人間とはどれくらいの高さから落ちれば確実に死ぬのだろうか。
きちんと整えられたベッドに腰掛けて金城は不穏な事を考える。長い列車の旅を終えて着いたホテルは、急遽予約した部屋の割にはまともだ。横になりたい気持ちを抑えて、福富の言葉を思い出す。
『明日のレースは海外チームの選考も兼ねてる』
電話口でそう聞いた金城は「今だ」と直感した。すぐにホテルを予約して列車へと飛び乗った。
日本人がロードレースの本場であるヨーロッパでプロになるのは難しい。実力は当然だが、運の要素も大きい。彼らにとって日本人は余所者なのだ。
福富寿一という男はつくづく恵まれているらしい。日本企業がとある海外チームのスポンサーの引き受けた。その条件として若い日本人をチームに入れることを要求したという噂だ。
その白羽の矢が福富に立ったらしい。その話を聞いて驚く金城に福富は照れるように告げた。「まだ決まりではない。選考に残らないと」
決まりだろう。お世辞でもなんでもなく思う。福富は間違いなく若手の中ではトップクラスの実力だ。日本企業が望む知名度も申し分ない。だからこそ、金城は福富を突き落とさなければならない。
こんなチャンスは滅多に、いや二度とない。普段通りに走ることができれば福富は来年から海外生活だろう。平常心で走ることができるのならば。
福富を弱いと思ったことはない。彼の走りをみれば誰もがそう思うだろう。重戦車を感じさせる走りに、トラブルにも眉ひとつ動かさない冷静さ。
だが、金城は強いとも思わない。「強い」という鎧で覆われた彼の精神は、その実、身内に対しては酷く脆い。
――レース直前で恋人が別れを告げられたらどうなるか。
彼は動揺するだろう。自惚れでもなんでもなく思う。それだけ福富は金城に執着している。奇妙なことだが。
金城はいつかの出来事に思いを馳せた。
◇◆◇◆◇
金城な酩酊とした頭で真面目に考えていた。大学と一体何か。ビールをまた一口分、胃へ流し込む。向かいに座った女性がふんわりと微笑む。緩く巻かれた柔らかそうな栗色の髪を揺らして。
「金城君もお酒を飲まれるんですね」
「飲まないように見えますか」
心外だというようにおどけていうと、女性は慌てるように両手を横へと振った。
「いえ、そのストイックな人に見えたので」
「オレも普通の大学生ですよ」
先輩に呼ばれてこんな合コンに付き合わされるくらいには普通の大学生だ。
隣の隣の席に座る荒北を見ると、不機嫌そうな顔で携帯を弄んでいる。目つきの鋭い荒北がこんな態度をすると近寄りがたい雰囲気が増す。しかし、荒北と反対側に座る女性は気にしないようだ。黒髪で清楚に見える外見とは裏腹に積極的に荒北へ話しかけている。それに荒北もアァとかなんとか、返事をしているようだ。案外、まんざらでもないのかもしれない。
「あの」
荒北を観察していると、目の前の女性が再び話しかけてきた。
「金城さんって今、好きな人って」
大胆な質問に金城は目を瞬かせた。好きな人間。好きときたか。
「いないですね」
ロードが忙しくて。そう告げると彼女はぱぁっと見るからに明るい表情になった。少しだけ罪悪感が芽生える。嘘はついていない。好きな人はいない。恋人はいる。
最も、その恋人ともしばらく会っていない。レースがあれば顔を合わせることもあるが、今は特に大きなレースもない。たまに来る福富からのメールに返信するくらいだ。もしかして、とっくに福富は自分に愛想を尽かしているのかもしれない。福富だってこんな風に合コンで女性と話す機会が多いだろう。今頃、新しい恋人と過ごしているかもしれない。
そこまで考えて、どうでもいいと放棄する。アルコールの回った頭は難しいことが嫌いだ。
適当に微笑むと目の前の女性は顔を赤らめた。それを隠すようにオレンジ色の飲み物を飲む。グラスを掴むその細い指が目に入る。あいつと比べたら折れてしまいそうだな。無意識に恋人の無骨な指と比較していることに気付いた金城は苦笑した。違って当たり前だ。
もし、福富とこのまま別れるのならばこの女性と付き合うのもいいかもしれない。きっと彼女の身体はあの男と違って硬いところなどひとつもないに違いない。
