苦しみよ解き放たれ給え
■-2
最初は、まさか、と声が出た。過ぎてゆく時間の中では不安を覚える。
皇帝ジェラール。今は病床に就いている。医学も発達はしたが、日々ざわついているところを見ると、どうやら駄目らしい。
大いなる力を失くしてこの国が滅ぶのか。いや、違う。ジェラールが定めた、皇帝についての規律が、またおかしなものなのだ。
まず一番に妙なものが、世襲制をやめるという事だ。前皇帝が指名した者が次期皇帝になるのだと。年齢も性別も出身も問わない。全く以ておかしな話だった。では何か、貧民街の者でも皇帝になれるのか。それに返ってきた解答は一言、そうだ、と。
何でも、力を受け継がせる不思議な術があるという。確かにそれを使って七英雄の一人を討った事は有名だ、しかしやはり前代未聞なのである。
そして付随して気になる、配偶者の扱いもまた不思議なものになっていた。配偶者も同じく何も問わない。部下、つまり近親でもだ。しかしその後の扱いは元の身分の侭だという。そして身分を変えられる力を持つのは皇帝だけである。わざわざ名言するあたり、身分を引き上げる事は基本的に無いのだろう。
一種の恐怖政治ではないのか。そんな声もあった。皇帝が絶対であるのは不思議ではないが、まさか自らを崩し始めるとは、誰も思わなかったのである。
「如何なる苦しみからも、アメジストを、守ってほしい」
あの言葉が頭を巡っていた。一体どういう意味で。其処からやっと、まさか、と言葉を見付けた時、戴冠式が開かれるという事実が眼前にあった。
その光景は神秘だった。
何とか立ち上がったジェラールが、次期皇帝に冠を授けようとした時だ。虹の柱が天へ伸び、次期皇帝に降り注ぐ。どのような宝石でも、あの輝きには勝てないだろう。
術の行使で負荷がかかったのか、崩れ落ちたジェラールを、小さな腕が支える。
そして、極めて、異常な程に、冷静な声で。
「誇り高きバレンヌに栄光を」
アメジストの声ではないように思えた。
そうして、自分は今此処にいる。皇帝の私室。本来なら、ジェラールの血を引く者が使う筈だった部屋だ。皇帝家は最早一貴族に成り下がっている。
何を言われるのだろうかと立った侭不安に固まっていると、重厚な椅子に腰かけている小さな皇帝が口を開いた。
「ジェイスン」
名前を呼んだ声は、元の侭のようでそうでなく、何となく違和感があった。
「はい、陛下」
「あたしの守護隊になってほしいの」
それに反論しようとした自分に、皇帝は首を振る。
「ジェラール様がずっと見てたの。実力は充分だから、いいよって言ってくれた。今はあたしにも解るの。あたしがずっと見てたみたいに」
子供離れした柔和な笑み。
「あたしがジェイスンの事好きだからっていう事は否定しないよ。だから余計にジェイスンがいいの」
言われた単語に胸が飛び上がったが、違うだろうが、自分を制する。
「ジェイスン、駄目……かな」
照れ臭そうにそう言ったアメジストは、やはり前の侭で。
脳内が揺れた。
「お申し出、お受け致します」
自分はもしかすると、この国を破滅させてしまうのかもしれない。
どんな日常よりもつらい日々だった。
すぐ近くにいる。会いに行こうと思えば会える。それをしてもいい。してくれと言われたのだ。暇な時でいいから、と。
この条件は常に自分を誘惑した。偶に誘惑に屈して会いに行ってしまう。何もするな、と自制するのが精一杯だった。不眠症で少ない眠りの中で、夢にまで見てしまった日は、ただ絶望するしかなかったのだ。
自分を止められるものは自分しかいなかったが、それがいよいよ瓦解しそうになっている。
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