ライオンのなみだ


 

「人間は自分の為にしか泣けない」

 そう福富は金城から聞いたことがある。
 あれは大学生になって金城の住むアパートに泊まりに行った時のことだ。
 福富はちょうど茶色のソファに座ってテレビを観ていた。
 最初は金城が夕飯の片付けをしている間の暇つぶしのつもりだった。色々チャンネルを変えた中で、広大なサバンナの風景が目に止まった。そのまま、なんとなく見続ける。
 どうやらシマウマの親子のドキュメンタリーのようだった。群れの中ですくすくと成長する子どものシマウマ。その愛らしい姿に、福富は幼い頃に行った動物園に行ったことを思い出した。珍しいことに父と母と兄で行った動物園。楽しかったが、最後が不味かった。疲れて途中で眠ってしまった福富の代わりに、家に持って帰るおみやげを父が選んでしまったのだ。家で目を覚ました福富は驚いた。シマウマのヌイグルミを手渡されたからだ。兄は強そうなライオンなのに。福富は兄が羨ましくて、大泣きしてしまった。
 今、考えると恥ずかしい思い出だ。あの時は嫌で嫌でしょうがなかったが、テレビの中の愛らしい姿を見ると申し訳ない気持ちになる。どうして、シマウマでは満足できなかったのだろうか。結局、あのヌイグルミがどうなったかは知らない。
 そんな昔話に浸っている間に、テレビでは不穏な音楽が流れ始めていた。子どものシマウマが怪我をしたのだ。そこへライオンの集団がやってきた。
 逃げろ。テレビであることを忘れて福富は咄嗟に念じた。
 早く、逃げろ。
 走り始めるシマウマの群れ。やはり、子どものシマウマが遅れ始める。
 早く、早く逃げてくれ。
 思わず、福富は手を握りしめる。目はディスプレイに釘付けだ。
 画面の中で母親のシマウマが必死に助けようとするが間に合わない。ライオンの鋭い牙が子どもライオンの喉元に突き立てられる。流れ出る赤。
 脳裏にある光景が浮かんで、福富は総毛立った。灼熱のコンクリート、歪んだ自転車、ジャージに広がる赤い染み。忌まわしい過去。
 身体が強張り、息が浅くなる。
 テレビには母シマウマの悲しそうな後ろ姿が映しだされていた。次の瞬間、プツンと音がして画面が暗転した。振り返るといつの間にか金城がリモコンを片手に立っていた。
「スマン。見ていたか?」
「いや」
 詰めていた息を吐いて、視線をテレビへと戻した。先ほどの光景が嘘のように画面は真っ黒だった。
 安堵する福富の隣に金城が座った。そして、彼はテッシュを差し出してきた。
「金城?」
「使ってくれ」
 泣いていない。そう反論しようと思ったが、やめた。余計なことを言って下手な詮索をされるのは面倒だ。
 福富は礼を言って、受け取る。仕方なく、目頭に当てる紙は少しも湿らなかった。
「意外だな」
 独り言のように金城は言った。意味がわからず福富は金城の顔を見つめる。
「お前がシマウマに感情移入するとは思わなかった」
「どういう意味だ」
 金城は「言っておくが、悪い意味じゃない」と軽く笑った。
「ライオンの方が好きそうだと思ったんだが」
「……そうだな」
 福富は金城に先ほどの思い出を話した。嫌だと投げ捨てられた可哀想なシマウマのヌイグルミ。
 金城は穏やかな顔で話を聞いていた。
「福富らしいな」
「オレはもうそんなことはしない」
 そう言うと金城は僅かに眉を寄せ、またすぐに穏やかな顔に戻った。
「そうだな。シマウマの親子の為に泣くくらいだからな」
「泣いていない」
 福富の反論を無視して金城は明るい声で言った。
「福富。知っているか」
 黙る福富に金城は続ける。
「人間は自分の為に泣いているという説がある」
「ひどい話だな」
 福富の感想に金城は声を上げて笑った。随分、機嫌が良い。
「そう言うな。涙を流すことで受けたストレスが軽減されるんだ」
 オレは結構この説を信じているんだ。と金城は説明する。
「そうか」
「だから、泣くのは恥ずかしくないぞ」
「金城。オレは泣いていない」
 福富は金城を睨む。
 人の内心も知らずに呑気なものだと思う。
 福富は二度と泣かない。金城の前では絶対に。

