いばらの王冠


 


 青い空に細切れの雲が浮かんでいる。丁度、今さっき雲から太陽が出てきたところだ。
 その下を福富は愛車を押して歩いていた。暦の上で夏が過ぎても未だ太陽は力強く背中を照らす。
 歩く福富を部の同級生と下級生たちが遠巻きに見守っていた。ひそひそと交わされる声。内容は大体予想できる。どうせくだらない事だ。福富は堂々と前だけを見て進む。
 舞台に上がれもしない弱者のいうことなど福富にとっては、宙に舞う塵と同じだ。福富が求めるもの。それは強さ。それだけだ。
 スタートラインへ辿り着くと既に先客がいた。
 その男はやぁ。と福富に爽やかに笑いかけてきた。
「調子はどうかね」
「東堂」
 違和感に福富はその顔をまじまじと見た。そして、あぁと気が付く。目だ。柔和な表情で目だけが油断ならない色をしている。福富は改めて気を引き締めた。
――この男は強者だ。

 日曜日の寮内は意外と人が少ない。特に午前中は。
 新開は誰ともすれ違わずにすんなりと寮の出口まで辿り着くことができた。心の中で安堵の息を吐く。別に知り合いに会ったとしても疾しい事などない。だが、もし何処への行くのかと問われたらやはり気まずい思いをするだろう。 見つからないに越したことはない。
 最も、自転車競技部の面々は今は寮にはいないだろう。今、まさに主将の座をかえたレースが行われているのだ。福富と東堂の本気の戦い。興味のない者などいるはずがない。
 皮肉げに新開は口を歪める。すると声がした。
「随分と遅い出発で 」
 待ちくたびれた。欠伸混じりのその言いよう。新開は反射的に声のした方を向いた。
 あの男だ。奴はいつものように茶色の短髪をツンと立てて新開を睨んでいる。
「行かないのかと思ったぜ」
「ずっと待っていたのか?」
 それだったら驚きだ。新開は眉をひそめる。今日のレースの発端になったにも関わらず、当の彼は観戦もせずに自分を待っていたなど笑えない冗談だ。とっくにレースは始まっている。
「お前と同じだよ。オレはゴールにしか興味ねえ」
「一緒にしないでくれるか」
「ところでお前、どうやって山頂まで行くつもりだ」
 キツイ視線を送るも男は携帯電話を弄っていてこちらを見もしない。
「タクシーを呼ぶつもりだけど」
 部員の大半はおそらくゴールである山頂まで自転車で行っている。羨ましい。山は苦手だったが、今はあの苦しさえも懐かしい。
「乗れよ」
「どういう事だ」
 男の言葉に新開は戸惑う。
「タクシーを待たせてる」
 新開は思わず男を見つめた。男は口の端を上げる。隠し切れない悪意が見え隠れする。
「親切だろう?」
 わざとらしくゆったりと男は言った。
「あぁ。ありがとう」
 新開は気付かないふりをして笑いかける。薄ら寒い空気が流れた。
 こんな男と車内で二人きりなどいつもなら真っ平御免だが、それは相手も同じ事だ。わざわざ寮の入り口で待ち伏せしてまでこの男は新開に言いたい事があるらしい。新開はあえてそれに乗ることにした。
「早く行こうぜ 」
 寮の外へと出る。新開は飛び込んできた眩しい日差しに目を細めた。

 この勝負で重要な事は平坦でどれだけ東堂に差をつけられるかだ。 
 福富はペダルを力強く踏みつける。できるだけ距離を稼がなければならない。
 スタート早々に福富は東堂を引き離した。観客がどよめく中、東堂だけは冷静にペダルを回していた。無理に福富に追いつこうとはせず、あくまで山で勝負する気のようだ。
 だが、思惑通りにはさせない。いくら東堂が山が得意であろうと覆せないほど距離が開いていればなす術がない。それに山が苦手なスプリンターならいざ知らず、福富も山は得意だ。先行していれば逃げ切れる。
 思案する福富の顔を強い風が叩きつけた。忌々しい。この状況での向かい風。負荷が掛かる為、タイムは確実に落ちる福富は奥歯を噛む。
 環境のせいにしてはいけない。ロードレースでは自然の脅威は付き物だ。求められるのはそれにどう対応するかだ。
 福富は回転数を上げる。増したスピードの分、風圧が強くなったが構わない。この勝負、負けるわけにはいかない。
――福ちゃんは何の為に自転車乗ってんのォ。
強風が奏でる轟音が耳を塞ぐ中。不意に声が甦った。それは先日、荒北から投げかけられたものだった。



