日常と非日常の境目はどこにあるのか。入り込んだ異物に金城は苦い顔をする。
『今日、朝食の目玉焼きが双子だった。』
それだけ書かれたメール。金城は深い溜息をついた。「そうか」としか返事しようがない。福富からのメールはいつもこうだ。
「金城さん?」
隣にいる今泉が怪訝な顔をする。金城は携帯の画面を消した。
「すまなかった、今泉。続けようか」
「メール、いいんですか?」
一年の後輩は困惑したように金城の顔を見る。その様子を同級生の女子たちが遠巻きで見ている。一年が三年の教室がある廊下にいることが物珍しいのだろう。見世物にされているようで申し訳なさが込み上げてくる。今泉は部内の相談の為わざわざ金城の教室まで足を運んでくれているのだ。
「大丈夫だ。話の腰を折ってすまなかったな」
他校の主将と大事な後輩。どちらを優先するかなど明らかだ。
金城の言葉に「いえ、」と今泉は控えめに返事をするとメールの着信音で中断された話を続けた。
今泉の話に相槌を打ちながら、金城の思考は自然とメールの送り主について向かっていく。
――どういうつもりだ。福富寿一。
金城は広島の落車事故以降、福富について考えることを止めた。というより、考えられなくなった。あれほど瞼に浮かんでいた福富の走りを今はもう思い出せない。金城にとって彼はもう“特別”ではなかった。
だから、福富が謝罪に現れても金城は動じずに対応することができた、と思う。
「それで、クライマーのトレーニングについてですが
――」
今泉が淡々と話していく。その横顔を金城は眺める。
今泉が精一杯の力を尽くし、アシストしてくれた箱根のインターハイ二日目。金城は直接対決で福富に敗れた。悔しかった。だが、それだけではない想いがあった。まだ後一日ある。彼と戦える喜びと勝利への希望が金城の胸にはあった。
その隣で福富が涙を流す。やっと心から笑えると言いながら。
福富の中では昨年のインターハイは終わっていなかった。その事に金城は少なからず驚いた。
それは苦しかっただろうと思う。金城はそんな風には考えない。今年は今年。昨年は昨年だ。仮に今日、金城が福富に勝てたとしても、金城は昨年の無念が晴れるとは思わない。チームに対しての後悔はおそらく一生残り続ける。
ずるいな。ふっとそんな言葉が浮かんだ。しかし、お互いの健闘を讃える為に手を伸ばした頃にはもう忘れていた。
金城の目には福富は落車事故の事を乗り越えたように見えた。だから、彼がインハイ後に電話番号とメールアドレスが書かれた紙を手渡してきたのは意外だった。福富は強引に金城に紙を握らせ「嫌でなければ連絡してくれ」とだけ言うとさっさと去って行った。
どうしてその後、連絡してしまったのだろうか。軽率な自分の行動に頭を抱えたくなる。
福富はそれから意味のないメールを度々金城に送るようになった。こちらの気もしらないで。
耐えかねた金城が田所に福富のメールについて愚痴を言ったらこう返された。
『そりゃ、お前と友達になりたいんじゃねェの?』
肋の傷がズキリと痛んだ。
「
――金城さん」
今泉の声に金城は姿勢を正す。少しの間、考え事に集中してしまったらしい。
「そろそろ休憩終わるので、オレ、帰ります」
「あぁ。すまない、あまり聞いてやれなくて」
放課後に部室に顔を出すことを約束すると今泉は軽く頭を下げた。
「いえ、こちらこそお忙しいところスミマセン」
そして、遠慮がちに金城の手元を指さした。
「あの、やっぱり早く返信した方がいいんじゃないですか」
ずっと気にしていますよね。そっと告げられた後輩の言葉に、金城はやっと己の手が携帯電話をずっと弄んでいたことに気が付いたのだった。
卵が双子だったからどうだというんだろうか。
次の英語の授業が自習になったことをいいことに、金城は携帯のメールボックスを開く。もう一度福富からきたメールを眺める。何か暗号でも隠されているのだろうか。考えてもみて欲しい。あの厳しい顔つきの男が「卵が双子』なんて単語を普通に送ってくるだろうか。