◇◆◇◆◇

 また、近いうちに会おう。そう言って福富は荒北との通話を切った。
 沈黙が落ちる。無機質な呼び出し音が鳴らないことに福富はほっとした。さっきまで電話が鳴りっぱなしだった。
 無理もない。日本で最も知名度のある大会に出場し、それなりの結果いや大金星と言っていい成績だった。
 皆、レース最終日まで気を使って連絡を控えていたらしい。終わってからは電話の嵐だ。
 申し訳なさそうな顔をする福富に気を使ってか、同室だったチームメイトは途中でホテルの部屋から抜けだした。
 この熱い中、悪いことをした。
 福富は窓の外を見る。太陽はもう高く昇ってギラギラと美しい景観を照らしていた。夏が熱いのは欧州でも変わらないが、日本特有のじっとりとした湿度がない分だけ過ごしやすい。
 それでも暑いことには変わりがない。彼に連絡を入れようが迷っていると携帯からメロディが流れた。
 その音に顔の筋肉が強張る。反射的に福富は携帯をベッドへ投げた。

◇◆◇◆◇

 高校三年の福富は総北高校の校門の脇に立っていた。
 金城はまだ帰っていないだろうか。校門を通り抜ける総北の生徒たちを眺めながら福富は考える。
 生徒達は福富にぎょっとしつつも、特に何も言わずに去っていく。
 その中に見知った姿はない。
 金城、どこにいる。
 その名を頭の中で呼ぶだけで、頬が熱くなる。今日はコートとマフラーが必要なくらい冷えているはずが、顔だけ火がついたようだ。そんな自分が恥ずかしくて視線を落とす。
 金城。
 もう一度、呼びかける。
 福富はどうしても金城に会わなければいけない。何度も脳の中でシュミレーションした言葉を、再度なぞり始める。
――金城。オレはお前に伝えたいことが、
「何してんだ」
 唐突に飛び込んできた声に福富は顔を上げた。
 そこには総北の制服を身に纏った体格の良い男が立っていた。名は。
「田所」
「ウチの部に何か用事か? 前の時んみたく勝手に入って来いよ」
 いや。と福富は首を振る。
「違う。好きでここで待っている。放って置いてくれ」
「放っておけって」
 明らかに呆れたように田所は言った。
「目立ち過ぎなんだよ、おめェ」
 ウチの生徒がビビちまってるだろ。と言われて福富はちょうど通りかかった男子生徒を見た。目が合った瞬間、その生徒はすぐに目を逸らした。仕方なく、次に来た女生徒を見る。彼女は福富を見た途端、華麗なターンを決めて引き返していった。
 田所から同情じみた視線を感じる。
「大丈夫だ。オレは強い」
「こっちが大丈夫じゃねーよ」
 大きなため息をつくと田所は自身の髪をぐしゃりとかき混ぜ、福富に背を向けた。そして、振り返る。
「来いよ。良い場所、案内してやる」