 その時、福富は皆が帰った後も一人ローラー台でペダルを回していた。静かな空間にただただホイールの回転する音が響く。噴き出る汗を物ともせず、福富はひたすらペダルを漕いでいた。
 変化の乏しいローラー台の練習を嫌う者は多い。しかし、福富は嫌いではなかった。雑音が無い分の集中できるし、外を走っていると否が応にも思い出してしまう事があった。
 そうして練習を続けていると制服姿の荒北がやってきた。荒北は福富のを見るなり眉をひそめた。
「福ちゃん」
 福富は応えない。まるで何も聞こえていないかのように。
 その様子に荒北は舌打ちをすると近寄ってきた。
「最近、無茶し過ぎじゃナァイ」
「していない」
 ようやく福富は応えた。決してオーバーワークなどしていない。福富にとって眠る為の適正な運動量なのだ。
 広島のインターハイ後から福富は満足に眠れなくなっていた。夢を見る。毎晩。黄色のジャージを掴む自分の腕と、コンクリートにその身を横たえながらもこちらを睨む鋭い双眸。
 総毛が立つ。恐ろしかった。その夢が。幼い頃に聞いたどんな怪談よりも。
 福富は逃げた。毎日、必死でロードを回しその悪夢を振り切ろうとした。そうやって限界まで身体を酷使して泥のように眠る。そうすれば夢さえ見ない。全てを忘れられるその瞬間だけが唯一の安らぎにだった。
 だから、何も心配されるような事はない。
「福ちゃん」
 改まった顔をして荒北が口を開く。主将決めのレースについてだろうか。例の噂についてだろうか。福富は内心身構えた。
 前を見据えてペダルを回す。どう言われたても答えは決まっている。福富はただ走ることしかできない。
 だが、荒北から出た言葉は予想外のものだった。
「福ちゃんは、何の為に自転車乗っているのォ」
――何故。
一瞬、息が詰まった。呼吸が乱れる。福富は慌てて浅く息を吸った。
 そんな事は考えた事もなかった。物心つく頃から自転車と共に生きてきた。もはや福富にとって自転車とは人生の一部だ。
 福富は横目で荒北を見る。
 荒北は口をひん曲げてこちらを見ていた。それは幼い子どもが我儘を我慢しているような、不満に満ちた顔だった。
「そんな風に苦しむならいっそ、」
 そこで荒北は口を噤む。福富も尋ねなかった。代わりに答える。
「苦しんでなどいない」
「うん」
「オレは強い」
「うん」
 知ってる。荒北は律儀に一つずつ頷く。従順とも言えるその姿は出会った時とは別人のようだ。ふと心の中に疑問が湧く。
「それとさっきの質問だが」
 福富はその問いの答えは知らない。だが、この男は知っているかもしれない。
「お前は何の為に自転車に乗る」
 ハッ。荒北が笑う。当然の事を何故聞くのだとばかりに。
「負けたくねェからだ」
 野獣の目をして荒北が吠える。その雄叫びに心のどこかが揺り動かされる感覚がした。
 だがそれについて考えようとした途端、黄のジャージに手を伸ばす自分が思い浮かんだ。恐怖が――
 福富はそれからは夢中でペダルを回し続けた。荒北がいたことすらも忘れて。
 その様子に荒北も諦めたのかいつの間に姿を消していた。



