――来た。
背後から感じるプレッシャーに福富は身を固くした。ゴールはまだ数キロ先。思っていたよりも早い。
後ろは振り向かない。見なくてもわかる。東堂だ。数十メートル後に奴がいる。
福富はハンドルを強く握る。どれくらいだ。どれくらいで走れば凌げる。
ひたひたと音もなく忍び寄る東堂の気配を探りながら福富はペダルを踏む。斜度のキツイ坂道ではペダルは回すものではなくなる。力を込めて踏み込まなければ前へと進めない。
まだ大丈夫だ。まだ東堂は来ていない。福富は自分に言い聞かせる。このまま前を向いてゴールする。
しばらくペースを維持したまま進んでいると、雲に隠れていた太陽が顔を出した。
容赦のない日差しに額に浮かんだ汗が輝く。
やぁ。
その時、見計らったように軽やかな声が聞こえた。
まさか、という想いとやはり、という想いが交錯する。福富は反射的に視線を横へと滑らした。予想通りの人物がそこにはいた。
「待たせたな」
そう言って東堂は真夏に吹く涼風のように微笑んだ。
新開の言葉に男は顔を真っ赤にした。それが羞恥なのではなく怒りのせいであることが新開でもわかった。
「バカ言ってんじゃねえよ」
男が怒鳴る。
「俺は元からあんな親の七光り野郎なんて大嫌いだ」
「へぇ」
気の無い新開の返事に男は激昂する。
「アイツが主将なんて認めねぇ」
あんな。あんな。男の肩が震える。噴火前の火山ようだ。
爆発しちまえ。悪いものはここで全て吐き出せばいい。そうすれば楽になる。新開は視線を男に注いだ。
男も新開を見ていた。憎悪に染まった目玉で。
「走れもしねぇスプリンターに来年の四番を約束するような奴。オレはぜってぇ認めねぇっ」
呪詛のように男は暗く暗く言った。
やっぱり。
新開は確信する。
「盗み聞きなんて趣味が悪いな」
「ハァ?」
男が眉間に皺を寄せる。自分が墓穴を掘った事に気付いていないようだ。
「インハイ前にオレと寿一と話しているのを聞いたな?」
赤かった男の顔が更に朱に染まる。
「知らねえ」
「オレがうさぎを轢いちまったことは、まだ誰にも言っていなんだ」
あの日、福富に打ち明けた時を除いて。なのに、男は先ほどからこう言った。
――うさぎを殺して自転車を降りた奴とお友達なだけあるよな。
「どうして知っているんだい?」
「それは、噂で」
口先で誤魔化そうとする相手に新開は更に追い討ちをかける。
「それにこうも言っていた」
――走れもしねぇスプリンターに来年の四番を約束するような奴。オレはぜってぇ認めねぇっ。
あぁ。男が呻く。懇切丁寧に説明しなくとも自らの失言に気付いたらしい。
「あの時、うさぎ小屋の近くにいたんだな」
男が悔しそうに唇を噛んだ。
「別に責めようとか思ってないさ」
その顔を見て新開は緩く笑った。
「ただ勘違いしているんじゃないかと思って」
「勘違い?」
男が憎々しげに吐き捨てた。
「オレは確かに聞いた。福富が来年の四番をお前に渡すって言ってたのをなっ」
おかしいじゃないか。オレたち箱根競技部のスプリンターは走れない新開よりも劣るというのか。
せっかく。オレにもチャンスが巡ってきたと思ったのに。
そんな男の声が聞こえてきそうだった。
新開は密やかに息を吐く。
この男が福富を意識しているのは入部した頃から気が付いていた。
俺を見ろ。認めてくれ。
密かに慎ましく繰り返されるアピール。タイムが縮んだ。大会で何位だった。小さな事から大きな事まで。しかし、福富の視線はいつも男を通り抜けていた。眼中にないとでもいうように。
そして、そんな時はいつも決まって呼ぶのだ。
『新開』と。
男が新開を目の敵にするのも無理はなかった。そして、認めてくれない福富への積りに積もった不満がうさぎ小屋での会話を聞いて遂に爆発した。期待した分だけその恨みは生半可なものではないだろう。
だが、男は一つ誤解している。
「寿一はオレを励まそうとしてそう言っただけだ。実力がなきゃ寿一は絶対に選ばねェ」
新開が口を開くと男は醒めた目をした。
「んな事は知ってだよ」
「それなら」
「チャンスがあるかもしれないから頑張れってか。福富の中ではファーストチョイスはお前なのに?」
鋭い切っ先が新開に向けられる。
「“本当は新開を選びたかった”なんて思われてながら走れっていうのか」
「それなら」
反射的に新開は応える。
「速くなればいいじゃないか」
言うほどそれが容易くない事など百も承知だ。それでも、言わずにはいられなかった。福富が身贔屓な人間だと思われるのは癪だった。
