コーヒーカップロマンス


 


 爽やかな朝にはコーヒーが似合う。
 最近、専門店で手に入れたコーヒー豆を思い浮かべながら金城は紙のフィルターを折
った。試飲では苦味と酸味のバランスが良く飲みやすかったが、恋人は気に入ってくれるだろうか。
 金城はこっそりとキッチンから顔を出した。
 窓から光が差し込む光が暖かく部屋を照らしている。その中で福富は新聞を読んでいた。朝食が空になった食器を乗せたテーブルの横で悠々と椅子に腰掛けている。
 つけっぱなしのテレビには興味はないのか欠片も観ていない。電力の無駄遣いだ。
 金城はフィルターを持ったまま、テーブルへと近づいた。リモコンへと手を伸ばす。
 テレビの中では、人気俳優と女優の熱愛報道をコメンテーターたちが面白可笑しく話していた。平和そのものの光景だ。
 赤い電源ボタンを押すとぷつんと彼らは消えた。
「おい、金城」
 福富が急に声を出した。
「すまない。観ていたのか」
「これを見ろ」
 どうやらそうではないらしい。福富は皿を横にどかしてテーブルの上に新聞を広げだす。そして、端にある小さな記事を指した。とある遊園地が閉園するという記事だった。
「懐かしいな」
 その遊園地の名には見覚えがあった。福富と二人で行った事がある。
 忘れがたい記憶が脳裏に甦る。

「コーヒーカップに乗った事があるか?」
 隣にいる福富が唐突に呟いた。面食らって目を瞬かせる金城に彼は更に言葉を重ねる。
「遊園地にあるだろう」
「あ、あぁ」
 目の前では太陽が地の彼方へと沈もうとしている。夕暮れとはもっと寂しいものだと思っていた。だが、今見える景色
は違う。真っ直ぐに伸びるオレンジの光は力強く、華やかささえ感じられる。山頂付近でいるせいだろう。太陽が大きく普段よりも大きく見える。
「小さい頃に何度か乗ったことはあるな。特に好きでも嫌いでもない」
「そうか」
「だが、どうしてそんなことを訊く?」
「それは」
 口の中で福富が言い澱む。珍しいその姿に愉快だった。走った後の爽快な気分も手伝って金城は軽口を叩いてみた。
「誰か一緒に乗りたい人間がいるのか? オレの意見は男だから参考にならないと思うが」
「いや、」
「まぁ聞け。好きな女性は多いと思う」
「違うと言っているだろう」
 金城の言葉に福富はこちらに向き直った。顔が真っ赤だ。怒らしてしまっただろうか。
 だが、その後に続いた言葉はおおよそ予想していないものだった。
「オレがそう言ったのはだ。お前が憑かれているからだ」
「そうだな。坂を登ったばかりだからな」
 疲れているな。金城はがそう返すと福富は腕を組んだ。
「そういう意味ではない」
 低い声が耳を通る。金城は改めて福富の顔を見た。
 箱根学園自転車競技部、福富寿一。まさかこの男とこうして並んで話す日が来ようとは夢にも思わなかった。

 きっかけは一週間ほど前のことだった。
 自宅で勉強をしていると携帯電話が震えた。電源を切るのを忘れていたと手を伸ばして驚く。ディスプレイに珍しい相手の名が表示されていた。勉強中は携帯電話を手に取らないよう心がけてる金城だったが、思わず着信ボタンを押した。。
「福富だ。夜分遅くにすまない」と礼儀正しく相手は言った。
「大丈夫だ」
 その声に並々ならぬ緊張を感じて金城は開いていたテキストを片手で閉じた。他校の金城に電話してくるくらいだ。何事か相談したいのかもしれない。
「久しぶりだな」
 金城は静かに言った。まずは彼が話しやすいように雰囲気を落ち着かせようと思った。
「あのレース以来だな」
 懐かしむようにふっと電話の向こう側の空気が和む。
「相変わらずペダルを回しているか」
「あぁ。お前は?」
「オレもだ。と言いたい所だが、何かと忙しくてな」
 金城は横目でカレンダーを見る。静岡への引っ越しの日程が赤く書き込まれている。
「そうか」
 妙に力のこもった返答をすると福富は黙った。再び張り詰めた空気が一方的に漂う。
 どう言ったものかわからない金城はその沈黙に付き合う。
 一秒、二秒、三秒。
 部屋に置いてあるデジタル時計が時を刻む。
「金城」
 ようやく福富が口を開いた。
「走りに行かないか」
 その瞬間、金城の身体は風を感じた。心が遥か遠くの道の上へと飛んで行く。
「あぁ」
 もちろん。と金城はしっかりと頷いた。

