あの夏の旅行から数年が経った。荒北は学びたい学部があった洋南大学へと進学した。結局、ロードも続けた。思っていた以上に荒北の中でロードの存在は大きかったようだ。大学でチームメイトになった金城と共に走った。時には、エースとして明早大の福富とゴールを競ったこともあった。
大学を卒業して就職した今ではレースに参加することはないが、今でもロードバイクには乗っている。
「ひとまず休憩だ」
開発部長の鶴の一声に、荒北は身体の力を抜いて背もたれに寄り掛かる。会議室の椅子は荒北の課に置かれている椅子よりも数段、良いクッションをしている。
周りでも皆、背や腕を伸ばす気配がする。本社で開発部全体の会議なのだが、予想以上に時間が延びている。出番を待っている荒北には無駄に感じることが多くてイライラした。
「緊張してるか?」
隣から楽しそうに話しかけてくる課長に荒北は「全然」と返す。安物のスーツが少しだけ窮屈なだけだ。
「頼もしいな、荒北は。次はお前の出番だからな。しっかりやれよ」
「ヘイヘ、じゃねェ。はい」
「お前は口が悪いのだけは残念だな」
白髪交じりの課長は茶目っ気たっぷりに言うと小銭を渡してきた。
「これでコーヒーでも飲んでこい」
「いいんですか」
「初めての会議だ、疲れているだろう。少し外の空気でも吸ってこい」
「あんが……ありがとうございます」
失礼しますと背を向ける荒北に部長は呟いた。
「お前のプレゼンにかかっているんだ。期待してるぞ。」
「ペプシねェのかよ」
会議室を後にした荒北は、自販機の前で唸っていた。
赤にカラーリングされた筐体は、幸いなことに出てすぐに廊下の隅で発見することができた。そこはソファが置かれ、ちょっとした休憩室のようになっている。横には屋上へと続く階段があった。
荒北は他に飲めそうなものを探すが、特に興味を引くものはなかった。仕方なく、小銭を上着のポケットへとしまう。と、指先に硬いものが触れる。携帯だ。取り出して、電源を入れる。
新着メール一件。新開からだ。
『今年はトマト鍋にしようぜ』
鍋。もうそんな季節か。荒北の口元が緩む。
いつからそうなったかは定かではないが、毎年の年末に荒北のアパートで荒北、新開、東堂、福富が集まって鍋をすることが慣例になっていた。それは大学時代から続いており、社会人になって静岡を出た後でも続いている。海外のプロチームに行ってしまった福富とは今となってはこの時ぐらいしか会う機会がない。
時計を確認すると、まだ会議までは時間がある。ふらりと荒北は階段へと足を向けた。
屋上のドアを開けると肌寒い風吹いた。秋から冬へと向かうこの時期は、夕方を過ぎると気温は涼しいを通り越している。
周囲を見回す。昼休みは社員で賑わっているという屋上も、定時を過ぎた現在では誰もいない。そんな薄暗く寂しいコンクリートの上を荒北は歩いて行く。
柵に近づいて街を見下ろす。高いビル郡はまだ明るく、ギラギラと主張するように光っている。「お疲れチャン」荒北は同情するように笑い。
そして、ようやく薄闇に包まれた空を見上げる。
都会は下界がうるさいせいか、いつ見ても星など数えるほどしかない。時には曇りで見えない日もあった。白い雪が視界を覆う日も。それでも、荒北にはいつも見えていた。あの美しい満天の星空が。
福ちゃん。荒北は音にせず名を呼ぶ。
福富との関係をどう言い表せばいいのか。荒北は未だにわからない。この世にあるどんな言葉でも、言い過ぎなような、足りないような気持ちになる。そんな関係が心地よくて不満でもあった。
あるような、ないような距離を保つふたりを他人は友人と表現する。
それは真実なのかもしれない。荒北が思い違いをしているだけで、
ふたりの間にはもう“特別”といえる関係などないのかもしれない。
荒北は寒さで白くなった右手をまじまじと見つめる。
だが、あの降るような星空の下で福富は言った。
『離すな』と。
あの夜。名残惜しくも星を海へと返し、浜辺へと向かう途中。
『荒北』
『なに、福ちゃん』
名を呼ばれて福富の顔を見れば、なにやら複雑な顔をしている。
『線香花火の願いごとをしてもいいか』
