星を掴む


 


「極楽だな」
 ぼそっと呟かれた福富の言葉に大いに荒北は頷いた。今、荒北たちは民宿の部屋にいる。遊泳禁止時間までぎりぎりまで遊び倒した。その後、宿に戻ってお風呂で温まり、夕食は新鮮な海の幸を堪能した。まさに至れり尽くせりだ。
「寿一、靖友。大富豪はもちろん革命有りだよな」
 夜に使うトランプの枚数を畳の上で数えていた新開が言った。民宿の青い浴衣がよく似合っている。
「当たり前だァ。ぬる過ぎんだよ。八切り、階段も有りだ」
 そこまで言ったところで浴衣の袖を引っ張られる。福富だ。浴衣でさえもきっちり着こなしているのが彼らしい。
「どうしたの、福ちゃん」
おそらく新開には聞かれたくない話だろうと考えて、荒北は小声で尋ねた。
「八切りとはなんだ」
「福ちゃん、知らないのかよ。八切りっていうのはよォ」
 荒北が八切りとはなんたるかを語ろうとした瞬間、勢いよく部屋のドアが開いた。
「皆、待たせたな。準備が整ったぞ」
 騒がしい声にドアの方へ目を向ける。一人だけ外に出ていた東堂が片手を背後に隠して立っていた。たすきがけというらしいが、浴衣の袖を紐で持ち上げている。それにしても準備が整ったとは一体どういうことか。
 荒北が問うと、東堂は人差し指を立てて横に振った。
「荒北、夏と言えばなんだ」
「海だろ」
 数日前に電話越しで言われたことを思い出す。その答えに東堂はわざとらしくため息をついた。
「オイ、てめェが言ったことだろ」
「ならんよ、荒北。流行とは刻一刻と移り変わるものなのだ」
 夏の定番がそう簡単に変わっていいものなのか。荒北は呆れるしかない。
「夏と言えばこれだ」
 言うなり東堂は隠していた片手を前に出した。それはパッケージに包まれた色とりどりの花火だった。

 東堂に連れられて荒北たちはは、民宿の駐車場の一角へとやってきた。周囲に停めている車もなく、コンクリートに覆われたそこは花火をするのには持ってこいの場所だった。そして、水が入った大きなバケツがどんと鎮座している。おそらくこれを東堂は準備していたのだろう。
「なぁ、始めちまってもいいか」
 新開が待ちきれないと急かす。既に両手に花火を持っている。その隣で福富もピンクのヒラヒラがついた花火を持って待機している。
「焦るな、焦るな」
 東堂はそう言いながら地面に立てたロウソクにライターで火を付けた。暗かった場所にそこだけぽっと光が灯る。
「おじさんにはちゃんと許可を取っているが、危ない行動はくれぐれも慎むようにな」
 さぁ、始めよう。東堂の言葉を合図に花火大会は始まった。
 次々に花火へと火を移す仲間たちを荒北は少し離れた位置から黙って眺めていた。色のついたただの棒が炎をまとった瞬間に光を生み出す。その光景はなんとも不思議だった。
 オレは花火と似てんのかもな。不意にそんな考えが浮かんだ。
 荒北の花火は、ちょうど福富が火を点けようと握りしめているような地味なやつ。子どもには見向きもされないような。ひょっとしたら本当はただの棒なのかもしれない。だって、持ち手が折れている。
 荒北はそっと自らの肘に触れた。
 そんな棒っ切れを拾いあげた男がいた。酔狂な男だ。周りは嘲笑った。“馬鹿だなぁ。早く捨てろよ。それはただのゴミだ”そんな声を聞いて、男は棒っ切れを炎へと突き入れた。焼却処分か。違う。男は確信していたんだ。己が拾ったものが“本物”であることを。
 現実の福富が花火に火を点ける。灰色の質素な棒から鮮やかな緑色の火が噴き出す。その様子を眺めながら更に花火について考える。
 ただの棒だった存在も灼熱の苦しみの中で思い出す。自分の中の熱と光を。かつて皆のなかで一際輝いていたことを。花火であることを思い出した棒っ切れは誰よりも激しく燃え上がった。
 福富からロードを与えられた荒北は、自身をも燃やし尽くすように走った。福富を引いて走る時や、ゴール前で敵を追い抜く瞬間、バチバチと本当に火花が散るような感覚がした。だが、それももう終わりだ。インハイが終わった。後は身に残った僅かな火を後輩に受け渡すのみだ。その後は――
