蝶々行路
■-2 泥中の花
増えもせず減りもしない我々は、いつ、何処から来たのであろうか。
それを知る者はごく少数であるが、真実かは定かではない。
一説には、我々には生前があり、死した後に此処へ移ったのだと聞いた。
私はその事をあまり気に留めてはいなかった。我々には最早関係の無い話であると考えたからだ。
鳳蝶卿と共に街へ出る。此処は鳳蝶卿の領地だ。
鳳蝶卿は街を楽しんで歩く。目に留めたものには釘付けになりやすく、しかし無駄遣いをする訳でもない。購入した品を使っているとは聞くが、その逆は聞いた事が無い。
私は鳳蝶卿に付いて歩く。いつか私も自然体で楽しむようになれるのだろうか、鳳蝶卿のように。
「白蝶卿、ちょっと一休みしようよぉ」
休憩が短時間で済んだ事はまだ一度も無いが、嫌いではない。
「いらっしゃいませ……ああ! 鳳蝶卿に白蝶卿、ご機嫌麗しゅう」
「ああ」
それ以上の言葉が浮かばない私を後目に、鳳蝶卿が挨拶を交わす。
「こんにちは、そちらも元気だったかな?」
「はい、お陰様で平穏無事に暮らしております」
こうして気さくに話しかける事も、私には難しい行為だ。
「白蝶卿は何がいい?」
硝子の張られた棚の中を指して鳳蝶卿が問う。美味そうな菓子が並んでいた。
「では、こちらのケーキを貰いたい」
「わぁ、とっても美味しそうだねぇ、それじゃあ私もそれにしようかなぁ」
店主の笑顔は、鳳蝶卿につられてのものなのかもしれない。
テラスの席に着いて待つ間も、鳳蝶卿と私は通行人から挨拶を受けた。どの挨拶に対しても、鳳蝶卿は嬉しそうだった。あのように自然な穏やかさで応える事は、私には出来ない。まだ出来ないのだと思いたいのは、私が鳳蝶卿に憧れているからなのだろう。
やがて運ばれてきたケーキと紅茶に、鳳蝶卿は目を輝かせる。
「いただきます!」
「いただきます」
食事前の挨拶も鳳蝶卿に倣ってのものだ。ケーキを食べると、爽やかな酸味と甘みが口に広がる。
「白蝶卿」
不意に呼ばれ、顔を上げると鳳蝶卿は穏やかに微笑んでいた。
「付き合ってくれて有り難うねぇ」
偶に聞くこの言葉は、鳳蝶卿の深い感謝なのだろう。何に対しても感謝の心を忘れないからこそ、鳳蝶卿の人格があるのだと私は考える。
「構わない。私も楽しい」
「ふふっ、いつもそう言ってくれるよね」
燻る紅茶の湯気が香りを連れてくる。柔らかな香りだ。
「私は、そんな貴方だから好きなんだよ」
「……私にどうせよと言うのだ」
「ううん。ただそんな風に、貴方らしく居てほしいだけだよぉ」
私が照れているのを解り、且つこれもそうだと言っているのだ。
「ご馳走様!」
「いえいえ、お口に合いましたでしょうか?」
「うん! とても美味しかったよぉ」
鳳蝶卿は、たとえ私の分があろうと自分が全て支払うのだと言って聞かない。気は引けるが無下にする訳にもいかず、結局甘えてしまっている。
ふと硬貨が一枚、鳳蝶卿の指から零れ落ちる。私も咄嗟に拾おうとしたが生憎すり抜けていった。
「おっと、待って」
舗装された地面を勢い良く転がる硬貨を追いかけて、鳳蝶卿は路地裏へ入った。そうして何処まで行ったのか、なかなか帰ってこない。
「済まない、私が払おう」
私は待たせていた店主に代金を支払い、路地裏へと入った。
少し進んだ道の端、暗がりに鳳蝶卿が座り込んでいる。その肩は激しく上下していた。
「鳳蝶卿」
早足で寄り、傍らへ屈むとその表情が解った。
強い衝撃を受けた泣き顔だ。呼吸は安定せず、視線も泳いでいる。
「鳳蝶卿、何があった」
「はぁっ……、あ、あぁ……何でも、ないよ」