「速くなれよ、オレよりも。誰よりも。」
そうすれば、四番は彼のものだ。
男が顔を片手で覆って何事かを呟く。が、あいにく新開の耳までは届かなかった。
聞き返そうとする前に男が声を発した。今度は聞くことができた。
「なぁお前らが入部した時、先輩たちがなんて言っていたか知ってるか?」
「さぁ」
脈絡のない内容に新開は肩を竦めた。
「山で負けなしの東堂、直線の鬼の新開、そしてあの福富選手の息子……」
懐かしむように男が目を細める。
「話題だったよ。『アイツらが三年になった時にはこの箱学にとんでもない“王国”ができる』って」
エース福富を中心とした最強のチームが。
「あの先輩たちが」
知らなかった。新開は驚いた。
「俺もその一員になりたかったのかもしれない 」
顔を俯かせた男の声は微かに震えていた。初めて心情を吐露したのかもしれない。
思わず新開は男の名を呼んだ。
男は動かない。
優しい風が吹いて樹々の葉を揺らす。。
そこでようやく男はゆるゆると顔を上げた。その表情からは先ほど感じられた弱々しさは既に消え失せ、憤怒がその顔を彩っていた。
だけどな。男が続ける。
「スプリンターは走れねぇお荷物になって、エースは腑抜けた」
男が新開へと詰め寄る。
「衰えた王は死ぬべきなんだ」
今日のレースで福富が敗れれば、福富の求心力は確実に弱まる。
「だから、俺は。部の為に」
「尽八をそそのかした?」
新開が言葉を引き継ぐと男は薄っすら笑った。
「東堂ならわかってくれると思っていた」
アイツはリアリストだから。
男はそう言うと翼のように手を広げた。
「なぁ、これでわかっただろ。クライマーにまで裏切られて。福富はもう終わったんだよ」
――王国は崩壊したんだ。
そうかもしれない。
心の底から冷えるような男の声に新開は一旦は同調する。
でも、そうじゃないかもしれない。
新開はいつの間にか握っていた掌をゆっくりと開いていく。
息を大きく吸う。反撃だ。
「でも、まだエースアシストがいる」
「アシストぉ? 荒北の事か?」
男は鼻で笑う。新開は真顔のままだ。
「靖友は凄いよ。きっと来年のインハイで走っている」
新開には見えた。二番を付けて福富を引く荒北の姿が。野に放たれた狼のように生き生きとペダルを回すその姿。ギラギラとした太陽に照らされ、走る喜びが全身からあふれている。
その荒北が振り向いた。驚く間もなく荒北が口を開く。
『早く来いよ、新開』
新開はぎくりと身体を強張らせる。
――靖友。
『平坦だ。お前の出番だぞ』
福富の後ろを走る東堂もこっちを見ていた。
――尽八。
ドクンドクンと動悸が激しく打つ。
――寿一は。
新開の目がエースの背中を追う。ただ一人、福富は振り返らなかった。
それで良い。エースはいつでもゴールを狙わなければならない。
そう思った時だった。
『出ろ。新開』
声が、聞こえた。
「ありえねぇ、ありえねぇ、ありねぇ」
耳障りな喚き声に新開ははっとする。夏の幻想が掻き消える。
「あんなど素人がインハイに出られるわけがねぇ」
自身に言い聞かせるように男が叫ぶ。
「走っている」
新開はそれを遮った。衝動が。止まらない。
「靖友は、走ってる。先頭を。インハイの。寿一を引いて」
思いついたまま書き殴るように喋る。
白昼夢で見た景色が目の前に広がる。抜けるような青い空。前を走る白と青のジャージ。汗の匂い。通り抜ける風。
「
――オレも」
男のぎょっとした顔を見て、新開は自分が何を口走ったか気付いた。深く息を吸う。もう大丈夫だ。予感が。いや、確信が。
確かにこの胸を貫いた。
「オレも走ってる」
靖友と。寿一と。……尽八と。
あの小さい生き物を轢いた感触はまだ残っている。罪を恐れを忘れたわけじゃない。
今だって手が震えているじゃないか。
それでも。
――走りてェ。
無理やりに新開は口角を上げた。これからライバルに宣戦布告をしようってのに弱気な顔は見せられない。
「申し訳ないけどやっぱり四番は譲れないな」
喩えこの男が速くなろうと、それよりも速くなってみせる。
「寿一作る箱学の四番はオレだ」
最速の称号は誰にも渡さない。この男にも有望な後輩にも。誰にだって。
「ハァ? 頭、おかしいんじゃねーの」
男が泡を食ったように唾を飛ばす。
「さっきまで他人事みたいな顔してやがったくせに」
「悪いね。呼ばれちまったんだ」
口の悪い奴に。口の減らない自信家に。無口な頑固者に。
新開は空を見上げる。細切れだった雲はいつの間にか大きく繋がっていた。その雲の切れ間から日が差し込む。光がその場に満ちた。