 終わった花火はどうなるのか。荒北は水の張られたバケツを見る。そこには、燃えカスとなった黒い棒がいくつもぷかぷかと浮いていた。まるで死体だ。ぞっとしているとバケツに誰かが近づく。福富だ。彼はその手で燃え尽き無残焼け焦げた花火を無造作に水の中へと投げ入れた。その花火が自分であるかのような気がして、荒北は。
「どうした? 花火は嫌いか」
 急に投げかけられた声に荒北は小さく身体を跳ね上げさせた。いつの間にか東堂が隣に立っていた。その手に持った花火のお陰で、周りが少し明るくなる。
「嫌いじゃねェよ」
「なら、どうしてやらんのだ」
 死体を増やしたくねェから。と答えたら東堂はどんな顔をするだろうか。そんなことを考える荒北を東堂はじっと見つめる。
「さっき何を考えていた?」
「アァ?」
 片眉を上げる荒北に対して、東堂は自らが持っている花火へと視線を移した。花火は音を立て勢い火を吐き出している。東堂は穏やかな声でもう一度訊いた。
「バケツを見て何を考えていた?」
 その言葉に荒北は顔をこわばらせた。東堂に見られていた。冷や汗が背中を伝う。適当なことを言えばいいだけなのだが、無言で返答を待つ東堂には妙な迫力があった。
「花火みたいだと思ってよ」
 上手い誤魔化し方が浮かばず、思わず本当のことを言ってしまう。
「何がだ」
 東堂が荒北の方へと振り向く。奇妙な見たような顔だった。
「オレが」
 やけになって告げる。さぁ笑えよ。そんな心境だった。しかし、東堂は笑わない。納得したように小さく頷くだけだった。その反応に荒北は拍子抜けする。てっきり「荒北が花火だと。おもしろい冗談だ」などとからかってくると思っていた。常とは違う東堂の反応に疑問を覚える。そんな荒北に東堂は極めて明るい声で言った。
「荒北が花火だったら、ねずみ花火だろうな」
 驚きに荒北は目を開く。手持ち花火のことばかり考えていたが。確かに、あちこちを走り回り、綺麗だなどと言う隙を与えないねずみ花火は荒北らしいのかもしれない。バケツに浮かぶ花火とは違うと東堂に言われた気がした。
「オレがネズミ花火なら、おめーはどうなんだよ」
 東堂に励まされたようで悔しくて、ぶっきらぼうに問う。答えは聞かずとも予想がつく。
「オレか? 決まっているだろう。打ち上げ花火だ」
 もちろん、世界一のな。と笑いながら夜空を指さす。と、その笑い声がやんだ。
「この星空では、打ち上げ花火も負けるかもしれないんな」
 独り言のような呟きに荒北も空を見上げる。そこには宝石のように輝く星々が所狭しと並んでいた。
 隣で東堂が指した指を動かしながら、何事かを呟いていく。どうやら星座の名前を言っているらしい。
「本当にすごいな、こんなにくっきりと見えるとは」
 感心する東堂。荒北にはさっぱりわからない世界だ。
「詳しいんだな」
「授業でやっただろう。それにこういう話は女性受けが良い」
 女性受けねェ。昼間、ビキニを着たオネーサンに真っ赤になっていた東堂を思い出して荒北はにやにやする。よく女のことはオレに聞け、などと豪語しているがあの様子では大した経験などないに違いない。
 星空に目を奪われている東堂は、そんな荒北の態度を気にも留めないで話し続ける。
「そういえば、昔の船乗りは星を目印にして航海していたそうだ」
「へェ」
 荒北は想像する。どこまでも続く暗い海を。深い静寂を。そして星を目指して進む船乗りを。いつ終わるとも知れない航海の中で、輝く星々はどんなに人々の心の支えになっただろうか。
「花火よりも星になりたいと思わんか? 荒北」
 東堂が持っていた花火を荒北へと突き出す。弱々しく光を放つその棒がバケツに浮かぶのも時間の問題だろう。
「ンなキャラじゃねェよ。オレはァ、花火でいい」
 激しく燃えて潔く散るだけだ。たとえ、燃えカスになって捨てられようと構わない。何故か胸が痛んだ。そんな荒北に東堂は意地悪く微笑う。
「そもそもお前は自分を花火に例えるような奴だったか?」
「今更かよ」
 荒北のツッコミに東堂は大声で笑った。その声につられるように荒北も少しだけ笑う。
 そのうちに東堂の持っていた花火の火が消える。またひとつ死体が増えた。元々はカラフルな色合いをしていただろう焦げた棒を眺めていると、声が聞こえた。
「線香花火やろうぜ」
