苦しみよ解き放たれ給え


■-1

 あの笑顔が何よりも嫌だと思った。
 本当に嫌なものはその思いだという事実にのた打つ自身を、遠く見ていた。
 今まで触れた何よりも熱く、苦しいものだった。



 いつか同僚の出した話題がきっかけだった。
 いつからか悩んでいるのだが、どうにも本能染みたものが止まってくれずにいる。
 小さな子供と遊ぶのが好きなのだと、そうとだけ捉えられていて良かったと心底思った。だが、それだけであればどんなに楽だったろうかとも思う。
 誰にも相談すら出来ない侭、月日は流れ、その中で限界を超え、尚も堪え忍ぶ。
 どうしてあの子を助けたかったのかなど、思い出したくもなかったのだ。



 冬が終わり、暖かな風が吹く。人々にまた季節が巡った。
 バレンヌ帝国首都アバロンも随分活気が出てきた。
 大きな躍進を続ける麗しの帝国は、栄えていたという昔よりも煌めいているだろう。
 当然裏に潜む闇も、一層深くなっただろう。
 だがそれでも、その闇を含めても、此処は美しい場所だった。



 だらだらと酒場で過ごすのは彼の逃げ道だった。子供の遊び回る昼から家路に就く夕方まで、管を巻かれる事と煙草のにおいに耐えながらではあるが、何も考えずにいられるのは実に有り難い。
 今日も夕方に酒場を出て、詰め所へと帰る。酒はあまり飲まないので、酒場の主人からすれば居座られて堪ったものではないだろう。
 不意に横道から、幾つか物の落ちる音がした。声が聞こえてくる。
「ばーか、引っかかってやんの!」
 子供の声だ。思わず足が止まる。足を止めた時点で、自分は耐えていなかったらしい。振り向いてしまう。
 やはり子供がいた。はやし立てる男児が三人、起き上がろうとしている女児が一人。女児の前方に散らばる本。
 泣くかと思ったが、転んだ子供は声を上げなかった。
「お前みたいなドジが術士なんて、なれるもんか」
 落ちていた本を一人が蹴る。こちらに向かって地面を滑ってきた。表紙を見ると、火の術法の本のようだ。あの子供は術士の卵なのだろう。
「のろまは何処行ってものろまなんだよっ」
 転んだ子供は座り込んで、本を拾う。そろそろ泣くかと思ったのだが。
「大丈夫だもん」
 芯の通った、しっかりとした声だった。
「あたし、諦めないもん」
 それでいて明るい。受ける仕打ちを見ておきながら、日向の人間なのだろうかと一瞬錯覚する。
 転んだ子供の頭を、手加減を知らない子供の拳が殴る。振り下ろされた攻撃に従って子供は俯き、顔を上げない。上げられないのだろうか。
「お前が頑張ったって何にも出来ないだろっ」
 三人の子供が歌うように罵倒を続けた。言葉はぐるぐると回る。ぎりぎりと引っ掻き回る。
 転んだ子供は俯いた侭、何も反応しない。しかしその顔を覗き込んだ子供が表情を不機嫌に歪めた。
「ちぇっ、つまんねーの!」
 どうやら泣いていないらしい。俯いた侭の頭を子供が殴り、言い放つ。
「お前なんか、ゴブリンに喰われちまえ!」
 瞬間、茫然としていた胸中に火が点いた気がした。



