ロミオとジュリエットの悲劇


 


 あぁ、またかって思うんだ。
 暗い水面に歪んだ月が写っている。そのすぐ側で浮かぶ人をオレは知っている。
――さんっ」
 微動だにしないその人に手を伸ばす。
 だけど、水底の泥に足を取られて思うように進めない。
 そうしているうちに、海の青にその人から流れ出た赤がにじむ。混じって溶け合って。
――うたろうさん」
 焦り、叫ぶ。あと少し。あと少し近くに行けたら。きっと助けられる。
「承太郎さんッ」
 この手が届けば。
 この手さえ。

 頬伝う涙の冷たさに仗助は瞳を開けた。薄暗い天井にまだ夜が明けていないことを知る。仗助はまだ暴れる心臓を落ち着かせるように息を大きく吐く。
 大丈夫。あれは夢だ。時々、見る変な夢。
 あの人がそう簡単に死ぬはずがない。
 仗助は自分に言い聞かせる。
 久しぶりに声を聴いたから、おかしな夢をみたに違いない。
 もう昨日になる話だろうか。一九九九年の夏以来、影も形もなかった甥から電話がきた。
 受話器を取った仗助に承太郎は元気かと尋ねるとすぐに用件を告げた。
――明日から杜王町にしばらく滞在する。
「ええっ」
 驚く仗助に対して承太郎は落ち着いた口調で到着時刻を教えてくれた。そして「じゃあな」とだけ言って電話を切ってしまった。口を挟む間もない。
「まったく」
 仗助は無機質な音が流れる受話器を見つめた。
 だが、言葉とは裏腹に仗助の心はうきうきと弾み始めていた。
 あの人の白い背中を思い出す。一緒にいた期間は短かったが、仗助の心にはその印象が強烈に焼き付いていた。
「マジにカッコいいよなー」
――でも、オレだってよー。承太郎さんが去ってから何もしていなかったわけじゃない。
 受話器を握りしめる。
 スタンド使い同士は引かれあう。多くのスタンド使いが滞在するこの街は望まなくてもスタンド使いたちを引き寄せてしまうのだ。夜の虫たちが街頭に群がるように。その中にはもちろん害虫も紛れている。
 仗助たちがいわゆる「害虫退治」に乗り出した回数は少なくない。承太郎にはまだ及ばないが、仗助だって成長している。
「逞しくなったな」と承太郎に褒められる自分を想像して頬が緩む。
――早く会いたいぜ。
「なにニヤニヤしているのよ」
 突然、背後から声をかけられて仗助は飛び跳ねた。
「お、驚かすなよ」
 振り返ると母親が立っていた。彼女は仗助の顔をじっと見つめると、思わせぶりに頷いた。
「なんだよ」
「仗助〜。あんた、好きな子から電話でもかかってきてたの?」
「ハァ?」
 どうしたらそんな勘違いができるのだ。
「あら、隠さなくてもいいのよ」
 得意げに笑う母親に仗助は肩をすくめる。
「なによ。生意気な態度ね。小さい頃は大好きなオモチャを“おれのっ”て言って離さなかったくせに」
 その後、仗助は朋子から延々と幼い頃の恥ずかしい行動を話され続けたのだった。