金城の性指向は極めてノーマルだ。それは福富と身体を繋げた今でも変わっていない。福富以外の男とベッドを共しようなどと考えたこともないし、今後もないだろう。彼と行為に及んでしまったのは同情心とほんの少しの好奇心からだ。「触れ合いたい」と嘆く恋人があまりにも。
「金城君?」
目の前の女性が首を傾げる。この角度が一番可愛いとわかってやっているのだろう。恋人にはないその小賢しさが逆に今は好ましく感じる。
「すみません、考え事を」
金城はジョッキに口をつける。程よい苦味が喉を通り抜ける。ついでに再び荒北をうかがう。先ほどから鋭い視線をこちらに投げかけているのはわかっている。
案の定、荒北は金城は見ていた。というより睨んでいると言う方が正しい。
『いいのかよ』
そう目で訴えかけている。
荒北には福富との関係は話していない。しかし、薄々感づいているのだろう。荒北は鼻が利く。
金城は笑う。
――何も問題はない。
「いいのかよ」
荒北からその台詞を直接聞いたのは件の飲み会からしばらく経った後だった。
講義も終わり、移動するために机の上のノートを閉じた所で背後から声が聞こえた。金城は振り向かずに応える。
「後ろの席に座っていたのか、気付かなかった」
「鈍過ぎじゃナァイ」
荒北は不機嫌そうに言う。
「女ができたからって浮かれてんじゃねェの」
そこでやっと金城は振り向いた。この講義室は階段上になっているため、荒北を見上げる形になる。
荒北のその目は睨むように細められ、眉は吊り上がっている。
「誰から聞いた?」
「アァ、認めんのか?」
喧嘩腰の荒北に金城は苦笑する。
「何を勘違いしているか知らないが。心当たりが生憎ないな」
「金城クンから誕生日プレゼントもらったって喜んでたらしいけど?」
あの飲み会ン時の女。荒北の言葉に思い出す。
件の飲み会の後。金城は指輪を買った。ちゃんとしたジュエリーショップで買ったそれなりに値段のするものだ。衝動的な買い物だった。到底、恋人の指にはまらなそうな繊細な女物の指輪。それを買ってどうしたかったのか金城にはわからない。福富に渡すわけにもいかない。
第一、あんなありきたりの指輪は福富には似合わない。彼に指輪を贈るのならば特別なものでないと釣り合わないだろう。
結局、その指輪は箱に入ったまま金城の鞄の中で忘れ去られていた。
その存在を思い出したのは彼女のお陰だった。
――金城君。
彼女の甘い声が甦る。夜のショッピングモールに彼女はいた。金城が振り返ると同時にちょうど近くの店からポップな曲が流れ始める。確か、運命的に出会った男女が結ばれるという流行りの歌だ。お気軽なアイドルソング。
金城に彼女が駆け寄る。
『この曲、大好き。あ、私のことわかります? 嘘、嬉しい、憶えていてくれたんですね』
『え、そうです。買い物に。実は今日、誕生日なんです』
おめでとうと金城が祝福すると彼女はにっこりと笑った。
『ありがとうございます』
――愛して。愛して。愛して。
盛り上げるように女性ボーカルの声が響く。
そのテンポに合わせるように髪を弄ぶ彼女。細い指が目に入る。指輪が似合うだろうな。そう思った瞬間、金城の口から言葉がこぼれた。
『プレセントしたい物があるんだ』
驚く彼女に金城は笑いかける。
『実は恋人に渡す予定が振られてしまって、余り物で悪いが』
『恋人がいないって嘘だったんですね』
振られたという単語に彼女の瞳が輝く。金城はその眩しさに目を逸らす。全てが嘘だった。
彼女にプレゼントしたのは単純に似合うと思ったからだ。そして、彼女が金城にとって平穏な日常の入り口になる可能性があったからだ。この頃の金城は福富との異常な関係に心底疲れていた。
そのことを目の前に荒北に説明してもおそらく理解できないだろう。
「偶然、会って渡しただけだ」
あくまで平静さを崩さない金城に荒北は更に斬り込む。
「偶然ねェ。福ちゃんは知ってんのォ?」
「何故、福富が出てくるんだ」
からかうように金城は問う。荒北が自分たちの関係に気付いているのを知ってあえて言う。
「知らばっくれんな。オレはァ知ってんだよ」
歯茎を剥き出しにして威嚇する荒北。
「福ちゃんは隠し事ができるほど器用じゃねェ」
「そうか」
相変わらず仲が良いようだ。
「だが、荒北。オレはどうも愛想をつかされたようだぞ」