 福富の顔は夕日に赤く染っていた。寄せられた眉間の皺でさえも色づいている。
――卒業前に皆で走りたい。
 あの日、福富にそういわれた時。金城の心に浮かんだのは困惑ではなく、期待だった。優れたレーサーたちと共に走るのは楽しい。箱学の荒北、新開、東堂。彼らの実力は身をもってして知っている。金城も田所を誘った。巻島がいないのが残念だった。
東堂も今日だけで何度もそう言っていた。だが、坂に入った途端に静かになったが。あのクライムはいつ見ても真似られる気がしない。
「お前は幽霊に取り憑かれている」
 福富の言葉に脱線しかけた金城の思考を元に戻る。金城はこめかみを抑えた。
「待て。お前もそういうの信じる人間なのか」
 インハイで広島の街宮に絡まれた時に、まじないの類は信じていないと言っていなかったか。
「オレは見えた事を言ったまでだ」
「幽霊が見えるのか?」
「……。今は見えない。さっき、一瞬だけ妙な影が見えた」
 涼しい風が通り過ぎる。いつの間にか辺りは薄暗くなり始めている。
「見間違いじゃないのか」
 冷静に金城は言った。それが一番ありえることだ。
「信じられないか」
 オレだってお前だからこんな事を言うんだ。
 金城から顔を背けるように日が没した山間へ視線を移した福富が呟く。
 もし。と金城は言った。信じられない話だが福富の様子が気にかかる。
「もし、それが本当だったとしてどうすればいい。お祓いにでも行った方がいいか」
 何の冗談だと思う。これから大学生になるというのに。
「いや、もっと簡単な方法がある」
「方法なんてあるのか」
「コーヒカップだ」
 淡々と福富はとある遊園地の名前を挙げた。
「夕暮れ時にそこのコーヒーカップに乗ればいい。幽霊が見えるらしい」
「なんだ、それは」
 呆れて言葉も出ない。福富は金城をからかっているのだろうか。
「納得できないか?」
「できると思うか?」
 金城は少しだけ苛ついた声を出した。正直、理解の範疇を超えている。
「おい、どうしたんだ」
 金城たちの微妙な空気を感じたのか後ろにいた田所たちがやってきた。
「オレは幽霊に取り憑かれているらしい」
「ハァ? ンだよそ。そりゃ」
 金城は簡潔に事情を話した。その間も福富は腕を組んで険しい顔をしている。
「コーヒーカップ、ねェ」
 全てを話し終えると荒北が意味ありげに福富を見た。
「何か知っているのか」
 金城が問うと荒北はチッと舌打ちをひとつ鳴らした。
「その話、聞いたことがあるぜ。夕方、コーヒーカップに乗れば霊が見えるってよ」
 なぁ、新開。そう言って隣にいる補給食を咥える男に声をかけた。
「え。そんな話、聞いたことないぜ」
「あ・る・よ・なァ」
 荒北がそう凄むと新開の背を思い切り叩いた。良い音が響く。
「あ、あぁ。そうだったな。箱学じゃ有名な話だ」
 思い出したというようにしきりに頷き出す新開。
「マジか? 何か怪しいぜ」
「ホントだよ、迅くん。なぁ、尽八」
「そうだな」
 話を振られた東堂はもっともらしく前髪を触る。
「オレの家は旅館でな。馴染みの古い客から聞いたことがある」
「寺の坊さんとかか?」
 田所が言うと東堂は「そのようなものだ」と得意げな顔をした。
「あそこのコーヒーカップのひとつはあの世とこの世に繋がっているらしい」
「正気か?」
「別に信じないのならば構わん」
 東堂は芝居がかった調子で人差し指を立てた。
「黄昏は逢魔が時だ。その時、高速でカップを回す事で次元が歪むらしい」
「それでどうなるんだ」
 ありえない。そう思いつつも金城は唾を飲み込んだ。
「歪みから裂け目ができる。そこへ自然と幽霊は吸い込まれていくのだ。自然の摂理というものだな」
「信じられん」
 金城はいつ東堂が冗談だと笑い出すかと待っていたが、一向にその気配はない。
「金城、どうする?」
 それまで沈黙していた福富が重々しく口を開く。
「どうすると言われてもだな」
「いいじゃねェか。行ってみれば」
 困惑する金城に荒北が口を出す。
「減るもんじゃねェし」
「そうそう。ちょうど寿一がその遊園地のチケット持ってるから、一緒に行けばいいよ、そう。明日にでも」
 バキュンと新開が指を撃つ。
「明日の予定は?」
「午後からなら暇だが」
「じゃ、決まりだな」
 展開についていけない金城を置いてけぼりに話が勝手に進められていく。
「それならば、お前たちも」
「あ、わりィ。オレ、明日予定あっから」
「オレも」
「すまんね、金城は」
 オカルト話は信じないが皆で遊園地で遊ぶのも悪くはない。そう金城は思い直したが、荒北、新開、東堂はあっさりと首を横に振った。それどころか田所までも明日は都合が悪いと言う。
「すまねェ。金城。家の手伝いがあってな」
「いや、それなら別の日に」
 金城が言いかけたところで食い気味に別の声が上がった。
「それはどうかな。こういうのは早い方がいいと思うよ」
「そうだ。新開、てめェたまには良いこと言うじゃナァイ」
「フクがいるんだ。心配することはない」
 やいのやいのと口々に騒ぎ始める。
 金城は困って福富に視線をやった。金城と目が合った福富は任せろというように力強く頷く。
「仕方がない」
 金城は遂に観念した。これから大学のレースでも福富とは会うだろうし、親睦を深めておくのも良いのかもしれない。何だか担がれているような気もするが。
「決まりだな」
 嬉しそうに東堂が言った。
「言い忘れたが、ピンクのリボンが描かれたコーヒーカップに乗るんだぞ」
「絶対に間違えんじゃねェぞ」
「ピンクのリボンか。弟が好きそうだな」
 好き勝手言う荒北たちに金城は自分の軽率な選択をさっそく後悔し始めたのだった。

