この世には、我々には見えない“何か”が存在している。
もし君たちが科学では解明できないような不思議な体験をしたら思い出して欲しい。
何故ならそれは“彼ら”の仕業なのかも……しれない。
あっと思った。壁から手が生えている。透きとおるような白い腕が教室へと真っ直ぐに伸ばされていた。奇異な光景にも関わらず生徒たちは誰一人として気付いていない。やがて壁から青白い顔がぬっと出てきて福富は緊張を解く。“カノジョ”だったのか。そうこうしている内にホームルームが終わる。
「起立。気をつけ。霊」
学級委員の声が響いた。それに合わせて頭を下げながら、福富は自分の漢字変換に訂正を入れる。霊ではなく礼だ。
顔を上げるとまだ“カノジョ”はいた。血で汚れた制服を着て青白い顔で教室を彷徨っている。ここ数日、校内で見かける弱い浮遊霊だ。特に影響もなさそうなので福富は放っておいている。それを聞いたら怒る人間もいるだろうが、別に構わないと思う。“カノジョ”は誰にも迷惑をかけていない。
その証拠にホームルームを終えて出て行く生徒たちの顔は生き生きとしている。強い怨念を抱く霊はいるだけで、周囲を憂鬱な気分にさせてしまうものだ。
カノジョはすれ違う生徒達を見ずに俯いて、自分の足先を見ている。その口がゆっくりと動いた。どうして。
胸が痛む。その問いの内容も答えも福富は知らない。苦しんでいるのならば強制的に成仏させる事もできるが、カノジョはそこまで望んでいるようにはみえない。こうした浮遊霊たちは数日間か数週間で自然と成仏していく。それまで自由にこの世を過ごせばいい。福富はカノジョを見つめる。
「フクトミー」
そこへきゃんきゃんと甲高い声が割り込んだ。明るく染めた髪に短いスカート。今時の女子高生といった感じのクラスでも派手な子たちが福富を取り囲む。
「調理実習で作ったからあげるー」
彼女たちは口々そういうと茶色のカップケーキを次々に手渡していく。甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「フクトミ、甘いもの好きなんデショ?」
福富は黙ったまま首を縦に振った。このクラスで副担任をしているためか、それとも他の先生たちよりも歳が若いせいか。彼女たちは昔、鉄仮面と評された自分の強面にも動じない。
「ありがとう」
礼を言えば楽しそうにころころと笑う。
「ねぇねぇ、知ってる? こいつ彼氏できたんだよっ」
「え、やだ。言わないでよー」
生きている者の発する眩し過ぎる光。福富はそっと“カノジョ”を盗み見る。カノジョはじっと淀んだ瞳でこちらを見つめていた。心なしか羨ましそうにしているように見える。
『こっちに来い』
そう伝えようと頷いてみせる。が、カノジョは福富に背中を見せると音もなく去って行った。
この子たちも“カノジョ”も同じ女子高生なんだがな。生者と幽霊の溝というものはあまりにも深い。
「あ、そうそう。フクトミ、知ってる?」
最初に声をかけてきた女生徒だ。茶髪を揺らして意味ありげに笑う。
「最近、この辺を走っている“幽霊自転車”のはなし」
えーなにそれ。怖い。ひそひそと小声で囁き合う彼女たち。さっきまですぐそばに本物がいたいうのに、おかしなものだ。
「幽霊自転車? 知らないな」
言いながら、福富の顔つきが変わる。教師から霊能力者へ。
「その話、詳しく訊かせてくれ」
冷房の効いた教室を出ると廊下はむっとした熱気に包まれていた。福富の眉間に僅かな皺が寄る。
『今日は暑いな、寿一』
頭の中でからかうような男の声が響く。同時に脳裏に白い着物をまとった男の姿が浮かんだ。その柔らかい茶色の髪の合間からは金色の二つの角が生えている。
『あぁ、ロード日和だ。新開』
そう心の中で応えると新開と呼ばれた鬼は目を細めた。
『乗っちまいてェな、サーヴェロに』
『部活が終わるまでは我慢しろ』
オーケー。と新開は軽く笑った。
彼は新開隼人。福富の右手に封印されている鬼だ。彼は時々、こうして福富の心に話しかけてくる。
『それよりも、さっきの噂を聞いていたか?』
廊下を早足で歩きながら福富はさっきから考えている事を話す。
『箱根の山に出る幽霊か』
新開は顎に指を当てる。
『ああ。水色の自転車を猛スピードで乗り回す輩が出没しているらしい』
