甘い果実の不味いことよ
■-2
治療の手続きの後に待合室のベンチへ腰かけた頃、センターの職員がイエッサンについて伝えに来た。
「心身かなり疲労していましたが、心当たりはありませんか?」
「さっきサイコパワーで、階段から落ちかけたのを……助けてもらいました」
最後の言葉を口にするのも嫌悪感が募り、自覚しながらも砂を噛むような表情になってしまう。
「体についてはそれが原因かもしれませんね。では、心については如何でしょうか」
「そんなの解りません、見えないじゃないですか」
吐き捨てるような言葉がやけに胸を悪くさせ、顔を俯かせた。職員は一呼吸置いて、タブレットを取り出して操作する。
「イエッサンについてのポケモン図鑑を見た事はありますか?」
顔を上げると、タブレットに映し出された忌々しい説明文が見えた。
「あります……これで、イエッサンが嫌いになりました」
「それはどうして?」
「いい感情の為だけに、都合良く誰かの世話してると思ったから……」
どす黒いものが確かに見えたあの瞬間を思い出しながら、初めてこの事を人に話したのだと気付く。
職員はタブレットをしまい、一つ頷く。
「それもあるかもしれません。けれど、そうではないかもしれません。イエッサンの事はイエッサンだけが知っていますし、イエッサンみんなが図鑑説明の通りではないかもしれません」
「でも……」
靄がかった胸中で考えるが、認めたくないのは何故なのか。
職員は話を続けた。
「貴方はさっき、心が見えないものだと言いましたね。その通りですが、心は形を変えて目に見えるものにもなります。表情や涙、体の好調、不調にさえも。イエッサンの他にも感情を受け取る力を持つポケモンはいて、とても強い感情や負の感情を受けると倒れてしまう事もありますが、負の感情で疲れてしまうのは人間だって一緒です」
「じゃあ、心の疲労って……、そんな……」
長く負の感情に晒され、イエッサンはその実疲弊しきっていたのだろう。人間相手でもこうなっていたかもしれないと、人間とポケモンで何も変わらない事を思うと、自身が何と愚かなのかを思い知る。膝の上で拳を作り、わなないたところでもう遅いのだろうとも。
職員は震える背を撫で、そっと告げる。
「良い感情を求める事と、誰かを好きになる事は別物です。だから貴方の側にいるんだと思いますよ」
そうして手で示された方を向くと、イエッサンが怖ず怖ずとこちらへ歩いてきていた。席を立ち、目の前まで来た小さな存在に手を差し出す。
「……帰ろ」
繋いだ手がまだ遠い。しかし温かかった。
家へ帰ると両親から叱られたが、素直に謝る事が出来たのは自身でも不思議だった。その中で父親へ尋ねてみる。
「前に言ってた、サイコパワーを使わない理由って、何?」
すると父親は、何処か遠くを見ながら口を開いた。
「お前が赤ん坊の頃、サイコパワーで浮いたおもちゃを見て大泣きしたんだ。手であやしたら途端に泣きやんで、それからだな、使わなくなったのは」
イエッサンにも多少の衝撃があったのだろう。その小さな棘は今にも繋がり、それでも側にいる現実があった。
自室の机に腕を乗せて伏し、何をする訳でもない時を過ごす。
ふと伏せていた写真立てが目に留まり、埃を払って起こしてみた。両親とかなり幼い自身と、イエッサンが写っている。旅行先で撮ったらしいが記憶には無い。
しかし写真だけで解る。落ち着きの無かった自身はカメラへ目もくれずにイエッサンと遊びたがっており、イエッサンはそれに優しく応じていた。
ぼんやりと写真を見ていると、部屋のドアがノックされる。続けて聞こえた遠慮がちな声に急ぎドアを開けると、やはりイエッサンがいた。手には櫛形に切った林檎の入った皿を持っている。それを置いて立ち去ろうとしたイエッサンを、気付けば呼び止めていた。
「いいよ、入って」
皿を持ち直し、イエッサンは恐る恐る部屋に入る。見慣れない場所のように辺りを見回し、ふと視線が留まった先にはあの写真があった。
写真を見詰めるイエッサンの持つ皿から、林檎を一つ掴み取る。一口目は甘かったが、食べ進める間にどうしようもなく不味くなった。その味を噛み締めながら、もう一つ林檎を手に取ってイエッサンへ差し出す。
「今まで、ごめん」
茫然としていたイエッサンが林檎にかぶり付いたところで頭を撫でてやる。
「しょっぱいよね」
文字通り鈴を転がすようにイエッサンが笑った。
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