 負けたくない、か。
 強風に煽られながら福富は前へと進む。身体がひしゃげそうだ。それでもペダルを回すのは福富も本質的には荒北と同じだからなのかもしれない。
 負けたくない。誰にも。
 だが、福富のそれは荒北とは少し違う。
――負けられないんだ。オレは。
 脚に力が入る。遅れを取り戻そうとやっきになる。
 いつからそうなったのかはわからない。
 寿一。この名のせいかもしれない。次男であるにも関わらず、“一”と名付けられた。
 直接父に訊いた事はないが、そこにある種の願いが込められているように感じられてはならない。父は自転車乗りだ。
―― 一番。誰よりも。強くあれ。
 この名に恥じぬような走りをオレはしなければならない。そう自分を戒めてきた。あの日までは。
 風が弱まってきた。福富は一気に加速する。
 追いつかれてはいけない。このまま東堂を引き離したままゴールする。決して追い抜かれてはいけない。
 恐怖に心が捻くれる。じくじくと癒えていない傷が痛み始めた。
 あの時の生々しく感触が甦る。黄色のジャージを引っ張った右手。信じられない。今でも信じたくない。
 速度に合わせてぐんぐんと景色が流れていく。道端を歩いている親子が驚いたように指差す。それすら、自分を非難しているように福富は感じた。
 反射的に腕が伸びた時、福富の心にあったものは負けられないという強い想いだった。
――負けられなかったんだ。
 再び吹き始めた風が頬を打つ。
 金城に追い抜かれた瞬間、新開の、荒北の、顔が浮かんだ。
 最速の男、新開。奴と約束をした。必ず最速のゼッケン“四”を 渡す、と。
 一桁のゼッケンは前年の優勝校だけに許される王者の証だ。
 新開は福富が知る限り最も速い男だ。奴に四番以外のゼッケンなど似合わない。
 それに新開が戻ってきた時に四番がなかったならば、きっと失望するだろう。約束を果たせなかった福富に。
 新開は必ず戻ってくる。だから、四番を用意して待っていなくてはならない。
 そして、荒北。福富に負けてロードを始めた男。荒北が福富を認めているのは福富が強者だからだ。この大事な局面で負けたら、彼は自分に興味をなくすだろう。自分に失望するくらいなら構わない。だが、もしロード自体に興味をなくしてしまったら。
 荒北にとってロードは異物だ。いつでも辞めることができる。福富たちとは違う人種だ。友人でなくチームメイトとして思う。荒北にロードを辞めてもらいたくない。あまりにも惜しい。
 だから――
 福富はハンドルを手放して顔を覆いたくなった。
 そんな事は何の言い訳にもならない。
 
 坂が見える。いよいよ、山岳だ。


 タクシーの車内では男はほとんど喋らなかった。運転手の隣でツンと立った髪を弄るばかりだ。てっきり話したいことがあるのだと思っていた新開は拍子抜けした。
 かといって自分から話したい事もないので新開は視線を窓の外へと向ける。
 風を受けて山の樹々が揺れている。強風が吹く中で坂道を走る辛さを思い出す。久しく走っていないのに身体は精神よりもよほど自転車が恋しいようだ。
 日々のトレーニングは今も続けている。自転車にだって乗れる。
 だが、“走れない”。以前のような闘争心がまるで湧いてこないのだ。すぐに止まれる速度でしか脚が動かなくなっていた。
 福富は広島のインハイ前に待つと言ったが、その期限はいつまでなのだろうか。とっくに切れているのではないだろうか。
 今回の騒動について福富は何一つ新開に言ってくる事はなかった。そもそも新開は部にほとんど顔を出していない。クラスも違う福富とは会う機会が自然となかった。相談されなくても仕方がなかったのかもしれない。
 それでも、中学の頃を思えば寂しかった。あの頃、福富から寄せられる全幅の信頼が心地よかった。中学生に戻りたいとは流石に思わない。ただ焦りが海底の泥のように心に溜まって淀んでいく。いつになったら走れるようになるのか。もしかしてずっとこのままではないのか――
「ここで停めて下さい」
 ラジオの音に混じって男が声を出した。ゴールよりも歩いて二十分ほど手前だ。
「いいよな」
 男が振り返る。新開は黙って頷いた。

