「ジュイチ。携帯でなくていいのか」
その言葉に福富は首を振った。
「今は食事中だ。後でかけ直す」
そう言って厚めに切られたバゲッドを頬張る。福富の鞄からは着信を知らせる振動音が発せられていた。
「気になるだろうか」
すまない。と謝ろうとする福富を向かいに座る大柄なチームメイトが止めた。
「オレには聞こえないぜ。こいつが神経質なだけだろ」
そう言って、最初に声をかけてきた黒髪の男を指す。
「そりゃないぜ」
男は肩を竦める。この男も福富もチームメイトのひとりで、金髪をわざわざ黒に染めているという変わり者だ。
今、福富はホテルを抜けて仲の良いチームメイトたちと昼食の最中だった。
「何かビッグなニュースかもしんないぜ。テレビ出演の依頼とかよ」
にやりと笑うチームメイトに福富は内心苦笑する。おそらく、昨日まで戦ったレースの結果を鑑みての発言だろう。
「残念なことに、日本ではあまりロードレースは人気がない」
今回の結果で少しは興味を持ってもらえるといいが。と言っても総合優勝したわけではないのだから、なかなか難しいだろう。
「そうなのか。日本もフットボールが人気なのか」
大柄な男は首を傾げる。
「あぁ。後はベースボール」
そうこうしているうちに携帯電話の振動音が止まった。これで食事に集中できると思ったら、黒髪の男がひたりと福富へと視線を定める。日本人と同じ髪色でも、彼の黒髪は日本人のそれとはまったく別物に見える。主な原因はその瞳の色だろうと、福富は思っている。今、その碧が福富に向けられている。
なぁ。と彼は何気なく言った。
「ジュイチの着信音て二種類あるよな」
ぴくりと眉が動いたのが自分でもわかった。
「そういえば、そうだな」
大柄なチームメイトが頷く。
「たまに日本語? の曲が鳴ってるな」
「そうそう。あの曲って何? 日本で流行ってるの?」
日本文化に興味があると公言している黒髪のチームメイトが目を輝かせる。
「すまないが」
異国の空を思わせる彼の瞳が見つめて福富は話す。
「あの曲は、日本で数年前に流行った曲だ」
記憶とは不思議なものだ。聴く度に鮮烈に思い出す。あの頃を。その気持ちすら。
◇◆◇◆◇
明るく流れる伴奏とは裏腹にどこか哀愁を感じさせる女性の歌声。福富は目を閉じてその旋律を追っていた。そうするとまるでその世界に入り込んだような気分になる。
――愛して。愛して。愛して。
ちょうど盛り上がりのサビに来た時だった。福富のその世界が壊される。
片耳のイヤホンが外された。福富はゆっくりと目を開け、隣の男を見る。
「新開」
呼ぶと新開は悪戯が見つかった子どものような顔をして、イヤホンの片割れを自分の耳に押し込んだ。そして、長い指を立てて自身の唇に押し当てる。静かに。キザな仕草も新開がやるとやたら絵になるから不思議だ。福富はそっと新開から視線を外した。
レース会場へと向かっているこのバスの中では、皆が思い思いに過ごしていた。寝ている者もいれば、仲間と話している者。厳しい規律が存在する明早大学競技部でもバスの中では流石に自由だ。
最後に福富は隣の座席へと視線を戻した。ちょうど片耳から流れる音楽も一番が終わる。
「寿一がこういうの聞くって珍しいな」
驚いたような呆れたようなニュアンスで新開が笑う。
「そうか?」
新開の指摘が的を得ていることを知りながらもわざと首を傾げる。
「寿一。何か誤魔化そうとしてないか」
「していない」
大きな目を半分にして新開が睨む。
「実は昔からこのアイドルのファンだったとか。……ないな。」
ひとりで言ってひとりで首を振る。
「好きな子の好きな曲ってのはどうだ?」
一瞬、金城の顔が浮かんだ。
「ち、違うっ」
「その反応怪しいな」
名探偵のように新開は指を突きつける。そして、「そういえば」と続けた。
「この曲ってさ、ファン以外では女性に人気らしい。どうしてだと思う?」
福富は黙る。
「切ない歌詞に共感する人が多いらしいぜ」