「おい其処のガキ共」
 三人が一斉に自分を見る。遠巻きに見ていたこちらには今まで気が付いていなかったらしく、訝しげな目で見られる。濃い暈がまず不気味に見えただろう。
 迷い無く歩み寄ると、三人は後退る。転んだ子供を背にする格好になってから漸く三人が口を開いた。
「何だよ、にーちゃんは関係無いだろー!?」
「いいや、大ありだ」
 言うが早く、帯剣を素早く抜き放ち、三人に突き付けた。
「命懸けの戦いも知らないガキ共。お前達は自分の言った事の意味解ってんのか」
 夕日に照らされ、刀身が赤く染まる。
「……解ってんのか?」
 ぎらついた戦場の目で睨んでみせる。血に濡れた剣、血に濡れた体、三人はそれを察知したのか、表情が怯え出した。
「そういう意味なんだよ! 解ったら二度と言うな、とっとと消えろ!」
 罵声を捨てて三人が逃げていく。怖がられて、疎まれて、これでいい。
 剣をしまう。さて。
 この場を離れなければ。振り向かずに歩いてみようとした。
「おにいさん」
 しっかりとした声が自分を呼び止める。いや、止まったのは自分の意思だ。
 振り返ると、長い黒髪の少女がまだ座り込んでいた。術法の本を抱く手には擦り傷がある。
「ありがとう」
 無垢な微笑みを見ていられなかったが、己の危険性が疼く。目が離せない。
「いや……、あいつらが気に入らなかっただけだ」
 この言い淀みはどう取られただろうか。そうして立ち去ろう、思いはしたが。
「怪我してるな」
 やはり気になり、屈んで服の埃をはたいてやる。はたきながら訊いた。
「術で防護壁張ったり、攻撃術で脅したりすれば良かったのに、どうしてやらなかったんだ」
 子供の黒く大きな瞳には、涙の溜まりも無い。
「そんな事したら、あの子達が怪我しちゃうから。やらなきゃいけないって事じゃなかったし、誰かが痛いのは嫌なの」
 こんな小さな子供が解っていた。力とは何であるかを。力は結局何かを傷付ける事を。そして力を振るう時を、見極めていた。
「でも、お前は痛いだろ」
「あたしは大丈夫」
 笑顔で子供は答えたが、言葉は蟠る。
「あっ、本持っていかなきゃ」
 子供は前方に落ちている二冊目を取り、先程蹴られた三冊目を取りに行こうと立ち上がる。しかし右足が折れて体勢を崩し、転んだ。子供は困ったように笑う。
「……行かなくちゃ」
 無理に立とうとした子供の肩を咄嗟に掴む。
「足、見せてみろ」
 引っかかったと言われていたのを思い出す。子供は「大丈夫」と遠慮したが、もう一度言うと観念して右足を見せた。脛に痣が出来始めている。転ぶ程だ、強かに蹴られたらしい。
 思わず溜め息が零れ、立ち上がって三冊目を取りに行った。本を渡して子供を抱え上げる。
「きゃ……」
 それは純粋な驚きか、恐怖か。
「歩けないんだろ。お前は何処に行きたいんだ」
「術法、研究所に……」
「解った」
 ゆっくりと歩き出す。腕の中のものは軽く、温かく、小さい。
 これで、これで済ませておけよ。己の全てへきつく言い聞かせた。



