苦しみよ解き放たれ給え


■-5

 昼の日差しが眩しい。磨き上げられた床が、白く光り過ぎて熱そうだと錯覚する。顔はまともでいられたが、心臓は激しく責め立てるようだった。嬉しさと、怖さと、絶望を以て。
 皇帝の私室に通される。側に付く兵士の目は、やはり恐ろしいものを見るようなものだった。
 皇帝が人払いをする。私室のある二階から出ていくようにと、本当に二人きりにしてしまう。それが最も危険なのだとは、自身がよく解っていた。
 耳鳴りを覚える程に静まり返った室内で、入口に立った侭でいると、皇帝が背中を向けた。
「ジェイスン」
「はい」
「皇帝である前に、あたしは何だと思う?」
 微妙な口調の違いに含まれているものを感じると、悔しさが込み上げた。
 足が前に出る。駄目だ、それ以上行ってはならない、しかし行かなければ。思考は混乱し、体だけが動いた。
「アメジスト」
 答えを呼ぶと、皇帝は振り返る。
 少女の泣き顔があるだけだった。
 義手が体温を持っている事にこれ程感謝した事は無い。あの時、初めて出会った時と同じように、屈んで震える体を抱き締めてやる。
「うえ、ううっ、ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさいいっうわあああんっ」
 何も変わってはいない。皇帝となっても、アメジストはアメジストの侭だった。今まで無理矢理に大人を演じ、小さな心は折れそうになっていた。それを無理に支えていた。
 もういい。今この瞬間だけは、折れてしまっていい。でなければ本当に壊れてしまう。守りたいと願ったのに。



「怖かった……」
 アメジストが腕の中で少しずつ言葉を零す。何もかも自分がしたかのように解ってしまった事柄。宿る二つの魂が自分を動かすような奇妙な感覚。そしてあるが侭にいられない苦痛。
 戦いも、本来なら悲鳴を上げて逃げ出すようなものだった。だというのに思考と体が勝手に動く。自分が何処にあるのか見失ってしまったという。
 一人きりで延々と戦っていたのだ。
「あたし、ジェイスンがいなくなったら、どうしようって思った……。たった一人の、あたしを解ってくれる人が、いなくなっちゃったらなんて、考えるだけで怖かったの。なのに、あんな……あんな、事に……」
 まさに目の前で死にかけた自分を見て、少女は、取り乱す事無く冷静に事を進めた。だが胸中は悲鳴で満たされていたのだ。
「レオン様や、ジェラール様に、やめなさいって、怒られたけど、でも、でもあたしは、どうしてもジェイスンに生きててほしかった……ごめんなさい、自分勝手で、あたしがそうした結果がこれ……。ジェイスンにつらい思いさせて、あたしは酷いよね、ほんとに自分の事しか考えてなかった……」
「違う」
 小さくかぶりを振った。
「違う……、アメジストの自分勝手なんかじゃない」
 アメジストは答えない。
「俺だってアメジストと離れたくなかった」
 ごく自然に出た言葉だったが、言ってしまってから自分に失望する。一番離れなければならない筈ではなかったのか。その欲を満たそうとしたら最後だ。自ら飛び込んでどうするのだ。
「ジェイスン」
 アメジストが見上げて、潤んだ瞳で言った。
「知ってた」
 それはどういう意味なのか。待つしか出来ない。
「ジェイスンが……あたしの事、想ってくれてるの、知ってた」
 一気に悪寒が背筋を駆け上がる。声も出せずにいると、アメジストは緑色の頬に手を遣って続ける。
「皇帝になってから……なんて言うんだろう、恋愛、かな……、そういうのも、何となく解るようになって……。それに、あたしにはレオン様とジェラール様がいるから……二人共、大人の男の人、だから……、あの……、どんな感じとか、あたしにも解っちゃって……」
 それには悲鳴を上げたかった。この汚れた思考も、正しく取られていたのか。何処から何処まで、全てなのか。
「我慢してるって事は、解ったんだけど……」
「もういい。隠さないよ」
 遂に崩れたか。しかしもう遅い。そう思って口を開いた。
「俺は、小さな子供をそういう風に見る奴なんだよ」
 様々な意味を込めて言った。言ってしまった。今のアメジストにならば通じるだろう。体中の力が抜けていく感覚がした。もういい、もうどうにでもなってしまえ。限界だった。
 アメジストが自分を見詰めている。目を逸らさないのは、自分のほうだ。
「それが何だって言うの?」
 どろどろと溶けかけた思考に、冷水を撒かれた気分だった。
「それが何だって言うの……?」
 アメジストが泣いている。
「手術の時だって、生きてくれさえすれば、怪物になってあたしを殺しに来てもいいと思ってた。ただ、側にいてほしかったの。あたし、こんなに我儘なんだよ?」
 アメジストが両手で頬を支える。潰れた肉刺が、戦いに手を染めた証だった。
「あたしの大切な人はジェイスンだけ。それは変わらない。ジェイスンしかいないの……」
 ひと時の重なり。
 その温もりに、視界が滲む。大粒が頬を伝う。
 全てを解ってくれていたのだ。
 苦しみから守られたのは自分のほうだった。
 無様を晒した。自分を受け入れてくれた優しさ。許してくれた優しさ。愛してくれた優しさ。全てが愛おしかった。
 だから正直に伝えようと決意出来た。
「愛しています、アメジスト……」
 アメジストは、可愛らしく微笑んでくれた。



 この身が獣と化したなら。
 牙で敵を食い千切ろう。
 爪で困難を引き裂こう。
 薄汚れた獣にもそれくらいなら出来るのだ。
 帰る人のある限り。



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