その頃
■-7
『雨宿りの木』でまた歌おうとした時だった。突如物々しく入店してきた男達が客を脅し始め、怯えた客が逃げ出す。マスターが努めて丁寧に客へ退避を促し、店の関係者だけがその場に残された。
「悪いねえ、用が済んだらすぐ退散するからさあ」
言い放つ男達は舞台にいたオルテンシアへ近付く。
「気に入らないね。用事ならもっと綺麗に済ましな」
不機嫌を隠そうともしないオルテンシアへ男の一人が詰め寄り、乱暴にオルテンシアの顎を持って上げさせた。悪臭と下卑た笑いが男の口から漏れる。
「ひひっ、それもそうだな。じゃあさっさとあんたに来てもらおう。因みに、こいつを知らないか?」
顔の前に一枚の紙を突き付けられ、描かれているものが老人の似顔絵だと認めた瞬間、オルテンシアは驚きに目を見開いてしまった。その反応に男が引きつった笑いを上げる。
「ひひっ! ご存知で! さて、何処にいるのかな?」
横目で辺りの様子を探ると、別の男が店員に刃物を突き付けている姿が見えた。言わなければ被害が出るだろうが、イングラートを売る訳にもいかなかった。そう判断してしまう。
「知ってたとして、人質を取られて白状したものが本当だって保証はあるのかい」
オルテンシアの苦し紛れに男はにやつき、刃物を突き付けるのをやめるよう手で合図する。
「それもそうだなあ。じゃあ場所を移して、たっぷり聞かせてもらおうじゃないか!」
言い終わるか否かで腹に衝撃を感じ、オルテンシアは意識を手放した。
まだ空が白む途中、玄関の扉に何かが強くぶつかる音が二人の目覚ましになった。今日は久々の休日としており、依頼の受付も休止している。不審に思い、ヴィンコロが注意深く扉を開けた。
辺りを見回してからふと足元を見ると、丁寧に蝋で封をされた上等な封筒が落ちているのを見付ける。拾い上げる途中で宛先に書かれた文字が目に入り、ヴィンコロは顔をしかめた。
『厭わしき絆へ』
ますます訝しんで裏を見ると、ヴィンコロは驚愕で固まる。
「どうしたね」
イングラートも封筒を覗き込み、言葉を失った。
「テッゾ……、あいつ、今更何なんだ」
メレネーの忠告通り覚えておいた差出人の名を呟き、ヴィンコロは意を決して封を開ける。やはり上等な純白の紙に、黒インクで書かれていたのはヴィンコロへの怨嗟と、指定した場所へ来いとの脅迫だった。その中にオルテンシアを攫ったとの文面を見付ける。
「あいつ……!」
手紙を捨てて駆け出そうとしたヴィンコロの背中にきつく声がかかった。
「待て。其処にオルテンシアを連れてくるとは限らん」
「でも」
イングラートは手紙を拾い上げ、文末に記された梟の印を指差す。
「黒い屋根のこれに覚えが無いかね」
ヴィンコロは遥か遠いと思っていた記憶から、梟の風見鶏を思い出した。立派な邸で転がって寝ていた男達の詳細は今も解らないが、おおよその立場は今なら見当が付く。そしてイングラートの立場もまた推測出来た。
「あにさんの、一味」
「そうだ。今もグーフォと名乗っとるだろうな」
苦々しく告げるイングラートの拳は震えている。憤りと悔しさが全身を駆け巡り、それしか出来ない無力をまざまざと思い知らされ、それだけでもいられなかった。
「ヴィンコロ」
イングラートの鋭い語調に、ヴィンコロは覚悟を知る。
「俺の尻拭いだが、力を貸してくれ」
ヴィンコロは一度深呼吸し、次には不敵に笑った。
「半分こ、恨みっこ無しだよ、あにさん」
ヴィンコロは早朝の街を駆け、指定された場所を目指す。路地を通り、近道をして辿り着いたのはテッゾと初めて対峙したあの倉庫だった。搬入も無く、人気は無い。
『着いた。そっちは』