そう言って金城は自分たちの現状を説明した。もう随分会っていないこと。週に数回メールをするだけのこと。
全てを聞いた不貞腐れたように荒北は頬杖をついた。
「メールさァ、福ちゃんから来るのかよ?」
「来るな」
その答えに荒北は金城から目を逸らした。
「オレには来ねェ。いつもオレからしてる」
福ちゃん、メールとか苦手だからァ。自分に言い聞かせるようにぽつりと呟くと、荒北は金城を見た。飢えた狼のような鋭さで。
「傷つけたら承知しねェぞ」
「肝に命じておこう」
軽く流す金城に荒北は盛大に舌打ちをした。
すまない。無意識に出てきそうになった言葉を金城は咀嚼して飲み込む。
代わりに友達思いの友人に心の中で詫びる。すまない。
透き通るよう青空を見える。金城は大きく身体を伸ばした。日に照らされて黄緑のジャージが活き活きとして見える。
今日は久しぶりに大きなレースだ。当然、福富のいる明早大学も出場する。早く戦いたい。気持ちが昂ぶり自然と口元に笑みが浮かぶ。福富との関係が変わろうとも、彼と競うのは楽しみだ。
いてもたってもいられずに、チームメイトを置いてテントから出てきてしまった。後で荒北に文句を言われるのは確実だろう。空から地上へと視線を戻す他の大学のテントが並んでいる。その中で目立つ金髪が目に入った。
「福富」
声をかけて歩み寄る。珍しいことにいつも傍にいる同じ大学の新開が見当たらない。
「スタンバイには早いんじゃないか?」
自分の事を棚に上げて金城は笑う。腕を組んだ福富は硬い表情を崩さず言い返す。
「久しぶりにお前と走れると思うと落ち着かなくてな」
「それは
――」
光栄なことだ。金城は福富の顔を見つめる。その顔には恋人にするような甘えなど一切なく、ひとりのロードレーサーがそこにはいた。多分、金城も同じような顔をしているに違いない。
「今日は負けない」
「全力でこい、金城。オレは強い」
不思議だった。こうしていると自分たちはただのライバルなのではないかと錯覚する。あの夕焼けでキスしたことも、告白も全てが夢だったような気がする。
最後に恋人らしいことをしたのはいつだっただろうか。荒北は福富からメールが来ることを特別なように言っていたが、相変わらず福富のメールはシンプルだ。ロードに関する事や日常のこと。甘い言葉などどこにもない。もちろん、金城の返信にもない。
もしかしたら。以前の飲み会で考えたことを思い出す。本当にもう自分たちの関係は破綻しているのではないだろうか。遠距離恋愛からの自然消滅は多いらしい。
もしそうだとしたならば、金城はどうすべきなのか。ここで復讐を諦めるか、それとも別の方法を考えるべきか。
「金城君」
そんな金城の思考を甘く柔らかい声が止める。誕生日プレゼントをあげた彼女が手を振って駆け寄ってくる。爽やかなブルーのジャケットがよく似合っている。
「洋南の人に聞いたら外にいるって言われて」
「わざわざ応援に来てくれたのか」
ありがとう。と微笑むとわかりやすいくらいに彼女は顔を赤くした。
「おい金城」
その様子を見ていた福富が何事かを言いかけた時、荒北が走ってきた。
「福ちゃーん」
そこで、彼女は初めて福富の存在に気付いたのか慌てて頭を下げる。
「明早大学の福富寿一だ」
福富も律儀に頭を下げる。その場に到着した荒北は金城を睨む。その目は雄弁に語っていた。『おい、これ修羅場じゃナァイ』
金城は苦笑するしかない。別に浮気したわけではない、福富と付き合っているかも定かではない現状だ。金城の表情をどう受け取ったのか、荒北は福富へと話しかける。
「福ちゃん、久しぶり。元気だったァ?」
しかし、福富は荒北の方を見なかった。例の彼女だけを見つめていた。
「金城とはどういう関係だ」
その迫力に可哀想に彼女は怯えている。縋るように金城の顔を見た。
「友人だ。飲み会で知り合った」
なるべく福富を刺激しないようにできるだけ朗らかに金城は答える。内心では驚いている。
「飲み会?」
福富は首を傾げる。
「聞いていないぞ、オレは」
「いちいち言う必要ないだろう」
笑みを崩さない金城を福富は睨めつける。何故か荒北が自分の額を抑えていた。
「何を隠している、金城」
その福富の問に一瞬、息を詰まった。隠し事は、ある。
「金城真護っ」
「ご、ごめんなさい」
