あれから一睡もできなかった。
どんよりとした気持ちで仗助は空を見上げる。仗助の気持ちを代弁するように今日はギラギラとした太陽はなりを潜め、灰色の雲が空を覆っていた。
仗助は眠い目を擦る。冴えない天候で良かった。今の状態で強烈なあの日差しをくらったら、吸血鬼のように塵となっていたかもしれない。
「仗助くん、そっちにいた?」
前方にいる康一が振り返る。
「いや、いねーなー」
欠伸を噛み殺しながら仗助は応えた。今日のバイトは海でナントカという生物を探す事をだった。だからこうして膝下まで海に入って波に流れては戻る砂を眺めている。
そもそもそのナントカという生物がどんなものか仗助は知らない。
最初に承太郎が皆に説明してくれたのだが、仗助の神経は承太郎のくちびるの動きだけに向けられていた。
承太郎さんが変な事を言ったせいだ。仗助は心の中で頭を抱える。
試してみるか。なんて。想像してしまったではないか。長い睫毛を伏せて。自分に顔を寄せる彼の姿を。
「あーーー」
生々しく再生された映像に仗助は叫ぶ。
「仗助くん、どうしたんだろう?」
「なんか変なモンでも喰ったじゃねえの」
康一と億泰が話す声が聞こえるが、反論する気力もない。仗助は顔を上げ、熱心に海中を覗き込む甥を睨んだ。
あんたのせいだからな。という恨みをこめて。
長身を屈めた承太郎が何かを拾い上げる。彼はそれを手のひらに乗せた。ヒトデのようだ。承太郎はそれを色んな角度から眺め、指先でちょいとつつく。それから少しだけ笑った。
仗助は胸を押さえる。手の下で心臓が激しく脈打つ。
どうしてこんな。
「空条先生」
仗助の背後から足早に助手の男が承太郎に近づいていく。承太郎の持つヒトデを指差して真剣な顔をして話し合う。そして、二人は視線を合わせて頷いた。
仗助は顔を背けた。そうしている間に康一も億泰も承太郎の周りに集まっていく。自然と彼らのはしゃぐ声とは反対に足が動いた。行く先もわからないまま歩き続ける。見えるのは依然として灰色の空だけ。
何故か太陽が無性に恋しかった。
どれほど歩いただろうか。承太郎たちの声はもう聞こえていない。前方に広がる景色も変わり、ゴツゴツとした岩場が続いている。仗助はそこに乗り上がってできている小さな水たまりを覗き込んだ。小さなカニたちの姿が見える。
「へえ」
仗助は捕まえようと手を伸ばす。しかし、彼らはさっと逃げ出して姿を隠してしまった。あっと言う間もなかった。ちぇっと舌打ちをする。
それから仗助は岩場の上を行ったり来たりした。ヤドカリの新しい住処を見つけてやったり、綺麗な貝殻を並べてみたり。
波の音を聞きながら懐かしいなと仗助は思った。幼い頃、祖父と母と三人で海に来たことを思い出す。いっぱい遊んで、泳いで。ヤドカリを捕まえて。砂浜を走り回って。最後は決まって祖父の背に乗せられて夢の世界へ旅立つのだ。
じいちゃん。
広くて大きな背を思い出す。守りたかったもの。守れなかったもの。
――あまり自分を責めるんじゃねえぜ。
記憶の中で低い声が蘇る。
アンジェロを迎え討つ為に籠城していた初日のことだ。夜中になっても横になる気になれず椅子に座ったままの仗助に承太郎はそう言った。
「大丈夫っスよ」
仗助は素っ気なく応える。野生動物のようにぴりぴりとしていた。
「ただオレはアンジェロの野郎をぶっ飛ばす。それしか眼中にない」
奥歯を強く噛む。あの時、自分がそばを離れなければ。もっと注意していれば。後悔は尽きることなく仗助の心に湧いた。だが、時を戻すことはできない。仗助にできる事は前へと進む事だけだ。
同情も憐れみもいらない。慰めの言葉なんて欲しくない。
「そうか」
承太郎の声が響く。仗助は後に続く言葉に備えて身を固くする。
「早く休め」
しかし、承太郎はそれだけ言うと部屋を出て言った。仗助は信じられない想いでその背を見る。祖父と同じように広くて大きな背中。
不意に祖父の背の温かさを思い出して仗助は顔を伏せた。承太郎の足音が遠ざかっていく。
「グレート」
やっとそれだけ言うと、仗助は深く深く息を吐いた。
遠くで雷の音が聞こえた。空を見れば雲はますます厚くなっていた。いつ雨が落ちてきてもおかしくはなかった。
皆の所へ戻るべきだろうか。
仗助は足元を見た。するとそこには動かない仗助に油断したのか、十円玉くらいのカニたちが歩いていた。
そういえば、と仗助はクレイジーダイヤモンドを出現させる。
「こいつらはスタンドが見えねーはず」
もちろん、スタンド使いが紛れていなければの話だが。カニのスタンド使いなど笑えない冗談だ。以前戦った凶悪なツラをしたネズミを思い出す。同時に地に膝を着いた承太郎の姿も。それでも白いコートを翻らせて進むその背を。
あの時、仗助は強く思った。
――守りたい。