 車内を降りると風は思ったよりも収まっていた。新開は乗っていたタクシーが去って行くのを見送ると隣へと向き直る。
「で、何の話?」
 すると男は露骨に嫌な顔をした。面倒な男だ。
「焦るなよ」
「残念だけど、男と散歩する趣味はないんだ」
「黙れ」
 男は新開から顔を背けると坂道を歩き始める。新開もそれに続いた。足にぐっと負荷がかかる。それでも自転車でこの道を登るよりはずっと楽だ。
 新開が横に並ぶと男はすかさず睨んできた。新開は呆れる。これでは何の為に歩いているんだか。
 しばらくお互い無言のまま坂道を登った。まだ夏の名残りがある日差しのせいでじっとりと汗が滲んでくる。
 こうしていても埒があかない。新開は堪らず口を開いた。
「この勝負、どっちが勝つと思う?」
「東堂」
 無愛想に男が即答する。
「なんで」
 いくらクライマーが有利なコースとはいえ、前半は平坦だ。福富にも勝機は十分ある。それを知らないわけではないだろう。
「福富は主将になっていい人間じゃねぇ」
 またそれか。男の答えに新開はため息をつく。それをどう受け取ったのか男は言葉を重ねた。
「あんな奴が主将になったら自転車競技部はめちゃくちゃになる」
「どうしてそう思うんだい?」
 不可解だった。福富といえば生活態度も良いし、成績も悪くない。ロードの腕前は文句のつけようもないし、父親と兄の事もある。こんな風に男が頑なに否定する理由がわからない。
 新開の問いに男は答えない。新開が更に突っ込んで質問する前に男は話題を変えた。
「なぁ、あの噂を知っているか」
「噂?」
 首を傾げる新開に男は得意げに語り出した。
 自転車競技部内で流れる福富の噂。
 それは広島のインターハイで福富が他校のエースに接触してし、互いに落車したという話だった。
 三日目にレースを棄権したのも表向きは体調不良という事になっているが、実は謝罪の意味合い強かったらしい。なにせ、事故が起こったのはインハイ二日目の先頭。そこで他校のエースが怪我しなければ、優勝校が違っていた可能性もあった。不慮の事故とはいえ、福富は責任を感じて棄権を申し出たらしい。
「情けないと思わないか。他校の選手を怪我させてくらいであんな……」
 不自然だろ、あの練習量。バカみてぇ。メンタル弱過ぎ。
 男が嘲笑する。そしてダメ押しとばかりに言い放った。
「流石、うさぎを殺したくらいで自転車を降りた奴とお友達なだけある」
 その言葉に反応するだけの余裕は新開にはなかった。
 話を聞いている途中から赤く染まったうさぎが脳裏に浮かんで消えない。息苦しいくらい福富と自分とが重なっていく。
――寿一。
 この場にはいない親友の名を心が叫ぶ。
 なんで。なんで何も言ってくれなかったんだ。言ってくれればオレは――
 しかし、すぐに新開は思い直す。。
 違う。おそらく福富は新開の、いや、誰の助けも必要ないのだろう。
 だって、彼は今この瞬間も走り続けている。
 寿一は。新開は泣きたいような笑いたいような気持ちになった。
 彼はきっと自転車を降りるという事を知らないに違いない。それが彼の強さであり弱さなのだ。
 福富に会いたいと思った。中学生の頃にしたようなたわいもない話がしたかった。今すぐ駆け出して彼の元へ行きたかった。
 踏み出す足に力が入る。
「待てよ」
 急に早足になった新開を男が追いかける。
「ショックだったか?」
 新開の様子に男は勘違いしたらしい。男がニヤニヤと笑う。
「わかっただろう。アイツは所詮」
「反対だよ」
 強引に新開は男の話を遮った。
 同時に日が陰る。太陽の下を雲が流れていく。
「はぁ?」
 男が怪訝な顔をする。薄闇の中、目だけがギラギラと異様に輝いていた。
「オレは寿一の作るチームが見たい」
 新開の大きな瞳が男を射抜く。
 男はぽかんと大きな口を開けて新開を見返す。
 滅多に見れない珍しい姿だが、新開は男を置き去りにして更に足を速める。
「待てよっ」
 慌てて男が追ってくる。
「お前、話聞いていたのかよ」
「聞いてたさ、ちゃんと」
 だから、確信した。きっと何があろうと福富は自転車から離れない。
 ある種の傲慢さを持って彼はその権利を行使しする。喩え誰に非難されようと。潔いほど。彼こそ王者だ。そして、またロードの奴隷でもある。
 そんな人間が作るチーム。見たいに決まっている。自転車乗りなら。
 新開は笑った。久しぶりに笑えた気がした。
「見損なったぜ。新開」
 男が喚く。
「違うだろ」
 新開は足を止めて静かに告げる。 
「オレの事は前から嫌いだろ」
 そう言うと男は眉を寄せた。新開の言おうとしている事がわからないらしい。
 まさかバレていないと思っていたのか。
 ちょうど良い機会かもしれない。新開は口を開いた。
「失望したってのはオレじゃない寿一 ――
 男が目を剥く。
「なんだとっ」
 酸欠に喘ぐ金魚のようにぱくぱくと口を開閉する男。それを憐れむように見つめながら、新開はそっと囁いた。

「おめさんは本当に寿一の事が好きだなんだな」



2015/03/29