賛歌を紡げぬ貴方へ


■-1

 逃げなければならなかった。
 恐ろしいからだ。
 その嫌悪と恐怖は、誰のものだったか。



 広がる光景に背後が驚く中で一人、動いてもいない胸に痛みを感じた。
 作られた空、久しく目にしていなかった灰色に動揺している。それらが世界樹に覆われる前を、己の過去を、否応無く引き摺り出された。ビルの山々が金切り声を上げるような錯覚に陥る。
 明滅する光景を煩わしいと思う余裕すら無かった。仲間から呼ばれている事にすら気付けない。
 体の奥底で軋む音がした瞬間、時間が無いと悟る。思考が揺れる。
 思わず走り出していた。
「えっ、何!?」
 フィエッセが伸ばした腕をすり抜けたが、果たして本当にすり抜けてしまわなかっただろうか。
「フレイアルト!」
 止まらない姿にレイノルエの怒号が突き刺さるが、速度を緩める事は無かった。走るその脇に魔物の姿が見えたが、それすら無視して距離を離していく。
「待って! どうしたの!?」
 ウルコールの問いかけは魔物の向こうに届いてはいたが、答えは無い。キルキルが苦い顔で戦闘補助の歌を歌い、立ちはだかる未知の魔物との戦いを開始するしかなかった。



 全身が軋む。ある時足から折れる音が響き、もつれて転ぶ。地面へ手を突こうとした瞬間、腕も折れた。
「待って」
 少しも待たずに体が崩壊する。
「ああ……」
 もう逃げられない。



 まだ遠くには行っていないと予想し、注意深く歩を進める。しかし分かれ道に差しかかったところで迷い、進路を決められずにいた。
「あっちから、血のにおい……」
 人間よりも感覚が鋭敏なキルキルが右手を指差し、四人で右の道を進む。やがて床に少量の赤い雫を見付け、追うと徐々にその量が増えていった。そうして曲がり角の向こうに血溜まりが見える。
 最悪の状況を誰もが浮かべながら、角を曲がった。



 悲鳴を上げたのはやはりフィエッセだ。済まない思いさえ抱いてはいけないのだろう。
「あーあ……」
 落胆した声を発した事に仲間達が驚き、駆け寄ろうとしていた足を止める。首の骨が引き摺り出されている状態で声を出せる筈も無い。
「ウルコール! ネクタル!」
 動揺する中で辛うじてレイノルエが指示を出すが、フレイアルトの折れた腕が制するように動いた。
「いえ、いいんです。今、ちゃんとします」
 言い返そうとしたレイノルエの口が半開きの侭で止まる。眼前にいる死体は、瞬く間に見慣れた姿へと戻った。血に沈んでいた体を起こして深呼吸すると、血の一滴も残らず消えてしまう。
 フレイアルトは微笑む。困惑している仲間の眼差しを受けて尚、普段通りだった。
「帰りましょう。皆さんにお話しします。全部」



 やってしまった。落胆こそすれど、初めから解ってもいた。
 別れさえすればまた元に戻る。それだけだ。
 だからこそ絶望は無かった。



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