馬鹿馬鹿しい。金城はため息をついて、携帯を机の上に置く。周りを見渡すと大半が教科書を広げて自習している。金城もそれに倣って、教科書とノートを取り出す。いくら模試の結果が良くてもまだ実際に合格したわけではない。するに越したことはない。
金城はノートにシャープペンを滑らせていく。しかし、非常に簡単な単語が金城の手を止めさせた。“friend”友達。
――福富。
お前は、オレと友になりたいと思っているのか。
なれると思っているのか。本当に。
ペンの握る手に力がこもる。
あの日、福富がジャージを掴んで壊れたもの。先輩の夢。有望な後輩の時間。トレック。金城の肋骨。そして。
金城は目を閉じる。やはりあの日の、颯爽と走り抜ける碧の記憶は浮かばない。
――友になどなれない。なれるはずもない。
金城は再び携帯を手に取って、メールボックスを開く。福富へと返信の文面を打っていく。『迷惑だ。メールしないで欲しい』
その文面の冷たさに金城は苦笑いして、全文消去する。一度、福富と会って話をしようと思った。あの不器用そうな男だ。金城へメールには別の意図が存在するのかもしれない。
金城と仲良くなって総北の女子マネージャーを紹介してもらいたい可能性だってある。それは困った。尊敬する先輩と板挟みだ。あり得ない想像に口元を緩める。そうだったどんなにいいだろうか。金城は指を携帯へと滑らす。
『それは珍しいな。今日はなにか良いことでもあるんじゃないか。それはそうと、今度一緒に走りにいかないか?』
少し不自然な誘いかもしれないと思いつつ、指先で送信ボタンを押す。それから、手早く携帯を鞄の中へと仕舞う。と、隣の席の男と目が合った。
「女にメールか? 金城」
おどける彼に金城は苦笑する。
「まさか」
「またまた、思わせぶりな顔で携帯見てたくせに」
「そうか?」
とぼける金城に男は更に言い募る。
「そもそも金城が授業中に携帯を触っていることがまずおかしい」
顎を撫でて言う男に金城もノッてやることにした。口元に手を添えて小声で男に告げる。
「実は、手を焼いている相手なんだ」
「やっぱな。で、誰だよ」
「他校で金髪」
男は目を大きく開いた。
「外人かよっ。お前、すげーな」
胸でかいか? 目を輝かせての無邪気な質問に金城は考える。確かに福富の胸筋はよく鍛えられている。
「大きな方だろうな」
男が机に突っ伏した。どうやら叫びたいのを我慢したらしい。彼はしばらくの間、机と対面して深呼吸を繰り返した。そして、ようやく顔を上げ金城を羨ましそうに見た。
「お前、モテそうだもんな。ぶっちゃけ、もういいとこまでいってんだろ?」
「まさか。お友達から始めましょうってところだ」
「うっわ。それ一番困るやつだ」
楽しそうにゲラゲラと笑う男に金城も頷く。
本当に厄介な相手だ。
ホームルームを終えて教室を出た途端に携帯が震えた。鞄から取り出して画面を見る。そこに表示された名に金城は目を大きく開いた。こんなに早く福富から返信があることは珍しい。
慌ててメールを開く。
『そうだな。もう良いことがあった。今週末なら空いている。 福富』
簡素な文面が映った画面を金城は消した。何故だか、何も考えたくなかった。
金城はうんざりとしていた。目の前にいる福富がコーヒーを苦い顔をして飲んでいる。少量飲んで、すぐにアップルパイを口に放り込む。その繰り返しだ。ため息を飲みこむように、金城もコーヒーに口をつける。有名ホテルのパティシエが独立して開いたというこのカフェは、郊外のわりに人気で席の大半は女性客で埋まっている。むさ苦しい運動部の男ふたりが向かい合っている様はさぞかし奇妙だろう。福富がまたコーヒーを飲む。眉間に皺ができ、アップルパイを放る。そんな食べ方で、味なんてわかるのか。
「コーヒーは苦手か?」
ジュースでも注文しなおせばいい。とメニューを渡そうとするが福富は受け取らない。代わりにカップを持ち上げる。
「これでいい」
オレは強い。言い切って、一口飲む。眉をしかめて金城の顔を見た。
「お前と一緒のものが飲みたい」
そうか。と金城は素知らぬ顔でコーヒーを口にする。
金城と福富は時々、一緒にサイクリングする仲になっていた。どうしてこうなったのか。その経緯を金城はゆっくりと思い出す。金城が誘った最初にサイクリングで金城は福富に受験を理由にメールを控えて欲しいと告げた。
