オレがお前に触れる時、どれだけ緊張しているか。お前は知らないだろう。
インターホンの前で福富は大きく呼吸した。寒さで白くなった息が空中へと舞って消えていく。
それを横目で見送りながら、福富は手を握りしめる。
今日こそ。今日こそ、本懐を遂げる。
静かに決心して福富は手を伸ばす。氷のように冷たいインターホンのボタンに触れた。
毎年、年に一回。荒北の家へ箱根学園自転車競技部旧三年レギュラーが集まって鍋をすることが、いつ間にか慣例となっていた。海外のプロチームに所属している福富にとってはこの日は友人たちと過ごせる貴重な時間だ。いつも楽しみにしている。土産にワインを買ってきてしまうくらいに。
それにしても。福富は逸る胸の内に問いかける。今日ほど緊張してこのドアの前に立った事はないのではないだろうか。。
珍しい事に今日はメンバーの内も二人が欠席となってしまった。東堂は親族の結婚式の為に今頃はハワイに行っている。新開はこちらに向かっていたのでが、大雪の為電車が止まっているらしい。先ほど、『行けるかわかんねェ』と連絡があった。
彼らに会えないのはとても残念だ。海外に行ってから電話やメールはできるが、直接会う機会はあまりない。本当に残念でならない。
だが。福富はインターホンを睨む。
裏を返せば、今日は荒北と二人きりと言うことだ。
福富はもう一度短く息を吸うと、意を決してボタンを押した。
明るいチャイムの音が鳴り響く。
そして、数秒の沈黙。胸の鼓動が徐々に大きくなっていく。
早く。早く。早く。
プツっと音がしてインターホンが中と繋がる音がした。
「オレだ、荒北。入れてくれ」
居ても立ってもいられず福富は早口で告げる。一刻一秒惜しいほど逢いたかった。
しかし、そんな福富の思いとは裏腹にインターホンは沈黙する。
「荒北?」
怪訝な顔をする福富に申し訳なそうな声が小さく届けられた。
「荒北さんはこの右隣りです……」
「それで福ちゃん、着いたとき顔真っ赤だったのォ」
こたつの反対側にいる荒北は大きく口を開けて笑う。福富はそれを恨めしそうに眺める。
「そんなに笑うことはないだろう」
隣の人に聞かれたらどうする。
「だって、福ちゃんがそんなミスするなんて」
荒北はまだ喉の奥でクックと笑っている。
「仕方がないだろう」
福富は机の真ん中に置かれた鍋をかき混ぜる。既に目ぼしい物は食べつくされ、千切れた豆腐が浮いているばかりだ。
「まだ具、残ってけど足す?」
「いや……」
荒北の言葉に福富は首を振る。カセットコンロの火を消すと鍋の煮え立った音が消え、急に辺りが静かになったように感じる。
「それにしても、今日は静かだねェ」
福富の考えを代弁するように荒北が呟いた。
「東堂と新開がいないからな」
騒音の原因ナンバーワンとツーだ。東堂は言わずもがな。新開は本人は大人しいのだが、いちいち荒北の突っ込みを誘発するような行動をする為この順位だ。その証拠に現在福富と向かい合っている荒北はいつもより口数が少ない。
「まぁ、こんな風に福ちゃんと二人で酒呑むのも悪くねェ」
伏し目がちにそう言う荒北にどきりとする。血液が頭に昇る感覚がした。
「あれ、福ちゃん酔ったァ?」
顔が赤い。そう荒北に指摘されより一層意識してしまう。言ってしまおうか。福富はひっそりと覚悟を決めた。
「荒北」
今日こそ言わなければならない。二人で、あの夏の夜の海で星空を見上げてから幾年も経った。あの頃の漠然とした感情に恋という名が付いたのはいつからだろうか。。
福富は自らの柔らかい想いに触れる。
好きだ。好きなんだ。
「なァに、福ちゃん」