鳳蝶卿は歪んだ顔で笑ってみせようとして、出来ずにいた。
「嘘をつくな。嘘をつかないでくれ。そんな貴方は初めて見た」
「ごめん、ね……。貴方なのに、怖がって、しまったよ……。ごめんね……」
涙は今、何の為に流れているのだろうか。
私はかける言葉が浮かばず、鳳蝶卿を引き寄せた。だが、私にすら怯えている様子だ。
私はなんと無力なのだろうか。
「思い出した、って表現したらいいのかなぁ……」
鳳蝶卿の邸で休息を取る。涙はあの場で止まってくれたが、表情から鳳蝶卿らしからぬ暗さは消えない。椅子に凭れかかる姿も弱々しかった。
「あそこで何かあったのか」
それには首を横に振られた。
「あそこじゃあないんだ。あそこじゃあない、何処かの路地裏」
「……いつの話だ」
鳳蝶卿は大きく溜め息をつく。言葉が容易には出ない証だった。
「恐らく、私が生きていた頃だね。……幸せな女の子だったよ」
過去形には全ての恐怖が詰まっていた。
「他の記憶は散り散りなのに、其処だけはっきり解るんだよねぇ……。女の子は、家に帰る途中で捕まって、路地裏へ連れ込まれてしまったよ」
声に震えが混じった事へ気付いた私は、衝動的に席を立つ。
側へと寄りたかった。
「其処で女の子は暴行を受けた」
だが、鳳蝶卿は怯えていた。
「何度も、何度も、何度も」
肩を抱いて縮こまる。
「体が壊れても、心が壊れても、続いたよ」
双眸から恐怖が形を成して落ちる。
「命が壊れるその時、それは苦痛からの救済なんかじゃあなかった。全てを奪われる、現実でしか、なかったよ」
幼子の心は救いを信じていたのだろう。最後まで信じ、最期に叶わぬと知ったのだ。
「……ロー」
歪んだ声が絞り出す。
「私は、この侭、貴方を恐れたく、ない……」
言い聞かせるように、吐き出すように鳳蝶卿は告げた。
「貴方じゃあない……、解っているのに、理解してくれないよ……」
私に出来る事は、あるのかさえ解らない。
「リオ……」
「どうか……たすけて……」
だが、諦めたくはなかったのだ。
か細い声はやはり涙混じりだった。
その体は完成形だが、行為を受ける事への恐怖は尽きないのだ。嗚咽し、何度も呼び、確かめるように触れる。
私は応える事しか出来なかった。それ以外、何も出来なかった。
「ロー」
切れ切れの呼吸で呼ばれた。含まれているこれは、孤独だ。
「私は、幸せに、なりたかったん、だね」
あったかもしれない過去に存在した、絶望だ。
「叶わなかった、願いを、貴方へ託して、しまったよ……」
「リオ」
私はかぶりを振った。
「それでいい。それで、いいんだ」
続かない筈の過去を今へと繋げる事を、鳳蝶卿は身勝手だと感じていたのだろう。だが私にとって、その過去も含めての鳳蝶卿だった。
「貴方がそうしたように、貴方の全てを、私は求めたい」
私の力では、苦痛を癒せないだろう。だが、そうであったとしても私は触れていたかった。優しさへ、穏やかさへ、その弱さへ。
鳳蝶卿は私の体を引き寄せる。そうして泣いた。今だけは弱くありたいと言うように。
疲れからか、鳳蝶卿は眠りに落ちた。
私は寝顔を見るのが苦手だった。だが、今は見ていて安心出来る。穏やかな寝顔に、苦しみも悲しみも無いからだ。
気付いてから、早く目を覚まさないかと思うのはやめる事にした。
眠るという行為は酷く無防備だ。その無防備なところに、鳳蝶卿は私を迎え入れていた。
その意味に、私は漸く気付いたのだ。
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