『すごいスピードか。勝負してみてェな』
新開が唇を舐める。その目に妖しい光が灯った。
『新開』
『もちろん、ロードの方な』
言い訳するように新開は慌てて付け足す。
『わかっている。お前は根っからのスプリンターだな』
鬼である新開がロードバイクを乗るようになったのは福富の影響だ。新開が福富が乗っている姿を見て興味を示した事をいいことに、実家で余っていた自転車を与えてやった。
すると、やはり身体能力が人間とは桁違いないか。新開はすぐに乗りこなし、平坦においては福富でも敵わない。
『まさかお前が犯人ではないだろうな』
『おいおい、寿一。それはないぜ。寿一が召喚しないとオレは実体化できないんだぜ』
『前例があるからな』
そう。新開が人目につかないように、生徒たちが寮に帰った夕方から夜の時間帯に走らせていた。それが仇となったのか。いつの間にか妙な噂が立つようになった。
――箱根の直線には鬼が出る。
『とにかく、犯人はオレじゃない』
決まり悪そうに言う新開に福富は頷く。
『わかっている。冗談だ』
寿一。と恨めしげに新開が睨んでくるが、無視する。
例の“幽霊自転車”だが、山の周辺を何かを探すように、駆けまわっているらしい。そして自転車に乗っている人間を見つけると猛然と追いかけてくる。その速さに驚き、追いかけられた者はトラウマになっているようだ。
目撃されている時間帯は全て夕方。黄昏時の時のごとく、昼と夜の境界線がぼやける“彼ら”が好む時間だ。
しかし、その幽霊は一体何の未練があってこの世に留まっているのだろうか。自転車に乗っている人間を追いかけるといことはレースでもしたいのだろうか。そうであれば。
「意外と良い案かもしれないな」
するりと声が出た。そして、実際に声が零れたのに気がついて口を抑える。通り過ぎる生徒が怪訝な顔で福富を見ていた。
『おいおい、大丈夫か? で良い案って?』
新開が呆れたような声を出す。
『お前が奴と走ることがだ。勝負すれば満足してあっさり成仏するかもしれん』
『成る程ね。オレは構わないぜ』
やるからには負けてやるつもりはない。新開は不敵に笑う。
そして、福富の抱えるカップケーキを指さすと「そのお菓子、オレの分も残しておいてくれよ。またな」とだけ言い、脳裏から掻き消えた。どうやら、夕方まで寝るつもりらしい。まったく呑気なものだ。福富はため息をついた。
福富が顧問兼コーチを務める自転車競技部の部室を開けると、一年の小野田、鳴子、今泉がいた。
「あ、福富さん」
丸い眼鏡をかけた小野田が助けを求めるようにこちらを見る。部の上級生が福富をさん付けで呼んでいるせいか、真面目な小野田も福富をさん付けで呼ぶ。
その小野田の隣では、鳴子と今泉が睨み合っている。今にも火花が散りそうな勢いだ。
「どうした」
二人に視線を向ける。鳴子も今泉もその問いが聞こえていないのか、まだお互いを睨んでいる。
「あの、どちらが先にプロになるかって事で言い争いに」
代わりに小野田が説明する。
「ほら、今泉くん、鳴子くん。もう練習に行こう」
そして、健気にも間に入ろうと二人に声をかける。
「小野田くん。ワイは今日こそこのスカシ野郎に言わないと気がすまへん」
「小野田。このバカの相手はオレが引き受ける。お前は練習へ行け」
「なんやとぉっ」
口を開いたと思ったらこれだ。福富は腕を組む。それをどう捉えたのか小野田が慌てる。
「ち、違うんです。」
「何がだ」
えーっと。小野田は助けを求めるように今泉と鳴子を見るが一触即発のままの二人は気が付かない。
「そ、そうだ。福富さんは何で教師になったんですか?」
「急になんだ」
「福富さんも、ここの卒業生だったんですよね」
「そうだ」
箱根学園自転車競技部。確かに昔、在籍していた。
「プロになろうとかって思いませんでしたか」
小野田の悪気のない言葉が古傷に触れる。その痛みはもう顔をしかめるようなものではなかったが。
思ったさ。心の内で応えると福富は逆に小野田に問いかける。
「お前はどうだ、小野田」
え? 小野田がぽかんと口を開ける。
「プロになる気はあるのか」
「と、と、とんでもない」
千切れそうなほど勢いで小野田が手を左右に動かす。
「ぼぼ僕なんて」
「プロになりたいんだったら」
