天国へ行きたければ、
抉り捨てよ。削ぎ落とせ。切り捨てよ。
右目。右耳。右手。右足。
左足。左手。左耳。左目。
その身全てが地獄へ堕ちるより、身体の一部を失って天国へ行く方がよい。
罪で汚れた肉体は天国の門をくぐれない。
さぁ、抉り捨てよ。削ぎ落とせ。切り捨てよ。
その罪深き右の腕
――
「おい福富の奴、大丈夫か?」
風に乗って運ばれてきた言葉に荒北は足を止めた。先ほどまで酷使していた脚はこれ幸いと脳の命令に従う。今日は風が強く、特に山では横から強烈にぶつかってこられた。もう今日はローラーに乗りたくない。
「ダメだろうな」
嘲笑うような男の声が続く。。
荒北が声のした方に目を向けると樹の影に二人の男が立っていた。荒北と同学年の箱根学園自転車競技部の面々だ。荒北より先にコースを走り終えて戻ってきたらしい二人はボトルを片手に立ち話をしている。
――よりにもよって福ちゃんの話題かよ。
荒北は奥歯を噛んだ。すると、二人の内、短い茶髪を真っ直ぐに立てた男が荒北を見つけた。わざとらしく両手を広げる。
「ああ、荒北くんじゃないか」
先ほど、福富のことをせせら笑った口が同じように歪められる。
「随分、遅い到着で。まぁ初心者としては上出来かな」
この男は中学じゃそこそこ名の知れたスプリンターだったらしい。だが、ここ箱根学園ではこの男なぞ相手にならないくらい早い男が不幸な事にいた。それが気に食わないのか、男はよくその同学年のスプリンターの陰口を言っている。
幼稚園か。そんな事をしている暇があるなら練習しろ。荒北には理解できない。
最近では、目の敵が部活に顔を出さなくなったせいか荒北にまで突っかかってくるようになった。迷惑な話だ。福富から喧嘩禁止令が出ていなければとっくに手を出している。
ニヤニヤと笑う男に荒北は軽く頭を下げる。相手にするだけ時間の無駄だ。この後、部内のミーティングもある。泥に浸かったように重たい足を上げて荒北は再び歩き出そうとした。
「お、おい」
茶髪の男の取り巻きの神経質そうな眼鏡の部員が通り過ぎる荒北の肩を掴んだ。
「なんだよ」
荒北は強引に手を振り払う。眼鏡を睨むと途端に取り巻きは恐怖で青褪めた。悪かったな。この顔は生まれつきだ。
「そんなに急ぐ事ないだろう」
眼鏡の部員とは対照的に茶髪の男が愉快だという風に肩を揺らす。嫌な笑い方だ。
「荒北はさ、今日のミーティングどう思う?」
「ミーティングだァ?」
正直な話、あまり興味はない。現三年が引退するとかで新体制を決めるらしいが荒北には縁のない話だ。
第一、主将になる人間は決っている。
「興味ねェよ」
ヒラヒラと手を振って見せると茶髪の男は笑みを深くする。
「薄情な犬だなぁ。ご主人様がピンチなのに」
馬鹿馬鹿しい。福富の犬。この男がそう言って荒北を罵っているのは知っている。相手にするだけ時間の無駄だ。しかし、少し引っ掛かる。この男の態度は妙だ。
「福ちゃんがどうかしたのかヨ」
荒北が聞くと男は思わせぶりに眼鏡の部員と目を合わせた。くっせェ臭いがする。
「なぁ近頃のあいつおかしいと思わないか」
眼鏡を押し上げて取り巻きの部員が言う。
荒北は黙った。それが答えだ。
最近の福富はおかしい。それは誰の目にも明らかだった。以前からも福富は練習熱心だったが、昨今のそれは度を越えている。いつか倒れてしまうのではとこちらが心配するくらい身体を毎日酷使している。
――何があったんだよ、福ちゃん。
荒北は自らの掌に爪を突き立てる。荒北は何も知らされていない。
「おかしいよな。あの練習の仕方、ちょっと病的だ」
茶髪の男が上機嫌に話す。
病的。その単語と福富のチグハグさに笑い飛ばしたくなる。あの鉄仮面が? あり得えない。
だが、現実は違った。更に深く爪が皮膚に食い込む。
それをおくびにも出さず素っ気なく荒北は応えた。
「気のせいじゃねェの」
「荒北ぁ」すかさず茶髪の男が鼻で笑う。同時に眼鏡の部員もいやらしく口元を隠す素振りをした。
