その頃


■-6

「そっち行った!」
 夕暮れの空気にヴィンコロが叫んだ。追い立てられた小柄な猿は路地へと入り込み、イングラートがその後ろを追いかける。先は袋小路だが、イングラートが到着した頃には隆起を使って壁を登る猿の姿があった。
「二分ってところかね」
 ヴィンコロがこちらに到着するまでを呟きながら、イングラートは願った。願い通り猿は硬直し、壁から剥がれるように落ちる。落ちてきた猿を努めて優しく受け止め、背後を振り向くと狙い通り駆け寄るヴィンコロが見えた。
 ヴィンコロが持っていた檻代わりの鳥籠へ猿を入れ、開けられないよう錠で鍵をする。すると漸く猿が暴れ出した。猿からすれば奇妙な体験だっただろう。
「怪我はしてないな、良かった」
 檻の合間から様子を見ていたヴィンコロが猿の状態を確認する。珍獣好きの依頼者からの叱責を恐れているのではなく、単に猿の身を案じての言葉であると安堵の表情が語っていた。ヴィンコロの変わらない素直さにイングラートは最早安心すら覚える。
「さて、お連れするかね」
 鳥籠を持つイングラートの横を歩くヴィンコロの背は同程度だ。体付きも成長している。
 あれから更に九年が過ぎていた。



 無事を確認した猿を広い室内に放すと食料の盛られた餌場へ一直線に向かう。三日間の脱走で空腹なのだろう。今回の依頼も縋る思いで三日目に出されたものだ。
「はああっ、良かったっ、本当に良かったっ」
 先程まで失意の底にいたとは思えない程に喜びを露わにする依頼者は、二人からの視線にはたと気付いて照れた笑いを向ける。
「ああ、ごめんなさいね」
「いや。大事に思ってるのは解ったよ」
 ヴィンコロの言葉に依頼者も悪い気はしなかったらしい。しみじみと一つ頷いた。
「有り難う。あの子達みんな、私にとって大事な子達ですから」
 珍獣を室内で多々飼っている依頼者は間違い無く富裕層であり、平民街の者からすれば理解出来ない部分も多い。しかし二人の今までの経験上、その悲しみと喜びに貴賤は無かった。比べても仕方無い以前に比べようが無いとの事実を知る者は少ないだろう。
 依頼者が布袋を差し出し、イングラートが受け取る。袋の生地もかなり上等なものだ。
「あの子を見付けてくれて、有り難う」
 短く断りを入れて中を確かめると金貨が一枚入っている。これよりも高報酬を出そうとした依頼者とかなり交渉した末に妥協したのがこの金額だった。
「確かに。あの子らと末永く幸せに暮らしてくれ」
 会話を聞きながら、ヴィンコロは遠い記憶に触れていた。ほろ苦く、ただ懐かしい。
 依頼者の邸を出ると辺りは暗くなっており、二人の腹の虫も鳴く準備をしている。何処かで夕食を取ってしまおうと辺りを見回しながら道を行くと、平民街に差しかかったところで一件の酒場を見付けた。通る機会の無かった道沿いであり、看板には『雨宿りの木』と記されている。高級感は無く、如何にも大衆酒場といった外観だった。
 何と無しに足を止めていると鼻先に湿気の匂いを感じる。もうすぐ雨が降るようだ。場所の名としても丁度良かった。
「此処にするかね」
「ああ」
 ヴィンコロの返事にイングラートは酒場の扉を開ける。活気に包まれた内部は多少広く、隅には小さな舞台が設けられていた。舞台とは対角線上の隅にある卓へ着き、注文を取りに来た店員へ食事を頼む。程無くして到着したのは燻製肉の盛り合わせとパン、そして安酒だ。近年はヴィンコロも酒を嗜むようになり、時々イングラートへ付き合っている。何も言わずにヴィンコロが焼き物の酒器を持ち上げたので、イングラートはそれに自身の酒器を割れない程度に打ち合わせて今日を労った。そうして酒を口にした後に肉を頬張ると、香ばしさが鼻を抜けて食欲を更に掻き立てる。
「うっま……」
 しみじみと零すところ、ヴィンコロもかなり気に入ったらしい。
 燻製肉の付け合わせの野菜をつついていると不意に喝采が響き、舞台に誰かが登場したと解った。つられて二人も舞台を見遣ると、遠目でも女が一人立っているのが見える。深い青色のドレスの裾からは黒く艶やかな靴が覗き、髪飾りには淡い青色の花が咲いていた。
 女が唇を動かすと、旋律が生まれる。