 待ち合わせ場所の遊園地前の広場の行くと既に福富は着いていた。時計台の下でコートを靡かせて立っている。
「すまない。待たせた」
 そう言って近づけば福富は「オレも来たばかりだ」と返し、チケットを差し出してきた。
「行こうか」
 二人は並んで歩き始めた。遊園地へと向かう道には他にも親子連れや友達同士のグループが歩いている。皆、笑っている。
「何だか悪いな。折角のチケットをオレの為に」
「構わない」
 無愛想に言う福富の横顔を金城は盗み見た。
 やはり福富は誰か遊園地に誘いたい女性がいるのではないか。
 それが昨夜、金城の出した結論だった。
 不自然なのだ。突然、幽霊の事なんて言い出したり、それに荒北たちの態度。まるで口裏を合わせているかのような。そもそもコーヒーカップの話をしていたのだ。その後、福富をからかったら彼は怒って妙な事を言い出した。
 あれは福富なりの誤魔化しだったのではないだろうか。それに慣れている荒北たちはすぐにフォローに入ったのだろう。そして、引っ込みがつかなくなってこうして金城と遊園地に来ることとなったのだ。
 悪いことをしたと思う。このチケットは本来、福富の意中の相手のものだったかもしれない。
 赤色のキャラクターが描かれた入り口に着いた。
 カラフルに彩色されたカウンターで係員にそのチケットを切ってもらう。ガラガラと棒を押して入れば、楽しい子どもの笑い声と軽快な音楽が流れてくる。
 遠くでは高く上がったコースターが悲鳴と共に落ちていた。
 一歩、踏み入れただけでそこには非日常のエンターテイメントが溢れている。
「夕暮れまでまだ時間があるがどうする」
 律儀にパンフレットを受け取った福富が園内地図を見せてくる。
「そうだな」
 金城は地図を覗き込むふりをして福富を観察する。いつもと表情は変わっていないが何となく嬉しそうな気がする。
 妙な成り行きで遊園地に来ることになったが、福富はこれはこれで楽しむつもりらしい。
 思えば、高校に入学してから部活漬けで遊ぶ暇もなかった。おそらく福富もそうだろう。最後くらい高校生らしく遊んでもバチは当たらないかもしてない。
 途端に金城はわくわくしてきた。
 地図を指す。
「とりあえず、何かに乗って時間を潰そう。これはどうだ?」
「あぁ。それでいい」
 福富は頷くとぎこちない様子でパンフレットを鞄にしまう。
 オレ相手に緊張しなくても大丈夫だぞ。
 金城は苦笑する。その笑みに気付いたのか福富は頬を赤くした。
「笑うな。あんまりこういう所には来たことがないんだ」
 自転車ばかり乗っていた。そう弁護する男に金城は同意する。
「オレもだ。だから」
 手を差し出す。
「今日は楽しもう」
 差し出された手を福富はしばし呆然と眺める。
「わかった」
 少し間を置いて彼は言った。
 金城にはその時に福富が少しだけ笑ったように見えた。