その言葉に福富は残念そうに頷いた。ほっとした金城を福富は見つめる。
『しかし、金城。気分転換に一緒に走るのくらいはいいだろう』
ああ、それくらいなら構わない。そう言うと福富は少し目元を柔らかくした。
誘わられたら断ればいい。そう考えていた金城だったか、福富から誘われると何故かあの優しい表情を思い出して、つい応じてしまっている。実際、福富と走るのは勉強になるのだから悪くはない。感情面以外では。
はぁと息を吐いて金城は可愛らしくリボンの装飾が施されたシュガーポットを福富へと差し出した。
「入れるか?」
「……無用だ」
福富は一瞥もせずに残り僅かとなったアップルパイへフォークを入れる。
「そうか」
では、オレは入れよう。金色のスプーンで中の砂糖をほんの少し掬って、コーヒーへ落とす。その様子を福富が呆然と見つめている。
「金城も砂糖を入れるのか」
「あぁ、少しだけ」
嘘だ。コーヒーはブラックが一番だと思っている。特に今日のような甘い菓子と一緒に飲む日は。
しかし、こうでもしないと目の前の男はコーヒーに砂糖も入れられないようだ。ずっとあの調子ではこちらがたまらない。せっかくの美味しいケーキが台無しだ。別にコーヒーがブラックであろうがなかろうが、優劣はないと思うのだが。
案の定。福富はすぐにシュガーポットへと手を伸ばした。その様子に呆れながら金城は自分のアップルパイの皿を福富の前へと置いた。
「金城?」
不思議そうに首を傾ける福富に、金城は苦笑する。
「さっきの食べ方では食べた気がしないだろう? オレのをやろう」
そんな悪い。受け取れん。と大声で慌てる福富。女性の店員がちらりとこっちを見た。
「遠慮するな。このアップルパイが食べたくて今日は来たんだろう?」
今日こそ金城は断るつもりだった。
『今回は遠慮させてもらう。最近、同じようなコースばかりだからな』
そう返信を送った金城は全身から力が抜けるようだった。これでようやく解放される。しかし、すぐに福富から今度は電話がかかってきた。
「金城。気付かなくてすまない。だが、今回は違う。お前もきっと気に入る」
必死でそう言い募る福富に金城は折れた。単純に興味が湧いたからだ。
――まさか、山奥のカフェに連れて行かれるとは。
下手な好奇心など出すべきではなかった。それとも、福富に会って開口一番に『意外とわがままなんだな』と嬉しそうに言われた時に帰るべきだったか。うんざりと思い出している間にも、福富はまだ何か喚いている。いい加減、迷惑だ。
金城は皿を手前に寄せた。アップルパイの端を切って、フォークを突き立てる。すると、福富は安心したように頷いた。
「あぁ。それでいい、きんじょ」
その口へ、金城はアップルパイを押し込んだ。やっと静かになる。
「美味いか? オレは十分だからお前が食べてくれないか」
顔を真っ赤にした福富は金城の言葉に小さく首を縦に振ったのだった。
会計を済ませて外を出ると夕陽が辺りを赤く染めていた。ロードバイクが止めてある店の裏側へと向かう。
「今日はありがとう、金城」
背後から独り言のような呟きが聞こえる。振り向かずに応える。
「構わないさ」
もう会うべきではないのかもしれないな。言葉とは裏腹に金城は思う。
福富が金城に抱いている感情の正体。
田所は友情だと言った、金城もそう思っていた。だが、彼の必死さはどうだ。
一緒に走るくらいはいいだろう、と言った彼の瞳を思い出す。
縋るように熱を孕んだその視線は同性に向ける類のものではなかった。
彼自身は気付いているのだろうか。無意識に奥歯を噛む。
「金城」
福富が隣に並んで、空を指さす。
「赤とんぼだ」
無邪気に微笑む福富に金城はもう一度、思う。
オレたちはもう会うべきではない。
店の裏側は掃除が追いつかないのか、そこかしこに枯れ葉が落ちていた。足裏でそれを踏む締めながら歩いて行く。
「金城」
福富に名を呼ばれて隣を見る。福富は照れくさいのか足元へと視線を落して話す。
「そのなんて言えば、いいのか。本当に感謝している」