そうだ。一度聞いただけではただの明るいアイドルソングにしか聞こえない。だが、よくよく聴いていると全然違う。 運命的に出会ったふたり、しかし、いつしかすれ違いふたり。女は嘆く。あなたの愛の証拠が欲しい、と。
行くつけのサイクルショップで流れていて、偶然耳にした。その時、福富は目を見開いて咄嗟にスピーカーを見た。驚いた。その歌詞があまりにも福富の心情と同じで。
歌のように、愛の証が欲しいと言ったら金城は笑うだろうか。
この歌では指輪が欲しいと悲しむが、福富は別に何だって良かった。金城がくれる物ならばなんだって。その気持ちを確かめられる物であれば。
「とりあえず、靖友に報告だな」
嬉しそうに口元を緩ませる新開。荒北と新開は会うと本人を差し置いて福富の話題で盛り上がるからたちが悪い。
「やめてくれ」
「まぁ、そう言うなって、寿一。久しぶりだろ、靖友たちに会うの」
今日のレース楽しみだな。と笑う新開の純粋な言葉に福富は内心複雑な顔する。脳裏に荒北とは別の顔が浮かぶ。
「金城は来るだろうか」
「きっとな。楽しみだな、寿一」
肘で突いてくる新開を手で振り払う。言われるまでもなく楽しみだった。一緒に走ることはもちろんだが、単純に会えることが嬉しかった。
もう随分と会っていない気がする。忙しい、忙しい。メールを送ってもそればかりだ。実際、荒北も忙しいとボヤいているから嘘ではないだろう。
わかっていても、放っておかれると苦しい。余計なことを考えてしまう。
本人は否定するが、金城はモテることを福富はよく知っていた。
そんな福富を荒北が救ってくれた。何故か、荒北は忙しいと言いつつ金城の近況を時々福富へとメールしてくるのだ。『金城の奴、工学部一の美女に告白されてたけど断ったみたいだヨ』や『昨日、レポートで徹夜だって目に隈できてるから撮って送る』など。ちなみにその隠し撮りは大切に保存している。
荒北のお節介は福富に一時的に心の平穏をくれた。しかし、それでも心に影が落ちる。当の金城からアクションがないのだ。金城はオレのことをどう思っているのだろうか。毎晩、考えてしまう。
――愛して。愛して。愛して。
再び片耳からサビが流れる。愛しているって証拠が欲しい。でも、嫌われるのが怖くて言えない。
あの日、サイクルショップで耳に留まった二番の歌詞だ。福富は再び瞼を閉じた。
なぁ、寿一。この曲、携帯の着信音にしてやろうか。
その隣で新開が囁いた。
◇◆◇◆◇
無機質な呼び出し音が鳴り響く。福富はベッドの上に置かれた携帯へ手を伸ばした。食事を終えて、ホテルに戻ってきていた。
「オレだ」
「おめでとう、寿一」
電話越しの声は明るく笑った。
「そうだ。あれさ、今度見せてもらってもいいか?」
「あぁ」
当たり障りのない返答をしつつ福富の頭の中では、いつも聞けない質問が渦巻く。
お前は気付いているのか。オレたちの関係に。
何故、お前はあの曲をあいつ限定の着信音に設定したんだ。新開。
◇◆◇◆◇
終わりにしよう。
いつのその言葉が金城の口から滑り落ちてくるのか。福富はソファの隣に座った横顔を注意深く見つめていた。金城は 涼しい顔でお茶を飲んでいる。その様子に変わった所は見られない。大したものだ。
突然、アパートを訪ねた福富を見ても表情ひとつ変えなかった。
何故、そんなに落ち着いていられるのだろうか。自分の焦りを自覚してため息をつく。
ふたりだけでこうして話すのは、この間のレース以来だった。とある女性に指輪を見せつけられたあの日以来。
思い出すと、体温がすっと下がる。
あの日、わかってしまった。金城はおそらくオレを愛していない。
握りしめた手に力が入る。
どうして。いつから。聞きたいことは山ほどあった。だが、それを問いただすことはできない。
訊いてしまったら、もう後戻りはできない。
「どうした」
金城の声に内心福富は飛び跳ねた。
「お茶、飲まないのか」
美味いぞ、と金城は福富を見ずに言った。
「あぁ」
返事をして福富は湯のみに口を付ける。ぬるい液体が喉を通る。味などまるでわからなかった。
「美味いな」
「そうだろう」