 良かった。いるな。
 少し離れた人混みからベンチに座る福富の姿を認めて金城は安堵の息を吐く。こんな時、福富の金髪はひどく役立つ。
 あれからいくつかのアトラクションに乗った。銃でモンスターを撃ち落とすものや、ぐるぐる回る人形を眺める乗り物。最後に園内に入った時に見えたジェットコースターに乗った。正直、乗り気はしなかった。だが、強さに拘る福富が乗りたいと言うので同伴した。
 とりあえず、感想としては景色が良かった。それだけだ。福富も同感だろう。終わった後、隣で顔が蒼ざめていた。
 金城は「オレ強い」と言い張る福富をベンチに座らせ、飲み物を買ってくると行ってその場を離れたのだった。
「どうだ、調子は」
 金城が近寄ると福富は俯いていた顔を上げた。
「大丈夫だ」
 いつもは鋭さを感じる目がまだどこか茫洋としている。
「ほら」
 金城はお茶の入った紙コップを渡す。
「すまない」
 項垂れた様子で受け取る福富に金城は空になった手を見せる。
「さて、オレは何も持っていないな」
「そうだな」
 紙コップに口を付けながら福富が不思議そうに言う。こくりと喉仏が動く。
 金城は口の端を上げると自分の手にハンカチを被せた。そして、さっとそれを引く。
 福富の目が大きく開かれる。あっと口が動いたのが見える。
「これ、食べたかったんだろう」
 金城の手にはクレープが握られていた。
「あ。いや、それは」
「売店の方をさっき見ていただろう」
 “新発売。リンゴクレープ☆”と書かれた看板をじっと見つめていた姿を金城は思い出す。
「知っていたのか」
「そういうことだ。これを食べて元気になってくれ」
 ありがとう。福富はそう言いながら恥ずかしそうにクレープを受け取る。その瞳が嬉しそうに輝いている事に気付いて、金城の胸も暖かいものが流れ込んできた。
 金城は僅かに戸惑った。相手は男で同学年のライバルでこんな感情を抱くような人物ではないはずだ。
 気まずさに福富から目を逸らす。すると鋭い光が目に飛び込んできた。随分、太陽が低い位置にいる。
「そろそろだな」
 もうすぐ日が沈む。