「庇いたいよな。大事なお友達だもんな」
「あんだと」
声を荒らげる荒北に男はすっと笑みを消した。冷たい目で荒北を見ると、宣言した。
「福富は主将になれない」
あんな奴。と憎しみがこもった声色だった。
ハァ? 荒北は男を睨む。この学年において福富以外に主将が務まる人間がいるだろうか。いや、いない。
荒北は力強く前を走る背中を思い浮かべる。あれほど頼りになる背中を荒北は他に知らない。
「何言ってんだヨ。福ちゃん以外いねェだろ」
実力。実績。言いたくないが家柄も。何一つ次期主将として欠けたものがない。
「相応しくないんだよ」
憐れむように男がため息をついた。
「知っているかぁ? 荒北」
――広島のインハイで何があったか。
心に石が投げ込まれる。ざわざわと波紋が放射線状に心に広がっていく。この男は知っているのか。福富の真実を。
知りたい。荒北の心が震える。知りたい。
だが、それを聞きかせてもらいたいのはこの男からではない。
荒北は歯茎を剥き出して笑った。威嚇するように。
「じゃ、誰がやるんだよ。まさか、おめェとか言うじゃねェだろうな」
この男が望む反応をするなど死んでも御免だ。
「酷い言いようだな」男が肩を竦める。
「まぁいい。後で思い知るさ」
行こう。茶髪は眼鏡の取り巻きに声を掛けると背中を向けた。
――福ちゃん。
嫌な予感する。荒北は去っていく背中に大きく舌打ちをした。
荒北が部室へと入ると既に大半の部員達が集まっていた。ざっと見回す。その中で見知った顔を見つけ、荒北は人を掻き分けて前へと進んだ。
「東堂」
前列で一人前髪を弄っている男に話しかける。
「なんだ? 荒北。この美形に何か用か」
相変わらずのナルシストぶりに荒北はげんなりとした。
「ッゼ。新開は?」
「今日も練習には来ていなかっただろう。ミーティングにもおそらく出ないのだろうな」
「来年のチーム作りには興味ないってか」
「それはお前もだろう」
ひたりと東堂は荒北に視点を定めた。
「今日のミーティングなど意味がないと思っている」
こちらを見透かすかのような目に言葉が詰まる。確かにそうだ。主将を決める為のミーティングなど時間の無駄だと思っている。。
この自転車競技部において荒北が考える主将になるべき人物は一人しかいない。先ほどの男がつまらないケチをつけていたが、彼こそ適任者だ。
新開もおそらく同じ考えだろう。容易に想像できる。
「ンなことねェよ」
荒北は首の裏を掻いた。なんとなく認めるには癪だった。
「まだ誰が主将をやるか決まったわけじゃねェし」
デタラメに発せられた言葉に東堂がほうと息をはいた。
「流石だな」
思わぬ称賛に荒北は怪訝な顔をする。
いや、なに。東堂は思わせぶりに口の端を上げた。
「やはりお前は鼻が効く」
荒北がそれに応えようと口を開きかけたところでパン、パン、パンと両手を叩く音が聴こえた。三年の現主将だ。荒北は反射的に口を閉じた。
部室が静かになったところで現主将は長々と次期のチーム作りについて話し始めた。それを適当に耳に流しながら荒北は横目で東堂を見る。彼は涼しい顔で主将の話を聞いていた。こうしているとさっきの意味深な態度が嘘のようだ。
実際、特に意味などないのかもしれない。
荒北は東堂から視線を外し、視界の隅で鈍く光る金色へと目を向けた。
部屋の端で腕を組んで立っている福富。その顔はいつもと変わりなく見える。凛々しい太い眉は健在で、その瞳は鋭さを湛えていた。
だが、荒北にはその姿が痛々しく見えた。インハイ後、黙って過度な練習を重ねる福富。それはまるで己を罰しているかのように思えてならなかった。
「……以上だ。では、次期主将を決める」
長々しい口上を言い終えて現主将がついに本題へと入った。そこでやっと荒北は福富から意識を剥がした。主将を見ると、当の主将は福富を見た。
「俺は福富を推薦する。実力、実績共に申し分ない」
異論がある者はいるか。現主将のその言葉に水を打ったように部室が静かになる。