 ――麗しきよ 沈まないで
 涙の語りは届かない
 麗しきよ 溺れないで
 愛も今は物言わない
 夢の務めを抜け出でて 麗しきよ



 紡がれる音は低く、切ない感覚を与えた。やがて歌が終わると拍手が起こり、女は優雅に一礼して舞台を下りる。其処まで見て、二人して食事の手が止まっていた事に気付いた。しかし夢中だった感覚は無く、ただ茫然と見遣っていたに過ぎない。
「いい歌手だったな」
「そうだな」
 イングラートの微妙な言い回しを読み取った上で、ヴィンコロも同意見のようだ。
 特にそれ以上の感想も出ず、二人は食事を再開する。そうして食べ終わる頃には雨が止み、長居は無用と酒場を出た。
 そうして初めて歌を聴いた時は、まだ心動かされていなかったのだ。



 翌日の仕事は早朝と、間を置いて午後に一件ずつ入っている。内容を考えて朝食は抜いて出発した。早朝の仕事は依頼ではなく国からの募集へ応じたもので、後始末を差し引いても報酬が良く、毎年三回程度受けるようにしている。
 指定の集合場所へ行くと他の応募者の姿もあった。身形も様々だが、決して富裕層はいない。集まった応募者を見渡して管理者が声を張り上げるが、あまり気力の感じられない声だった。
「皆さん、本日は有り難うございます。これからの為にも是非とも力を尽くして頂きたい」
 下水道掃除に何よりも必要な力は気力であると、経験者は知っている。
 帝国の地下を張り巡らされた下水道は確かに便利であり重要だが、溜まり続ける汚物の所為で清掃を行おうとする者はあまりにも少ない。当然放っておくと詰まるので、国は割高な報酬で清掃する人員を釣るしかなかった。
 布で鼻と口を覆い、悪臭に耐えながら熊手を使って水底をさらう。一度動かしただけで有機物の成れの果てが大いに取れ、一気に熊手が重みを増した。引き上げ続けて足場に溜まった汚物は別の者が地上へ運んで処理へ回す。汚物は帝国外の土地へ埋められて処理されるが、それ以上の対策は恐らく無く、膨大な量にいつか利用出来る土地が尽きる事までは考えていないのかもしれない。国民はその時が己の生きている時代ではない事を祈るしかなかった。
 明かり取りの穴から差し込む僅かな光を頼りに黙々と作業を進める。会話により最低限の呼吸を乱すのも身に堪えるからだ。朝食を食べなかったのは、ともすると悪臭で嘔吐してしまうのを防ぐ為である。過去には此処で煙草に火を点けようとした者がおり、充満するガスに引火し爆発を起こしたとの話が残っていた。命だけは助かったというが、爆発の衝撃も然る事ながら、弾け飛ぶ汚物に襲われた暁には心も折れるどころか跡形も無く吹き飛んでしまうだろう。
 作業が終了し、地上へ戻った頃には太陽も真上近くなっていた。腹は全くの空だが、まずは汚物で汚れた身形を整えねばならない。公衆浴場へと向かうのも慣れた足取りだ。
 浴場へ着き、金を払うと脱ぐついでに服を処分する。洗うほうが金銭的にも手間である上に回復も見込めないからだ。準備しておいた着替えを棚の籠へ放り込み、浴場へ向かう。
 浸かるのは二人が限度の湯船が並ぶ浴場の片隅で、体を流すと生き返ったような心地になり、久々に湯へ浸かれば日頃の疲れまで抜けるように感じた。時折垢擦りに声をかけられるが、其処までは求めていない。
「お兄さん達」
 背後から呼ばれたヴィンコロが振り返ると、女が誘うように湯船の縁を細指で撫でた。浴場での仕事は風呂に関する事のみではなく、娼婦業務も往々にして行われている。
「この後どう?」
「特別疲れていてな」
「悪いね、そういう気分じゃあないな」
 二人の反応に女は小さく笑う。
「もう、いつもそう」
 残念そうな声音は、いつか落としてやると語っているのかもしれない。女が別の客の元へ去ってから、イングラートは口を開いた。
「お前、そういった気が本当に無いな」
 若干面倒臭ささえ覚えているイングラートはともかく、ヴィンコロはまだ若い。そろそろ興味も増すと思われたが、誘いに乗った事は知っている限りでも一度も無かった。
「別に、気はあるんだよ。でも、その気になるのは此処じゃあないってね」
 ヴィンコロの返しは何処か寂しげであり、イングラートは探りを入れる。
「それじゃあ、どんな時なんだね」
「そうだな……、きっと心底子供が欲しい時だと思う。俺みたいな思いはさせたくないから」
 これまでヴィンコロの過去については推し量る事が殆どだったが、それで良いのだとイングラートは改めて思わされた。仕切り直したからには過去から学び取る事が重要であり、学びは襲い来る過去との戦いに勝利した事実の表れである。
 風呂を済ませて昼食を悩んでいると、ふと先日食べた燻製肉が思い出された。相談した結果、そう遠くない場所にある『雨宿りの木』を目指す。暫く歩き、背の高い住宅街を抜ければすぐというところで、上の方から何かが聞こえた。特に合図も無く、二人して足を止める。やがて聴き取れたのは歌だった。