 橙色の光が世界を染める。
 それは目の前でくるくると回る大きなコーヒーカップも例外ではない。
「まだ帰りたくないよぉ」
「もう、これに乗ったら帰る約束でしょ」
 背後では、ごねる男の子と宥める母親の会話が聞こえてくる。
「ヤダ! 最後にジェットコースターに乗りたい!」
「ダメ。あれ混んでるでしょ。待ってたら夜中になっちゃう」
 あまりこのアトラクションは人気ではないのだろう。金城は辺りを見渡す。今、並んでいるのは金城たちとその親子くらいだ。園内でも外れの方にあるから仕方がないのかもしれない。
 ブザーの音が鳴る。回転していたコーヒーカップがゆっくりと停止した。ぱらぱらと乗った人たちが降りてくる。
「金城、あれだ」
 隣の福富が声を潜めて指を差す。遠くの方に側面に可愛らしいリボンが描かれたカップが見えた。
 係員にチケットを見せて福富たちは一目散にその場へ向かった。そして、座席へと乗り込む。カップは子ども向けに作られているのか少し小さめだった。先に乗り込んだ福富に続いて向かいに座った金城は、もう一人乗っていたらキツかったなと思った。
「それにしても空いていて良かった」
「あぁ。ダメだったらもう一度乗らなければならなかった」
 真面目な顔をして福富は言った。それは考えただけで恐ろしく恥ずかしい。
 福富はあくまでもあの話を押し通すようだ。さっさと嘘だと白状してくれればいいのだが。
 金城は上を見上げる。ファンシーな模様が描かれたガラス張りの天井から光が差し込んでいた。
「もうすぐ動き出しますので席からお立ちにならないで下さい」
 アナウンスが流れる。やる気のなさそうな従業員がカップを見て回る。どうやら金城とあの親子以外に乗ってきた客はいないようだ。全てのカップを見終えると従業員が奥へと引っ込む。同時にブザーが鳴った。
「それではみなさま、楽しんでください」 
 アナウンスと共に床がゆったりと動き出す。
「いよいよだな」
 緊張した面持ち福富が中央のハンドルを握った。
 やはり本気でやるつもりらしい。
 仕方がない。金城もそれに付き合う事にした。
 神妙な面持ちで頷く。
「あぁ。いつでも大丈夫だ」
 福富が反時計回しにハンドルをぐっと動かした。その速度はどんどん早くなる。それに合わせてコーヒーカップも勢いよく回転する。景色が段々と繋がっていく。やがて、ただの線と化し輪郭をなくした。まるでこのコーヒーカップ以外の物が消えてしまったようだ。
 不意に座っているはずなのに身体が浮く感覚がした。そこで金城は自らの平衡感覚が失われていることに気付いた。堪らずに片手を席に着く。
「福富」
 そんな状態でも福富は一心不乱にハンドルを回している。強い恐怖が金城を襲った。必死で手を伸ばす。
「もういい。やめろ」
 手が揺れて思うように届かない。
「クソッ」
 悪態を吐きながら金城はそれでも手を伸ばす。もう少し。
「福富」
 彼の背後を睨む。融け合って形をなくした世界。
 金城の手がようやく福富の腕を掴んだ。金城は全力でその腕を自分の方へ引き寄せた。
 福富の手がハンドルから離れる。よろけた福富の身体がカップに沿うようにして金城の横へやってくる。
「金城?」
 その声には応じず金城は虚空を見つめる。動力を失ったコーヒーカップは元の緩やかな速度に戻っていく。景色が各々の姿に還っていく。高所から落ちるコースターを目が捉えた時、大きく金城は息を吐いた。ゆるゆるとカップは回り続けている。元の世界だ。ほっと息を吐く。
「その」
 隣に身じろぎをする気配がする。
「手を離してくれないか」
 そう言われて金城は福富の腕を握ったままでいることに気が付いた。
「すまない」
 謝りながら横を向いて息を呑む。思ったよりもずっと近くに福富の顔があった。困ったように伏せられた目。それを縁取るすっと伸びた睫毛までもが見える距離だった。
 こんな顔もするんだな。
 そう思った瞬間、頬が熱くなった。心臓が大きく鼓動した。驚いて金城は反射的に福富の手を放してた。
 何だ今の感情は。
 まだ心臓は鳴り続けている。福富の顔が見れない。
 その時、ブザーが鳴った。コーヒーカップがゆっくりと回転を弱め、止まった。
「降りるぞ」
 福富が立ち上がる。その一言で金城は冷静さを取り戻す。この動揺はさっきの体験のせいに違いない。刺激が強過ぎたのだ
。あんなものをみたせいで感情が昂ぶっている。
「ところでオレの霊はいなくなったか?」
 一応、辻褄だけは合わせておこうと思って金城は尋ねた。
「あぁ。大成功だ」
 振り返った金城に福富は満足そうに応えた。
「それは良かった」
 福富なりに得るものがあったらしい。本番の彼のデートもうまくいけば良いと金城はこっそりと思った。
「あーぁ。もう終わり?」
 その時、声が聴こえた。例の親子の子どもの声だ。その方角を視線を向ける。
 彼らもちょうどカップから降りるところのようだ。男の子が軽やかに飛び降りる。
 そこで金城はあっと息を飲んだ。