軽やかに荒北が笑う。その笑顔が少しだけ憎い。
この男はどんな想いで毎年こたつの中で差し向ける福富の手を握り返しているのだろうか。単なる気まぐれ。仲間意識。同情。そのどれもありそうで、どれも違う気がした。
福富の手を握る荒北の手。痩身な外見に反して節くれだったしっかりした手。その手はいつも潰れるのではと思うほど強く福富の手を握る。その力強さに信じてしまう。
荒北もまたあの頃の、星を掴んだ時と同じ気持ちなのではないかと。いや、それ以上だ。期待してしまう。荒北にとってオレは特別な存在なのではないかと。
荒北。お前はどうしてオレの手を握り返す。
無言で見つめる福富に荒北は誤魔化すように酒の入ったグラスに口を付ける。白い喉が上下に動く。
それを見ながら福富の耳に海のさざめきと共に己の言葉が甦る。
会いにいけば良いと言った。地球の裏側にいても会いに行けば良いと。
だが、現実はどうだ。少し海外に行ったくらいでオレたちはメールすらままならない。夢を叶えて自由を失ってしまったのか。瞼の裏で星空が瞬いた。
――違う。
あの頃から少しも変わっていない。今も昔も自由とは
――勝ち取るものだ。
コンとテーブルにグラスが置かれた。口を拭う荒北に福富は息を静かに吸う。その間にも心臓はうるさいくらいに鼓動を刻む。トップスピードでペダルを漕いでいる時と同じ感覚がした。ゴールを、勝利を逃さない。
「荒北」
再度呼ぼれた名に荒北は目を開く。笑みが消えて剣呑な顔つきになった。一瞬の出来事だった。福富の背にひやりと冷たい物が落ちる。
「やっぱりおかわり欲しいのォ?」
すぐに表情を戻した荒北は何事もなかったかのように振る舞う。その手が再びグラスに伸ばされる前に福富は声を上げる。
「荒北。聞いてくれ」
すると荒北の足先が福富の脚に軽く触れた。牽制するかのように。
「そいつは聞けねェ」
掠れた荒北の声。その短い言葉に殴られたような強い衝撃を受ける。
それは明確な拒絶だった。
呆然とする福富に荒北は何事かを呟く。
「福ちゃん。オレはまだ
――」
その時、間の抜けたチャイムの音が鳴り響いた。ぴんぽーん。
連打されるその音に荒北は舌打ちをして立ち上がる。ぽっかりと空いた目の前に福富は安堵の息をつく。
良かった。あのまま荒北と向い合っていたのでは辛過ぎる。
すぐに荒北は戻ってきた。隣に救いの神を連れて。
「寿一、久しぶり」
赤い鼻で微笑む新開。後光が差しているように福富には見えたのだった。
「うっめェ」
タクシーでやって来たという新開は荒北が元いた場所に座り、夢中で鍋を食べている。齢を重ねて精悍さを増した顔が子どもみたいな笑顔を浮かべている。
「たくっ。オメェも相変わらずだなッ」
呆れたように。だが、どこか嬉しげに荒北が悪態をつく。
「靖友もな」
「ッゼ」
福富は横目でその顔を眺めていた。何事もなかったかのように振る舞う荒北。新開に座らせた後、迷わず彼は福富の隣へとやって来た。
嫌ではないのか。気持ち悪くはないのか。
福富には理解できない。
それとも、荒北はまだ友人であり続けようと考えているのだろうか。告白は未遂に終わったから無効だと。
新開が何か言って、荒北が口角を上げている。
上辺だけの友情を続けたいというのか。福富の眉間に皺が寄る。
そんな事は不可能だ。友情をとうに通り過ぎた感情は後戻りなどできない。
福富はこたつの下で手を忍ばせた。指先が相手の手に触れた時、荒北の眉が僅かに動いた。
「靖友は仕事はまだ忙しいのか」
確かめるように手の甲を撫でる。
「……まぁまぁだ」
優しく指を絡ませて挑発する。
告白さえさせてもらえないのならば、こうでもしないと諦められない。