 ――眠り夢 巡る景色
 枝の先 綻ぶ新芽
 啄む鳥に 空を託し
 やがて還る 土に水に
 眠り夢 遠い空へ
 眠り夢 鮮やかにあれ



 低い声が甘く歌い上げ、二人は半ば無意識に歌声の主へ拍手を贈る。拍手へ気付いて窓から顔を出す人影は、まさに今行こうとしていた場所で見覚えのある女だった。髪を飾る青い紫陽花が記憶を確かなものにする。女は二人へ手招きし、また奥へ戻った。女の意図は量れないが、悪いものではないのだろう。
「行ってもいいかね」
 イングラートの珍しく控えめな物言いにヴィンコロがおかしそうに笑った。
「いいよ。時間の許す限りだけどな」
 こちらとは逆の表側に回り、集合住宅の玄関を開けて薄暗い階段を上がる。二階へ辿り着くと、廊下に置かれた小さな鉢植えに咲いている青い紫陽花が目に付いた。
「お客からの贈り物でね」
 不意に聞こえた言葉の口振りは煩わしいと語る。紫陽花を見ている間に部屋の扉が少し開いていたようで、女が覗くように二人を見ていた。
「立ち話も何だからお入り」
「危ないとは思わんのかね」
 まさか大の男二人を容易く室内へ招き入れるとは思わず、立ち話程度と思っていたイングラートは驚いて尋ねる。しかし女は呆れたように笑い飛ばした。
「あんな歌にだけ拍手するような野郎が、何か出来る玉かい」
「だけって、あの時見てたのかい、あんな遠くを」
 酒場の隅にいた一見の客を覚えている女の記憶力と観察眼へヴィンコロも驚く。女は不敵に微笑むと体を部屋へと入れ、また手だけで招いた。応じて部屋へと足を踏み入れると、殺風景な内装が出迎える。女は奥の窓辺に腰かけており、其処が定位置なのかもしれない。
 扉を閉めると静けさが漂う。その中を女の低い声はよく通った。
「名前は何ていうんだい」
 二人は顔を見合わせ、イングラートが促す侭にヴィンコロが口を開く。
「ヴィンコロ」
「随分堅苦しい名前だねえ。肩の力は抜いておきなよ」
 そのつもりで受け入れてきたヴィンコロにとって女の言葉は的確であり、心地良いとさえ思えた。
「そっちのあんたは?」
「イングラート」
「へえ、身軽で良さそうじゃないか」
 無遠慮に言ってのける女には世辞の欠片も無いのだろう。楽しげな女の姿は嫌みたらしい部分も感じられない。
 女はふと青色の紫陽花を模した髪飾りを指差した。
「オルテンシア。どいつもこいつもこぞって『紫陽花』を贈ってくるけど、花言葉でも聞かせたいね」
「花言葉?」
 首を傾げたヴィンコロが尋ねようとしたところにイングラートが呟くように言う。
「辛抱強い愛、神秘、知的」
 ヴィンコロは感心の声を出しかけたが、続く言葉に声は消えた。
「冷淡、無情、高慢、浮気。特に青と紫はこんなとこかね」
 女、オルテンシアは満足そうに頷く。
「野郎にしては夢見がちじゃないか」
「教養は好きなもんでね」
 返しに軽い笑いを漏らすオルテンシアへ、イングラートは一つ尋ねた。
「あんた、歌いたいものを歌えておらんのかね」
「どうしてそう思うんだい」
 オルテンシアの眼差しには試すような色が見えるが、イングラートには悲しく映る。試す事は恐れの表れであり、自らを守ろうとする予防線だ。
「酒場のとさっきのと、内容は真逆に聞こえた。そして此処じゃああんたは自由なんだろう」
 オルテンシアは長い溜め息をつく。其処には諦めがまとわり付いていた。
「酒場の奴ら、やり遂げた奴や将来のある奴の語りになんか用は無くてね。あたしは、見果てぬ夢より果てなき夢を歌いたい。けど出来るのは、此処で夢を見るだけさ」
「それじゃあ」
 気付けば二人で声が出ており、顔を見合わせる様子にオルテンシアが小さく笑う。仕切り直してイングラートが口を開いた。
「また、此処で聴いてもいいかね。あんたが心底望むものを」
 ヴィンコロも頷いて同意見を示すのを見て、オルテンシアは柔らかに微笑む。
「ただで聴かせる程安くないよ。何か土産話を持ってきておくれ、なんせ退屈しててね」
「そうかい。なるべく面白い話を探しておこう」
「つまらなかったらあにさんの所為にしてくれよ」
 悪戯っぽくヴィンコロに言われ、イングラートは肩を竦めた。
「全く、久々に気に入ったよ」
 楽しげなオルテンシアに寂しげな影を見付けたのは見間違いではあるまい。



