星を掴む


 


“前を見ろ 遠くを” “前だけを見ろ”
 いつかの言われた福富の言葉がピンポン球のように脳内で反射する。あの日から荒北は生まれ変わった。過去の自分とは決別をし、前だけを見て走ってきた。いや、それが前なのか横なのか、はたまた後ろなのか荒北は知らない。ただ進むことができればどこへでも良かった。
 イヤ、それも正確じゃねェ。ピンポン球が激しく飛び跳ねて頭蓋骨を割って出てきそうだ。荒北は自分の前を走る金髪の男にただついて来ただけなのかもしれない。その背を見失いそうで焦っているのが、今の荒北だ。
 己がどこを向いているかもわからず右往左往している。福富だけには、そんな自分を知られたくなかった。しかし、彼の目を誤魔化すことはできなかった。ピンポン球は動き続ける。内側から脳が破壊されていく。頭痛がひどい。
 荒北は頭を抑えた。頭上で燦々と輝く太陽が恨めしい。まるで自分が世界一正しいみたいな顔をしやがって。荒北は心の中で悪態をつく。
「大丈夫か、靖友」
 荒北と同じように砂浜に座る新開が心配そうに顔を隣から覗きこむ。湿った茶色の髪が潮風に揺れる。旅行二日目、荒北たちは再び海へとやってきていた。しかし、荒北にはあまり記憶がない。
 昨夜の花火大会の後から、頭が痛くてたまらない。おかげで夜の大富豪では大負けだった。はっきりした記憶はそこで切れている。後は断片的な記憶しかない。痛みのせいで朦朧としていたのかもしれない。
「体調悪そうだ」
 そんな荒北を新開はとっくに見通していたに違いない。飄々とする顔の裏で実に細やかな神経が張り巡らされていることを荒北は知っている。
「問題ねェ」
 それだけ言うとそっぽを向く。誤魔化すように福ちゃんはァ? と尋ねる。この場には荒北と新開しか居なかった。
「寿一は尽八と一緒にアイス買いに行ったよ。もう忘れちまったのか」
 ほら、昼にラーメン食ったところ。新開に言われてぼんやりと思い出す。「大丈夫か」新開はもう一度繰り返した。
「ッゼ」
 波の音に混じって海で人々のざわめきが聞こえる。楽しそうな甲高い悲鳴や笑う声。自分とは別世界のようだ。
「なんか悩みか」
 なおも言い募る新開を睨む。このお節介野郎。
「ほら、オレら受験生だしな」
 一応。と付け足して新開は微笑む。
「海で遊んでる場合じゃないよな」
 人事のように新開は言った。その余裕のある表情は受験生にはとても見えない。
 荒北は新開の受験生という発言に内心動揺する。
「おめー、受験すんのかよ」
 驚いた。新開の実力ならば、高二でブランクがあったとはいえ、スポーツ推薦で行ける大学も多いだろうに。
「どうしても行きたい大学があるんだ」
 迷いのない瞳で。晴れ渡る青空の下、新開ははっきりと宣言した。
「オレは寿一と同じ明早大学に行く」
――何を言った。新開は何て言った。
 耳から聞こえた単語が順番に荒北の脳へと運びこまれる。新開。福ちゃん。同じ。大学。
「福ちゃん、明早大学行くんだ」
 放心したような呟きを新開は耳聡く拾う。
「寿一から聞いてないのか? 多分、寿一は推薦だろうな。羨ましいぜ」
 聞いてない。荒北は福富はお互いに進路の話などしたことがなかった。荒北が聞くこともなかったし、福富が聞いてくることもなかった。荒北が無意識に避けていたのかもしれない。
 福富はこれからきっとプロへの道を歩む。荒北は、同じ道へと行くことはできない。たとえ同じ大学へと進学しようとも、チームメイトになろうとも。福富と同じ道を進むだけの実力も覚悟もない。
