この世はわからないことばかり


 


荒北と出会ったのは、福富が高校生の時だった。

 暑い夏の日だった。
 強い日差しがじりじりと背中のみならず全身を焼いていく。集団の中を走っていると蒸されるような錯覚さえする暑さ。
 自転車競技部の合宿で訪れた地は普段暮らす箱根よりは幾分涼しかったが、こう走っていると大差はない。
 福富は水分補給しようとして、思い出す。先ほど、ボトルが空になったばかりだ。折しも、道端に自動販売機が見えた。福富は先輩にその旨を告げ、集団から離れた。

 道の脇に自転車を停めて福富は白い自販機の前に立った。ボタンを押そうとした手を福富は止める。
 微弱な妖気を感じた。この頃には福富も自分が人とは違う能力があることを知っていた。
 どうしようか。福富は考える。普段ならば、この程度の妖力など放っておく。妖怪や幽霊が街中に紛れこむことなど珍しくはない。
 しかし、今は。福富は妖気のする方を目で辿る。自販機の裏、林の奥へとそれは続いていた。
 唾を呑む。山に住む妖怪とはどんな姿なのだろうか。
 足が一歩だけ前に出る。少しだけ見に行くくらいは構わないだろう。そう言い訳をして、福富は林の中へと入っていった。

 林に入ると、日がないせいか少しだけひんやりと感じた。天辺が見えない木々に止まっている蝉の声がうるさい。その中を福富はゆっくりと進んでいく。
 地面には至る所に木の根が埋まっており、クリートの付いた靴では歩きづらかった。
 転ばないように慎重に歩きながら、福富はこの先にいるであろう妖怪について思いを巡らせる。山にいる妖怪といえば天狗が有名だ。長く伸びた鼻に赤い顔、その背には翼があると言う。見れるものならば是非見てみたい。
 だが、残念ながらこの先にいるのは違う妖怪だろう。もし天狗ならばこんな弱い妖気であるはずがない。それどころか、福富にその気配を察せられるほど、愚かではないだろう。
 では、この妖気の持ち主とは一体。
 そう考えた瞬間、鋭い銃声が夏の空気を一刀両断した。一瞬だけ、蝉の声が止む。
 福富は足を止める。
 今のは何だ。自分の心臓が激しく鼓動していることがわかる。
 逃げなければ。咄嗟にそう思った。銃声なんてマトモじゃない。逃げなければ。
 だが、福富の足は根が張ってしまったかのように動かない。その時、トットッと獣が地面を蹴る音が聞こえた。その音は真っ直ぐに福富の方へ向かってくる。そして、それを追いかけるような人の足音。
 何だ。身を固くする福富の目の前の草むらから黒い塊が飛び出した。
 避ける間もなくその塊は福富の足へとぶつかる。その衝撃と鈍い痛みに福富は顔をしかめる。
 一方、ぶつかって来た塊は福富の足元でうずくまっている。どうやら黒い子犬のようだ。よくよく見てみようと身を屈める前に、一人の男が草むらから出てきた。山伏のような格好に不釣合いの猟銃を背負っている。
「やっと追い詰めたぞ、人狼め」
 男はそう言うと背中の猟銃を黒い子犬へ構えた。
「待って下さい」
 福富は慌てて犬の前に出る。
「おい、邪魔すんな」
「すみません」
 台詞とは裏腹に動かない福富に男は忌々しそうに吐き捨てた。
「どけっ、コイツは人狼なんだぞ」
「人狼……?」
「狼の化け物だ。こいつは大きくなったら人を襲う」
 福富は振り返って子犬を見る。言われてみれば全体的に犬よりもシャープな印象を受ける。それに――
 この子犬からは微弱な妖気が感じられた。男の言っている事に嘘はない。わかっていながら福富は正面を向く。
「オレにはただの犬にしか見えませんが」
「うるさい。早くどけ」
 銃口を福富へと向けたまま男が喚く。かなり苛立っている。
「できない」
 なるべく男を刺激しないように静かに告げる。
「どけっ」
 男が一歩進む。銃口が福富の顔のすぐ前に来る。
 どくどくと鳴る心臓を意識しながら、福富は大きく息を吸った。
「どうしても、コイツを殺したいのならオレを先に殺せ」
「なっ」男が言葉を失い、福富の目を見る。福富も男の目を見る。絶対に逸らしてはいけないと思った。
 蝉が激しく騒音を奏でる中、二人はしばし見つめ合った。
 先に折れたのは男だった。ふいっと猟銃を下ろしたと思ったら、すぐに後ろを向いた。
「あの」福富の声を遮って、男は言った。
「いつか後悔するぞ」
 不吉な予言を残して振り返りもせず、男は去って行った。
 その背が見えなくなって、やっと福富は息を吐いた。遅れて足ががくがくと震える。やっと身体が脳と繋がった感覚がした。福富は後ろを振り返る。そこで自分を見つめる一対の眼差しに出会い僅かに口を開いた。
 目が閉じられていた時は犬との違いは微かであったが、開かれた今ではその差異は顕著だ。野生を思わせる鋭い眼光はなるほど犬にはない。
 福富はしゃがみ込む。近づく福富を狼は相変わらずキツイ目視線で見ている。だが、不思議と敵意は感じなかった。どちらかというと困惑しているような戸惑っているような、それを隠す為に睨んでいるように思える。福富は狼はもちろん犬も飼ったことがないのだから、全くの当てずっぽうだが。
「お前」
 そう言って頭を撫でようと手を伸ばすが、狼が嫌そうに目を細めて避けたので諦める。
「もう見つかるんじゃないぞ」
 それだけ言って福富は立ち上がった。もう帰らないとまずい。
 歩き出すと、狼がゆっくりと付いてきている気配があった。福富はそれに気付かない振りをして、歩を進める。
 元いた自販機の場所まで戻った時、停めていた愛車が無事だったことに少しほっとした。
 急いでロードバイクに跨がる。ペダルを漕ぐ前にふと出てきた林の方へと目を向ける。
 あの狼が瞳が暗がりの中で光を放っていた。見送りとはなかなか礼儀正しい狼だ。
 小さく狼に向かって手を挙げると、福富は走りだした。その後姿を狼はずっと見つめていた。