当然だ。異論などあるはずがない。何度だって繰り返してやる。福富以外に相応しい人間がどこにいる。
これでミーティングは終わりだ。やっぱり時間の無駄だった。そう荒北が思った矢先、隣の空気が動く気配がした。
「はい」
凛と澄んだ声が響く。
「
――東堂」
荒北は呆然と呟く。
「主将。自転車競技部の主将になるには他薦が必要ですか?」
東堂の声が主将へと真っ直ぐに伸びる。
「いや」
主将は首を振った。その顔には微かに戸惑いが滲んでいる。
「もちろん、自薦も認められるが……」
「では、立候補するとしよう」
東堂の言葉に今度こそ荒北は息を呑んだ。何を言っているんだ。この男は本当にさっきまで話していたあの東堂なのか。
「立候補?」
誰かが愚鈍にも繰り返した。
「そうだ」
東堂が指を伸ばす。その先には福富がいた。
まるで、いやこれは挑発だ。
荒北がそう思うより早く。東堂の宣戦布告が部室内に響き渡る。
「東堂尽八。この自転車競技部の主将に名乗りを上げるぞ」
一瞬の静寂が訪れた。だが、それはすぐに破られる。大量の鳥たちが一斉に羽ばたくように一気に興奮が部員たちへと広がっていく。
荒北は咄嗟に福富を見た。その姿は先ほどと何ら変わりがなかった。福富は相変わらず腕を組んで立っている。不意に福富がこちらを向いた。荒北もその視線を追うように振り返る。
そこには東堂がいた。福富と荒北の視線を受けて彼は優美に微笑んで見せた。
あの男が言っていたのはこの事だったのか。
荒北の眉が自然と釣り上がる。
確かに東堂ならば実力は申し分ない。
「だが、東堂は今年のインハイに出場していない」
黙ったままの主将に現在の副部長が声をかける。東堂では経験不足ではないかと指摘する。
その声を部員たちは息を潜めて聞いていた。そうだ。そうだ、と囁く声がどこからともなくした。
「だ、そうだが」
黙ったままだった主将が口を開いた。試すように東堂を見る。
その東堂は胸を張って、周囲を見渡した。
「自転車競技部の初代部長を御存知か」
すっと通った声が部室の隅々まで行き渡る。
「当たり前だろう」
そう言って副部長が軽く福富へと視線を向ける。箱根学園自転車競技部の初代部長が福富の父親であることは周知の事実だ。副部長の返答に東堂は満足そうに頷く。
「彼は前年のインハイに出場しましたか」
冴え冴えと東堂は言い放った。あ、と誰かが声を上げる。
「それは……。今とは状況が違う」
顔を赤くして副部長が叫ぶ。
「俺たちは王者なんだ」
王者ねェ。荒北はなんとはなしに福富を見た。
そこで予想外のものを目にして小さく息を止める。福富の顔が微かに歪められていた。胸の内の痛みに耐えるように。
何故。今、そんな顔をしている。
東堂が主将に名乗り上げた時も顔色一つ変えなかった男が。
荒北は歯を噛み締める。
悔しかった。自分は何も知らない。
耳に人々から投げかけられた言葉が甦える。
『よくやっている』『高校から始めたわりには』
不愉快な褒め言葉。言われる度に福富たちとはまだまだ差があると思わされた。
それでは駄目だ。インハイのメンバーとして出られるのは六人だけ。
たったの六人。
そして、広島インターハイのその六人に荒北は選ばれなかった。
もし、出場していたら。何かが変わっていたのではないか。
福富の自らを追い込むような練習することもなく、東堂が主将に立候補する事もなく。
荒北は苛立つ。自らの実力に。
目の前では現主将が手で副部長を制した所だった。
彼は「よせ」と言うと、福富へと視線を定めた。
「自転車乗りらしく道の上で決めようじゃないか」
「構いません」
間髪入れずに福富が頷く。その表情は見慣れた鉄仮面に戻っていた。
「オレも構いません」
東堂もすかさず応える。
現主将はそれに対して頷くと、力強く宣言した。
「決まりだ。福富と東堂でレースを行い、勝った方を次期主将とする」
ざわめきが瞬く間に広がっていく。その渦の中、荒北は呆然と立ち尽くしていた。まるで現実感がない。