 そして、ひとつの光景が荒北の脳裏に浮かぶ。ロードバイクに乗って福富を引く新開。箱根の直線鬼。福富にも決して劣らない箱学最速の男。この男ならば。
「そうだ。靖友はまだ本命決まってないんだろう」
 明るい声で新開が話す。隠してあったとっておきのお菓子を見つけた子どものようだ。新開の荒北へと手を差し出した。
「一緒に来ないか。明早大学に」
 一点も曇りもない目で新開は言った。その瞬間、頭が真っ白になった。
 何に腹が立ったのか。福富の志望校を新開から聞かされたことか。躊躇いなく福富と同じ大学を選べる新開にか。それとも、差し出された手を取れない自分にか。
――お前は今、前を向いていない。
 昨夜の福富の声がいくつも鐘を鳴らしたように、何度も響く。頭が割れる。
 ちょうどその時、太陽が雲に隠れた。日差しが陰る。今ならどんな悪事も見逃すかというように。
 心臓がどくどくと音をたて、頭のてっぺんがカーッと熱くなる。
 バチン。気付いたら荒北は新開の手を引っぱたいていた。
「気持ち悪ィ」
 吐き捨てるように言う。
 新開は驚いたように目を瞬せ、叩かれた自分の手と荒北の顔を交互に見比べた。
「靖友」
「何が一緒に行こうだ。仲良しクラブじゃねェーんだよ。大体」
 荒北の口は止まらない。思ってないことあること分別なく、マシンガンのように飛び出していく。
「福ちゃんと同じ大学に行くって、おめーはちゃんと自分の頭で考えたのかよ」
「なーんも考えずに決めたんじゃねェの」
 言い過ぎだ。頭の肩隅で残された理性が喚く。
「考えたさ」
 一気に喋り過ぎたせいで肩で息をする荒北に、新開は静かに告げた。その顔に深い決意の色をにじませて。
「今度こそオレは寿一との約束を果たす」
 その約束は荒北も知っている。箱根学園に入学する際、福富と新開は必ずインハイで一緒に優勝しようと誓ったそうだ。
 御立派な友情だ。オレと福ちゃんにはそんな約束はない。心に冷たい風が吹く。
「だから、靖友も」
 今度こそ一緒に天下を獲ろう。荒北に叩かれた手のひらが赤くなっているというのに、再び新開が手を差し出す。やめてくれ、これ以上追い詰めるな。荒北の意志を裏切って口が勝手に動く。
「勝手にやれよ、甘チャンが。オレを巻き込むんじゃねェ」
 荒北の尖ったナイフのような暴言に新開の顔が悲しげに歪む。
 友人のその表情に急激に荒北の頭は冷えていく。バカな真似をした。こんなのはただの八つ当たりだ。差し出されたままの新開の手を見ることができない。
 うなだれる荒北に新開は穏やかに微笑んだ。
「わかった、無理に誘って悪かったよ。大学行ったら靖友が今度は敵なんだな」
 オレはそれはそれで楽しみだよ。とそっと言い添える新開は、荒北が知っている新開よりずっと大人に見えた。それに比べて、オレは。荒北は新開に頭を下げる。
「言い過ぎた。悪かった」
「キツイよな、靖友は」
 へらりと笑うと新開は赤くなった手の平を撫でる。
「ワリィ」
「気にすんなよ。オレも無神経だった」
 もし、悪いと思うなら城作り頑張ってくれよ。と爽やかに笑う新開に荒北は脱力する。本当にこの男は。
「わーかったよ。でもその前にひとつ訂正させてくれ」
 それはまだ誰にも話していないことだった。新開ならば、言ってもいいかもしれない。一度、自転車を降りようとしたこの男ならば。