 それが数年前の出来事だった。
 淹れたてのコーヒーを福富に差し出す。福富は「ありがとう」と言って受け取った。
「今更だが、本当の事を言ってもいいか」
「何の事だ?」
 金城は福富の向かいの椅子に座る。
「あの遊園地のコーヒーカップの事だ」
「ほう」
 興味深そうに金城は相槌を打つ。
「あの頃、箱学ではある噂が流行っていたんだ」
――遊園地にあるピンクのリボンが描かれたコーヒーカップに夕方に好きな人と一緒に乗ると両思いになれる。
「それは」
「勿論、オレは信じていない。頼るつもりもなかった。だが、お前が遠くの大学に行くと知って――オレは、弱かった」
 福富がコーヒーを一口すする。
「一応迷ったんだ。新開や荒北、東堂にも相談してみた。オレの友人が悩んでいるという設定で。全員がとりあえず誘うだけ誘えと答えた」
 だが、結局バレていたようだな。金城がそう言うと福富は軽く首を振った。
「そのようだな。あの山でお前を誘った時、勝手に口裏を合わせてくれた」
「あの設定には少し無茶があった」
「前日に皆でホラー映画を観ていたんだ」
 福富が唇を尖らせる。
「いいだろう。結果的には成功した」
「そうだな。コーヒーカップにも乗れた」
 それに、こうして深い仲にもなれた。
 片目を瞑れば福富は顔を赤くした。いつまでも初々しい恋人だ。
「金城」
「間違っていないだろう」
「そうだな。上手くいって良かった。お前が怖がりだって事もわかったしな」
 福富が仕返しとばかりに言い放つ。
「あんなに怖がるとは思わなかったぞ。ただのコーヒーカップに」
 あぁ。と金城は思った。やはり福富は――
「気付いていなかったんだな」
「何がだ?」
 怪訝そうに福富が金城を見る。そこで初めて金城は無意識に心の声が外に漏れていた事を知った。
「あ、いや」
「何だ。何を気付いていなかったんだ」
 静まり返った室内が恨めしい。金城はテレビを消したことを後悔した。
「大したことじゃない」
「誤魔化すな。話してくれ」
 こうなったら福富はてこでも動かない。経験からそれをよく知っている金城はため息を吐く。観念するしかないようだ。
「実はな。オレたちの乗ったカップは――ピンクのリボンのものではなかった」
「何」
「見間違えたんだ。夕日で見えづらかったから」
 コーヒーカップから降りる少年を思い出す。彼の乗っていたカップにはくっきりとピンクのリボンが描かれていた。金城は自分たちの乗ってたカップを振り返る。そこには薄いオレンジ色のリボンがあった。
「それは本当か」
 福富の太い眉がぴくりと動く。
「あぁ。ショックか?」
 金城は福富の様子を窺った。
 福富は考えるように顎に手を置いた。そして、ゆっくりと頭を振る。
「いや、」
 むしろ嬉しいと彼は言った。
「やはりオレたちにはまじないなど不確かな物は必要なかったんだな」
 自分たちの意志と努力で結ばれたんだ。生き生きと瞳を輝かせて福富は言う。
 その様子に金城はほっと胸を撫で下ろした。
 どうやらうまく誤魔化せたようだ。 
 金城は思い出す。
 あの全てが橙色に溶け合った瞬間の世界を。
 最初は小さな裂け目だった。だが、それはコーヒカップの回転していく度にじわじわと広がり始める。
 金城は目を疑った。
 やがて、青白い手が裂け目よりゆっくりと伸びてきた。おおよそ生きた人間とは思えないねじくれた手が。腕が。肩が。じわりじわりと騙し絵のように裂け目から現れる。そして、皮膚が剥がれた頭部が現れた瞬間、金城は叫んだ。
――福富。
 背筋に冷たいものが走る。金城は慌てて熱いコーヒーに口をつけた。目の前では福富はまだ嬉しそうに話を続けている。
 このことは福富には一生言わないでおこう。
 金城は口内に残る苦味を無理やり嚥下した。


【コーヒーカップロマンス】

2015/10/28