――信じられるか、新開。
不意に浮かんだ名に荒北は苦虫を噛み潰したような顔をした。
新開隼人。人が羨むような実力を持ちながらインターハイを辞退した馬鹿な奴。
後日、レースが行われるコースが発表された。
◆
遠目からその姿が見えた瞬間、新開はつい苦笑してしまった。あまりにもうさぎ小屋には不釣り合いだった。
新開の代わりを務めてくれているらしいその人物は、しゃがみ込んで無造作に人参を差し出している。それを子うさぎの小さな口が食んでいる。
「靖友」
「おっせェーぞ」
ぶっきらぼうに荒北が声を投げ返す。その目はうさぎに向けられたままだ。
何かあったな。直感めいたもの感じつつ新開は荒北の後ろへと立った。。外で走っているのに焼けない荒北の白いうなじを見下ろす。
「今日は掃除当番だったんだ」
なんとはなしに言い訳が口から出て行く。うさぎの面倒を見るという名目で部活を休んでいるのにサボっていると思われたら心外だ。
「知ってるか? オレのクラスの山下が」
「主将決めのレースのコースが決まった」
だが、荒北は新開の話を聞く気は無いようだ。本題へと容赦なく切り込んでいく。
「そうか」
新開は中途半端に頷く。それだけしかできなかった。
「それだけかヨ」
案の定、苛立ちを含んだ声が返される。
「寿一も大変だな」
求めらるまま言葉をどうにか紡ぐ。まるで人事のような声色に胸が痛んだ。苦しさから逃れるように新開の目は子うさぎの姿を追う。それが余計に荒北を怒らせた。
「てめェっ」
荒北が立ち上がって新開のシャツの首元を掴む。
「知ってんのかっ。ゴールは山頂。明らかに東堂が有利だ」
「もう決まった事なんだろ」
オレにどうこうできる事じゃない。あえて軽薄に言い放ち、新開は荒北の顔を見た。
その白い顔には青筋が浮き上がっている。
「それに」
勝手に口が動いた。
荒北をこれ以上怒らせたいなどとこれっぽっちも思っていないのに。申し訳なくすら思っているのに。
「別に寿一がどうしても主将をやる必要は
――」
「このバカチャンがっ」
言いかけたところで荒北が乱暴に新開を突き放した。よろける新開に荒北は舌打ちをした。
「靖友」
荒北が新開を見る。その顔は感情の一切を削ぎ落したような冷淡な表情だった。
「悪かったな。もうてめェには関係のない話だったな」
淡々と荒北が告げる。
「もう来ねェよ」
安心しな。吐き捨てるように言うと荒北は背を向けた。
「靖友っ」
新開が声を上げる。
――違う。そうじゃない。
心がそう叫ぶ。しかし、新開の喉は声の出し方を忘れたように動かない。
そんな新開を荒北は一瞬だけ振り返った。
「それでも、福ちゃんはっ。てめぇを待ってんだよっ。ボケナスが」
福富の声が甦る。四番を託すと言った力強い声。鳥肌が立つ。
――寿一が作る、寿一が望む最強のチーム。
荒北が福富を主将にと望む気持ちが少しだけわかった気がした。
もう随分遠ざかった荒北の背を新開は見やる。
きっと荒北は福富の作るチームでインターハイを走りたいのだ。
「見苦しいな。仲間割れか」
聞き覚えのある声がした。
荒北が去ったと思ったらこれだ。うさ吉の背を撫でていた新開は秘かにため息を吐く。
仕方なく振り向く。予想通りそこには自転車競技部の同級生が立っていた。前見た時と変わらず茶色の髪を立てて相変わらず敵意のこもった目で新開を見ている。
「今日はお客が多いな、うさ吉」
思わず子うさぎへと語りかければ、男が冷笑を浮かべた。
「箱根の直線鬼もすっかり腑抜けたな」
思わず手に力がこもる。子うさぎは嫌そうに目を瞑った。「悪い」新開はうさ吉から手を離した。
「なぁ、とっとと退部しちまえよ。走れないスプリンターは目障りなんだよ」
男が近づいて来る。新開は立ち上がり男と正面から向き合った。憎しみで濁った目。
何故とは思わない。心当たりがあった。だが、今はそれを追及する場ではない。
「キミが
――」