 新開だ。バケツを挟んで反対側にいた新開たちが手を振っている。荒北が顔を向けたことに気が付くと、新開はもう一言付け足した。
「寿一がやりたいって」
 その言葉に新開の隣にいる金髪の男が何度か頷く。手にはもう線香花火らしきものを握っている。
「策士だな」
 東堂が呟く。
「行こう。皆、お前と花火がしたいのだよ」
 まだ花火はやりたくないか。と訊いてくる東堂を置いて荒北は新開の方へと歩き出す。「おい」取り残されて焦る東堂へと荒北は振り返った。
「福ちゃんが言うなら仕方ねェ」
 早くしろ。と身振りで伝えると東堂は盛大なため息をついたのだった。
 新開の元へたどり着くと、ひょろりとした花火を手渡された。荒北はとりあえずコンクリートに立てられたロウソクの前にしゃがみ込む。ロウソクの火が風圧で揺れた。手に持った線香花火を見ていると、再びロウソクの火が揺れる。荒北は心臓に刃を当てられたようにがどきりとした。
「福ちゃん、ヤル気だね」
 平静を装って声をかける。福富はオレは強いといつもの口癖で答える。その視線は手に持った花火に夢中だ。荒北は止めていた息をはく。
 ほどなくして、新開がやってきて空いている荒北の隣へとしゃがむ。東堂は荒北のちょうど正面へと位置についた。ロウソクを囲んで四人はちょうど円になっている。真夏の夜に男四人が膝つき合わせて座る図はなんとも暑苦しい。
 とりあえずさっさと終わらせようと荒北がロウソクへ花火を近づける。その手を別の手が掴んだ。隣にいた新開だ。
「なんだよ」
 新開の手を振り払って、奴を睨む。新開はその鋭い眼光を涼しい顔で受け流す。
「なぁ、勝負しないか。最初に火を落としちまった奴が全員にジュースを奢る」
 荒北が「面倒くせェ」と言うより速く東堂と福富が頷く。そして、三対の目が荒北に注がれる。またこれかよ。非常に不本意だが、荒北は首を縦に振った。
「ッゼ。わーかったよ」
 荒北に言葉に新開はふにゃりと笑うと、もうひとつ提案した。
「あと、最後まで残った奴の言うことはなんでもひとつ言うことをきくってのはどうだ」
 優勝商品にさ。新開が言い終える前に東堂が「面白い」とはしゃぐ。おそらく既に願いごとを考えているに違いない。荒北もこれには異論はない。まだ終わっていない自分の宿題を思い出す。
「それでいい。早く始めよう」
 待ちきれないのだろう。手に持った花火を揺らして福富が新開を急かす。「オーケー」新開は苦笑する。
 各々、ロウソクの頭上に自分の花火をかざす。
「せーのっ」
 福富の力強い声を合図に一斉に火を付ける。暗闇に淡い光が四つ灯った。
 花火の先端にゆっくりと火の球が形成され、その周りに火花が散り始める。無風なため、火花はコンクリートへと真っ直ぐに落ちていく。
 あっという間に勢いを増していく火花を眺めながら、荒北は慎重に周囲をうかがう。勝つためにはこの箱根学園自転車競技部レギュラー陣を蹴落とさなければならない。手強い奴らだ。荒北は無意識に唇を舐める。
 まず向かいにいる東堂を見る。東堂の口は休むというを知らないらしい。隣の福富に「なぁフク」「それでフク」と楽しそうに話しかけている。おそらく、本気ではないのだろう。勝ちにくる時のあの無言の気迫を知る荒北は、頭の中で東堂に大きくバツをつける。ついでに東堂に妨害されているであろう福富にも、途中で脱落すると考えてバツをつける。
 厄介な奴はひとりだ。横へと視線をずらす。その男はのんびりとした様子で花火を見つめている。
「なぁ、靖友。明日、城を作ろうぜ」
 荒北が見ていることを知ってか知らずか新開が嬉しそうにニヤけた。
「城ってアレか。砂で作る」
「そうだ。今日、すっげーのを作ってる奴らがいてな」
 オレらはもっとすごいのを作ろうぜ。新開が目を輝かせる。
「ガキかよ」
「オレと寿一は城本体を作る。尽八は窓とか装飾がいいな」
 新開は楽しげにそう続けると、荒北を指で撃ちぬいた。
「靖友はロード担当な」
「ちょっと待て。オレだけ難度高くナァイ」
 その前に城に自転車は必要ないだろうが。あえてそこは言うまい。
「大丈夫。靖友ならできる。できそうな顔をしている」
 両手を握り込んで荒北の方へ身体を乗り出す新開。