「そんなに美味しかったか? あのアップルパイ」
福富の言葉を茶化すように金城は笑う。真面目になど聞いていられなかった。
「違うっ」
福富が立ち止まって金城を見つめる。金城も合わせて足を止めた。冷たい秋の風が足元の落ち葉をすくってさらう。
「金城真護。オレはお前と友になれたことを嬉しく思う」
目元を赤く染めて、福富は言った。またその目か。無自覚なそれにどうしようもなく金城は苛立つ。
「友か」
舌先で言われた言葉を転がす。
「あぁ」
福富は力強く頷いた。その姿はどこまでも自信に満ちた王そのものだった。傲慢な王様に金城は笑いかける。
「なんでそんな嘘をつくんだ?」
言っている意味が理解できなかったのだろう。福富は僅かに口を開いて硬直した。
「金城……?」
「友だなんて思っていないだろう?」
オレも思っていないが。声に出して言えば、福富が小さく震えた。
「金城、何を言っているかわからない」
福富はあくまでも強気な表情を崩さすに続ける。
「何か気に障ることを言ってしまっただろうか」
「だが、オレはお前の友になれたことが
――」
福富の言葉ひとつひとつが火矢のように金城の心へと降り注ぐ。驚くほど簡単に金城の心は燃え上がった。怒りという炎で。
笑顔を貼り付けたまま福富へと歩み寄る。
「金城?」
福富が困惑したように後退る。それよりも早くその胸ぐらを掴んで一気に引き寄せる。
「金城っ」
薄く開かれたその口へ、金城は噛み付いた。固い唇に歯を立てる。
福富が目を大きく見開く。怯えるようなその顔が珍しく、金城は更に舌を口内へと侵入させる。と同時に、強い衝撃を感じて地面へと突き飛ばされた。舞った上がった枯れ葉が金城の周囲へひらひらと落ちる。
「どういうつもりだ」
手の甲で口を拭いながら、福富は力なく言った。その表情はキスに困惑しているようにも、金城を突き飛ばしたことにショックを受けているようにも見えた。
「どういうつもりも何も」
物欲しそうな目で見ていただろう。顔を歪めて金城は笑う。
福富は黙って金城から顔を背けた。その顔が赤いのは夕日のせいだろうか。そうであって欲しい。
なぁ、福富。金城は心の中で語りかける。
――これ以上、オレの思い出を踏み躙らないでくれないか。
しばらくお互い何も発しなかった。冷たい風がふたりの間を流れる。
先に気まずい沈黙を破ったのは福富だった。
「帰る」
そう呟くと自らのロードへと歩み寄るとチェーンを外す。黙々と帰る準備をする福富を金城はただ眺めていた。そして、福富が自転車に跨った時にやっと声を発した。
「福富」
返答はなかった。そのまま福富は振り返りもせずに去って行った。
その後ろ姿が見えなくなってようやく金城は大きく息をはく。大きく揺れ動く感情に脳がついていけない。
らしくない。こんなやり方。
いくらでも他に方法は存在した。やんわりと拒絶することも。気付かないふりをして友として接することもできた。
――友?
金城は天を仰いだ。夕焼けはますます赤く鮮やかだ
赤く染まった彼の頬を思い出す。彼の気持ちに応える気はない。だが、友だったら
――。
金城は彼と接した時間を思い出す。
彼と並んで時には競い走ることが楽しかった。福富は頭も良く、話していて退屈しなかった。どうして金城のジャージを掴んだのが彼だったのだろうか。オレたちはきっと良い友人になれたのに。
「金城」とどこか柔らかい響きで名を呼ばれる度に金城は思った。
いつか。いつか、福富を心から許せる日が来るかもしれない。
カラスが鳴く声がした。急に我に返った金城は傷が疼くのを感じて肋に触れる。
オレは今、何を考えた。許す? オレは彼を許すのか。金城の脳裏に広島インターハイのチームメイトの顔が浮かんだ。すっと身体の温度が下がる。これはチームに対する裏切りではないか。罪悪感に胸を圧迫される。荒く呼吸を繰り返す金城に暗い声が聞こえた。せせら嗤うように。
『ずっと前からお前はチームを裏切っているのに?』
蛇がいた。長く伸びた巨大な黒い靄の塊が突き合わせるように顔の前にあった。金城はそれを“蛇”と読んでいる。。
