その不思議なマッチ棒と出会ったのは重い二日酔いの朝だった。
頭が痛い。鈍い思考で金城は昨夜の事を振り返る。
競うように友人の荒北と、ビール、ワイン、カクテル、日本酒、ウォッカ……後は覚えていない。羽目をはずすような事は滅多にない金城だったが、昨夜はつい飲み過ぎてしまったようだ。
一緒に飲んだ自転車競技部の面々が昨夜の自分の醜態を覚えていないことを願う。
金城は帰った記憶のない自室の天井を見てため息をつく。荒北が連れてきてくれたのだろうか。
頭だけではなく床に転がされているせいか背中まで痛くなってきた。
金城はゆっくりと身を起こす。荒北に電話をしよう。その前に水でも飲もう。
立ち上がろうと床に手を着くとぐしゃりと左手が何かを潰した感触がした。
「ん?」
「ああーーーーー。兄ちゃん、何してくれんのーーーー」
叫び声がした。頭痛が酷くなる。
「さっさと手をどかす。早く早くっ」
「うるさい」
頭の中で幾重にも鐘がなっているようだ。
「早く早く」
「わかったから」
お願いだから黙ってくれ。金城は左手を見下ろす。声はそこから聞こえた。
「マッチ箱?」
手をどけるとその下から凹んだ小さな紙の箱が出てきた。表には赤い屋根の家と風車が描かれ、側面にはざりざりとしたヤスリのようなものがついている。全体的に黄ばんでいることから年代物だと思えわれる。。
金城は凹みを直すと箱をスライドさせて開けてみた。マッチ棒が一本だけからんと寂しそうに入っている。
「誰のだろう」
金城には見覚えがない。飲み会時に酔って無意識に持って帰ってしまったのだろう。厄介な事だ。
「しかし、幻聴を聴くとは」
まだ酔いが抜け切れていないらしい。やれやれと金城は肩を竦めた。
「幻聴じゃないで。兄ちゃん」
すると謎の声が再びして、箱の中のマッチ棒がぴょっこりと起き上がった。
「うわッ」
金城は思わずマッチ箱を取り落とす。軽い音を立てて床に箱が着地する。
「イッテー。乱暴すんなよ」
マッチ棒が怒ったように垂直に立ったまま跳ねている。
「これは夢か」
金城は痛む額を指で抑える。
「現実や」
赤い先端をこちらに向けてマッチ棒が勝ち誇ったように言った。金城は白けた目でそれを見た。
やはりこれは夢だ。
金城はごろりと床に寝転がった。
「おい、兄ちゃん。兄ちゃん」
耳元では未だ幻聴が聴こえる。いい加減、静かにしてくれ。金城は口の中で呟くと大きく欠伸をして、目を閉じた。
しかし、その夢から醒めることはなかった。
「お、起きたか。兄ちゃん」
金城が薄っすら瞼を開けると同時に声が聴こえた。自分の鼻の上に何かが乗っている。頭が赤い小さな棒のような物が。
眠気が吹っ飛ぶ。金城は大きく目を見開いた。
「お、お前は」
「おう。そういえば、名乗っていなかったな。オレはマッチ坊。七つの海をまたにかける大冒険家だ」
鼻の上で彼は嬉しそうにくるくる回る。
「冒険家?」
「そうや。オレは多分、お前が生まれるずっと前から存在していたんや」
訊いてもいないのにマッチ坊は語り出す。
ジュテーム。彼は最初、パリにいた。たくさんのは箱に入った兄弟たちの共に。マッチ箱はカフェの店先に置かれ、色んな人々の手に渡った。富める者、貧しい兄弟、がめつい警官に、優しい泥棒。いつしかパリを、フランスを離れた。いくつもの海を渡った。兄弟の数は次第に減っていった。
そして、日本にやってきた時。遂に箱の中には彼だけになっていた。彼の持ち主は家の戸棚に箱を放りこんだ。そのまま長い月日が流れた。マッチ坊は暗い棚の中で人々会話に耳を傾け続けた。そのうちに意味がわかるようになってきた。マッチ坊は悟った。自分は言葉を話すことができる。
「そんな馬鹿な」
「バカもヘチマもない。現に兄ちゃんと話してるやろ?」
金城は黙る。なんとタチの悪い夢だ。
「でもな。ある時、誰かがひょうとワイの家を持ち上げたんや」
――なんだ、この古いマッチは。
酔っぱらった男がマッチ箱を掴んだ。
――湿気ってんに決まってらァ。
「なんやて、もういっぺん言ってみろ」
マッチ坊は辛抱たまらず叫んだ。マッチに湿気っているなど、これ以上の侮辱はない。
しかし、そこは酔っぱらい。驚くどころか笑い出した。何がそんなにおかしいのか。彼は呼吸できないほど笑い、掴んだままのマッチ箱を彼のコートのポケットへと落とした。
「室内なのにコートを着ていたのか」
「酔っぱらいだからな」
冷たく言うマッチ坊に金城は昨夜の自らの醜態を思い出して少し落ち込んだ。