声を荒げる福富に彼女が謝る。小さく身体を震えわせて、今にも倒れそうだ。
「あの、本当に何もないんです。ただこの前、誕生日プレセントをもらっただけで」
今日はその御礼に。どんどん小さくなる声。肩をすぼめる彼女に金城は申し訳ない気持ちになる。責められるべきは彼女ではない、金城だ。
「それくらいに」
この場を収めようとして金城は福富が見ている物に気付いた。彼女の右手、細い指に光る金色のリング。
同時に彼女も福富の視線に気付いた。止める間もなく、よく見えるよう手を持ち上げた。太陽に照らされて指輪が光を放つ。眩しい金色を掲げる彼女は誇らしげで。勝者のようだった。
「これがもらった指輪よ、福富さぁん」
無邪気に彼女は笑った。それが彼女の計算なのか、それとも天然だったかはわからない。だが、最悪の対応だった。
福富の顔がこわばる。それを金城は他人事のように眺めた。まずいな。福富は突発的な出来事に弱い。何を言い出すかわかったものではない。
金城は福富の方へ一歩踏み出す。それが彼女を庇うように見えると知りながら。
「福富」
名を呼ぶとこちらを見た。落ち着くんだと金城は軽く半笑いする。
「お前は指輪なんて欲しくないだろう?」
そう告げた途端、福富の顔がどうしようもないくらいに歪んでいった。
あ、と思う間もなく福富が金城を胸ぐらを掴む。
「福ちゃん」
荒北の差し迫った声と女性の悲鳴。金城は目の前の顔を無感動で眺める。ロードレーサーの割に白い頬は朱に染まり、ただでさえ凛々しい眉は更に険しく寄せられている。彼がこんな風に怒るは初めてだった。
「福富」
オレを殴るのか。
殴れるのか、お前に。
金城は静かに福富をただ見つめる。
「福富」
名を呼べば肩を震わせる。しかし、彼は手を離さなかった。絞りだすように言葉を紡ぐ。
「すまない。だがオレは、許せない」
金城、お前を愛しているから。最後の一言は金城にだけ聞こえるように小さな音量だった。しかし、金城にはその前の言葉の方が重要だった。
許せない? たかが指輪をあげたことが? 金城の空虚な胸に何度も何度も反響する。そんな権利を福富は持っているのだろうか。
――お前こそ。
忘れていた痛みが甦る。ほんの一瞬、あの碧が脳裏を駆け抜けて行った。
「お前こそビアンキを荒北にやっただろう」
寒々しい沈黙が周囲を押し潰す。荒北はあんぐりと口を開け、福富の目は大きく開かれたままだ。まるでよくできたコメディ映画だ。間抜けな主人公がまたバカなことを言っている。そんな声が聞こえてきそうだ。
いっそ笑ってしまおうか。ふと自虐的な考えが浮かぶ。
そんな金城にぽつりと福富が呟いた。
「ビアンキはお前と出会う前にやったものだ」
知っている。
金城は福富から離れた。力の抜けた手はするりと外れる。辺りを見る。皆、黙って金城を見ていた。
その居たたまれなさに金城は背を向ける。
「金城」
福富の声にも振り向かない。
「少し頭を冷やしてくる」そう言って金城は足早に歩く。一秒でもその場にいたくなかった。
福富はそれ以上なにも言わなかった。
あてもなく歩いていると、急に肩を小突かれた。
振り返ると荒北が立っていた。わざわざ追ってきたのだろうか。
「福富と一緒にいなくていいのか」
尋ねると荒北は頭を掻いた。
「新開がどうにかするんじゃナァイ」
「随分、冷たいな」
金城のからかいに荒北は何も言わない。困惑したような顔で立っている。
「荒北?」
怪訝そうな金城の声に触発されたのか、荒北が独り言のように呟く。
「……あんな顔、初めて見た」
あぁ。と金城は納得した。
「オレも初めてみたな。福富の怒った
――」
「ちっげェよ」
金城の声を遮って荒北は言った。
「おめーの顔だよ。金城」
◇◆◇◆◇
あんな顔とはどんな顔だったのだろうか。記憶の中の荒北に問いかける。
あの後、一度だけ荒北に言われた。『そんなにビアンキ好きなら買い換えればァ?』思い出して金城は口角を上げる。それではダメだ。あのビアンキでなければ。
思った以上に執着が強いのは自分の方かもしれない。もうあの美しい自転車に乗った福富の姿を思い出すことでできないのに、忘れられない。