金城がこの蛇の存在を認識したのは落車事件のあった夜だ。夜中、傷の痛みに目覚めると目の前に黒い塊があった。声をあげることすらほどに驚く金城に黒い靄は言った。
『憎い』
それ以来、時々こうしてこの蛇は金城の前に姿を見せる。
「裏切っているとはどういうことだ」
金城は無駄と知りつつ蛇に問いかける。蛇はいつも一方的に言いたいこというだけだ。
『憎い』
「違う」
金城は頭を振る。憎んでなどいない。福富を憎んでなど。
「あいつはあいつで十分苦しんだんだ」
金城は蛇を諭す。インターハイ二日目でそのことを知った。その彼を憎む気などない。そもそも既に済んでしまったことだ。
許せない。そう思っていたのに擁護してしまう自分がおかしかった。そんな金城に蛇は続ける。
『だから許せと言うのか?』
おやっと金城は目を瞬いた。蛇が金城の言葉に返答したのは初めてだった。
蛇が身をくねらせる。まるで金城を馬鹿にしているようだ。
『それをチームメイトにも言えるのか?』
それは。
固まる金城を嘲笑うように蛇は言う。
『苦しんだ? それがどうした。自業自得だ』
『やっと繋いだ希望を潰された気持ちがあいつにわかるのか?』
「もう終わったことだ」
金城は穏やかに抗議する。冷静さを欠いてはいけない。深く息を吸う。この蛇はただの空想だ。
すると蛇が目を細めたように見えた。そして、低い低い声で蛇は歌うように言った。
『
――憧れていた』
金城の肩がバネのように跳ね上がる。
『あの強さ、速さ。いつか並んで競いたいと願っていた』
「やめろ」
『何故、あんなことを。競技者として最低の行いだ』
「やめろ」
蛇の口を塞ごうとするが金城の腕は麻痺したように動かない。
『
――失望した』
「やめろっ」
音にならない絶叫が金城の口から迸る。
こいつは。金城の身体に戦慄が走る。
『オレはお前だ』
わかるだろう? 蛇が嗤う。
手が震える。違う。
『思いだせ、あの時感じたことを』
強い眩暈に目を閉じる。自分を中心に地面が回る感覚。目を瞑っているはずなのに、ぐるぐる時計の針が逆に回っているように見えた。
回転が止まったのを感じて金城は目を開ける。
突然、強い衝撃と痛みを感じた。投げ出された愛車。あの瞬間に金城はいた。名を呼ばれる。緩慢に首を動かせば、金髪の男が見えた。その表情からなにが起こったか全て悟った。あの時
――。
『憎い』
蛇の言葉を今度は否定しなかった。甦った激しい怒りで息もできない。
どうしてだ。何故だ。
あの時、どうして自分は冷静でいられたのだろうか。今の金城には心を凍らせる術はない。憤怒が心を焼いていく。
『復讐しよう』
呪詛のように蛇は囁く。
『お前がやらなけらば意味が無い』
落車直後の景色が消えて別の映像が映し出される。無心で長い長い階段を上る福富の後ろ姿が見える。あと少しで頂上へと辿り着く、というところで彼の背中がアップで映しだされた。そして、誰かの両手が現れてその背を突き飛ばした。その背はあっけなく落ちていく。
この絵が意味することはなんだ。
――彼の望みが叶う直前でその幸せをチャンスを邪魔をしろ、打ち壊せ。
その為には彼の傍にいる必要がある。友人よりもっと近くに
――
「できない」
反射的に金城は首を振った。
『できるさ』
蛇は嘲笑う。“裏切り者に拒否権はない”
感じた寒さに金城は身体を震わせた。いつのまにか蛇の姿は消えていた。どのくらい経っているのか。辺りはすっかりと闇に包まれている。
金城は立ち上がってぎこちなく土を払う。これは福富に心を許しかけていた己への罰なのだろうか。蛇に言われた言葉が頭の中で踊る。
――復讐などしない。
ガラスのように脆い決意であることを知りながら金城は歩き出す。福富が二度と自分の目の前に姿を現さないことを願って。甦った激しい炎は容易には消えない。
その後。
金城は総北高校のとある巨木の下で待ち伏していた福富に告白されることとなる。
真っ赤な顔を金城から逸らせて返事を待つ福富の姿に、金城は笑った。
『オレも好きだ。こちらこそ、お願いする』
感極まって泣く福富の肩を金城は抱きしめる。その耳に蛇の嗤い声が響いた気がした。