オトモさんとハンターくん
■-1
寒い。
温泉の力でもこの寒さは回復出来なかった。
ネコバァへ斡旋を頼んだのは一体どれ程前の事か。
雇い主に解雇されたのは一体どれ程前の事か。
どちらももう忘れてしまった。雇い主の顔も思い出せない。
「ミスしないのがレアなんだな」
これを最初に言ったのも誰だったのか。
意気が消失した跡には寒気だけがある。
寒く、寒く、寒く、酷く眩暈がした。
まず意識が途切れていた事に気付き、次に見知らぬ場所にいる事に気付いた。
寝ていたのは獣人族の自分の体には大きなベッドだ。恐らく人間用のものだろう。額には生ぬるい濡れタオルがある。先程まで温泉に入っていた筈だが、あるところから記憶が無く、妙に体が重い。
横たわった侭、ゆっくりと辺りを見渡す。明かりに照らされた室内は生活感があり、誰かの住まいのようだ。
ふと、出入り口に設置された蚊帳が上がる。
「あ!」
入ってきたのは人間の男だった。こちらに気付くや否や走り出そうとして、持っていた桶の水を少し零す。それに慌てながらも傍らに来ると、屈んで顔を覗き込んできた。髪と同じ榛色の瞳は人懐こそうに見える。
「気が付いたんですね、良かった」
敬語を使われる事に違和感を感じるが、それを気にする程の思考がまだ無い。
「此処何処ニャ……、ボクはどうしたニャ……」
「ええと、此処は俺の家で、貴方は温泉でのぼせてました」
感傷に浸りすぎたのか、考え事をしている間に意識を失ったようだ。
「そうだったのニャ……」
「はい。あっ、飲み水持ってきますね」
男が背を向けて寝室を出た後、少しして水を汲む音がこちらまで届く。渇ききった喉がその水を欲していると、無様な自身に呆れて出た吐息の熱さでよく解った。
戻ってきた男は、竹製の小さなコップを差し出す。丁度飲みやすい大きさであり、何故この大きさのものが此処にあるのかと考えはしたが、まだそれだけだった。
「どうぞ。ゆっくり飲んでください」
額の布をのけ、ふらつきながら身を起こしてコップを受け取る。言われた通りにゆっくりと飲むが、気付けば一度も口を離さずに飲み干していた。
「ぷはぁ……、生き返るニャア……」
目を細める自身を見て男が安心したように微笑んだ。其処で漸く正常な思考が戻り始めたようで、まだ礼の一言さえ告げていないと気付く。
「あっ、ありがとニャ。助けてくれてなかったら、今頃茹でメラルーだったニャ」
「メラルーさんなんですか? 真っ白なメラルーさんもいるんですね」
敬称を付けられる事に驚いたが、悪い気はしない。
メラルーは基本的に黒い毛並みを持っているが、自身は尻尾の先に黒のポイントが入っている以外は白い毛並みだ。白い毛並みを持つアイルーと間違われても不思議ではない。
「そうニャよ。あんまりいないみたいニャけど。ところで、あなたはなんであそこにいたニャ? ボクは集会所の温泉にいたニャよ」
あの場所の温泉にはあまり一般人は来ない筈だった。自身も一般人にほぼ近い、その事実は一旦置いておく。
すると男は困ったように笑った。
「俺はハンターですから。って言っても、此処に来たばかりの卵ですけれど」
ハンター向けの施設を見て回る中で集会所にも来たらしい。納得する一方、ハンターとの単語を聞いて再び寒気が忍び寄るのを知る。コップで気付かなかった己が愚かだったのだ。
「……ボク、もう帰らなきゃいけないニャ」
寒気に耐えきれず、思わず言葉が零れる。
「もう少し休んでいかなくて大丈夫ですか?」
「だいぶん楽になったから大丈夫ニャ。ありがとニャ」
「そうですか……、気を付けて帰ってくださいね」
風呂の脱衣所に置いた服を取りに行かねばならなかったが、寝台を降りると男が側に置いていたそれを差し出した。乱雑に脱衣用の籠へ放った筈のものは几帳面に畳まれている。
服を着て、半ば逃げ出すように男の家を出る。単に急いでいると思われたのか、一度振り返ると男は入り口で嫌な顔一つせずに見送っていた。
暫く歩いて、ふと立ち止まる。
夜のユクモ村は月明かりが温泉の湯気に烟り、神秘的だが何処か不気味さも感じられた。負の要素を感じるのは自身の心が原因だろう。今はあまり寒い時期でもないが、寒気は胸の内にまだ残っている。