「オレ、大学でロードやんねェかもしんねェ」

 ぽつり。荒北の鼻の頭に水滴が落ちてきた。見上げると空が分厚い雲に覆われている。そして、みるみるうちに雨が強くっていく。荒北は舌打ちをした。
「おいっ新開。早く福ちゃんたちと合流して避難すんぞ」
 そこで始めて新開の様子がおかしいことに気が付いた。新開は目を大きく開いて荒北を見つめていた。いや、正確には荒北の背後を見ていた。「寿一」囁くように言われた名に荒北は振り返る。
 アイス濡れちゃうよ。真っ先に思ったことはそれだった。降りしきる雨の中をその男は彫像のように立っている。
「福ちゃん」
 一番知られたくない人間に知られてしまった。遠くで雷鳴が鳴り響くのを荒北はどこか人ごとのように聞いていた。



 寝ている時に中途半端な時間に目が覚めてしまうことがある。今がそれだった。荒北は徐々に意識がはっきりしていく感覚にため息をつく。
 こうなっては仕方がない。思い切って目を開く。とそこにはまた暗闇が広がっていた。そのまま辛抱して見続けるとだんだんと目が慣れてきたのか、古風な電灯の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
 ゆっくりと周囲をうががう。膨らんだ布団が三つ見える。規則正しく聞こえる寝息から、荒北を除いた三人は寝ているらしい。音を立てないように荒北は慎重に枕元を探る。携帯があるはずだったが、何の手応えもない。どうやら寝る前に置くのを忘れたらしい。思わず舌打ちをしそうになる。
 これからどうするか。荒北は考える。このまま無理やりに目を瞑って寝る。却下。頭が冴え過ぎて絶対眠れない。朝までこの状態というのは拷問に等しい。
 次、とりあず携帯を探す。無理。どこにあるか検討がつかない以上、電気を点けないと見つけるのは難しいだろう。
 ふと窓へと荒北は視線を向ける。外の様子は窓の前にある障子に阻まれて見えないが、おそらく昨夜みたいな星空が広がっているのだろう。昼間の雨はとっくに止んでいる。星が見たいと思った。
 荒北はのろのろと身を起こし、立ち上がる。寝ている東堂たちを踏まないように気をつけながら、窓へと向かう。
「巻ちゃーん」急に聞こえた声に足を止める。おそるおそる下を見る。
 ちょうど荒北の左足のすぐ傍に東堂の顔があった。東堂も流石に寝る時にはカチューシャを外していて、長めの黒髪が枕の上に流れている。今、その目はしっかりと閉じられ口元は嬉しそうに笑っている。起きてはいないようだ。「いい夢みろよ」荒北は捨て台詞を吐くと再び足を進めた。
 窓辺に辿り着き、そっと障子を開く。思った通りだった。空にはたくさんの星々が浮かんでいる。こうなると外に出ていきたくなる。鍵を外して、慎重に窓を開ける。一歩踏み出すと出るとむっとした暑さを感じた。冷房のきいた部屋と外との境界線をやっと越えた。荒北の気分が高揚する。
 荒北は外に出してあったサンダルを履き、窓を再び閉める。その際に、中を覗きこむ。さっきと同じく、布団の山が三つ見える。そのどれもが動き出さないことを確認した荒北は窓から離れた。

「スッゲ」
 星空を眺めて荒北は感嘆の声をあげる。東堂のように星座についてはまったく知らないが、これだけびっしりと星が詰まっているならば荒北でも新しい星座を作れそうだ。空を指さして一筆書きで星々を適当に繋いでいく。
“からあげ座”が完成したところで、庭から見える道に見覚えがあることに気が付いた。昨日と今日、海へ向かう時に通った道だ。ここから海に行ける。
 行きたい。またも衝動的に荒北の足は動く。今日は浴衣ではなくTシャツに短パンだ。見咎められこともないだろう。少しくらいなら平気だ。心の中で言い訳を重ねて、荒北は早足にその場を去っていった。

 まるで知らない道を歩いているような不思議な感覚だった。昼間に、皆と歩いた時とは全然違う。唯一波の音だけが変わらないで聞こえる。
 ゆるい坂道を登りきると海が見えた。太陽の下では輝く青色が月の下では暗い濃紺に見える。荒北はそのまま波打ち際へと歩いていく。しゃくしゃくと砂を巻き上げて。
 ぎりぎり波が届かない位置まで来ると、荒北は腰をおろし、体育座りの姿勢になった。そして、波が行き来するするのをただ眺める。静寂と穏やかな波の音が、荒北を優しく包み込む。ゆるゆると今日あったことを思い返す。
 海で豪雨に遭ってから、福富と荒北は一言も話さなかった。夕食前に東堂に心配そうに「ケンカでもしたのか」と問われたが、別にケンカなんてしていない。荒北が福富を一方的に避けていた。
“ロードやんねェかもしんねェ”新開へと言った自分の言葉を思い出す。変に意識してしまって、荒北は福富のことが見れなくなっていた。当然、話しかけることも。そんな荒北の様子を察してか、福富も荒北へと近寄っては来なかった。ただそれだけ。何もない。
 決して、荒北がロードを辞めることに福富が怒っているからではない。
 怒るはずがない。福富には唯一で絶対の判断基準がある。それは、ロードに関係あるかないか。ロードに関わることならば、彼がその鉄仮面をいとも容易く脱ぐことを荒北は知っている。いや、新開のうさぎの件で思い知らされた。
 だから、本当は期待していた。自分がロードを辞めると聞いた時、どう反応するのか。
結果は――
 福富は何も言わなかった。雨が降り注ぐなか、荒北と新開に「行くぞ」とただ一言だけ寄越して。
 わかっていた。最初から、わかっていた。荒北はこぶしを握りしめる。力が入り過ぎて、手が震える。
 福富が欲するのは強者だ。新開のように福富に匹敵する実力を持つ者だ。その新開が差し出した手を思い出す。
――一緒に来ないか。明早大学に。
 その手を余裕で掴める人間であったら良かった。同じ大学へ行こうと荒北の望みは叶わない。最初は、彼を見返してやりたかった。そのうちに、彼の助けになってやりたいって思った。でも、本当はずっと、

――福ちゃんに必要とされる人間になりたかった。

 荒北は顔を伏せ、額を膝に強く押し付ける。そうしなければ荒北を形成する全てが、音を立てて崩れていくようだった。


2015/02/01