「顔は関係ねェ。てか新開、お前」
 アウト。荒北がゆっくりと告げると新開は下を向いて自らの手元を見る。さっきまで音を立て散っていた火花が跡形もない。新開が身を乗り出した時に火の球が落ちたのを荒北はしっかりと見ていた。
「オレがビリか。まいったな」
 新開は軽い口調で言うと頭を掻いた。言っていることに反して、大して困ってなさそうに見える。そこへ必死な声が届いた。
「隼人。いつだ、いつ落ちた。当然、オレよりも早かっただろう?」
 東堂だ。見れば、東堂の花火も消えている。どうやら新開と同時くらいに火玉が落ちたらしい。荒北は新開とは反対へ顔を向けた。
「福ちゃん、東堂と新開どっちが先に落ちたァ?」
「すまない。新開の方は見ていなかった」
「オレも東堂がいつ落ちたか見てねェんだよなァ」
 別にどちらでも構わないのだが、罰ゲームの存在がある。荒北は考える。しかし三秒でその馬鹿馬鹿しさに気付き、考えることを放棄した
「面倒くせェ。お前らふたりともビリな」
「荒北っ」と怒る東堂とは対照的に新開は愉快そうに声を上げた。
「尽八、仕方ないさ。とりあえずとっととジュースを買ってきちまおう」
「おい、今行くのかよ」
 立ち上がった新開へと問いかける。福富とふたりだけになるのは困る。またあの目で見られたら。
 新開はそんな荒北を上から見下ろす。
「ついでに腹も減ったし、菓子でも持ってくる。靖友はペプシでいいだろう? 寿一は?」
 りんごジュースだ。花火から片時も目を逸らさずに福富が返事をする。新開は満足気に頷くと同じく立ち上がって「フクに一杯食わされた」だの「フクにやられた」だの呟く東堂と一緒に宿の方へと消えて行った。騒がしい声が消えて火花が散る音だけが響く。
「ねェ、福ちゃん。東堂に何したのさ」
「秘密だ」
 福富は素っ気なく言う。
 荒北は暗闇に仄かに浮かび上がる精悍な横顔を眺めた。
「秘密ねェ。福ちゃん、そこまでして勝ちたいのォ」
 同じ手を使うつもりかと荒北が僅かに身構える。宿題のためにも負けるわけにはいかない。
「勝ちたいわけではない。火を落としたくないだけだ」
 東堂が邪魔してきたからやむを得ずしただけだ。と福富は淡々と言う。
「だから、お前の妨害はしない」
――イヤ、これ勝負なんだけどォ。福チャン。
 荒北は口から出かけた言葉を飲み込む。福富はそれでいいのなら良い。荒北が単純に福富より長く花火を燃やしていればいいだけの話だ。福富から視線を離して自分の手元を見る。花火はまだバチバチと火花を散らしている。この勢いならば当分持ちそうだ。安心する荒北に福富が声をかける。
「荒北、知っているか」
「なんだよ、福ちゃん」
「線香花火が消えるまで火を落とさずにいられたら願いが叶うらしい」
「それで、落としたくないわけェ?」
 俯いたまま、荒北は苦笑いした。
「福ちゃんてそーゆーの信じるタイプだっけ」
「まさか」
 そうだろうな。荒北は思う。荒北の知っている福富寿一という男は、どんなことがあろうと自らを鼓舞して前を進むのをやめない。きっと彼ならば願いごとは自力で叶えたいと願うだろう。
「だが、それを聞いて考えていた」
 低くよく通る声が荒北の耳へ届く。
「もし願いが叶うとしたら荒北は何を願う?」
「ねェな」
 即座に答えて、荒北は歯を食いしばる。夢の残骸を思い出すのが恐ろしかった。
『野球選手に絶対になってやるからァ』遠いどこかから声がした。
 その少年の肘は必ず故障する。
 「過去は変えらんねェ」
 そうだろ、福ちゃん。無機質なコンクリートに荒北の言葉が反射する。
 ぱちぱちぱち。終わりが近いのか、花火も元気がない。だが、荒北にはそれを気にするだけの余裕はなかった。
「やはりそうか」福富がため息をつく。荒北は反射的に顔を上げた。
 福富と目が合う。福富は荒北を見つめていた。あの全てを見透かすような瞳で。凍りつく荒北へ福富は口を開く。

「お前は今、前を向いてない」

 何を言って――。手が震える。ぽとり。スローモーションのように線香花火の火玉が地面に吸い込まれていく。荒北はその様子をただ呆然と眺めることしかできなかった。



2015/02/01