別のシーンが頭を過る。ムカデの帽子屋の前で倒れている承太郎と康一。心臓が止まるかと思った。その後は吉良吉影を追うことに必死で忘れていたが、奴を取り逃がした後に急に恐怖心がこみ上げてきた。もし自分が間に合わなかったら二人は死んでいたかもしれない。祖父の死に顔がフラッシュバックする。仗助は自分の肩を握りしめた。
「大丈夫か」
耳に飛び込んだその声に仗助は顔を上げる。前を歩いていたはずの承太郎がこちらを見ていた。
仗助は決まり悪くて「
――っス」と口の中で呟いた。
「あんたこそ」
承太郎はそれには応えなかった。静謐な目で仗助を見つめる。沈黙に仗助が耐えられなくなった頃、彼は口を開いた。
「仗助。おれはそう簡単にくたばらない」
吸血鬼と戦っても生き残った、と冗談とも本気かもわからない口調で言った。
「約束する。おれはおまえの前では絶対に死なない」
「承太郎さん」
仗助は承太郎を凝視する。
どうして。
握りしめた肩をもっと強い力で掴む
どうして。
「承太郎さん、露伴先生にも吉良吉影のことを伝えた方が」
「そうだな。康一くん、頼めるだろうか?」
前を歩いていた康一が戻ってきて承太郎と話していた。仗助は承太郎の横顔をただただ見つめていた。
「でもよー、それってオレの前以外じゃあ死ぬってことになるんじゃねーかなー」
仗助はしゃがみこんでカニたちに語りかける。
「承太郎さんが強いのはわかってんだよ」
最強のスタンド使い。時をも止める無敵のスタープラチナ。
「わかってる」
だけど、あの人は目も前にいる人間を守るためだったら自分が傷つくことも厭わない人だ。 そのことが仗助の不安を掻き立てる。
いつか誰かを庇って取り返しのつかないことになるんじゃないか。
「だから、さ」
オレがそばにいなきゃ。
強くなりたい。承太郎さんが背中を任せてくれるくらい強く。
水滴が仗助の顔に落ちてきた。黒々とした雲の塊から次々と水の粒が降ってくる。それはすぐに激しさを増してた。眩暈をしそうなほどの雨音が耳の中でこだまする。
「オレ、」
仗助は濡れた手のひらを握る。
「承太郎さんを守りたい」
心の底からあふれるように湧き上がってくるような。暖かい感情。
「承太郎さん」
そばにいたい。頼って欲しい。あの人を、失いたくない。
下唇を噛む。この感情の名を知っている。
仗助は立ち上がった。戻らないと。今すぐに。そして全て忘れよう。きっとまだ間に合う。
濡れて重くなった制服を引きずって仗助は振り向く。息を飲む。雨の隙間から白いコートが見えた。
「そんなところにいたら風邪を引くぞ」
その人の声は雨音にかき消されることもなく耳に届いた。
「もう手遅れですよ」
仗助は笑いかける。今いちばん会いたくて会いたくない人。空条承太郎に。
「承太郎さんだってずぶ濡れっスよ」
そうだな、と承太郎は認める。彼は腕を組んで空を見上げる。
「見ろ、雲が勢いよく流れている。向こう側は晴れているからこの雨はじきに止む」
「へえー」
「太陽が出たらあっという間に乾くだろ」
「承太郎さんてけっこーそういうとこあるっスよね」
仗助は目で承太郎との距離を測る。二人を隔てる雨は承太郎の言った通り徐々に弱くなっているようだ。承太郎の白が鮮明さを増す。
仗助はうつむく。心臓が痛いくらい鼓動していた。
「珍しい生き物でもいたのか」
承太郎の声は穏やかだった。バイトを放り出した仗助を怒ってはいないようだ。
「えーと、そう。いや、ちがうような」
口内で舌がもたつく。承太郎が眉をひそめたことがわかって仗助は頭を抱えたくなった。
「どうした」
「え、ちょっと」
承太郎がこっちに歩いてくる。仗助は後ずさる。濡れた岩の上だということは失念していた。
あっと思った時には遅かった。足が滑る感覚。身体は平衡感覚を失い、来るべき衝撃に仗助は目をつむった。しかし、痛みはやって来なかった。
「やれやれだぜ」
初めに感じたの匂い。次に自分以外の体温。仗助は目を開けた。まるで抱きしめられるように承太郎に身体を支えられていた。
――なんだよ、これ。
頭に血が昇る。
間近にある承太郎の顔が不意なこちらを向いた。
――あ。
承太郎が光に包まれる。ちょうど質量を感じそうな雲の合間から太陽がこちらに顔を向けたのだ。
仗助は息することすら忘れて承太郎を見つめる。
光を受けて輝く彼の瞳はまるで目の中に星があるみたいだった。それだけのことだ胸がちぎれると思うほど高鳴る。
あぁ、と吐息を漏らしながら悟る。
わかっていた。最初からわかっていた。この人へ想いから逃れることなんてできない。
あの助手の男が承太郎を見ている時、いつも思っていた。
――そんな目で見るな。
苛つくような、焦るような気持ちで思っていた。
――オレの。
お気に入りのおもちゃを取られまいとする子供ように。
――オレの、だから。