帰らなければと男には告げてしまったが、果たして斡旋所の宿舎は帰る場所なのだろうか。そう思えない自身がいる。
「恐怖症ニャね」
自嘲が漏れた。ハンターを恐れ、その恐れを無くそうと次のハンターを探し、だがハンターを避けてしまう。矛盾を抱えている自身は呆れる程に、他人事のように愚かだった。
そして胸の内には欠片程度、別の感情がある。あの、ハンターの卵だと言っていた男を思い出す。
「……名前、聞いてなかったニャ」
何故これ程に惜しいと思うのだろうか。
此処を拠点とする準備もほぼ整った。ハンターとしての新生活を始める準備の仕上げをせねばならない。
オトモと呼称される、相棒となる獣人族の斡旋を担当しているネコバァの元を訪ね、リストを閲覧する。
「色んなオトモさんがいるんですね」
告げると、そのような穏やかな雇い主は珍しいと言われる。意外さに首を傾げつつリストを確かめた。
やがてリストを見終わり、ネコバァに一つ尋ねた。
集会所へと続く石段の途中に座り、半日程を過ごす。慣れた事だ。
項垂れた自身に興味を抱く者もいない。通行人もいつもの事だと思っているのだろうか。
今日も虚ろに終わる。誰かにその繰り返しを止めてほしいが、望むだけ無駄だとは理解し、理解だけが漂っていた。
「――さん、ミスレアさん」
「ニャッ!?」
聞き慣れない呼び声に驚いて顔を跳ね上げた。目の前には、石段にわざわざ屈んで目線を同じにした一人の男がいる。
「あなたは、昨日の……、の……」
名前が解らず言い淀んだ。それを男も察したのだろう。
「ごめんなさい、自己紹介も出来なくて。アシュナといいます」
「あ、アシュナさん、なんでボクの名前を知ってるのニャ?」
驚きに任せて問いかけてしまったが、すぐに付け加える。
「あと昨日ボクも名乗り忘れたニャ、ごめんなさいニャ……」
「いえ、それは気にしないでください。貴方の名前は、ネコバァさんのリストで知りました」
「ニャ!?」
告げられた事実へ飛び上がらんばかりに驚いた。ハンターの卵となれば、オトモの雇用もハンター生活の重要な準備の筈だ。
「それでですね。ミスレアさん、貴方を雇いたいんです」
言葉が片耳から片耳へ通り抜けてしまいそうな感覚だった。
「裕福じゃないし、強くもないんですけれど……。お願いします」
そう告げてから、アシュナは跪いた侭で深く頭を下げる。その光景は毛の逆立つ驚きしかない。
「ニャニャニャニャ! そんな簡単に土下座なんてしちゃいけないニャ!」
慌てて前脚で頭を押し上げると不思議そうな顔が見えたので、何も疑問に思っていなかったらしい。
「頭の中ぽかぽかなのニャ……」
つい皮肉が零れてしまったが、いつの間にか心配の念を抱いている自分にも気付く。
「ボクの事、ネコバァさんからちゃんと聞いたのかニャ」
心配から尋ねてしまう。アシュナは間違い無く善人だ。だからこそ失敗してほしくない。失敗の元となる自身などが、アシュナの許へ行ける訳が無い。その思いがアシュナを直視出来なくさせ、また項垂れるしかなかった。
「大体は聞きました。ネコバァさんにも、お勧めしないって言われました」
「じゃあどうしてボクを……」
驚いて顔を上げると、ともすれば柔弱にも見えたアシュナの、鋭さの乗った真剣な顔付きが見える。
「ミスレアさん、諦めたら駄目です。俺が出来るかどうか解らないけれど、でも、やってみないよりずっといいと思いませんか」
アシュナの言葉が胸の内へ響くが、それはあくまでもミスレア自身の事情でしかなかった。
「それじゃあなたが損するニャ」
「損しません!」
強い語調に思わず怯み、それでも目を逸らす事が出来ない。
「ミスレアさん、そういう風に心配してくれてるじゃないですか。ミスレアさんは悪いひとじゃないって、俺が信じたんです。だからお願いします、俺の事信じてくれませんか」
「ニャ……」
胸中に恐れと迷いが寒々と漂う。これを晴らせるように、晴らしてくれる人を探していたというのに、そうして逡巡する自分へ告げられる。
「俺は、縁起がいいお名前だと思いますよ。失敗無さそうじゃないですか」
遠い昔聞いた言葉が、温かな希望をくれた。
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