「どいつも怒らせると恐いんだ」
「ふざけんなよっ」
男が指を突き付ける。
「大体、今日で福富は終わりなんだよ。東堂に無様に負けて、醜態を晒すんだ」
「尽八が勝つと?」
「当たり前だろう。このコースはクライマーが有利だ。圧倒的に東堂が勝つに決まっている」
そうか。新開は静かに相槌を打った。
その時、男の背後で突風が駆け抜ける。それは人の形をしていて。自転車に乗っていた。
男が慌てて振り返る。新開に集中し過ぎて彼らの接近に気付いていなかったようだ。男の目に東堂と、その隣を走る福富が映る。
「なんで」
男が叫ぶ。この地点はゴールまですぐだ。本来ならば、東堂が福富を突き放していなければならない。
「
――フク」
東堂の声が少しだけ聞こえた。福富に何事かを話しているようだ。そうこうしている内に彼らはあっという間に遠ざかる。それを追うように男が数歩よろけるように歩く。
その背を見ながら新開は東堂の部屋を訪れた時の事を思い出した。
「そう心配そうな顔をするな」
万事、オレに任せておけ。
扉が閉まる直前、くすりと笑う気配がした。
「なに、きっと上手くいく。お前は自分の事だけを考えていればいい」
「
――尽八」
どういう意味だ。新開はそう問おうとしたが既に扉は閉められ、それっきり開く事はなかった。
「なぁ」
新開は男を通り越して山頂を見つめる。
「さっき尽八はリアリストって言ってたけど」
男は動かない。呆然と立ち尽くしている。
「アイツは誰よりもロマンチストかもしれないぜ」
新開はそう言いながら、前へと進むため足を上げた。
東堂に追いつかれた瞬間、福富は重力に逆らうようにペダルを一気に踏み込んだ。足に負荷がかかる。だが、そうでもしないと東堂に引き離される。
しかし、意外な事に東堂は走る福富を追ってはこなかった。
何故だ。福富は内心首を捻る。
体力を温存しているのだろうか。平坦ならばわかるが、ここはクライマーが最も得意とする山岳だ。クライマーではない福富と駆け引きをするメリットはあまりない。
――何を考えている。東堂。
ラストで一気に追い抜くつもりのなのか。その方が観客が盛り上がるからか。ふと思いつく。東堂ならありそうだ。
理由がどうであれ好機だ。背後に東堂のプレッシャーを感じながら福富はペダルを回し続けた。
それは一瞬の出来事だった。東堂の気配がしたと思ったら東堂はすっと福富の横へ入っていきた。
やはり一筋縄ではいかない相手だ。福富は東堂を見やる。その顔は冷たく引き結ばれていた。本気の東堂だ。
しかし、またも福富の心に疑問が浮かぶ。東堂の加速が緩やか過ぎる。まるで福富に追い抜く姿を見せつけるような。
これはまるで挑発だ。反射的に血が沸き立った。
――その位置にいていいのはお前じゃない。
怒りに呼応するようにハンドルを握る腕がピクリと動いた。
はっと福富は身体を強張らせる。がくんとスピードが落ちた。
東堂と距離が開く。だが、それどころではなかった。
呼吸が乱れる。荒く息を吐きながら福富は俯く。灰色のコンクリートが目に入った。
――オレは。
福富は手で顔を覆う。吐き気がした。
東堂を引き倒すつもりはもちろんなかった。誓ってもいい。
ただ恐怖がそこにはあった。また無意識にジャージを引っ張ってしまったら。赤く染められた黄色が視界を浮かんで消えない。
「
――フク」
穏やかに福富は慌てて顔を上げた。
「東堂」
とっくに先を行っているはずの男がいる。東堂は福富の斜め前を走っていた。福富は呆然とその背を見つめる。
「フク。オレの口癖はなんだ」
唐突な東堂の問いかけに福富は面食らった。予想ができない事ばかりだ。東堂がわざわざ福富に合わせて速度を落としたのも不可解だが、何故か東堂は急に失速した理由を訊かなかった。
それでも訊かれたからには答えないわけにもいかない。
「天はオレに三物を与えた、か?」
「そうだ。登れる上のトークも切れる。更にこの美形。箱根の天才山神クライマーとはオレの事だ」
いつもの口上を東堂は生き生きと述べる。真剣勝負では場違いなほど明るく楽しげに。
「そしてフク。お前の口癖はなんだ」
福富は逡巡した。今の自分にその言葉を言う資格はあるのだろうか。
「オレは強い、だろう」
応えない福富に東堂が自分で答える。
「フク、お前は強い。それはオレが保証する」
だから。そこで東堂は言葉を切った。
「
――お前は二度同じ過ちは繰り返さない」
