の証だ。
「殺さないよ。精々一生俺に怯えてくれ」
置き土産としては上等かもしれなかった。
僅かながら路地裏にも陽光は届く。隅々まで見えるようになり、鼠が壁に開いた穴へ消えていくさまも見えた。鼠でさえ進むべき道を自力で作る。
裸足の立てる音が近付き、視線を移すと少年が戻ってきていた。男の眼前まで来ると少年は跪く。片足は血に濡れていたが、怪我をしている様子は無い。
「有り難う、上手くやれたよ」
礼の言葉は少年の元来の素直さからだろう。
「なかなか冷静、大したもんだ」
「まあね」
少年が不敵に笑う。復讐は何も生まないが、何かを取り去る事は出来る。少年の表情は憑き物が取れたように晴れ晴れとしていた。
「これからどうすればいい?」
少年は義理堅い訳では無く、信用問題に敏感なのだろう。二人の間に信頼は無かったが、契約の重さを何処かで知ったらしい。
「俺は一旦戻らにゃならんが、今すぐ其処へ迎えに来てほしい。目印は黒い屋根と風見鶏、鶏じゃなく梟だがな。寝坊助共がいるが気付かんようにする」
言いながら、言う事を素直に聞く指で方角を示す。人間嫌いを象徴する梟で人を呼び寄せるのは皮肉としか思えなかった。
「解った」
少年が走り出そうとした瞬間、男の姿は音も無く消え失せた。
「おかえりおかえり」
再び椅子に沈んだ男の顔を異形が覗き込んで言った。口からは不快なにおいが微かにする。
「そうそう、伝え忘れた事があってね。贈りたるそのペンダント、二度と外せぬものでしてねえ。外すと哀れ、死んじまうってやつで」
「そりゃああんまり問題にゃならんな」
指で首を探ると、ペンダントの鎖に肌から離れない部分がある。
「問題は、お前はずっと俺の側におるんかね」
「いやいや、あたしはあくまで外野。此処の外からあんたを見守るしかありゃしません」
羽も無いというのに異形は宙返りをしながら答えた。
「観察するの間違いじゃあないかね。まあ好きに見てくといいさ」
「へっへっへ、助かるねえ。では、今度ともご贔屓に」
異形の背後に歪みが広がり、瞬く間に異形を吸い込んで消えた。
静かになった室内で男は願い、それからは時計を見詰めるだけでいた。一時間が経過したところでゆっくりと立ち上がり、金庫を開ける。貴金属を持てるだけ持ち、棚の引き出しから懐中時計を取り出した。そうして私室の扉を開けると、酒に溺れた男達が廊下や別室の其処彼処で転がって熟睡している。彼らは男の指揮下だが、いつその掌を返すかも解らない程度には信用出来なかった。その程度しかいない。
試しに転がっている一人の頭を幾度か軽く蹴った。全く反応が返らないのを見て、願い通りに眠りが二時間途切れないものになっていると確信した。
二階から一階へと降りる。杖を忘れた事に気付いたが、足取りは確かなもので最早必要無かった。階段を降りて懐にしまった時計に手を伸ばしかけたところで、正面にある玄関が薄く開いた。隙間から先程の少年が見える。予想より早い。
「期待以上で助かるもんだ」
少年は中に体を滑り込ませて辺りを見回してから、歩み寄る男を見た。
「立派なお邸なのに、出て行くんだ」
「立派なのは見てくれだけさ。中はすかすかのがらんどう、いつ崩れる事やら」
「親父みたいだ」
少年の苦い顔に男は頷く。
「どいつもこいつも、俺だってそうさ。だが、俺はどうやら仕切り直せるらしい」
「じゃあ、俺も仕切り直す」
明確な意志である少年の言葉には力強さがあった。
「よし。それじゃあ、行くとするかね」
二人は扉を開け、朝へと踏み出す。せめて光に焼かれたくなかった。
まだ人のいない街を歩きながら、少年は男へ尋ねた。
「なんて呼べばいい?」
男は答えようとして一つ思い当たる。
「仕切り直しに改名してもいいんじゃあないかね。お前もどうだい」
「いいね、乗った。でも何がある?」
男はひと時考えてから、呟くように告げた。
「ヴィンコロ」
『固い絆』という清廉さの裏に『しがらみ』や『拘束』との濁りを持つ言葉へ、付かず離れずの腐れ縁となるだろう関係を思うと少年は吹き出した。
「あはは、いいよ。あんたは?」
男は再び考えてから、過去を顧みる。指揮下にあった者達は人を見下した態度を取っており、陰ではあったが男に対しても発揮された。
「俺達の力あってこそだぞ」
「『恩知らず』でいられるのも今の内だな」
陰口を聞き飽きた今頃が彼らの好機なのかもしれなかったが、思わぬ形で企みは叶ったのだろう。
男は過去を瞼の裏に封じ込めてから隣を見遣る。
「イングラート。どうだい」
「いいね。恩返しなんて面倒だしね」
少年が歯を見せて笑い、それを見て男も楽しげに笑う。それだけの事が心を揺らした。
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