そう、争っていた荒北が自爆したお陰で福富が優勝していた。格好悪い自分を思い出して荒北が顔をしかめる。
『で、何をお願いすんのォ? 福ちゃん』
冗談でなく、福富の願いならば何でも叶えてやりたい。
荒北の真剣な眼差しに逃げるように目を逸らして、福富は小声で言った。彼にしては珍しいことに。
『手を繋ぎたい』
『え』
呆気にとらえる荒北に『すまない、忘れてくれ』と声をかけると、福富は足早にひとりで進んでいく。
残された荒北は、福富の言葉を反芻する。
――手を繋ぎたい。
考えるよりも早く、荒北の足は駆け出していた。飛沫を上げて、前を行く福富へと追いつく。
『福ちゃん、待って』
『オレは眠い。さっさと帰るぞ』
福富は自分の落とした爆弾を忘れたように素っ気なく言う。しかし、その頬が心なしか赤いのは荒北の気のせいだろうか。
たまらず荒北は福富の手を伸ばして、強引に指を絡ませる。大きくて無骨な手。自転車のハンドルを握るための手だ。
『いいよ、福ちゃん』
『一生、離さねェ』
誓うように荒北は言った。
『荒北』
硬い声で福富が名を呼ぶ。
『やだ?』
今更、拒絶される可能性を考えて荒北の背筋が涼しくなる。そんな荒北に福富は険しい顔で囁いた。
『絶対に離すな』
『福ちゃん』と荒北が言う前に、福富はひとりで前へと進んでいく。手を繋いだまま。
握られる力が強くて『痛ェ』と荒北は笑った。すると、『オレもお前のせいで痛い』と福富が文句を言う。
それでも、お互いに力を緩めない。逃がさないでもいうように。
捕らえて、囚われているふたりの頭上で静かに星々が瞬いていた。
あの時に触れた手はまだ繋がっていると、荒北は信じている。
その時、携帯が震えた。慌てて確認すると同じ部署の後輩からだった。
『荒北先輩、お疲れ様です。会議どうでしたか? 週末、どこ行きますか?』
その後輩は、ロードバイクで研究所に通勤する荒北に憧れてロードを購入したという強者である。物怖じしない性格で、こうやって時々サイクリングに誘ってくる。が、今は関係ない。荒北は焦って時計を見た。
荒北は夜空に背を向けて屋上を後にした。幸い、あまり時間は経っていなかったが、自分の発表の準備でもしようと思った。そのために、あの退屈な会議に出席させられているのだ。
正直なところ、今日の発表がどう転ぶかわからない。荒北が偶然に見つけた新技術だったが、まず部長に評価してもらわなければどうしようもない。仮にうまくいっても製品化して商品が世に出回るのは随分先の話だろう。
花火が空で散るのは、まだまだ先になりそうだ。荒北は苦笑する。
階段を下りながら、ついでに新開へと返信をする。
『却下。今年は昆布だしに決めてるから』
外国暮らしの福富のために、新開には悪いがどうしても和風が良かった。耳に仲間たちの騒がしい声がよみがえり、荒北は年末へと思いを馳せた。
狭いワンルームに不釣合いなリサイクルショップで安く売っていたでかいこたつ。そこへ、男四人が足を突っ込んで鍋を囲む。毎回荒北と新開が争うように肉ばっかり食って、東堂が呆れる。福ちゃんはたまに先にひとりで林檎食ってたりする。高校の頃から変わらない風景。
そして、深夜もだいぶ過ぎる頃。向かいの東堂が顔をこたつへと突っ伏して、新開が目を閉じて「あの夏の旅行で、帰る直前までみんなで作った砂の城、すごかったよな……」なんて寝ぼけるといつもする話を始める頃。
こたつ布団の下、荒北の指先にそっと誰かの手が触れてくる。不安そうに、探るように繊細に絡められる指。手の持ち主を見ると、金髪の後頭部を荒北に向けて寝ている。が、いつも首まで真っ赤なので起きているのはバレバレだ。
「福ちゃん」小さい声で呼びかけても、返事はない。
代わりに新開が「特に、やすともの作った砂のサーヴェロかっこよかったー……」と言って、こたつに潜り込んで野球雑誌を枕に本格的に寝始める。
それでも福富は寝たふりをやめない。ため息をついて、荒北は福富の手を強く握る。
あの日と同じくらいに。
その瞬間に、小さく肩を跳ね上げさせる福富を見て思う。
――あの時、確かに星を掴んだ。
【星を掴む】