 案内してやると言われても、田所は福富が誰を待っているかわかるのだろうか。
 田所の少し後ろを歩きながら福富は考える。校門を入って、田所は真っ直ぐにどこかへと進んでいく。どうやら校舎の中ではないようだ。
「ところでおめェ、どうやってきたんだよ」
 不意に田所が喋った。
「今日は電車だが」
「箱学は休みだったのか。授業が終わった後じゃ、この時間に間に合わねぇ」
「いや、早退した」
 普通に福富が答えると田所は声を上げた。あげく勝手にむせている。
 すれ違う総北生たちが不思議そうに福富たちを眺める。これでは余計に目立っているではないか。
 福富の内心も知らず、田所はやっと呼吸を整えるとすぐさま吠えた。
「仮病かよっ」
「違う」
 福富はむっとした。本当に具合が悪かった。あの日以来、あのことを思い返しては頭が熱くなり眩暈がした。勉強も何も手につかない。このままではダメだということは理解していた。しかし、福富はこの問題をどう解決すべきかわからなかった。新開たちに相談するわけにもいかない。
 そして今日、閃いた。午後の授業中、窓から木から落ちる葉っぱを見て唐突に。
 金城に会おう。目の前が開けた思いだった。
 思いついた途端、すぐにでも実行した欲求に駆られる。福富は手を挙げた。教室中の視線に晒されても、福富が思っていたことはひとつだけだった。
 金城、お前に会いたい。そうでないと、オレは息もできないんだ。
「まぁ、そういうことにしてやるよ」
 福富の気持ちも知らず恩着せがましく田所は言い、それで話は終わりとばかり彼は黙った。特に反論したいとも思わなかった福富も口をつぐむ。
 それにしてもどこへ向かっているのだろうか。福富は総北の校舎を見上げる。ちょうど校舎の裏側へと回るように自分たちは移動している。踏みしめる地面はいつの間にかコンクリートから土へと変わっていた。
「ここだ」
 一本の大きな木の前で田所は立ち止まった。葉は流石に大半が落ちてしまっていたが、その立派な幹に目を奪われる。人ふたりくらいならば簡単に裏に隠れてしまえそうなその太さ。
「すげェだろ」福富の反応に気をよくしたのか田所は自慢げな顔をした。福富は頷くより他ない。
「樹齢どれくらいなんだ」
「すまねェ。あんま興味なくて覚えてねェ」
 田所は豪快に笑う。
「今はどうだっていいだろ。ついでに呼んできてやるから。木の影で待ってろ」
 今にも駆け出して行きそうな田所を福富は慌てて引き止める。
「おい、誰を呼ぶつもりだ?」
「金城だろ」
 間髪入れずに声が飛んでくる。福富は思わず息を詰めた。
「最近、仲良いらしいな。メールしてんだろ?」
 口の端を上げて田所は少しだけ笑った。
「メールは、注意されてから控えている」
 そう言うとふぅん。と田所は癖なのか自分の腹を撫でた。
「別にメールぐらい構わねェと思うが」
 言うと急に田所は笑い顔を引っ込めた。なぁ、と福富へ呼びかける。
「金城のこと頼んだ」
 言われた言葉を理解する前に、田所の言葉が更に耳へと流れる。
「あいつは頭が良過ぎて、ちィっとばかし不幸なんだ」
 不幸。背筋に冷たいものが流れる。歪んだ自転車のタイヤが記憶の中でカラカラ回る。福富はただ田所を見つめることしかできなかった。
 しかし、肝心の田所は答えを求める視線に気付かないとでも言うようにその背を翻した。
「おい」
 不幸とは何だ。そもそも何故、オレに頼む。問いかける福富の声を背に受けても田所は振り返らない。代わりに、別れを告げるように片手を上げた。
「多分だけどな。金城にとっておめェは特別なんだよ――昔から」