福富は小野田を遮って話し始めた。
「前だけを見ろ。遥か彼方にある偉大な先人の背だけを見て、走れ」
余計な事など考えずにただひたすら前を。
それができなかったから、福富はプロの道を諦めた。右手を握る。そこには昨今の暑さには不釣りあいな皮でできた黒い手袋が嵌っていた。
「福富さん?」
「もっかい言ってみろや、スカシっ」
その時、鳴子の声が響いた。
まったく期待の新人の仲の悪さも困ったものだ。おろおろするばかりの小野田を横目に福富は両手をパンと打ち鳴らした。今泉と鳴子がこちらをやっと向く。
「福富さん」
「パツキン教師」
「お前たち」
地を這うような低い声が福富の喉から放たれる。
「早く外に出ろ。やる気がないのならば、ローラー台へ行っていろ」
そこで三時間だ。告げられた内容に二人は青ざめた。
「ほ、ほら。早く練習行こう。ね?」
小野田が促すと渋々二人は動き始めた。
「おい、スカシ。まだ決着はついてないで」
部活の後で勝負や。と懲りていないのか鳴子が笑う。
「嫌だ。オレはお前みたいに暇じゃない」
今泉も取り付く島もない。
「ちょっと鳴子くん、今泉くん」
小野田が二人の顔を見比べる。
「ハッ。スカシなんて幽霊自転車に会ったらビビって泣くくせに」
鳴子の言葉に福富ははっとする。
「おい、その話をどこで聞いた」
「なんや、突然。クラスの子がゆーとっただけや。自転車に乗った幽霊が出るって……」
「実際に見たわけではないのか」
一言で自転車と言っても色んな種類がある。噂で聞いた形状から考えてどうも幽霊が乗っているのはロードバイクのようだが、それだけでは断定はできない。鳴子が見たならばメーカーまで正確にわかると思ったのだが。
幽霊を成仏させるには未練を取り除くことが不可欠だ。今回のケースだと、ただの自転車とロードバイクでは推察できる未練の種類が大きく違ってくる。
「見てへん。ただ乗ってんのロードバイクなんやろ。ウチの卒業生とちゃいますかー」
「そうだな」
その可能性は福富も考えている。死してなおロードバイクに乗る幽霊。よほど強い思い入れがあるのだろう。
「ロードバイクに乗る幽霊か。なんか怖いね、今泉くん」
小野田がそう言うと今泉ははっきりとわかるほど鼻で笑った。
「安心しろ、小野田。幽霊なんて存在しない」
「なんやと」
気色ばむ鳴子。そういえば、鳴子と小野田は何度か福富の除霊に偶然立ち会ったことがあるが、今泉はなかった。
今泉はそんな鳴子を冷たい目で眺めるとさっさと部室から出て行く。
「くだらない。行くぞ、小野田」
「待ってよ、今泉くん」
「おい、スカシ。くだらないとはなんや」
その背を小野田と鳴子が追いかける。騒がしい三人が出て行くと部室は急に静かになった。
一人取り残された福富は顎に指を添えた。
結局、収穫はなかった。やはり今日の夕方に自分が直接様子を見に行くしかない。そう考えて福富は眉間に皺を寄せた。
しかし、福富のその計画は行われることはなかった。
今泉が行方不明になったからだ。
最初にそれに気が付いたのは鳴子だった。
夕暮れ時、次々とコースを走り終えた生徒達が学校へと戻ってくる。汗だくでへたり込む生徒達にタオルと水を渡していると、赤い髪の生徒が駆け寄ってきた。
「なぁ、パツキン教師。スカシ見てませんか?」
「今泉か。いや、見ていない。まだ戻っていないのか」
「あいつ、逃げよったな」
鳴子が地面の砂を蹴る。ぶわった舞上がった砂煙が風で流れていく。
それを目で追いながら福富は考える。今泉はまだ一年だが優秀な選手だ。この時間になっても、戻って来ていないのはおかしい。どこかでトラブルが、パンクでもしているのかもしれない。
見てこようと福富が動き出す前に、地面に座って水を飲んでいた小野田が口を開いた。
「ボク、見たんだ」
「見た?」
「どういうことや。小野田くん。」
鳴子の問いの小野田は顔を上げた。
「今泉くん、急にコースを外れて走っていちゃったんだ」
「ハァ? なんでや?」
「わからない。今泉くん、横を向いたと思ったら急に集団から出て行っちゃって……」
不安そうに小野田は言う。
「ごめん、ボクも付いていっていれば」
「小野田くんは悪くない。スカシのアホももう少ししたら戻ってくるやろ」
なぁ。と鳴子は福富に同意を求める。小野田も縋るようにこちらを見ていた。