言葉を思念で紡ぐと、すぐさま返事が聞こえる。イングラートの力で思念による会話を可能にしていた。
『まだかかる』
イングラートはグーフォ一味の邸へ向かっている。名を知る生物を探した結果、オルテンシアを探知したのが其処だった。
『上手くやれよ』
テッゾ個人ならば捨て置く事も出来たが、グーフォ一味を看過すればこの先に平穏は無いだろう。二人共戦闘になると覚悟していた。
『そっちもな』
イングラートの言葉に応えてから、ヴィンコロは倉庫の重々しい引き戸を開ける。
中に入ると堆く積まれた小麦粉の袋が見えた。その影から出てきた男達を警戒しながら、奥に見覚えのある青年を見付ける。青年は演劇で歌うようにヴィンコロへ告げた。
「ああ、ああ! 名さえ知らなかったが、忘れた事は無かったよ」
言いながら手袋をした右手をさするテッゾを、ヴィンコロが嘲って指差す。
「その手袋の下、さぞかしいい歯形が残ってるんだろうな」
言い放つとテッゾは歪んだ笑みで言葉を吐き出した。呪詛であっても甘ったるい。
「ああ、ああ、その減らず口、無しにしてしまいたくて。色々苦労したよ、グーフォの奴らを握り込むのに、こんなに時を費やしてしまった」
テッゾの目は焦点が合わず、酩酊しているようにも見える。逆恨みも時を経て濃縮され、中てられてしまったようだ。
「時間が惜しいなら、さっさと始めちゃあどうだい」
グーフォ一味と手を結んだのは偶然なのか否か判別出来なかったが、今となってはどうでも良い。煩わしげなヴィンコロへ、テッゾが立てた人差し指を横に振って制止をかける。
「焦るのは良くないな。まずは贈り物をしよう!」
言うなり、テッゾが何かをヴィンコロに向かって投げた。手前で落ちたそれが何かを確認出来た瞬間、ヴィンコロの見開いた目に驚愕と絶望が踊り狂った。反応を見てテッゾが嘲笑を響かせる。
薄紅色の髪が上等な紐で留められていた。
「はは、ああ、ああ、長い間不安だったろう? けれどこの通り!」
「どう、して」
ヴィンコロが絞り出した言葉に、テッゾは聞き心地悪く歌い上げる。
「国外追放なんて汚点、殺したって国外だ、罪に問われる事も無い。生きる希望なんて潰えてしまえとね。とても愉快だったよ」
言葉が終わるや否やヴィンコロはテッゾ目がけて突進していた。その前にグーフォの男達が立ち塞がる。
「おまええええぇぇぇっ!」
怒りの絶叫が倉庫内に木霊した。襲いかかるナイフを身を屈めて避け、低い位置から拳を鳩尾へ叩き付ける。鈍い音がしたので骨も内臓も無事ではないだろう。吹き飛んだ体には目もくれず、ヴィンコロは振り下ろされる長物を少し横に動いて避け、前のめりになった首へ強烈な回し蹴りを放った。首をあらぬ方向に曲げた相手は横に飛ばされて小麦粉の袋の山に当たり、動かなくなる。
「はは、ああ、ああ! 同じ穴に自分で飛び込んで、人の事は言えないな!」
テッゾの挑発にヴィンコロは動じなかった。出発前、イングラートと話しておいた事だ。
「命の遣り取りになる。迷うな。勝て」
言葉には後悔も無く、ただ決意だけがあったのをヴィンコロは聞き逃さなかった。
次々に襲いかかっては斃れていくグーフォ一味の様子を見てもテッゾの表情は変わらない。ヴィンコロの手を汚させ、その結果がどちらでも満足なのだろう。
やがて三人が一斉にヴィンコロを狙うが、ヴィンコロは片手の指全てを向けるだけだった。瞬間、三人の腹が大いに破れて血肉を撒き散らす。ヴィンコロの指から発生した細かな衝撃波が散弾となった結果だ。