風がひゅうと吹き抜けた。砂が舞う。新開は一度唾を飲み込むと再び口を開いた。
「キミが尽八を炊きつけたのかい?」
「……何の話だ」
男が顔色を変えた。
「主将決めの話だよ」
新開は思い出す。いくらか前の晩。この男が東堂の部屋へと入る所を見た。不思議に思ったからよく覚えている。
東堂とこの男が親しくしているところなど一度だって見たことがない。むしろ新開と仲の良い東堂の事を疎ましそうにしていたくらいだ。
あの時、男は東堂に何か部の事を相談していたのではないか。
新開は更に続ける。男は沈黙したままだ。
「何を話した」
あの東堂がこの男の話に耳を貸すとは思えない。よほどの内容でもなければ。新開はそれが知りたかった。
男はなおも黙っている。新開もそれ以上は何も言わなかった。確信があった。
もし今回の騒動の発端がこの男ならば、それを新開に言わずにはいられないはずだ。
長い沈黙が二人の間に降りる。
微動だにしない男に時が止まっているのではないかと思った矢先、笑い声が響いた。
「バッカだな、新開」
堪えきれないというように男が肩を揺らす。
「俺は親切心で黙ってやったっていうのに」
「親切心?」
新開は訝しがる。
「東堂。アイツは話がわかる奴だよ」
「どういう事だい?」
「そもそもアイツの方から声をかけて来たんだ」
「尽八がか?」
思わず目を見張る。そうだと男が頷いた気配がした。
「話があるから部屋に来いって」
興奮したように徐々に男の声が大きくなる。
「行ってやったら、次期の主将についてどう思うって訊かれたからよ」
得意に語る男の声。
「言ったのさ。福富は主将に相応しくねェって。」
このままだと自転車競技部の看板に泥を塗ることになる。
東堂はただ黙って男の話を聞き、最後にこう言った。
『では、オレが主将になろう』
新開の胸がざわめく。
――尽八。
何を聞いて、何を思った。
彼は人に流されるように人間ではない。信念がなければ東堂は動かない。
――寿一を、見捨てちまったのか。
自分が走れない間、福富を支えるのは荒北と東堂だと思っていた。それは身勝手な願望だったが、裏切られた気がしてならない。
その想いを見透かしたように男が笑う。
「アイツは、東堂は、自分から裏切ったんだ」
愉快そうに顔を歪める男に新開は呟いた。
「なんで、そんなに寿一を主将にしたくないんだ?」
すると男は笑うのを止めた。当たり前だ。と言わんばかりに鋭く新開を睨む。
「福富が最ッ低な野郎だからだッ」
憎悪がこもった声に背後にいる子うさぎが怯えるように鳴いた。
◆
人はノックをする時、何故緊張してしまうのだろうか。
その日の夜。新開は東堂の部屋の前に立っていた。この部屋には何度か訪れた事がある。それなのに、新開は扉の前で深呼吸を繰り返していた。
無機質なドアが今日は新開を拒絶しているように見える。いや、そんなはずはない。新開は軽く手を握って持ち上げた。
一、二、三。一定のリズムで扉を叩く。
しばしの沈黙。息を詰めて新開は待った。賽は投げられた。そう言い聞かせて逃げ出したい欲求に耐える。
やがて中で人の動く気配がして、ドアノブが回される。その段階になってようやく新開は観念した。
東堂と話さなければならない。
新開の姿を認めた東堂は嬉しそうに中へと招き入れてくれた。久方ぶりに新開は東堂の部屋へと足を踏む入れた。男にしてはきちんと片付けられていて部屋。荒北とは大違いだ。前はよくこの部屋で菓子を食べて東堂に注意されていたものだ。
「ちょうど数学の宿題をやっていてな」
そう言って東堂は机の上の広げてあった教科書を指し示した。
「新開のクラスも出されたか?」
「いや」
新開は首を振って床へと座る。東堂も椅子へと腰を下ろした。
「内容的には難しくないが量が多くてな。まったく、部活がある人間には軽減措置が欲しいものだ」
そう、思わんか。不満をぶつける東堂に新開はぎこちない笑みを返す。
東堂が口にした“部活”という単語に心臓が跳ねた。
「尽八」
「どうした」