 二人が去り、室内に静寂が戻る。そろそろ酒場へ向かわなければならない。オルテンシアは窓辺を下り、支度を始める。物寂しい室内は紫陽花で彩られる事もあるが、度々枯らしてしまうので一時的だ。
 変わった二人だと思った。その風変わりが己にとって心地良かった事実を受け入れるには、多少の抵抗がある。己もまた風変わりな事を知っているからだ。
「気に入らないね」
 己に向けた言葉も空虚に消える。迷いも悩みも、夢見る事すらも、最早している余裕は無い筈だった。溶け込めない世間に紛れ、水を漂う藻屑のような身に訪れる幸福があるのかを、今一度誰かに問いたくなる。答えは誰からも返らないと解って尚もそうしたいのは、馬鹿馬鹿しくも焦がれる、生きる許しが欲しいのかもしれなかった。



 あれからオルテンシアの許を幾度か訪ねた。紡がれる歌は子守歌にも似て、日々の疲れを慰めるように二人を転た寝へといざなう。代わりに日々の依頼の話をすると、オルテンシアはいずれも興味深く聞いていた。それについて、いつの日かイングラートが尋ねた事がある。
「下らん話はあったかね」
「あたしにとっては全部下らないし、下らない事は面白いさ」
 平然と言ってのけるオルテンシアは、物事の楽しみ方が上手いのかもしれない。
 『雨宿りの木』へわざわざ赴く事も増えた。オルテンシアの仕事を助けるつもりは些かも無く、主には食事が美味かった為である。中でも燻製が美味であり、燻煙剤となる木の破片に他とは違うものを使っていると、いつか店員から聞く機会もあった。
 今日は依頼帰りに遅い昼食を求めて立ち寄る。席に着くとすぐさま店員が注文を取りに来るが、ヴィンコロの疲れた様子に声をかけた。
「今日は酷くお疲れで、どうしたんです」
 どうやら顔を覚えられていたらしい。卓に乗せた両腕へ顎をうずめるヴィンコロは重い溜め息混じりに答えた。
「しょうもない話に長々付き合わされてね」
「しょうもない?」
 不思議がる店員へイングラートがすかさず告げる。
「いつものとびきり美味いもんを出してやってくれ」
 思い出したくないとの胸中を店員も悟り、イングラートの注文を受けて厨房へと駆けていった。ヴィンコロが目だけでその姿を見遣り、ふとイングラートの方へ顔を向ける。疲れてはいたが、何処か安堵したようでもあった。
「有り難う、あにさん」
「いいってもんさ」
 イングラートですら苦々しい感覚がまだ胸の辺りに蟠っている。今回の依頼者は世間話と称して下の話を好み、殊更ヴィンコロへ絡んだ。その類いが得意ではないヴィンコロも適宜当たり障りの無い流し方をしていたが、本心ではない事も言うしかなかっただろう。心根では凄まじい嫌悪感が渦巻いていたとはイングラートも察するに難くない。問題の当人でなければ何とでも言えてしまう現実もヴィンコロは理解しているが、納得するには無理があった。
「俺がまだまだって事なのかな」
 ヴィンコロがまた息をついたが、先程までとは違って疲労感は多少取り除かれている。イングラートはゆっくりとかぶりを振った。
「いいや、俺もあの手は御免だ」
「やっぱりそうかい」
 ヴィンコロが苦笑したところで注文した食事が運ばれ、燻製の香りが鼻へ届くと空腹が疲労を押し退ける。食の楽しみを覚えたのはいつだったか、恐らくイングラートもヴィンコロも同じであり、十六年前の串焼き肉なのだろう。