血塗れになったヴィンコロの目に燃え上がる殺意を見て、テッゾは未だ嘲笑している。その様子にグーフォ一味は恐怖さえしたが、背を向けた者が撃ち抜かれたのを見て逃げられない事を悟り、攻撃の手を緩めなかった。だが一人だけが、自身に嘘をつけず立ち尽くす。巨大な体で恐れられていたが、性根は全く臆病だった。
怪物のような相手にどうしろと言うのか、指示は無い。唯一己を気にかけてくれていた男が、たった今向かっていった。見えない弾丸に脇腹を吹き飛ばされる。そうして倒れ、足に掴みかかり動けなくしたところで叫んだ。
「今だっ」
指示が出た。
足を掴んできた男ごと巨体に潰され、胴の骨が複数折れた。苦しみ藻掻いていると、意外にも素早く身を起こした巨体の男が大きな足でヴィンコロの腕と足を何度も踏み付ける。避けきれず潰され、片腕と両足の骨が折れて尚も続き、ヴィンコロが辛うじて身を転がして放った片手からの散弾に頭を吹き飛ばされて漸く止まった。
場にいたグーフォ一味は残すところ少数になっていたが、テッゾ含め殲滅しなければヴィンコロにとっては意味が無い。テッゾは転がる体を跨いで、歯を食い縛るヴィンコロの許へと歩く。
「死にかけだなあ。それでいい」
ヴィンコロの上げかけた手首にテッゾの投げたナイフが突き刺さり、怯んだところへ一息にテッゾが躍りかかった。体へのしかかられ、激痛に呻くヴィンコロの片腕を押さえ込み、テッゾは唾液を口の端に垂らしながら恍惚と告げる。
「ああ、ああ、残念だったなあ」
テッゾはヴィンコロの手首に刺さったナイフに手をかけ、掻き回すように弄った。今度こそヴィンコロが目立った叫びを上げる。
「あがっああぁっぐううっあぁああっああっ」
「そうそう。あの女、なんにも白状してくれないから毒を飲ませておいたよ。ああ、ああ、可哀想に、お前のみんなは死んでしまうなあ」
テッゾは頭を揺らし、楽しげに現実を突き付けた。
グーフォという名は、元々はその首領の名だ。『シマフクロウ』の他に『人間嫌い』との意味を持ち、誰も信用しない人物だとされていた。実際には信用に足る人物がいなかっただけである。
黒い屋根に梟の風見鶏の邸へまた足を踏み入れようとは、玄関の扉へ背を向けたあの頃に果たして予想出来ただろうか。
僅かに開けた扉の隙間に両手を差し込み、イングラートはヴィンコロに与えたものと同じ衝撃波の力で散弾を放つ。呻き声が多数聞こえたが、まだ人の動く音がした。イングラートは今度こそ内側へ入り、正確な射撃で立っていた者の頭を撃ち抜いていく。途中で起き上がろうとした者にもとどめを刺した。正面階段を上がり、突如部屋から飛び出す者も容赦無く撃つ。
『あにさん』
唐突にヴィンコロの思念から呼ばれたが、妙に弱々しい。一人を撃ち抜きながら応えた。
『どうしたね』
『あねさんに毒を盛られた』
イングラートが声を出しかけて何とか堪えると、続きがあった。
『頼みがある』
それから告げられた願いは結果の全てを物語り、イングラートは激痛に似た苦しみを味わう。全ては死に損なった己の所為なのかとさえ思った。
『頼むよ』
だが、消え入りそうな声に猶予は無い。
『解った』
イングラートは願う。後悔の無いように。
ふと頭上で小麦粉の袋が多数破裂する。ヴィンコロが折れたほうの手を使い全力で散弾を撃った結果、指の向く方にしか撃てなかったように見えた。
細かく宙を漂う大量の小麦粉に噎せながら、テッゾはヴィンコロの殆ど千切れた手首からナイフを引き抜くと逆手に持つ。
「僕の事を恨んでくれ!」
振り下ろした瞬間、ヴィンコロの口元が笑った。ナイフはその侭吸い込まれるようにヴィンコロの胸元に突き刺さり、引き抜くと大量の血飛沫がテッゾを濡らす。テッゾが喚くように笑い声を上げ、骨に当たって尚も刺し続けている内に異変が起きた。