東堂がおかしそうに言う。
「随分と思いつめた顔をしているな」
「尽八、オレは」
言いたいことがあって来た。なのに東堂を前にした途端に言葉がうまく出て行かない。気ばかり焦る。
「新開」
凛とした声に新開ははっと顔を上げる。見透かすような東堂の視線に無意識に新開は姿勢を正した。
「お前の言いたい事はわかっている」
「寿一は」
東堂の穏やかな声に堰を切ったように言葉が溢れた。
「中学ん時も部長やってて。確かにちょっと言葉が足んねェ時とかあるけどさ」
秦野の風景が胸に甦る。二人で走って走って。怖いものなどなかった。このまま高校でも最速で真っ直ぐに走り続けると信じていた。
「人の事をちゃんと見てるし、なにより寿一は」
金色の髪。凛々しくて太い眉。鋭い目。鍛えられた胸筋。しなやかな脚。福富寿一を構成するもの。そのどれもが彼の精神をよく表している。
「
――強い」
強く在り続けようとする彼の心こそ。
新開は大きく息を吐いた。肩から力が抜けて自然と俯く姿勢になる。自分の膝が目に入った。ハーフパンツからのぞく筋肉がついた太い脚。部活を休んでしばらく経つがまだ衰えているようには見えない。だが、目に見えなくともこの脚は徐々に自転車を忘れている。今の自分には何か言う資格などないのかもしれない。今更になって新開の身体が硬直した。
東堂の顔が見られない。
そんな新開に静かな声が降ってきた。
「知っている」
それがどこか淋しそうに感じて反射的に新開は顔を上げた。
「尽八が主将に向いてねェってわけじゃないんだ」
だけど。だけど寿一は。
同じ事を繰り返しそうになった新開を東堂は手で制した。その瞳が余所者を見ているように感じて新開は口を噤んだ。
「オレの考えを言おうか」
東堂が椅子から立ち上がる。
「ここ最近、他校の自転車競技部のレベルは非常に上がってきている」
手を大きく広げる。その顔は打って変わって楽しげだった。
「もちろん我ら箱学も負けてはいない。天が三物を与えたクライマーがいる」
トンと軽くおどけたように東堂は胸を叩く。
「だが、このオレに負けるとも劣らないクライマーが他校にいるのも事実だ」
「総北の巻島、か」
新開が幾度と無く聞かされた名を呟くと、満足気に東堂は頷いた。
「敵は総北だけではない。王者という名に胡座をかいていたら足元を掬われる」
だからこそ、オレは最強のチームを作りたい。遠い目をして東堂は言った。
「寿一じゃダメなのか」
即座に新開は言い返した。福富しかいないように思えた。
「ダメだ」
しかし、東堂は首を振る肩口まで伸びた髪が揺れる。
なんで。新開が問うよりも早く東堂が口を開いた。
「許せないのだよ」
怒気を感じる静かな声に新開は言葉を失う。どういうことだ。
「何を聞かされた」
喉から押し潰されたような低い声が出た。
「あいつから。何を聞いたんだ。寿一は何をしたんだ。尽八」
見上げた東堂の顔はその整った容貌ゆえ氷の彫像のように感情が感じられなかった。
「尽八ッ」
「ところで新開」
ふっと東堂は表情を緩める。真冬から一気に春が来たような急激な変化に新開は怯んだ。嫌な予感がした。
それを知ってか知らずか東堂は口を開く。酷く優しげに。
「走れるようにはなったか?」
その一言は、新開の心臓を止めるには十分過ぎるほどだった。
手が、全身が、震える。
――お前に何も言う資格はない。
そう言われた気がした。
「さて」
パンっと東堂が空気を変えるように両手を打った。
「もう遅い。オレは宿題をやらなければならん」
明るい口調で新開を出て行くように促した。話は終わりという事なのだろう。
新開はのろのろと立ち上がった。素直にドアへと向かう。
まだ言いたい事はあった。だが、今は何を言っても無駄だろう。
部屋の外へと出た新開は今一度内を振り返る。
そこでドアまでわざわざ見送りにきた東堂と一言、二言、言葉を交わした。
そして、長い廊下を引き返す。
廊下の先は薄暗くどこまでも続いているように感じられた。