二人を安心させることが教師としての勤めだと思うが、福富は頷く気にはなれなかった。
嫌な予感がする。
「小野田、今泉が出て行ったのはいつくらいだ?」
ええと。小野田は少し逡巡して答えた。
「今から少し前です」
沈みゆく太陽がそんな小野田の顔を真っ赤に染めていた。
――幽霊自転車が出るのは夕暮れ時だ。
結局、今泉が戻って来たのはとうに辺りが暗くなってからだった。
いつまでも戻って来ない今泉を教師たちも手分けして探していたが、今泉は誰にも見つからず一人校門の前に現れた。その手で愛車を押しながら。
「今泉」
福富は走り寄る。今泉のジャージはあちこちが擦り切れ血が滲んでいた。落車でもしたのだろうか。
「どうした。何があった」
「
――じゃない」
俯いたままの今泉がぼそりと呟いた。
「なんだ」
聞き取れない。福富が顔を寄せると微かに妖気を感じた。これは。
驚く福富に今泉が再び口を開いた。
「幽霊なんかじゃない」
「あいつは
――」
そう言うと今泉は福富のシャツを掴んだ。その目は何かに怯え光を失っていた。
「ビアンキに乗った
――化け物だ」
今泉の悲痛な叫び声が夜空に響いた。
◆
次の日、今泉は学校に来なかった。
その放課後、福富は職員室の机で書類を書いていた。昨夜の事件の為、今日の部活は休みになっていた。
リズミカルに字を書きながら、頭の中で新開に問いかける。
『どう思う』
『ビアンキに乗った化け物か』
起きていたのか新開はすぐに応じた。
『幽霊じゃないのなら、それこそオレの出番かな』
新開が口の端を上げる。
『成仏も無理だろうし。説得に応じて立ち退かないようなら』
バンっと拳を手のひらに押し当てる。
『やっちまうしかない』
『新開』
『大丈夫。オレが出れば大抵は言うこと聞くと思うぜ』
今までだってそうだろう。と新開は片目を瞑ってみせる。巨大な力を持つ鬼は妖怪達の間でも畏怖に対象だ。
『そうだが』
福富は言いよどむ。ペンを動かしていた右手が止まった。
『寿一?』
新開が首を傾げる。邪気のないその姿に福富は胸を痛める。新開には極力その鬼の力を使って欲しくなかった。そもそもその為にこの鬼は福富の右手に封印されている。
この優しい鬼は他者を傷つける時、自分も傷ついている。
福富は暗い森で膝を抱えていた新開を思い出す。虚ろな目をして傍にいる仔ウサギを眺めていた。強い妖気を感じてやってきた福富は、その弱々しい鬼の姿に驚いた。
新開は己の中にある残虐な鬼の性に怯えていた。一度、理性を手放してしまえば躊躇なく命を奪ってしまえる自分に。故郷の地獄に帰りたいが、帰り方もわからない。ぽつぽつと新開は語った。
その力を人の為に使ってみないか。そう提案したのは福富だった。
福富はその昔の日本で鬼を使役して妖怪退治をしていた者たちの話をして聞かせた。
――良い鬼になるんだ。
そう福富が言うと新開はくしゃりと顔を歪めた。もう手遅れなんだ。新開が仔ウサギを優しく撫でる。
手遅れと言う言葉に首を傾げると、新開は淡々と告げた。「こいつの親をオレが殺したんだ」
なぁ。鬼が自嘲する。
――オレを封印してくれないか。
福富はその昏い瞳に黙って頷いた。
鬼や妖怪などを封印する時は瓶や壺を使うのが一般的だが、福富は己の右手を使った。この状態の彼を暗い瓶の中に独りにするのは気が引けた。それに、丁度良かったのだ。福富の右手は禁忌を犯したがゆえに既にこの世のものではなかった。
こうして封印された新開だったが、いつの間にか福富の霊能者としての仕事を手伝うようになっていた。時々思う。新開はそれでいいのかと。自分が無理に付きあわせてしまっているのではないか。
福富は再びペンを動かし始めた。
『いや、まずはオレが相手をする』
そう告げると新開は口笛を吹いた。
『格好良いな。で、その“化け物”は説得に応じそうか』
『ああ』
福富は昨夜に今泉の言っていたことを思い出す。
――痩せてて、目つきが悪くて。
震える声で今泉は言った。
――年代物のビアンキに乗ってました。
幼い頃から近所のサイクリングショップに通っていたという今泉は、そのロードバイクが何年のモデルかも正確に覚えていた。福富の中である事象が浮かび上がる。
――そいつは人狼ではなかったか?