結局、あの騒動の後も福富は金城と別れようとはしなかった。金城がではない。福富自身が関係を終わらせることを拒んだ。福富が都合の悪い話をキスで誤魔化すようになったのも、思えばあの頃からかもしれない。最初はあんなに嫌がっていた癖に。
それにしても。何故、福富は金城から離れようとしないのだろうか。何故、離れてくれないんだ。
不可解な執着に首を捻る。彼ならば他にいくらでも相手がいるだろうに。
まるで金城の復讐を待っているかのようだ。あまりに都合の良い想像に金城は頭を振った。
福富が何を考えていようと復讐は行う。あの日燃え上がった炎はまだ胸を焦がしている。
明日で終わらせる。そう再び決心するとベッドに横たわった。白い天井が目に入る。こうして一人でいると、例の蛇でも出てきそうだ。だが、恐れることはない。あの蛇は金城で金城は蛇だ。
――そういえば。
金城は思い出す。あの蛇は昔おかしなことを言っていた。
『ずっと前からお前はチームを裏切っているのに?』
あれはどういう意味だったのだろうか。チームメイトを裏切ったことなどない。金城は天井を強く睨んだ。そして、思わず息を呑む。いつの間にか、天井には蛇のような細長いシミがあった。
『裏切っていない、か』
シミがゆっくりと動き始める。
『では何故、大会運営者に単独の落車だと告げたのか』
頭に懐かしい低い声が響き、天井をシミが這いまわる。これは夢か。
「事実を告げたところで総北の順位は変わらなかった」
落ち着けと自身に念じながら、金城は誰に聞かれても通していた答えを返した。
『だが、箱学にはペナルティが課せられたはずだ』
シミが徐々に大きくなっていく。あの蛇だ。
『優勝候補が不利なればそれは総北の利ではないか』
「そんなことは」
『それでも、お前は言わなかった』
何故か。何の為に。
その問いかけに、どくんと心臓が跳ねる。
何故、真実を言わなかった。広島のインターハイ。チームメイトたちの顔が浮かぶ。先輩方、巻島、田所、古賀。そして、最後に福富の顔が
――。
「オレは」
金城は片手で顔を覆う。冷や汗が全身から噴き出す。
『お前は憧れのレーサーを庇ったんだ』
強大化していくシミはうねりながら天井を覆い尽くしていく。
『チームメイトよりも偶像をとったんだ』
心が凍ったように何も感じなかった? お前は無意識に福富を選んだんだ。もし彼に少しでも怒りがあれば、単独の落車だなんて証言はできない。彼への憎しみも仲間への罪悪感も一緒にしてお前は封印した。大好きな選手の将来に傷をつけない為に。
だから、オレが生まれた。オレは無意識に抑圧された感情だ。憐れむように蛇は言った。
「……嘘だ」
『憎いのだろう』
やっと声を発した金城に蛇は滔々と告げる。
『仲間を裏切ってしまった自分自身が』
お前は自分を許せない。この復讐は誰の為でもないお前自身の懺悔の為だ。
そう蛇は淡々と告げると最後にこう言った。
『復讐ごっこは楽しかったか?』
「何だと」
『オレはお前だ。お前の望まないことは勧めない』
よく考えろ。お前は復讐を口実に何を手に入れた? 蛇が蠢く。
「終わらない苦しみだ」
鋭く蛇を睨んだ。考えるまでもない。
「だが、それも明日で終わる」
金城の言葉が虚しく蛇を上滑りする。蛇はゆっくりと告げた。
『お前の一番は今も昔も変わらない』
どんなにチームを想っていても、譲れないものがある。それを責める人間はいない。いなかっただろう? お前がお前自身を許すことができれば、すぐにその苦しみは消えるさ。
それとも、と蛇は嗤う。
『まだ口実が必要か?』
反射的にかっと頭に血が昇った。
「黙れっ」
自分の声に金城は目を開けた。真っ白な天井が目に入る。シミなどどこにもない。金城は大きく息をはいた。
今のは夢だろうか。
『自分の感情に素直になれ』
耳元で囁かれた暗い声に金城は身を起こす。しかし、ベッドには白いシーツが広がるのみだった。
脱力して倒れこむ。蛇の言っていることはデタラメだ。
抑圧された感情だと。そんなものは存在しない。復讐を躊躇う気持ちは少しもない。
余計なことは終わりだとばかりに金城は固く瞼を閉じる。
茫洋と広がる暗闇に蛇の姿は見えない。代わりに金色の獅子が浮かぶ。
そうか。眠りに落ちる一瞬、金城は思った。
オレは期待しているのかもしれない。傷ついた獅子がそれでも誇り高く走る姿を。