私雨奇譚


■-1 私雨

 わたくしは弱い体でした。
 恐らくは欠陥品と呼ぶのでしょう。
 わたくしにとって問題だったのは、その事実ではありません。
 値札を貼られた時。
 通りすがりに買われた時。
 幾度か壊された時。
 幾度か修理された時。
 そして破壊された時。
 そのいずれでも、誰にも知られなかった事なのです。



 わたくしは大量生産された中の一本でした。
 同じ工場で作られたものを、人は兄弟と言いました。
 しかしわたくしは、いいえ、皆がそうではありませんでした。
 わたくし達は全員ひとりでした。
 つまり、大切な友人関係にあったのです。
 わたくしは、そんな中の一本でした。
 残念ながら誰の友にもなれませんでした。



 わたくしを購入したのは偉丈夫でした。
 それから、持ち主であった婦人に手渡されたのです。
 若き婦人は、少々慌て者と申しますか。よく溝へ傘を引っかけたり、体勢を崩して傘へ体重をかける事が多く。
 軋むわたくしは、度々曲がりました。
 人が言うところ、買い換えれば良いのでしょうが、婦人は夫へよく修理を頼んでいました。
 わたくしは、気に入られていたのでしょうか。それとも、ただ単に物を大切に扱うだけだったのでしょうか。
 後者だと解ったのは、二ヶ月後の事です。



 夫妻の間には一人、子がいました。
 その声は玄関にいるわたくしにまで響いて。
 元気なお子でした。
 長いわたくしを剣に見立てて振り回す事もありました。
 婦人はそれをあまり、咎めてくれませんでした。
 確かに振り回せば危ないのです。ですが、わたくしが危ない事までは、どうやら知らないようでした。



 梅雨が明けようとしていた頃でした。
 お子は、わたくしを掴むなり何処かへ走りました。
 息が切れるまで走り続けました。
 周りの景色はよく覚えていません。
 ただ、お子の顔には、憎悪が込められていました。



 骨を幾つも折られました。
 胴も折れ曲がり、張られていた水を弾く布も、引き裂かれていました。
 破壊の後に打ち捨てて、お子は去りました。



 なにが いけなかったのですか
 わたくしは なにをしましたか
 けっきょく
 うしなうものが なにもないまま
 わたくしだけが うしなわれて
 それで おわり なのですか



 激痛の中、気が付くとわたくしは妖になっていました。
 望んで妖になったのでしょうか。いいえ、わたくしはただ、いたかった、此処にいたかったのです。わたくしを愛してくれると信じながら。
 虐殺されてなお、こう思うわたくしは馬鹿者なのでしょう。
 暫くはこの体を憂う事もありませんでしたから。



 わたくしは、あの家を見に行きました。
 玄関には新しい傘が干されていました。
 丈夫そうな傘です。わたくしよりも美しい傘です。
 傘の声を聞く事は敵いませんでした。
 ですが、はっきりと解ったのです。
 あの傘は、私がいる時にあったものだと。



 わたくしは



「う、うあ、あああぁぁぁあああっ」
 気が付くと、わたくしは叫んでいました。するとどうでしょう、偶然にも辺りは暗くなり、酷い雨が降ってきたのです。
「ああああっあああぁぁぁっあああ……」
 傍らで紫陽花が咲いていました。



 わたくしは遠い地へゆこうと思いました。
 もう此処で求める事は無駄だと知ったのです。
 此処で、わたくしは誰も愛せないのでしょう。
 わたくしは全てを、捨て去ろうとしました。



 捨て去るものがありませんでした。



 私雨(わたくしあめ):不意に降る村雨、小規模に降るにわか雨、麓は晴れて山上にばかり降る雨

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