福富の問いに今泉が目を大きく開く。
――何故、知っているんですか。オレ、見ました。奴がメットを取った時に頭に獣の耳が……。
福富はペンを握りしめる。高くなった筆圧のせいで紙にインクが滲む。
『心当たりがある』
『もしかして寿一の知り合い?』
面白がるような新開に福富は微かに首を振る。
『わからない』
窓から差し込む光が徐々に橙色を帯びてきた頃、福富はペンを置いた。書類を机にしまう。
『時間だな』
新開が囁く。それに応じようとしたした瞬間。
「ふ、福富さんっ。いますかっ」
職員室の静寂を破る声が響いた。小野田だ。職員室の入り口で必死な形相で立っている。
「どうした」
常にない様子に嫌な予感がする。首筋にびりりと軽い電流が走った。
「鳴子くんが
――」
駆け寄った福富に話す小野田の声は悲鳴のようだった。
夕方とは言え、昼間の暑さは健在だ。吹き出る汗を物ともせずにペダルを踏む。夕日に赤く照らされた道路を走り抜ける。
『急げよ、寿一』
『わかっている』
速度を上げれば、感じる風圧も強くなる。それでも、足は緩めない。
走りながら福富は赤い髪の少年を探す。平日の為か箱根の山へと続くこの道路を走る自転車は福富以外いない。
鳴子、どこへ行った。抜かりなく周囲へ視線を走らせながら、小野田が告げた内容を思い出す。
「鳴子くんが」
そう青ざめた顔をして繰り返す小野田。福富はその肩を何度か叩き落ち着かせる。
「落ち着け。何があった」
その声に小野田の目の焦点が合う。
「鳴子くんが今泉くんの仇を取るって」
「今、自転車で飛び出して行きました」
そう言うと小野田はくたりとその場にへたり込んだ。
「わかった」
福富はそれだけ言うと走り出した。
「ボクも行きます」
その背に小野田の声が投げかけられる。
「お前は待っていろ」
振り返りもせずに言う。
「それがオーダーだ」
小野田が頷いたのかはわからない。だが、彼は追ってこなかった。
福富はそのまま廊下を走り抜ける。途中、すれ違った学年主任に眉をひそめられても気にしない。福富は駐輪場へと急ぐ。そこには通勤で使っている愛車があった。福富は迷わずそのサドルに跨り、走りだした。
徐々に太陽が地平線の向こうへと沈んでいく。
ますます濃くなる赤が忌々しい。鳴子は幽霊自転車にもう会ってしまっているだろうか。
福富はペダルを回しながら今泉の話を思い出す。
――あの化け物はずっと後ろについて来た。
――どんなに早く漕いでも千切れなかった。
そう言って今泉はロードバイクのハンドルを握り締めた。
――そうしているうちにアイツ並んできて。なかなかやるなって言てきてメットを取りました。
そこには獣の耳があった。最初は玩具かと思ったが、その耳がぎょろりと動いた。それに驚いた今泉はバランスを崩して、落車した。
ぐっとペダルを踏む脚に力がこもる。
今泉ですら敵わないレーサーに鳴子は勝てるのだろうか。確かに鳴子は良い選手だ。だが、この先は坂道だ。鳴子はセンスはあるのだが、山はあまり得意ではない。
そうこうしているうちに坂道に入った。ペダルを踏んでいた足に今までになかった重力がかかる。
『いたぞ、寿一』
顔を上げる。坂のまだ麓に近いのところでで痩身のレーサーに追われる赤い髪の少年の姿が目に入った。