「あのう、もう此処でいいよ」
 胸を叩かれる。子供の顔を見るな。胸中で言い聞かせ、実行出来た。
 術法研究所正面、魔除けのガーゴイル像の前。醜の御楯となるこのガーゴイル像と自分を比べれば、自分は負けるのだろう。注意深く子供を下ろす。
「じゃあ、気を付けろよ」
 それは自分に対しても。しかしきびすを返す前に子供は言った。
「ありがとう。おにいさん、お名前は何ていうの?」
 無邪気な視線を拒絶したい思いだったが、答えるしかなかった。
「ジェイスン・クラリッスス……俺は傭兵だから忘れておいてくれ」
 いつ死ぬか解らない。身寄りなど無い自分は、死ねば帰る場所は無い。所詮傭兵など減れば足すだけの計算扱いだ。
「大丈夫、忘れたりしないよ。あたし、アメジスト・セレンディア。またね、ジェイスンさん」
 大丈夫と言われて、何が大丈夫なのかと思う自分と、少し嬉しい自分がいる。子供の名前を胸中で幾度も唱えながら、出てきた言葉はこれだけだった。
「……さんはいらない」
 背中を向ける。これでいい、今日最大の苦しみだった。暫くは忘れられないかもしれないが、その内に今まで通り風化するだろう。
 途中、背後から茂みを掻き分ける音がした。
 敵襲かと思い、咄嗟に振り返って背中の槍を構えた。しかし何もいない。音は続いており、遠ざかっているようだ。
 そういえば、術法研究所の頑丈な扉が開閉した音も聞こえなかった。まさか、あの子供が怪物に攫われでもしたのだろうか。悪寒が走る。音が消えた。
 急いで音の方向、研究所横の茂みに飛び込む。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 飛び込んだ足元に隠れるように子供が座り込んでいた。危うく頭を蹴飛ばしそうになり肝が冷えた。
「怪物じゃ、ない、のか……」
 驚きが驚きで済んだ事に二人して溜め息をつく。しかし其処から、膝を抱えて座り込んでいる子供は気不味そうに俯いた。そして気不味さに耐えられず、子供は口を開いてしまう。
「あ……の、えっと……」
 子供の言葉を待ってみたが、自分も気不味さに耐えていて、待つしか出来なかった。
「これは、違うの、だから……気にしないで」
 槍を手にして屈んだ侭で子供を見る。何故だろうか、黒いその双眸に涙が溜まる様子を、食い入るように見てしまう。
「だいじょうぶ……あたしは、だ……だいじょうぶ……」
「大丈夫な訳あるか!」
 火が点いたように声を張り上げてしまう。子供が驚いて体を震わせた。
 恐らく、頻繁にあの子供達にからかわれて、傷を作っては此処に来るのだろう。しかしこれ程強がろうとするのは何故だろうか。
 あの子供達に憎悪を覚えたが、たかが他人の自分に何が出来るだろう。考える時点で自分が深く踏み入っている事には、気付かないふりをした。声の強さを和らげて言葉を続ける事にする。
「いつも、ああしてからかわれて、此処に来てるのか」
「う……うっく、うん……」
 しゃくり上げ、迷いがちにだが子供は頷く。
「でも、でもね……、だいじょうぶ、だいじょうぶって……」
「どうしてそんなに強がるんだ、親には言ったか?」
 子供の顔色が変わる。かぶりを振って、膝の上の手を固く握った。
「おとうさんも、おかあさんも……戦って、凄く、疲れてるから……だから、あたしはだいじょうぶ、じゃなきゃ、駄目なの……」
 両親はいるが、どうやら二人共戦士らしい。そして子供は術士、構ってもらえる時間もあまり無いだろう。
 子供は訴えるように顔を上げて言う。
「あたし、頑張るの、そしたら、そしたら……おとうさんもおかあさんも、なんにも心配しなくて、いいから……だから、頑張って、だいじょうぶじゃなきゃ……」
 ぼろぼろと涙は零れ、語尾は殆ど解らない程に歪んだ。
 小さな子供は、大人達の都合に、必死で合わせようとしていた。か弱い体と心で、広過ぎる世界を歩こうとしている。煌めく美しさの中の暗闇だ。戦いに巻き込まれた幼い子供。直接にしろ間接にしろ、その苦しみは比較するものではない。
 何を思ったのだろう。いや、ただの考え無しだ。
 気が付くと、子供を抱き締めていた。
「もういい」
 子供が苦しくないように、だが強く、掻き抱く。
「アメジスト、もういいんだ」
 こんな子供を巻き込んで、手に入れる幸せとは何だろう。国から見れば小さな事なのだろうが、どうしても見過ごせなかった。
「アメジストが苦しむ必要なんて無いんだ。アメジストが苦しんだら両親はきっと苦しい。アメジストに苦しんでほしくなんかないんだ」
 最後の言葉は一体誰が、だろうか。
 体を離して、子供の頬を撫でる。涙に濡れている顔を見ると、胸の奥がきつく締まる。
「今のアメジストは、大丈夫なんかじゃない」
 子供の顔が歪む。何やら自分まで泣いてしまいそうだった。今度は優しく抱いて、頭を撫でてやった。
「我慢しなくていい、つらい時はつらいって、言っていいんだ」
「……う、う」
「泣いていいんだよ」
「う……うえぇ、うえええん、うわああああんっ」
 声を上げて子供が泣く。自分にしがみ付いて、震えながら泣いている。
 血と欲に塗れた自分が、この子を無事に守れるだろうか。外敵から、自分から。
 守りたい。
 ぽつぽつと湧き上がる意志が独り歩きをしている事は、もう解っていた。



