蝶々行路
■-1 彼の翅へ祝福を
常世の国とはどのような世界か。
他の世界とは違い、生も死もその概念は存在しない。姿形すらも自由だ。それでいて我々が普段から個として一定の姿を取る理由は、諸説あるが一番は気に入ったからであろう。
遥か昔は争いが絶えなかったが、徐々にそれを飽きが止めた。永遠に終わらぬ争いより、端から争わぬほうが楽であると皆気付いたのだ。現在は平和で、そして豊かだ。
此処にあるのは悠久の時間である。その時間に巣食う退屈を如何にやり過ごすかが、我々の課題なのだ。
「ふわぁ……」
隣人が寝不足から大欠伸をする。疲労とは、我々にとって存在を証明するものの一つだ。
「偶には長めに寝るといい」
「んんー……。一息にするのが癖なんだよねぇ。小分けに出来ない性分なのかなぁ」
滲んだ涙をその侭に言う。執務を疎かにしておらぬとは、領地を見ていてよく解るのだが。
「白蝶卿はどうしてるの?」
「深夜までに全て済ませてある」
「白蝶卿は偉いねぇ。いや、私が呑気なだけかなぁ、あはは」
「鳳蝶卿。無理をする呑気とは呑気ではない」
首を傾げられるのも何度目であろうか。
白蝶子爵、という呼びは通称である。同様に鳳蝶伯爵、という呼びも通称だ。爵位は管理者の肩書きであるに過ぎず、その階級もあまり意識されていない。
血縁というものは常世の国に無い。それでいて鳳蝶卿が私を懇意にするのは、領地が隣同士であったからではなく、蝶繋がりであったからというのが鳳蝶卿の言い分だった。
「んーっ、だいぶんゆっくりしちゃったぁ。そろそろ帰らないと」
紅茶を飲み終わったところで鳳蝶卿は大きく伸びをする。此処に来たのは昼過ぎ、そして今も昼過ぎと呼べる時間だ。経過した時間は短いがこの言葉が出る、その意味するところはただ一つであろう。
「またなのか」
「きっといつまで経っても上手に出来ないんだろうねぇ、私は」
鈴を転がすような笑いを含んだ言葉に、私は軽く息をついた。
鳳蝶卿と出逢ったのはいつだったか、最早遥か昔で思い出せない。
その性質は非常に穏やかであり、私とは全く異なる。しかし、その差異に嫌悪感を抱いた記憶は無い。無垢な印象だが、無邪気に他者を蹂躙するような真似はしない人物だ。
だからこそ、私は鳳蝶卿へ惹かれたのかもしれない。より単純に表すならば、その姿勢は楽しげなのだ。
食事は食堂で、邸の者が入り乱れて取る。私とて例外ではない。食への喜びは我々にとって重要であり、経済が回るきっかけでもあった。
「白蝶卿」
夕餉の時間、食事の乗った盆を料理人から受け取る。しかし空席が見当たらずにいた私へ、侍従長が手招きした。自らは丁度席に着いたらしく、卓へ置かれた食事に手を付けた形跡は無い。私は誘われる侭に空いていた隣へ着席する。
「済まない、ロゼリーニ」
「いいえ、お気になさらず」
ロゼリーニは侍従長だけあり、もう長く仕えてくれている。便宜的に双子とするロゼッティーニという人物がおり、同じく侍従長として鳳蝶卿の下に仕えていた。確かに血縁は無いが、家族という括りは認められている。
程無くして食べ始める。しかし数口食べてから、私は失敗した事に気付いた。
「しまった」
「如何されました」
「いただきます、と言い忘れた」
「そのお気持ちがあるだけで違います」
ロゼリーニは静かに、穏やかに告げる。
私が無愛想で不器用な自身をどうにか修正したいと考えているのは、もう皆に知られているだろう。誰かから冷笑された事は無いが、無様な事は確かだ。
「そうだろうか」
「はい。雲泥の差だと私は考えます」
「……そうか」
これは僅かでも修正出来た内に入るのだろうか。
再び食べ進める。