 酒場を出ると微かに湿った匂いが鼻を掠める。じきに雨が降るようだ。帰路を歩く途中で不意にヴィンコロが愚痴るように言葉を零した。
「あねさんのところに行きたい」
 駄々を捏ねるような口振りにイングラートは思わず軽く吹き出す。オルテンシアの許を訪ねるにおいて、ヴィンコロが此処まで明確に要望するのは初めてだった。
「癒やされたいって事かね」
「そうだよ」
 遠慮の無い物言いは気楽であり、遠慮せずに済む。いつしかオルテンシアとの会話は二人にとって安らぐものとなっていた。
 雷の音が鳴り始めた頃、オルテンシアの部屋を訪ねる。扉を叩く回数は二回と、間を置いて一回だ。程無くして扉が開き、中へと招き入れられた。相変わらず殺風景な部屋だが、新しく贈られたのか片隅に青い紫陽花の鉢植えが一つ増えている。
「丁度退屈だったんだよ」
 言いながらオルテンシアは定位置の窓辺には座らず、寝台へ腰かけた。それを見てから二人はそれぞれ簡易なスツールへ座る。オルテンシアが身動ぎする度に粗末な寝台が軋んだ。
「ヴィンコロ、湿っぽい顔してどうしたんだい」
 ヴィンコロの落ち込みようはオルテンシアから見ても明白のようだ。ヴィンコロは己への負担が少ない言葉を選びながら話し始める。
「性の話にだらしない依頼者に絡まれてさ。正直、そういう話を茶化すのは苦手なんだよ。それで誰かがつらい思いをするって知ってるから」
 吐き出すのも余程疲れたのか、大きな溜め息が最後にあった。ヴィンコロの過去に何があったのかの予想は幾らでも出来たが、良い予想だけは無い。
 オルテンシアは穏やかな眼差しで項垂れるヴィンコロを見遣る。
「あたしは、そういうあんたこそまともだと思うね。誰だって酷い目を見るのは嫌さ、だから自分の行いに責任を持つんだよ。無責任を嫌うのは当然の事さ」
 不意にオルテンシアの視線がイングラートへ移り、ヴィンコロもつられて隣を向いた。
「こういうところが気に入ったんだろうね」
 どう見ても親子ではない二人の関係について、オルテンシアは今も尋ねないでいる。遠慮しているのではなく、単に不要と判断しての事だった。二人である事のそれ以上でもそれ以下でもない。
 オルテンシアがヴィンコロへ目を戻し、一つ頷いて続ける。
「だから、胸を張りな。堂々としてていいんだよ」
「そっか……。有り難う、あねさん」
 ヴィンコロに快活な笑みが戻り、イングラートは安堵した。イングラート自身やヴィンコロ個人の力だけで全てを賄えるとは考えてこなかったが、今回のように二人では手に負えない事態にいざ直面すると弱るしかない。
「俺からも礼を言わせちゃあくれないか」
 イングラートの言葉へオルテンシアが軽やかに笑う。
「あんたも相当だったからね、受け取っとくよ」
「そうかね」
 遣り取りを聞いていたヴィンコロは少し考えて、席を立ちながら口を開いた。
「此処らで俺は先に帰るよ」
「何か用事でもあったかい」
 尋ねるオルテンシアだけでなくイングラートも首を傾げる中で、ヴィンコロは扉へ歩み寄ると悪戯っぽく笑う。