一方、マッチ坊はその時は焦った。だが、こうなったどうしようもないと早々に諦めた。この時は自分がまだ動けることに気付いていなかったのだ。
男は翌日、遠くにある男の家へと戻った。ポケットにマッチ箱を入れたまま。
「そんでな。ワイ、初めてヒコーキちゅうものに乗ったんや」
「飛行機だ」
「そこでワイは気付いたんや。海は制覇したけれど、空はまだやった」
空を飛んでいる。暗い箱の中で人々の会話を聞いていたマッチ坊がその事実に気が付いた時、感激に打ち震えた。空、青い青い、あの空だ。
一目でいい。マッチ坊は外が見たいと願った。しかし、機内でマッチを取り出す機会などあるわけがない。マッチ棒の初めてのフライトは箱の中で始まり箱の中で終わった。
「でも、ワイは諦められなかった」
「その気持ちだけはわかる」
金城が投げやりに相槌を打つ。
「それで。そればっかり考えていたら、動けることに気付いたんや」
空を制覇するにはこの男と一緒にいてはダメだ。男がどこぞの店へと入る。そこで男はマッチ箱を机の上に置いた。マッチ坊は箱の中から側面に思いっきり身体をぶつける。何度も何度も。繰り返す内に箱が横にずれていく。やがて机の端にまで移動した。後もう少し。マッチ坊は全身全霊を込めて体当たりをした。ふわりとした浮遊感。遂に机から箱が落ちた。
「それで? どうしてここにいるんだ?」
「兄ちゃんが拾ったからや」
「なに」
記憶がない。
「兄ちゃん、酔ってただろう。ちょうどワイが落ちてるトコで転んだんや」
その時、金城の手が箱に触れた。よく認識しないままそれを掴む。
――金城、何持ってんのォ?
荒北の声が耳に甦る。
「あ、」
金城はあんぐりと口を開いた。
「やっと思い出したか」
嬉しそうにマッチ棒が飛び跳ねる。
「返してこないと」
顔から血の気が引いていく。するとマッチ坊は慌てたように捲し立てた。
「どうせ店に行ってもアイツはもういない。ワイやってあんな話の通じない男の元に帰りたいと思わん」
「しかし」
「兄ちゃんが罪悪感を抱く必要はない。ワイ、ずっと呼びかけてたんや」
拾ってくれ。誰か、誰か、って。
「兄ちゃんはそれに応えてくれただけや。そもそもアイツが悪い。ワイがせっっかく喋っとるのに幻聴扱いして取り合わないやで。あげく病院まで行って。信じられん」
「それはそうだろう」
金城だって、自分の脳みそを疑っているところだ。ましてやその男はマッチ坊の声だけしか聞いていない。幻聴だと思う方が健全だ。
「何故かわからんけどね。ワイの声が聞こえる人間と聞こえん人間がおんねん」
だから、声が聞こえる人間は特別なんだとマッチ坊は言う。
「光栄に思ってくれないと。ちなみに兄ちゃんといた眼つきの悪い兄ちゃんは聞こえん人間やな」
おそらく荒北のことだろう。つまりその差が自分たちに運命を分けたということか。全く幸運な奴だ、荒北は。
「で、お前はどうしたいんだ。飛行機に乗せれば満足なのか?」
願いを叶えてやればこの奇妙な夢から醒めることができるのだろうか。
「それな。よくよく考えてみたんやけど、飛行機に乗って飛んでも空を制覇したって言えへん気がする」
だからな。マッチ坊がうきうきとした調子で言った。
「空を制覇する方法を思いつくまでこの家に置かせてな」
よろしく、相棒。
マッチ坊はそう言うと金城の返事を待たないで鼻から滑り落ちる。そして、細かく跳ねながら箱の中へと戻って行った。
変な夢だ。今度、福富に会ったら教えてやろう。
金城は再び瞼を下ろした。
しかし、二度ある事は三度ある。当然のようにマッチ坊はいなくならなかった。
再び目覚めた金城の耳に「よっ。おはよう」という威勢の良い声が飛び込んできた時、金城はこの奇妙な現実を受け入れる覚悟を決めたのだった。
実際にマッチ坊は気の良いルームメイトだった。
今まで金城は静岡での一人暮らしを寂しいと思ったことはなかった。だが、帰った時に「おかえり」と言ってくれる誰かがいるというのは良いものだと思った。
マッチ坊は構われることが好きなようで金城が勉強しているとよくノートを覗きにきた。
「邪魔なんだが」
金城がそう言えば
「すまんな」
と素直にマッチ坊は謝る。頭を傾けてしょげるその様子が可哀想で、絆されたことは一度や二度ではない。
焼きそばを作ればすごいと驚く。なのに、青のりを振れば頭に着くと嫌がった。
金城は笑った。おかしかった。
そんな日々を重ねる内にいつしかこの小さくて不思議な同居人は金城にとって大切な友人になっていた。