金城は微笑する。それがあまりにも普段通りで福富は目を細めた。やはり好きだ。胸に石を敷き詰められたような苦しさだった。
「金城」
「福富」
金城は湯のみをテーブルに置いて、ようやく福富へと顔を向けた。
「この間は悪かった」
福富が目を見開く。手に持った湯のみが揺れ、小さな波が立つ。
「オレはお前を傷つけた。弁明はしない。もしお前が別れたいと言うのならば」
「別れよう」
そう告げると金城は黙った。しんとした沈黙が降りる。
違う。福富は思った。金城、お前が別れたいのではないのか。お前はもうオレを愛してはいないのだろう。
選択権を福富に委ねる金城が理解できない。己の意志はどうだっていいのか。
福富は金城を見つめる。
その目に僅かな苛立ちの色を見出して、福富は目を瞬かせた。どこかで見た覚えがある。そして、思い出した。それを陶器についた傷と喩えた自分を。
色んな記憶が一気に頭の中を巡る。そうか、と福富は息をついた。
不可解な点が線で繋がっていく。
最初から。
――最初からだったのか。
全身の力が抜けるような気がした。何故。そう問いたい気持ちを抑える。
決まっている。復讐いや、これは正当な権利の行使だ。
不思議と悲しみはなかった。それは当然の様に福富の心にすとんと落ちた。薄々気がついていたのかもしれない。
自分があの夏にしたことは、そういうことだ。
指先が痺れていくのを感じて、福富はお茶を置いた。
改めて金城へと向き直る。今、二つの選択肢が福富に眼前に突きつけられている。
“別れよう”と言った彼の顔を思い出す。どこか投げやりにどこか真剣さを帯びて。あれは、復讐という重い十字架から逃れたいという心情の現れだったのか。もう復讐なんて諦めて、解放されたい。そんな感情が見え隠れしていた。
口の端を上がる。
――らしくないな、金城。
それに気付いたらしい金城がはっと身構える。
福富は睨むように金城を見つめた。
「別れない」
「絶対にだ」
一語一語ゆっくりと告げる。金城は目を大きく開いた。
「いいのか」
福富は返答の代わりに金城に口付ける。金城は拒まなかった。濡れた音が響く。
目を閉じて金城の熱を感じながら、福富は願う。
オレに罰をくれ。お前は正しい、一生消せない傷をオレに残せ。お前にはその権利がある。
だから、
だから、それまではオレを決して許すな。憎んで、ずっとオレのことだけ考えていろ。
許せないということは、忘れないということと同義だ。
「福富」
唇が離れてソファに押し倒される。見上げた金城の目に欲を感じて背中がぞくりと甘く痺れた。
「後悔しないな」
「あぁ」
すまない、金城。お前を自由になどさせない。
◇◆◇◆◇
明日の朝にはホテルを出て、イタリアにある家へと帰る。新開からの電話を終えた福富は荷物をまとめていた。と言っても、元々そんなに散らかっていないのですぐに終わりそうだ。
彼はどうするつもりなのか。
ちらりとチームメイトに荷物を見る。お世辞にも片付いているとはいい難い惨状だ。その上、彼は今晩は恋人と遊ぶからホテルには帰らないらしい。先ほど、受けた電話を思い出して福富はため息をつく。まったく、羨ましい。
とりあえず、手に持った靴下をしまうためキャリーバッグを開ける。
そこにあった物に福富は息を詰めた。靴下をしまって、それを取り出す。
福富はベッドに座ると膝の上にそれを乗せてまじまじと眺めた。
これが手元にあることが信じられない。まるで夢のようだ。
金城。福富は恋人の顔を思い出す。
――獲ったぞ、オレは。
◇◆◇◆◇
海外に行ってからというもの、オフシーズン中に日本に帰る時はいつも金城の家へと泊まることが習慣になっている。
福富がプロになってからも、ふたりの関係は続いていた。
その日、福富はオフの日程を告げるために金城に電話をしていた。
「そういうことだから、よろしく頼む」
そう言って切ろうとした福富を金城が止めた。
「ひとつ、頼みたいことがあるんだ」
「珍しいな」
「なに、難しいことじゃない」
なぁ、福富。遊びに誘うような気軽さで彼は言った。
「オレと勝負してくれ」