 ひらり。風に揺られて木から木の葉が舞い落ちる。
 太い幹に背を預けて福富はぼんやりとその光景を眺めていた。
――おめェは特別なんだよ。
 耳の中で残響する声。結局、田所はその意味をひとつも教えてはくれなかった。
“特別”その言葉は嫌と言うほど聞いてきた。
『福富くんは特別』だってお父さんがプロなんでしょ。
『福富は特別だ』あのお兄さんの弟ならこれくらいできて当然だろうな。
『福富さんは特別ですから』ロード一家って感じですよね。羨ましいです。
 特別。一体、オレのどこを見てそんなことを軽々しく言うのだろうか。
『他校のジャージを引っ張った? 何を言ってるんだ』
『落車に巻き込まれたのだろう。相手の子もそう言っている』
『おかしなことを言わないでくれ。君は“特別”なんだ』
 殊更、不愉快な出来事を思い出して福富の顔が引きつる。特別など碌なものではない。
 ざぁっと冷たい風が樹の枝を揺らした。
 そもそもだ。福富は手をすり合わせる。
 金城に特別という定義は存在するのだろうか。
 福富から見た金城真護は、陶器のような表面がつるりとした男だ。白く眩しいがその表面の滑らかさ故に誰も掴まることができない。どんなにこちらが願ったとしても。爪を立てて引っ掛かることもできない。
 メールを送り、一緒に出かけ。福富は手をかける取っ掛かりを探していた。彼の心の内側に入ろうと躍起になっていた。
 そして、ついに――
『物欲しそうな目で見ていただろう』
 そう言って歪んだ彼の顔。完璧だったはずの金城についた小さな傷。
 見つけた。と思った。一気に鳥肌が立つ。興奮を悟られないように金城から顔を逸らした。見つけた。見つけた。
 その視線の先で太陽がゆっくりと沈んでいた。
 あの時、この傷に小指の爪ひとつでも引っ掛けて金城にしがみつく。そう決めた。
 だから、福富はここにいる。
 ひらり。また一枚、葉が宙を舞う。
 恋というものが相手の内側から全てを知りたいと思う欲求ならば、福富のそれは恋だ。
 もうずっとオレは金城に恋をしていたのだと、気付かされた。金城に。
 乾いたくちびるを舐める。ここに金城が触れた。そう考えるだけで身体に火が灯るようだ。
 金城に会いたい。好きだと告げて、触れたい。
 自分の考えに顔に全ての熱が集中する。慌てて福富は首を振った。冷静になれと頭の中で繰り返す。
 賭け事というものは熱くなったら負ける。
 今日、福富は金城に告白する。
 想像して、大きく息をはいた。
 ここ数日、福富はずっと考えていた。金城は何故、あんなことをしたのだろうか。あの時、金城は“友”という単語に反応した。友達と言われても普通は怒らない。もし怒りを感じるのであれば、それはその相手に対して特定の強い感情がある場合だ。友達では嫌だという明確な意志。
 金城はオレに対して強い感情を持っている。そう福富は確信した。その強い感情こそ福富に開かれた金城への微かな隙間だった。
 問題は金城の抱く感情の種類だ。はっきり言って良い感情を抱かれているとは思えない。
 冷たい風が頬を撫でる。告白なんてやめておけ、とで言っているようだ。
 それでも、福富はその場から動かない。頭の中で幼い子どもの自分が駄々をこねている。だって。だって、したんだ。あの時――
 金城はオレにキスをしたんだ。
 キスという行為に特別な貴さを感じずにはいられない。福富のことが嫌いならば憎いならば、許せないのならば。暴力に訴えても、言葉のナイフで切り刻んでも、いくらでも方法はあったはずだ。なのに、キスを選んだんだ。
 キス。口付け。接吻。ベーゼ。言い換えても意味は同じ。親愛を示す行為だ。福富には嫌いなだけの相手にその行為をする気持ちが想像できない。だから、と非常に一方的で都合のいい解釈をする。
 金城真護はきっと福富のことが嫌いではないはずだ。
 そう考える理由は他にもあった。
 金城は福富が名を呼ぶと、僅かにその表情の温度を上げる。初めは単に名を呼ばれることが好きなのかと思っていたが、そうではないことにすぐに気が付いた。金城のその顔をするのは福富の時だけだった。根拠というには弱すぎる理由。
 だが、福富は告白する。それでも1%の可能性に賭ける。
 振られてもいいとさえ、その時は考えていた。福富はただあの高潔な男が福富に抱く感情を知りたかった。憎悪であっても、嫌悪であっても。そんな自分が少しだけ恐ろしい。ただ金城の内側を覗きたかった。
 遠くで掛け声が聞こえる。おそらくグランドで運動部が練習を始めたのだろう。総北は部活動に熱心の高校のようだ。
金城に謝りに総北へやって来た時のことを思い出す。あの時も同じ掛け声が聞こえていた。あの日、福富は金城に許してもらうつもりは欠片もなかった。それは今でも変わらない。一生、自分のやったことを背負って生きていくつもりだ。
 だが、今その想いは変質してきている。
『許さなくていい』から『許さないでくれ』へ。似ているようで中身は全然違う。福富は思う。相手を許さないということは忘れないということと同義なのだ。嫌悪でも憎悪でも彼の心に存在できるのなら、オレは――
 その時、高いラッパの音が鳴り響いた。パーンと澄み渡る青空を割っていくような力強さ。吹奏楽部の誰かだろうか、福富は木から顔を出して校舎の方を振り返った。そして、目に入った人物に息を呑んだ。焦って再び木の裏に顔を戻す。
どくん、どくんと激しい鼓動に脳が揺さぶられる。
「呼び出しておいて、その反応はないだろ」
 呆れたように金城は言った。そして、隠れる福富のすぐ隣まで歩いてきた。まだ帰るつもりはないのか、彼はまだコートを羽織ってはいなかった。
「寒くはないか」
 震える声で福富は訊いた。これでは福富の方が寒いみたいだ。
「オレに用だと聞いたが」
 それを無視して、素っ気なく金城は言った。
 言われて言葉に詰まる。頭の中で何度も練習したはずの台詞が散り散りなって舞っている。彼の前では小細工など無意味なのだと思い知る。
「福富、どうした」
 青褪める福富を気遣わしげに金城が見つめて言った。その優しい音に胸が苦しい。
 どうしようもなく気付いてしまった。知っていたと思うのに、全然足りていなかった。
 オレは金城真護のことが――

「好きだ」

 告げた瞬間。今度は遠くでファンファーレが鳴った。

2015/02/16