 子供の目は、何度も強くこすってしまった所為で腫れていた。
 太陽はもうすっかり見えない。一体何時間泣いていたのだろう。術法研究所の人々は、子供が来ない事に不安がっているかもしれない。研究所から人が出入りしたかどうかは、注意を払っていなかったので解らない。
 茂みを出て、篝火に照らされたガーゴイル像の前に二人で立つ。お互い顔は見ないが、手を繋いでいる。
「また会える?」
 中にいる術士そのものが武器なので、研究所の前に護衛の兵はいない。二人きりだ。
「ああ」
「……ちゃんと帰ってきてくれる?」
 それは戦士としての自分に言っているらしかった。親が戦士だという事は、運が悪ければ帰ってこない恐怖があるのだ。今までずっと怯えてきたのだろう。
「元気に帰ってきてみせるさ。アメジストも元気でいてくれ」
「うん」
「これからは無理をするんじゃない」
「うん」
 子供の返事が、段々歪んできた。
「親にも、苛めの事はちゃんと言うんだ。隠し事は良くない」
「うん」
「苛めてくる奴らになんか負けるなよ」
「うん」
 手を強く握られる。隣を見ると、もう子供は泣いていた。
 一瞬躊躇したが、抑えられず子供を抱き締めた。小さな肩が震えている。腕の中で、涙に邪魔されながら声を絞り出す。
「いかないで……」
 がむしゃらに腕を掴まれる。頭を小さく振って子供は訴えた。
「うぅっ、ひとりに、しないで、うぅう、いっちゃやだああっ」
 今日一番の大声だった。
 恐らく、誰にも言えなかった一言なのだろう。親にも、もしかしたらあの子供達にも。それを自分に言った。最も言ってはいけない人物だという事は自身が解っている。だが突き放せなかった。
 不意に研究所の扉が開く。子供を探しにでも来たのだろうかと思い、確かにそれは当たっていたのだが。
「アメジスト……こんなところに」
 姿を見せたのは、この帝国の主だった。本来なら姿勢を正して跪かねばならなかったが、自分の中で優先順位が狂っていたらしい。アメジストを抱いた侭で皇帝を見遣る。
「ジェラール陛下」
「大きな声がしたから何事かと思ったよ」
 どうやら最初に泣いた声ではなく、この声が初めて研究所に聞こえたようだ。
「アメジスト」
 子供の目線に合わせるように、皇帝は屈んで表情を窺う。子供は恐る恐る、穏やかな皇帝の顔を見た。
「ジェラール、さま……」
「いつも笑っている君が、泣くなんてどうしたのだい」
「――アメジストは」
 気付いたら声が出ていた。皇帝が名乗りもしなかった自分を見る。引き返せずに続ける。
「アメジストは、ずっと淋しかったんです。甘える事を遠慮して、我慢していたら、周りが心配しなくていいと思っていたんです」
 皇帝は無言でそれを聞き、悲しい目をして、だが優しく口を開いた。
「それを救ってくれたのが、お前なのだな」
「救っただなんて」
 否定しようとしたのだが、皇帝は首を横に振った。
「この子が泣くなど初めて見たのだよ。私の考えも浅かった、この子はまだか弱いという事をすっかり忘れていた」
 この時点で、少々疑問が過る。皇帝が注目する程の子供なのか。
 皇帝は言葉を続ける。
「だが、この子は知っている。強さとは何か、誰よりも知っている。……その強さに勝る者は他にいるまい」
 皇帝の言葉が静かな鋭さを帯びた。ただの子供に向ける言葉ではない。
「お前の名は?」
 言われて初めて自分の失態に気付いたが、何故なのか慌てなかった。そして子供を慰めながら、答える。
「傭兵『水部隊』所属、ジェイスン・クラリッススであります」
「では、ジェイスン」
 傭兵と目線の高さをその侭に、皇帝は告げる。それは願いのように深刻だった。
「如何なる苦しみからも、アメジストを、守ってほしい」
 この皇帝は、知っているのか、いや、知らないだろう、しかし。言ったのだ、自分に。自分が、この子供の苦しみに気付いたからこそ。
 それは何より拷問だった。かと言って、その事を話す訳にもいくまい。そして、守りたい、願う心はもう動き出している。
「はい」
 こうべを垂れて、これから始まる波乱を了承するしかなかった。



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