有漏路の幽鬼
■-2
「……なんだ」
言葉の続きが出た事に奇妙さを覚えて、いつの間にか閉じていた目を開く。
ざわめきが続いている。
見遣った向こうには赤い塗料をぶちまけたような電車がやっとの事で止まっている。
傍らに横たわっているものは案外と安らかな顔はしている。
派手に撒き散らして飛んだ所為で、血はそろそろ無くなってきたのだろうか。頭が割れて、首の髄が伸びて、手足が間違っていて、腰が折られていて。
そうなんだ。繋がった言葉を反芻する。自分は両親にとってただの命だったのだと、改めて知った。
母は我儘なお嬢様。父は貪欲なサラリーマン。
二人は母方の親兄弟に恵まれて、恵みを欲望へ撒き散らし続けていた。
ところが籍を入れた時、親兄弟に告げられる。
「これで一人前だね。これからは二人でやっていくんだよ」
母は当然怒り心頭だった。父もそうだった。表で笑い、裏で散々な事を喚いた。物心付いた時からその光景を見ていた。
親兄弟は甘く、何も知らなかった。娘は良い子だと思っていた。事実を知っていた娘は親兄弟に助けを求めた。金が足りない。あれを弁償、これを支払い。しかし金が足りない。親兄弟は簡単に折れて、金を回してくれた。
偽りの報告に同情して、金は幾らでも入る。それでも欲望には足りなかった。
母は我儘なお嬢様。父は貪欲なサラリーマン。
そして息子がいた。
斜視の治療もせず、ただただ栄養だけを、嫌々注いだ息子がいた。
それが金蔓だと気付いた。
「有人にね、保険金をかけるのよ」
世間の事件など知らないお嬢様が夫へ言った。
「いくら?」
「億は欲しいわ。でもどうやってしようかしら」
「駅のホームにでも落とせば?」
「朝のラッシュでいいかしら」
ばっかだなあ、賠償金が幾ら来ると思ってるんだろう。
口には出さずにおいた息子はその時、充電の切れたポータブルオーディオのイヤホンを耳にしていた。
こちらを見ている瞳を閉じてはくれなかった。
構内のアナウンスが聞こえる。状況を撮影している人間もいた。案の定怒られていた。
電車を一生懸命拭こうとしている。
現場検証を横目に、親の姿を探してみる。
泣き崩れている。演技だろうし後悔もしていないだろう。
運ばれていく死体に付いていくと、悪態が聞こえた。自殺だと思われている。
「最近の若者は命の重さっていうものを解っていないんだな」
命の重さは解っている。軽いか、重くてすぐ捨てるか。
葬式は一番安いものを選ばれた。意外と人が集まった。
遺影は学生時代に義務で撮った顔写真だ。小さな顔写真を引き伸ばして使っている為に粗いCGのようで、我ながら気の毒に思う。
学生時代同級生だった者、アルバイト先の者、しかし全て付き合いの浅い人物ばかりだ。形式上来るだけ良いのだろうか。
誰とも深い関わり合いを持とうとはしていなかった。何となく人生を過ごした結果でもある。
そもそも人生を何となくとしか捉えられなかった。
家庭一つ取っても、親に褒められた記憶が無い。親に叱られた記憶が無い。
一度だけの出来事は叱られた内に入らないだろう。失敗した自分を無表情で一発殴り去っていった。泣く事も出来ず茫然としたのを覚えている。
親の愛情も、怨恨も感じた事が無かった。つまりは何も無かった。その侭で大きくなってしまい、何をされても、含まれる何かを受け止める事が非常に困難だった。
気さくなやつだと好印象を持たれている事は解る。斜視を気持ち悪いと思われている事は解る。
しかし、それを放たれた自分はどうしたら良いものか、それが解らなかった。
結局は、そうですか、そうですか、と流され流すしかなかった。強大な敵を作らない事だけは考えていたかもしれない。
霊柩車に飛び乗った。棺と一緒に揺られている。どんな顔をして死んでいるだろうか。
事故直後は白かった肌が土気色になっているのだろう。
自分は死んだ。改めて思うと、情けない溜め息が零れた。
棺を置いて問われる。
「お子さんをご覧になりますか」
「いいえ」
泣いているが本音は丸見えだ。火葬場から二人は去っていく。顔は、まだ演技しているのか、本性を見せているのか。どちらにせよ、中身は解りきっている。
炎が唸りを上げて燃やす。ごみ処理に似ているかもしれない。
暫く見守っていると、随分と呆気無く終わった。また部屋に運んで蓋を開ける。白い骨はもう誰にも誰なのか解らない。
一応骨壷は持って帰ったようだ。後で捨てるだろう、この予想は当たる。
とうとう、滓のようなものになってしまった。
家に帰ってからは、二人の落ち着かない様子を偶に見て、自室に寝転がるのを繰り返した。
調査員が保険金詐欺を見破ってくれるだろう。
精々捕まるなり何なりするがいいさ。化けの皮が剥がれるといいさ。愚か者の末路を考えるしかする事が無かった。
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