頭が真っ白になる。唾を何回か嚥下してどうにか声を絞り出す。
「何故」
知っているのか、東堂。広島で起こった事を。
「さて、少し話し過ぎたかな。オレは先に行くとしよう」
そう言うと東堂は今度こそ加速する。
「待て」
遠ざかる背に呼びかける。すると、東堂は福富を振り返るとにやりと笑った。
「オレが主将になったら、甘い物を食べるのは禁止するとしよう」
「なっ
――」
そのあまりにも緊張感のない台詞に福富は言葉を失う。そうしている間にも東堂はどんどん先へと離れていく。
福富はそれをしばし見送って、微かに口の端を上げた。
「それは困る」
再びペダルを力強く踏んだ。ぐんとスピードが上げる。恐怖を上回る想いが湧き上がっていた。
「オレは強い」
噛み締めるように呟く。この口癖を傲慢だとも虚勢だとも笑う者がいる。だが、一分一秒を競うレースでは己こそを信じなければ勝てない。
そして、一緒に走る仲間も。福富は東堂を目で追った。ロードレースはチーム競技だ。
広島のインハイで見た総北を思い出す。エースは一人しかいないと涙を流す田所。怪我を負っていても諦めなかった金城。良いチームだった。
彼らは必ず来年のインターハイの舞台へと上ってくる。もっと強くなって。
金城ともう一度戦いたい。オレが前へと進む為に。
福富は前を走る東堂を追いかけた。
山道で加速するのは容易なことではない。脚にも心肺機能にも当然負荷がかかる。それでも、福富は高揚する気分のままペダルを踏む。
東堂の背中まで。あと少し。
この勝負は負けるわけにはいかない。
東堂が主将に立候補するまで、福富は自分以外の人間が主将をやる事など考えてもいなかった事に気付いた。
特に自らの意思を表明するまでもなく、皆がその役割を自分に求めきた。
中学の頃も当然のように部長だった。他に務まる人がいない。皆が口々にそう言った。
箱学に入学した時も自分が父や兄のように主将になる事を期待されていることがわかった。それを疑問に思うこともなかった。福富にとって期待に応えようと努力することは当然のことだった。
だが、今は。心から思っている。この勝負に勝ち、主将としてインターハイを走りたい。
東堂との距離が縮まっていく。溢れる感情のまま福富は脚を動かす。
主将になって最強のチームを作る。東堂、新開、まだわからないが荒北。彼らと走る事を思うと胸が踊る。きっと歴代最強と讃えらえるチームになるだろう。なってみせる。
そして、許されるならば今度は自分のチームを率いて金城と相見えたい。全力で彼と戦いたい。
広島のインターハイでは福富は金城に敗北したといえる。だからこそ、福富はもう一度金城と戦わなくてはならない。そうしなければ、選手としても人としても前には進めない。
脚はもう限界に近い。それでも不思議と苦しくなかった。マグマのように湧き出る欲求に突き動かされるようにペダルを踏み抜く。
逸る気持ちを抑えない。無茶ともいえる加速でようやく東堂と並んだ。
東堂がこちらを向く。
「そんなに甘い物が好きか」
笑いを含んだ問いかけ。だが、それに応えるだけの余裕はない。
「東堂。オレは強い」
言いたかった事だけを口にする。それで精一杯だった。
「知っているぞ」
だが、オレもやすやすと負けるわけにはいかんのだよ。そう言って東堂がケイデンスを上げる。
「走ろうではないか、フク」
その瞬間、雲間から太陽が現れた。光の中を福富は走る。
「なんで」
突然聞こえた叫び声に反射的に福富は道端へと視線を向けた。見覚えのある男と驚いた事に新開がいた。
「余所見はいかんよ」
すかさず東堂が注意する。
「あぁ」
福富は頷く。
だが、見て良かった。
確信する。新開のあの目。直線鬼は甦った、この箱根に。
それからはお互い無言で走った。
どちらかが前に出ればすぐに片方が追い付く。決着が着かないままゴールが視界に現れた。福富は腰を浮かす。
脚はもう棒になったかのように感覚がない。それでも渾身の力で登る。もはや自分の限界との闘いだ。並走する東堂を気にする余裕もなかった。
ただ目の前のゴールだけを目指し、がむしゃらにペダルを踏んで。踏んで。
身体がバラバラになったとしても一番に。誰よりも速く。前に。
そして、その瞬間はやってきた。
遂に福富の愛車がゴールラインを越える。
一瞬の静寂の後、歓声が上がる。
福富は実感の湧かないまま自転車を停めた。全身の筋肉が軋むように痛む。そこへタオルを持った後輩が駆け寄ってきた。
福富は荒く呼吸を繰り返しながら横を向いた。そこに東堂の姿はなかった。