ヴィンコロの体が揺らめき、次には紅蓮の炎へ姿を変える。炎は舞う小麦粉へ次々に引火し、すぐさまその場を呑み込むように爆発した。
探知していた存在が消失したが、何も感じる暇が無い。思念が静かだったのは覚悟の強さを物語っていた。
イングラートは邸の二階を進み、自室だった場所の扉を開ける。寝台に横たわるオルテンシアの姿を見付けたが、口元は血で汚れていた。襲いかかる二人の頭を素早く撃ち抜き、背後から襲いかかろうとした男も胸元を撃たれて倒れる。物音は止み、全員斃したのだろう。
オルテンシアへ駆け寄り、確かめると脆弱だがまだ息があった。しかし最早尽きようとしている。
「おやおや、どうやら幕引きのようだねえ。なかなか面白かったよ」
不意に耳元であの憎たらしい声が聞こえた。それには返事をせず、イングラートは迷い無く願う。ペンダントトップの硝子から割れる音が響いた。
目を覚まし、オルテンシアはこれまで続いていた苦しみから解放されている事に気付いた。身を起こして辺りを見回すが、白い光に包まれていてよく解らない。
「オルテンシア」
優しい声に安堵した。此処まで素直にさせてくれる人物など、二人しか知らない。
「ヴィンコロは炎になった。どうか慰めてやってくれ」
目を凝らすと少し遠くにイングラートの姿が見える。
「俺は二十二年其処らしか贈れんが、どうか受け取ってほしい」
イングラートは徐々に変化し、若返っているようだ。
「雨と陽のオルテンシア」
言葉の本質をオルテンシアは悟る。
「何も信じてくれなくていい。ただ、美しさと共に生きてくれ」
朗々と、命の限り歌うように。
「冷徹なる叡智は誰に読み解けるものでもない」
切々と紡がれるそれは。
「だから、どうか」
最後の願いだ。
「恩知らずであれ」
小さくなり続けるイングラートの姿は、原初を超え、消えた。
同時発生した大火と大虐殺は世間を揺るがす事件となり、オルテンシアの拉致された事件は新聞の片隅に載る程度で終わる。
しかし世間も、オルテンシアでさえも、事件の後にも生活が続く。事件が過去の事となるのは早かった。
そうして事件から二十二年目の事だ。オルテンシアはその日も『雨宿りの木』で歌っていた。しかし今日は客の求める歌ではない。安らかな夢を歌い、最後まで歌い上げた瞬間、血を吐いて倒れる。紫陽花の髪飾りが落ち、赤く染まった。
オルテンシアの体からは毒物が検出されたが、肝心の毒の入手経路が掴めず、他殺はおろか自殺ですら困難だとされた。謎の侭に事件は風化し、遂に忘れ去られた。
晩年のとある日、オルテンシアは取材を受けた。
「支えとなるものは何かありますか」
「昔はそういう奴らがいたね」
「その人達とのご関係は」
「さてね。何だったんだろうね、不思議なものだった。でも、その頃が一番、あたしはあたしでいられたよ」
「オルテンシアらしさ、ですか。今はどうですか」
「そうだね……、奴らが見たら、少しは笑ってくれるようにしてるよ。それが奴らへの慰めになるなら、有り難いところだね」
「最後に、ファンの皆さんへメッセージを」
「特に、あたしに紫陽花を贈ろうとしてる奴へ。今のあたしは青色じゃないよ。あたしは、今の色を贈りたい奴らがいる。でも、残念な事にそれはかなわない。だから、あんたらは今をよく考えな。本当に後悔しない道で戦いな。無様なあたしから言えるのはそれだけさ」
全てが灰燼に帰し、其処から咲き誇る赤い紫陽花の愛は強い。
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