「俺ばっかりだったから、あにさんに悪いだろ?」
 言葉と共に扉を開き、そっと出て行くヴィンコロの背は楽しそうに見えた。間を置いてオルテンシアが吹き出す。
「ふっ、あの子の前じゃ、あんたも形無しかもしれないね」
「そうさな。あいつは俺よりもずっと上手だ」
 言って、ふとイングラートの表情が陰る。
「あいつに届いとるかは解らんが、根も葉も無い噂も一時期あってな。俺があいつをとびきり可愛がっているんじゃあないかって具合だ」
 遠回しの言葉はこの場にいないヴィンコロへの配慮なのだろう。オルテンシアは呆れたように息をついた。
「全くどいつもこいつも噂が好きだよ」
 言い回しにイングラートは苦々しい顔をする。
「これも噂になっておるんかね」
 部屋へ招かれる光景を直接見られた覚えは無いが、第三者の察するところはあるだろう。オルテンシアの歌姫としての評判に繋がらないかを危惧したが、オルテンシアは平気そうに答えた。
「可愛いもんさ」
 爽やかささえあるオルテンシアの反応に強さを感じ取り、イングラートは己の弱さを改めて知る。そうして、オルテンシアに彩りを見ていた。今を彩られ、イングラートは決意を固める。
「なあ、オルテンシア」
 改まった声音だったが、オルテンシアは別段姿勢を正そうとはしなかった。イングラートは首の後ろ、体に固着した鎖に片手で触れる。
「俺が隠し事をしているとしたら、軽蔑するかね」
「そう言うんだから、しないよ。隠さない覚悟を決めたんだろう?」
 淀み無く答えたオルテンシアへ、イングラートは片手で鎖を持ち上げた。鎖の先には硝子の嵌まったペンダントトップがある。
「そんな形してたのかい」
 普段服の下に隠れていたペンダントトップをオルテンシアが覗き込むと、不意に硝子が曇り始めた。変化にオルテンシアが眉根を寄せた頃、硝子には一人の老人が映し出される。老人の服装はイングラートと全く同じだった。
「見えたかね」
 イングラートの声でオルテンシアの意識は驚愕から戻り、視線が恐る恐るイングラートの顔を捉える。
「それが昔の俺だ。何の因果か、こいつのお陰で色々仕切り直せた」
 告げながらイングラートはペンダントをまた服の下へ隠し、席を立つとオルテンシアへ跪いた。
「雨と陽のオルテンシア」
 それは懺悔なのか、誓約なのか、イングラート自身にも解らない。そうして希う。
「どうか、この無様へ微笑みをくれないか」
 嘲笑であっても構わなかった。その美しさが彩りである以上、注がれる何色でも受け入れたかった。
 不意にオルテンシアの手が肩に置かれる。
「気に入らないね……」
 切々とした声は、イングラートの思考の全てに染み渡るようだった。
「あたしはそんなに安くないよ」
 寝台が元に戻ろうとして音を立てる。そうして温かな細腕の中にイングラートはいた。
「疲れたろう。此処では夢を見るといいさ。そしてまた、避けられない戦いへお行き」
 言われてイングラートは気付く。己もまた、生き抜く為に戦ってきた。漸く戦う事が出来たのだ。



Previous Next

Back