 その日の真夜中。福富は再び弱い妖気を感じて目を覚ました。これほど弱い妖気であれば、人に危害を加えることはないだろう。だが。
 福富は布団から起き上がる。練習の疲れでぐっすりと眠る同級生たちを置いて、部屋を出た。
 民宿の廊下は静かで暗かった。自販機のブーンという音と光だけがその世界を乱していた。
 もし、自分に霊能力がなかったら、この廊下を恐ろしいと感じただろうか。音を立てないように歩きながら考える。
暗闇も静寂も恐ろしいとは思わない。そこに何者もいないと確信できてしまうから。
 逆にどんなに明るく騒がしい場所でも“奴ら”がいる時は、足が竦んでしまうことがある。奴らは自分たちの事が見える人間が好きだ。その為、福富は幼い頃から何度も奴らに苦しめられてきた。
 奴らが見える事を嘆いた日は数え切れないほどある。だが、見えなければ良かったとは思わない。
 目には映らない妖気を睨むように見つめながら福富は暗闇へと進んだ。

 月明かりに照らされた駐輪場で、ロードバイクに跨がる小さな影が見えた。
 小学生くらいの少年が届かないペダルに足をつけようと無理やり身体を伸ばしている。
「何をしている」
 福富の声にびくりとその少年は震えた。頭についた犬のような耳がピンと立つ。
「てめェは鉄仮面っ」
 鉄仮面? 自分のことだろうか。首を傾げる福富。少年は構わず喋る。
「おい、何見てんだ」
「これはオレの物だ。それに、これはお前の身長では無理だ」
 ッセ。少年は顔を背けた。それっきり黙秘する。
「おい」
 福富の呼びかけにも知らん顔だ。仕方なく福富は問いかける。
「お前は今日会った狼だろう?」
 少年は答えない。立てていたふさふさとした尻尾を下ろす。
「何にしにここへ来た。また人間に見つかったらどうするつもりだ」
 昼間の緊迫した状況を思い出して、つい責めるような口調になってしまう。
「……こいつが」
 呟くように少年が言った。
「こいつ? ロードバイクのことか?」
 こくりと少年が頷いた。
「速ェって思った」
「他の人間が乗ってる自転車と全然違った」
 独り事の様に少年は続ける。
「オレでも乗れンのかって」
「乗れるぞ」
 福富の言葉に少年が振り返った。福富と目が合う。やっぱりこの少年はあの狼だと確信する。鋭い目つきがそっくりだ。
「だが、このビアンキを乗るのはまだ無理だ」
「ハッ。オレら人狼の成長は早いんだ。すぐに背なんて伸びる」
「そうか」
 言うなり福富は少年に近づき、片手で抱き上げた。傾く自転車を左手で支える。
「な、何しやがんだ。鉄仮面っ」
 やはり鉄仮面とは自分のことらしい。何故、鉄仮面なのかと思いつつ少年を地面に下ろす。がその前に彼は自分から飛び降りた。
「どういうつもりだァ」
 その問いにすぐには答えず、福富はビアンキに跨がる。
「よく見ておけ」
「ハァッ?」
 素っ頓狂な声を上げる荒北にもう一度言う。
「オレの走りをよく見て勉強しろ」
「それって」
「すぐに乗れるようになるんだろう? だが、ロードはそう甘い物ではない」
 速く走るにはコツが必要だ。と続けようとした福富の言葉はにべもない断り文句で遮られた。
「イヤだ」
 お前の世話になるのはごめんだ。そう全身の毛を逆立てて訴えている。その姿はまさに野生の狼だ。
「そうか」
 福富はそう言ってペダルを踏んだ。ビンディングシューズではない為、少々漕ぎづらい。
 進み始めた福富を少年はしばし見つめる。やがて、その姿が煙に包まれた。
 福富が敷地を周りながらそれを見守っていると、煙の中から昼間の狼が現れた。狼は一直線に福富へと走り寄り、そのまま並走する。
 ちらちらとこちらをうかがう視線に福富はこっそりと微笑んだ。

