甘い果実の不味いことよ
■-1
ある日読んだ図鑑の説明で、物心付く前から側にいた存在が嫌いになった。
それは身勝手だろうと自責の念を覚えた事もあったが、最後には疑念が全てを圧倒するに至る。
疑念は解消される筈も無い。言葉が通じない存在の胸中を正確に知る事など不可能だ。頭から被った手触りの良い毛布の中の自身のように、にこやかな仮面の下にどす黒さを抱えているとしか思えない。
階下、自身の部屋から鈴の音のような鳴き声が聞こえた。大方、夕飯が出来たと呼びに来たのだろう。
屋根裏部屋に続く階段をサイコパワーで無理矢理下ろせるだろうに。その毒突きさえ胸焼けがした。
イエッサンというポケモンは謎が多い。
良い感情を求めて他者の世話を焼くというが、それが何の為なのかはまだはっきりと解明されていないようだ。少なくともイエッサン自身には良い影響をもたらすのだろう。
それが大層疑念を呼んだ。自身の利益の為に他者をおだてる存在としか思えなくなり、それを否定する材料も無い。
毛布を抜け出し、屋根裏部屋に設置されたハンドルを回して階段を下ろす。一段ずつ下りる度に空腹が刺激され、同時に虫の居所が悪くなった。終着点で待ち構えている微笑みが邪に見える。それを素通りして食卓へ向かう。慌てて追いかけてくる雌のイエッサンを、もう見向きもしなかった。
母親から毎日のように小言を言われても考えは変わらない。しかし今日はやけに小言が長かった。
「訳も解らないで無視される気持ちも考えてみなさいよ」
「知らない」
苛立ちから珍しく応じてしまった事に反応してか、普段は厳しい目線しか寄越さない父親が口を開く。
「サイコパワーを使わない理由も解らないか」
「知らない!」
舌打ちを口に運んだスプーンに託して乱雑に置き、席を立った。実際は満腹にも程遠かったが、この場から離れる言い訳とするには充分だと思いたいだけだ。
去り際に視界へ入ってしまった、こちらを見てくるあの大きな目がやはり忌まわしい。
腹が減り、苛立ち、しかし後悔は無く、ただ不満だけが腹の中を不愉快に巡っている。
ベッドで何度も寝返りを打ちながら、あのイエッサンがサイコパワーを使わない理由について考えそうになり、堪らず頭を乱暴に掻いた。考えたくなく、気にしたくもない。
乱れた髪を直しもせず、ふと向かいにある机を見る。以前は家族四人で写った写真を飾っていたが、疑念を感じた頃に写真立てを伏せてその侭だ。そして家族四人だと今でも思っている自身が徐々に腹立たしくなる。
疑念の作る混沌の中で、いつの間にか訪れた眠りだけが救いだった。
休日の殆どは両親の計らいでイエッサンと共に留守番をさせられ、今日もそうだった。屋根裏部屋に行く事は禁じられたが、言い付けを守る気はさらさら無い。今回も毛布に包まってひたすら時が流れるのを待つ。退屈だが、共に過ごすよりは遥かに良い。
ふと、スマホロトムを階下の自室へ置き忘れてしまったのを思い出す。仕方無く我慢を選んだのも束の間、退屈の重さに耐えられず毛布から這い出た。
天井から階段を下ろすハンドルを握って回し、それが少し固いと感じた瞬間だ。甲高い異音を立て、次にはハンドルが異様に軽くなる。幾ら回そうが空回りするだけで、階段は一向に下りる気配が無かった。
閉じ込められた事実を一拍置いて理解し、途端に血の気の引く感覚がする。一生出られない訳ではないのだが、すぐさま迫ってくる危機感は恐怖と焦りをもたらした。
其処に微かな鳴き声が聞こえる。先程の大音は家中に響いたらしく、心配を装い階下へ来たのだろう。
助けを呼ぶならば今だが、忌々しさがそれを許さない。鳴き声はやがて屋根裏部屋へ向かって発せられるようになった。この感情を受信して事態を察知したのだろうか。
それはとても惨たらしく思えた。
「開かないんだよ」
聞こえるかどうかの配慮など無い、鈍重な声が出る。
「解ったら向こうへ行ってよ」
言葉からは静かになった。しかし暫くするとハンドル部分が仄かに光を帯び、独りでに階段が動き出す。力の正体がイエッサンのサイコパワーであるとはすぐに解り、遂に怒りは頂点に達した。
罵倒の出かかる口をまだ開かずに、階段を急いで下りる途中で気付く。イエッサンは部屋の出入り口で顔だけ出してこちらを窺っており、向こうへ行けと言われた事は守ろうとしたらしい。
「何だ、よ――」
語尾が宙に浮いたと気付く前に足を踏み外していた。
しかし衝撃は来ず、悪寒が遅れて来た頃にいつの間にか閉じていた目を開ける。自身の体は空中で止まっており、燐光が覆っている。
出入り口でイエッサンが震えていた。
「……落としていいよ」
その言葉を皮切りに、長らく喉に蟠っていた言葉が遂に溢れ出てくる。
「いい感情なんて無いんだから、得なんて無いんだから……、その為だけに此処にいるんでしょ、さっさとどっか行け!」
言い終わりと共にゆっくりと降下し、サイコパワーが切れた。イエッサンは顔を引いており姿が見えない。しかし少ししてから何かが床にぶつかる音が響いた。弾かれたように立ち上がって走り出し、廊下を見るとやはりイエッサンが倒れている。
「え……、ちょっと!」
駆け寄って軽く揺するがイエッサンは目を閉じた侭動かず、魘されているように何事かを呟いていた。
焦る思考でどうすべきか考え、やはりポケモンセンターだろうと結論を出す。安全に運ぶ為にイエッサンを登録したモンスターボールを探すが、長らく使っていなかったボールが何処にあるか探し当てられない。業を煮やしてイエッサンを背負うと、一目散に走っていた。
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