 仗助はそこまで思い出してげんなりした。忘れようとベッドの中へと潜り込む。再び瞼が重くなる頃には不思議な夢のことなど記憶からすっかり消えていた。

◇◆◇◆◇

 確かに早く会いたいとは思った。思ったが。
「だからってよー何も駅まで迎えに行く事はねーじゃねーか」
「ん、何か言ったか? 仗助」
「いや、なんでもねぇーよ」
 仗助は首を振る。寂れた改札の向こうにまだ電車の姿は見えない。
「それにしても暑ちーな。アイスでも買ってくるか」
「億泰くん、行く途中でも食べてたじゃない」
「かてーこと言うなよ、康一」
 呑気な友人たちの会話に仗助は頭を抑える。
 やはり来るべきではなかったかもしれない。
 仗助は自分たちを客観視してみる。並んで立って今か今かと承太郎さんの到着を期待している。まるで出張帰りの父親を待っている子供だ。めちゃめちゃ格好悪い。
 こんな姿を見られたらガキだと笑われてしまうのではないだろうか。
――冗談じゃねー。
 その時、踏切が鳴る音がした。轟音を立てて電車がホームへと入ってくる。
「承太郎さん、乗ってるかなぁ」
「早く会いたいね」
 億泰と康一が改札を見守る中、仗助は背を向けた。
「やっぱオレ、」
 帰るわ。そう言いかけて言葉を止める。首の付け根にちりちりと電流が走った。咄嗟に仗助は星型の痣の上に手を置く。
「承太郎さん」
 康一の弾んだ声が響く。続いて億泰の声も。仗助だけが中途半端な姿勢のまま固まっていた。
「元気にしていたか」
 耳に届く低い声に懐かしさがこみ上げる。こんな風に話す人はこの街のどこを探したっていない。
 仗助は振り返った。
 白いコートが光を反射して目に焼きつく。日本では滅多にお目にかかれない長身も相まってその姿は周囲から浮き上がっているように見える。
「承太郎さん」
 精悍さを感じさせる眉も通った鼻筋も長い睫毛に縁取られた瞳の色も一年前と少しも変わっちゃいない。しかし、その頬に小さな傷を見つけて仗助は手を伸ばした。
「なにやってるんスか、無敵のスタンド使いが」
 この人は今も仗助の知らないところで闘っているのだろうか。微かに胸が痛んだ。
 承太郎の真っ直ぐな瞳がそんな仗助を写す。
「クレイジーダイヤモンド。相変わらず頼りになるスタンドだな」
 傷がなくなった頬に触れながら承太郎は言った。その目がほんの少しだけ柔らかい光を宿している気がして仗助は鼻を掻いた。
「まぁ、承太郎さんが元気そうで良かったっス」
「お前たちも、な」
「そうだ。聞いて下さいよ、最近の話なんスけど新手のスタンド使いが――
 勢いよく話し始めた仗助だったが、承太郎の隣に立っている人物に気がついて言葉を止めた。柔らかな栗色の髪に優しそうな目をした男。知らない顔だ。左手は怪我をしているのか包帯が巻かれている。
「あのースミマセン。誰ッスか?」
「承太郎さんの知り合いか?」
「すみません、ぼくたちだけで盛り上がってしまって」
 仗助、億泰、康一が口々に喋ると彼は緩く首を振った。
「こちらこそ自己紹介が遅れてすまないね。僕は空条先生の助手、いや弟子って言った方が正確かな」
「えーっ。承太郎さんて先公だったのかよ」
 驚く億泰に承太郎はため息をはく。
「そんなモンになった覚えはねぇ。こいつが勝手に呼んでいるだけだ」
「以前、僕のいた大学で空条先生が講義をしてね」
 あの講義は伝説になってる、と言う彼に承太郎は渋い顔をした。
「断れねえ義理でやっただけだ」
「いたく感銘を受けた僕は卒業してすぐに彼の所に押しかけたというわけ」
「やれやれだぜ」
 なんとも無茶苦茶な話だ。
「僕のことはもういいでしょう。それよりもそろそろお昼にしませんか」
 彼は仗助たちへ視線を滑らす。
「子供たちもお腹が空いているでしょうし」
 ガキ扱いにムッとした仗助だったが、億泰がガッツポーズを決めていたので黙る。実際に腹が減っていたのは事実だった。
 承太郎と助手の男を先頭にそれぞれ歩き出す。
 仗助の隣に並んだ康一が囁く。
「なんだかえらい慕われているみたいだね。承太郎さん」
「そうだな」
 当然だ、と仗助は思った。歳上の甥といると仗助だって誇り高い気持ちになる。
 しかし。
 仗助は前を行く承太郎を見る。白いコートをたなびかせて歩くその横に寄り添うように助手の男が並んでいた。それはあまりにも自然で、一枚の絵画を思い起こす。
 胸の奥でさざめくように感情が揺れる。
「仗助くん?」
「オレ、ちょっと承太郎さんと話してくる」
 仗助はぴしゃりと頬を叩くと地面を蹴って駆け出した。そのまま、前を行く二人の間に強引に割り込む。
「なーに奢ってくれるんスか?」
「君が仗助くんだね」
 突然やってきた仗助に驚くでもなく、助手の彼は笑顔を作った。
「話は聞いているよ。物を直すスタンド使いなんだってね」
「あんた、まさかスタンド使い?」
 仗助は反射的に身構える。
「いや、こいつは」
「残念なことに僕はスタンド使いじゃあない」
 承太郎の言葉を遮って助手の男は言った。
「でしょうね」
 仗助はニヤリと笑った。
「オレのクレイジーダイヤモンドが見えなかったみたいっスから」
 相手が目を見開く。
「まさか」
「治しておきましたよ、その手」
 仗助の言葉に男は自身の左手を見つめる。一呼吸置いてゆっくりと包帯を巻き取っていく。 白く男性にしては細い手が露わになる。開いたり閉じたりを彼は繰り返す。
「すごい、本当だ」
 ひとりしきり指を動かした後、彼は仗助へと向き直った。
「ありがとう。素晴らしい能力だ。短い間だけど、改めてよろしく」
 男が右手を差し出す。
 一瞬だけ躊躇ったのち、仗助も手を差し出した。
「こちらこそよろしくッス」
 握った手は夏にも関わらずひんやりと冷たかった。


2017/07/15