思えば、修正したいと考えたきっかけは鳳蝶卿だ。食事一つ切り取っても、非常に美味そうに食べる姿を比較した時、己の姿のなんと不味そうな事かと思ったのだ。
鳳蝶卿は優雅に、朗らかに、事物を楽しむ。
私はあのようになれないのだろうか。
今日も常世の国には夜が来る。
そして朝が来る。昼が来る。また夜が来る。
この時間経過による変化に、何か意味はあるのだろうか。
その意味を考えると、私は怖くなる。
白昼、鳳蝶卿へ連絡を入れてから邸を訪れたが、到着を出迎えた侍従長、ロゼッティーニによれば現在鳳蝶卿は眠っているらしい。
「鳳蝶卿ったらまた徹夜していらっしゃったんですよぉ……」
「やはりな。あまり無理をせぬよう、私からも伝えておこう」
「白蝶卿のお言葉なら効果覿面です! どうぞこちらへ」
鳳蝶卿からの言伝らしく、私は寝室へと通された。部屋に入ると寝台に、ブランケットの上で無造作に鳳蝶卿が眠っている。幾度も見た事のある光景だ。
「鳳蝶卿」
呼んでみるもやはり反応は無い。
立っていてもあまりに無沙汰なので、鳳蝶卿の隣へ腰かけた。寝返りで曲げてしまわぬように、その顔から眼鏡を外しておく。我々にとって眼鏡は総じて飾りになるのだが、鳳蝶卿も私も眼鏡をかけている。私は単なる塵よけ眼鏡だが、鳳蝶卿はどうなのだろうか。
寝顔に普段の人懐こい明るさは無い。私はどうも寝顔というものは苦手だ。我々に無い筈の死、終わりを連想させる。
「鳳蝶卿」
気付けばもう一度呼んでいた。反応は無い。
その体から、温もりは失われてしまったのだろうか。そのような事はあり得ない、しかし不安は泥濘の如く心にまとわり付く。
触れて確かめる。頬に、首筋に。縋り付くように。
「……リオ」
今や私のみが呼ぶ愛称が零れる。ポダリーリオという名を教わったのは、幾歳前の事なのだろうか。
胸元に頭を伏せる。拍動が聞こえるが、これは我々にとって仮初めの機能であり、意味は何一つ無い。
「ロー」
ややぼやけた声が唯一呼ぶ、私の愛称が聞こえた。通称が台頭して、アポッローという名を覚えている者はごく少数であろう。
やや細い手が私の頭を撫でる。宥めるように思えた。
「少し、気晴らししよっか」
陽の下、剣を手に構え、斬り合う。
他の世界からすれば、これは稽古などではなく決闘に当たるのだろう。互いに醒血に塗れ、深手を負わせても構う事はない。痛みは少々感じる程度だが、我々の基準である以上それでも多大なる苦しみを感じる。
不意に鳳蝶卿の剣が空を斬った。
かのように見えた。
視界に髪と血が舞う。私は首を斬り落とされ、頭は地面へ落ちる前に受け止められた。
顔を赤に濡らした鳳蝶卿が、腕の中にいる私の顔を見ていた。
頭の無い私の体が血を噴き出しながら、その姿を見ている。我々に確固たる魂は無いのだろう。体の何処も中枢ではない事がその証だ。視界すら私の何処にも依存しない。
「らしくないねぇ、白蝶卿」
「……私らしいとは何だろうか」
「ひとまず、私に完敗したりしないよぉ」
「そうか……らしくないか」
その場へ座り込んだ鳳蝶卿は、穏やかに笑みを湛えている。
「ちょっと迷子になっているのかな?」
「迷っては、いるかもしれない……」
「じゃあ、まず何が見える?」
私の迷いを見透かされている気分だった。
「……貴方が見える」
「私?」
「貴方が……」
私の体が動いた。手には剣を持っている。鳳蝶卿はそれを見上げるだけだった。
「迷いを連れる導だ」
まず胸を狙った。鳳蝶卿はそれを避けない。貫いた体を無理矢理持ち上げ、次には叩き付ける。私の頭は、努めて静かに置こうとしたのか、然程衝撃を感じずに落ちた。
がむしゃらに剣を振るう度、置かれた私の頭へ血が降ってくる。