だが、同時に困った問題も発生した。
「誰かと住むというのも良いものだな」
「どうしたんだ。急に」
久しぶりに恋人が東京からやってきた時のことだ。
一緒に家で食事を食べて、ソファの上ででのんびりしている。金城の呟きに福富は自転車雑誌を捲る手を止めた。
「前はひとり暮らしは自由だし、楽だと思っていてんだ。だが、誰かと住むのはそれ以上に楽しい」
「遅れてきたホームシックか」
福富が手を伸ばしてざりざりと金城の頭を撫でる。
「福富。オレは子どもではない」
「知っている」
福富は撫でるのを止めない。
どうやらただ福富が触りたいだけらしい。これではどちらが子どもかわかったものではない。
「オレが言っている意味がわからないか」
金城はため息をつくとその手を取った。引き寄せて日焼けした手の甲に唇を落とす。
「き、金城」
「一緒に暮らそうという意味だ。もちろん、今すぐでなくていい」
福富には福富の。金城には金城の進むべき道がある。だから、いつかの遠い先の未来。夢が美しく終わりを迎えた後で。
「それまでお前がオレを忘れていなければ」
「忘れるわけないだろう」
真っ赤になった顔をクッションで隠しながら福富は言った。雑誌はとっくに手放している。
「顔を見せてくれ」
「嫌だ」
「福富」
金城はクッションを取り上げる。すると濡れた瞳と目が合った。強い強いという男が自分の前だけではよく涙を見せる。
金城は慰めるようにその目尻にキスをした。すると、福富が金城の首に手を回してくる。
「金城」
熱い吐息と共に唇を塞がれる。理性がヒューズしそうだ。金城は本格的に福富の上へと覆い被さる。うっとりと誘うように福富が金城を見つめる。
「福富」
唇を離してはまたくっつける。悪戯を仕掛けるように無邪気に笑いながら。
金城の指が福富のシャツのボタンに触れる。
その時。うぉっほんだか、オホンだか。金城の耳に微かな咳払いの音が聴こえた。
とても聞き覚えのある声だった。
「どうした?」
ぴたりと動きを止めた金城に福富が不思議そうに声をかける。
「いや、そのな」
金城は視線を彷徨わせる。まさか、まさかな。
その目がテーブルの上にあった古ぼけたマッチ箱を捉えた時、金城は反射的に立ち上がった。
「すまない。ちょっと待っていてくれ」
「何だって」
戸惑う福富を置いて金城は素早くマッチ箱を回収すると、ひとり廊下へと出た。
そして、ドアを締めたと同時に箱をスライドさせた。
「どういうつもりだ」
金城はマッチ棒らしく横たわったままのマッチ坊を睨みつける。
「友人の前でエッチする男がおるか。ドアホ」
負けじとマッチ坊が言い返す。実にふてぶてしいマッチだ。
「仕方ないだろう。久しぶりなんだ」
「そーですか。別にワイはそれには反対せーへん。だけど、ヤルならワイを避難させてからにせい」
「わかった、わかった」
金城はマッチ箱を洗濯機の上に置いた。
「そう。そこなら文句ないねん。後は思う存分やればいい。この、ケダモノ」
あっという間に機嫌を直したマッチ坊に金城は呆れる。
「少し黙っててくれないか」
「はいはい」
口はないが彼がにやにや笑っているのがわかる。金城は無言でマッチ箱の引き出しを閉めた。まったく厄介な同居人だ。
部屋に戻ると福富はまだソファの上で寝転んでいた。
「どうしたんだ」
「すまない」
金城は彼の横に座った。福富が身体を起こす。
「何かを困ったことが」
「大丈夫だ」
金城は彼のつんと立った金髪を撫でる。福富は気持ち良さそうに目を細めた。
「あ、金城」
頭を撫でていた手が、頬、顎へと下りていく。福富が目を閉じたのを合図に唇を重ね合わせる。
――この、ケダモノ。
その時、金城の脳裏に快活な声が甦った。
肌を弄ろうとした指が止まる。
できない、と思った。
いくらマッチ棒とはいえ彼は友人だ。隣にいるのにコトに及びことなんてできるわけがない。声だって聞こえるだろうし。
「そういえば、一緒に観たいDVDがあったんだ」
「え」
金城はぽんぽんと彼の肩を叩くと立ち上がった。
「きっと気に入ると思う」
「金城、オレは」
不満そうな福富の瞳を金城は見つめる。
「お前も疲れているだろう。負担をかけたくないんだ」
「だが、」
「たまには休日をゆっくり過ごしてもバチはあたらないサ」
金城が微笑むと福富はしぶしぶ頷いた。
「お前がそう言うのなら」
「ところで、さっき誰かが咳をする音が聞こえなかったか?」
「いや」
怪訝そうに福富は首を横に振る。どうやら福富は聞こえない人間らしい。