さぁ、振り払え。拒絶しろ。中途半端な優しさなどいらない。終わらせてくれ。
しかし。
「あ」
ぎゅっと手を握られた。いつも以上の力強さで。
「寿一?」
福富の上げた声に新開が怪訝な顔をする。
「何でもない」
小さく頭を振って誤魔化すと福富はそっと隣を窺った。荒北は頬杖をついてそっぽを向いていた。その頬が赤く見えて心がざわめく。願望が見せた幻だと言い聞かせるが、握られた手の熱さに希望が。眩暈がする。
福富は空いている手でグラスを呷った。新開が「いいぞ。寿一」と楽しそうに手を叩いた。
「どういうつもりだ」
例の思い出話を呟いて新開が眠ってしまい、ようやく福富は頭で巡っていた疑問を吐き出した。
あの後、不自然に片手を使わない自分たちの事を新開が不審に思わぬよう、幾度か手を離そうと試みた。だが、その度に荒北は逃さまいとでも言うように追いかけてくる。今も二つの手はこたつ布団の下で繋がったままだ。
福富の言葉に荒北は遠い目をして微笑む。
「福ちゃんさ、焦んなよ」
指相撲のように荒北の親指が福富の親指を捩じ伏せる。
「焦ってなどいない」
負けじと福富は親指の体勢を立て直した。
「オレはずっとお前のことを」
福富の垂直に伸ばされた親指が正面から荒北へと向かっていく。
「ストップ。福ちゃんまだ早ェよ」
それを荒北も親指で真っ向から受け止めう。指紋が強く押される。
「早くない」
「早ェ」
力は福富の方が強いはずなのだが荒北は一歩も譲らない。
「大事にしてェんだヨ」
わかれよ、福ちゃん。溢れる言葉の数々が鼓膜を揺らす。
「わからない」
福富は指に力を入れる。核心に触れそうで触れない荒北に焦れる。
つまり。どうなんだ。
心に嵐が吹き荒れる。期待と不安が入り乱れ、福富は荒北を見つめた。
荒北も福富を見ていた。火傷しそうなほど熱い瞳で。
そして観念したように目を伏せてもう一度福富を見た時、その瞳から迷いは消えていた。
荒北の口がスローモーションのように動く。
しんと澄んだ空気の中、言葉が響いた。
「好きだ」
幸せが耳に吹き込まれた。その暖かさが全身に心に流れ込んでいく。福富は吐息に乗せて言葉を紡ぐ。
「オレもだ」
うまく言えているだろうか。今のオレは荒北の目に格好悪く映ってはいないだろうか。
「福ちゃん」
祈るように縋るように荒北が福富を見つめる。その視線に応えるように福富は軽く笑った。
「いや、違うな」
「え」
福富は油断していた荒北の親指を捩じ伏せた。いとも容易く倒れ伏す親指。
「ちょっ」
「オレの方がずっと好きだ」
本当はオレが先に言うはずだったのに。力任せに手を握りしめる。八つ当たりだ。
「痛ェよ、福ちゃん」
言葉とは裏腹に荒北が笑う。幸せそうに。
「でも、残念。オレの方がもっと好きだからァ」
するりと荒北の手が抜けた。そして、福富の手を外から優しく包む。
まだ言うつもりじゃなかった
そう言って荒北がゆっくりと距離を詰めてくる。
「オレはこれ以上待てない」
それを福富は目を細めて見守った。うるさいぐらいに胸が高鳴る。
唇が触れるほど近づいた時、荒北が囁いた。
「福ちゃん、海見に行こうよ」
福富は返事の代わりに目を瞑る。
耳の奥で波の音が甦り、福富は堪らず荒北の手を握りしめた。主導権はまだこちらにあると示す為に。
触れ合った唇を離すと荒北は苦笑した。
「負けず嫌いだねェ」
そう言う荒北こそ離さまいと手を絡めてくる。
「どっちが」
幸せなため息をついて福富はそれを受け止める。
――オレの方がお前を好きだ。
互いに譲らない。こたつの中で繰り返される甘い戦争。
【こたつの中の攻防】