福富は加速する。彼らが坂を登りきる前に追いつかなければならない。坂を下る時が最も落車のリスクが高い。この距離から見てもわかる。無茶をしてるせいか鳴子のフォームが崩れている。このままでは危ない。
幸い、福富は山はそれほど苦手ではない。むしろ得意だ。鳴子に追いつくのは難しくない。
問題は
――。福富は鳴子の後ろに着く男を見る。漆黒ジャージを身に纏ったその姿は不気味な迫力を感じる。
一見するとクライマーかと見紛う身体の細さだ。だが、この男はクライマーではない。その走りを見ればわかる。福富は目を細める。がむしゃらで決して美しいとはいえないが、懐かしい走りだった。
おそらく、間違いないだろう。確信をもってペダルを踏む。
ケイデンスを上げてようやく“幽霊自転車”のすぐ後ろに着けると騒がしい声が聞こえた。
「ハッ。さっきの勢いはどうしたァ。息上がってんじゃナァイ」
「アホぬかせっ。まだまだ、これからやっ」
苦しげに鳴子が吠え、後ろを振り返る。その目が大きく開かれた。
「パツキン教師っ」
「鳴子、お前は下がっていろ」
「嫌や。これはワイの勝負や。漢の意地や」
福富の説得にも鳴子は耳を貸さない。
「鳴子っ」
「イヤやっ」
そう言って鳴子は更に加速しようとしてバランスを崩した。自転車が大きく傾く。
『やっべェ』
新開の焦った声と同時にビアンキが前へ飛び出した。
男は手を伸ばして鳴子の肩を掴んで引き寄せる。なんとか鳴子が持ち直す。
「あ……」助けられた事がショックだったのか、鳴子は呆然と男の顔を見る。「ワイ……」鳴子が何事かを言う前に男は舌打ちをするとその手を離した。そして、そのまま鳴子を置いて加速していく。
一方の鳴子は、減速していき福富の隣に並んだ。
「鳴子、お前は下がれ」
再び、福富は言った。今度は生きの良い反論は聞こえなかった。それを了解と受け取って、福富は前を向く。奴に追いつくために。
「どこかで休んでから学校へ戻っていろ」
鳴子は応えない。黙って、福富の背に手を添えた。
「ワイらの仇、取ってくださいよ」
そう小さな声で言うと鳴子はぐっと背中を押した。それを合図に福富は飛び出す。
「もちろんだ」という言葉を残して鳴子から遠ざかっていく。
鳴子は脚を緩めて、その頼もしい背を見送った。
山の中腹でようやく福富は男に追いついた。
横に並んだ福富を男は横目で眺める。が、すぐに前方へと視線を戻した。
「なぁ」
男が口を開く。
『寿一、何か言ってる』
『わかっている』
落ち着かないらしい新開を宥めて、隣の男に集中する。
「勝負しようぜ、頂上まで」
乱雑に告げられた申し出に福富は頷く。
「オレは強い」
「上等っ」
言うや否や男が回転数を上げる。
『アイツ、無茶苦茶だ』
『そうだな』
負けじと競いながら、そのがむしゃらな走りがやはり懐かしかった。
身体がばらばらになる。その比喩を体感するのはこんな時だ。
まず脚が千切れる、酷使された心臓は破裂し、グリップを握った手は感覚を失う。それでも、目は。ゴールだけを見ている。
山頂へは先に福富が飛び込んだ。
『やったな』
新開の祝福を受けながら福富は自転車をゆっくりと止める。荒くなった呼吸を整えるため、深呼吸を繰り返す。
少し遅れて、男がやってきた。男は滴り落ちる汗を拭ってにやりと笑った。
「やるじゃナァイ。福ちゃん」
その声に福富は男の顔を真正面から見る。
「久しぶりだな。荒北」