襤褸布のようになるまで斬った。やがて私が疲れて手を止めると、鳳蝶卿はその顔さえも形を失くしていた。
「……ロー」
しかし口すら、喋る為のものではない。
「考えたよ。一生懸命考えたよ。それでも、何が怖いのか気付けなかったよ」
私はその言葉に絶叫した。剣の切っ先を己へ向け、掻き毟るように斬り裂く。
体が倒れる。血が、肉が、鳳蝶卿と混ざった。
気付いていなかったのは私のほうなのだ。
回復、否、修復してから、私は鳳蝶卿と共に寝室に戻る。血の一滴も残らず、今は破れた服だけが事を物語っていた。
震えるばかりの私を、鳳蝶卿は優しく包む。
「私の為に、迷っていたんだね」
其処に詫びも礼も無かった。どちらも私を抉る言葉だと、解っているのだろう。
「一人きりで抱えていたんだよね。話したくても話せなくて」
その性質から緩慢な思考の持ち主と思われる事が多いが、鳳蝶卿は時に鋭い。
「心細かったよね」
そして、鋭さで決して刺さない。
「リオ……」
歪んだ声で、気付いたのだろう。私の小さな願いへ。
「うん。一緒だよ、ロー」
生死の概念の無い我々は、その性の概念が薄く、自由だった。しかし徒に存在するものでもない。感覚は存在し、耽る者が多数であるからだ。私個人としては、無闇に用いる事は好ましく思えなかった。
私の貪欲へ、その通り応えてくれる鳳蝶卿は何を思うのだろう。哀れみは無い、それだけは解る。そのような愚行はしない人物だ。
「ロー」
身の奥で存在を感じながら、私は声に頷いた。
「私も、怖かったよ。恐れから貴方が、変わって、失くなってしまうんじゃないか、って」
鳳蝶卿が恐れを抱くという事態を想像出来ないのは、思えば何故なのだろう。
「せめて、私は共有したかったんだ。けれど、やり方が解らなかった。間違えたら、貴方を壊してしまいそうだった」
他の世界の者が今の鳳蝶卿を見たなら、怪物と表現するのかもしれない。だが此処に暴力性は無かった。あるのは、怯えていたたおやかな心だ。
「私はもう、恐れで立ち止まらないよ。だから……」
途方も無い感情が渦巻く。これが、そうなのかと。
「貴方を、求めたいよ」
願いは重なり、全てが呑まれていった。
「変化の時には、必ず失うものもある」
「それが喜びだったり、悲しみだったり、様々だよね」
鳳蝶卿の言葉が、私の迷いを少しずつ紐解いていく。
「私は、貴方を失う事が怖かった」
「そんな事ある訳がない、なんて言えないもんね」
生死の超越があろうと、心身が消滅しない事の保証にはならない。それは誰もが気付いている事実ではないのだろう。
「こうして心がある限り、付随する問題なのだろうな」
「形の無いものに私達は振り回されるんだろうね。けれどそれは、時々楽しいし、愛しいよ」
「愛しい?」
鳳蝶卿が微笑む。
「らしくない姿も、弱ってる姿も、私にとっては貴方だったからね」
「我儘な……そんな我儘で、いいのだろうな」
幼子のように笑う鳳蝶卿は、悠久の時間を心底楽しんでいるのだろう。それは私にも出来るのだろうか。疑問と共に、出来るようになりたいと目指している。
「一つ、尋ねてもいいだろうか」
「うん」
「貴方は、何故私を求める?」
「私を求めてくれたから」
鳳蝶卿は即座に答えた。だが解せない。
「他にもいるだろう」
「ううん、いないよ。厳しくも、優しくもしてくれる人は沢山いるけれど……」
鳳蝶卿は私の手を取る。温かい。
「深く想ってくれる人は、貴方だけだよ」
「……私は応えられているのだろうか」
不安を隠さずに尋ねてみると、鳳蝶卿は柔らかに微笑んだ。
「そう言ってくれるから、充分だよ」
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