 それから毎日、夜中に二人で走った。
 狼の名は荒北靖友というらしい。「人狼」と呼んだら、赤い顔して怒って教えてくれた。福富もその時に名乗ったのだが、荒北は未だ鉄仮面と呼ぶ。
 今日も荒北と走っている。夜風が心地よい。走りながら、隣の荒北にコツを教えるのを忘れない。そういう時、荒北は口を挟まずに静かに耳を立てている。
 荒北がロードバイクに乗りたがる理由を福富は訊かない。狼の姿で走る荒北へ密かに視線を滑らす。やはり少し走り方がおかしい。右前足、人で言うと肘の辺りだろうか。そこを庇うように走っている。
 福富は人狼の生態には詳しくないが、狼の習性ならば少しは知っている。幼いうちは群れで暮らすはずだ。荒北はいつも独りだ。それが人狼と狼の違いの為か、荒北の右肘の為かはわからない。福富にできることはロードについて教えることだけだ。
 走り終えて宿の駐輪場へと戻ると、荒北は人の姿になった。
「じゃァ、鉄仮面また明日……」
 荒北はその言葉を止める。首を横に振る福富を見て。
「鉄仮面?」
「すまない。オレは明日、箱根に帰る」
 荒北の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。
「箱根」
「オレの高校がある場所だ」
 すまない。と言うと荒北は眉を吊り上げる。
「謝んなよ。別にオレは構わねェ」
「荒北」
「ッゼ。オレには関係ねェ」
 強がる台詞とは裏腹に尻尾が項垂れていた。人狼の尻尾は本人よりも素直だ。
「アアッ何見てんだよっ。さっさと何処へでも行っちまえ」
「安心しろ。ビアンキはここに置いていく」
 もう宿の人には話をつけてある。そう話す福富に荒北は動きを止めた。
「オイ、ナニ言ってんだ」
 こいつはお前の大事な自転車だろォ。荒北は信じられないという顔をした。
「オレは既に新しい自転車を買っている。もう向こうに届いているはずだ」
「だから、こいつはお前に乗ってもらわないと困る」
 一息にそう言って荒北を見る。荒北の表情が動く前にその尻尾が左右に揺れた。
「荒北」
 あと一歩だと名前を呼んで踏み込めば、舌打ちをうつ音がした。
「仕方ねェな」
 荒北はそう言って福富を見上げた。
「借りるだけだ。いつか返す」
「そうか」
 それで十分だと思った。照れくさそうに俯く荒北の髪がサラサラと風に流れる。
「荒北」
 改めて名を呼ぶ。
「何だよ」
「前を見ろ」
 荒北の身体が跳ねた。
「前だけを見ろ」
 福富の話を荒北はその尻尾すら動きを止めて聞き入る。月明かりで照らされたその姿はとても絵になっていた。狼と月。
荒北は福富の話が終わると大きく息をはいた。ずっと息を詰めていたようだ。
 お互いしばらく何も言わなかった。福富は空に浮かぶ星を眺める。この星々のいくつが箱根の空でも見られるのだろうか。
「なぁ」
 沈黙を破ったのは荒北だった。
「来年もここに来るよな」
「わからない」
 合宿地の候補はいっぱいあって、毎年同じ所に来るとは限らない。
 福富の返答に「そっか」と呟くと、荒北は背を向けて歩き始める。このまま帰るつもりなのか。
「荒北」
 遠ざかる小さな背に名を投げかければ、荒北は立ち止まった。

「……がとね、福ちゃん」

 小さない小さな掠れた声で荒北は言った。そして、狼に変身して振り返らずに去って行く。
 荒北が視界から消えてから、やっと福富は気付く。
 福ちゃんとはオレのことか。

 翌年、あの民宿は廃業となり取り壊され、荒北の住んでいた山は再開発という名目で人の手が入った。
 あの人狼とビアンキがその後どうなったのか。様変わりしたその地を再び訪れた時、福富は必死でその行方を探したが見つけることは叶わなかった。

 その荒北が今、目の前にいる。あの頃の少年だった荒北は高校生ぐらいに成長していた。
「耳と尻尾はどうした」
 福富の問いに荒北はメットを取った。そこはさらりとした黒い髪があるだけだ。
「もう自由にコントロールできる」
 荒北が言うやいなや、耳と尻尾が現れた。
「ロードやる時は邪魔だから仕舞ってる」
「なるほど」
 見かけの成長だけではなく、妖力も上がったということか。確かに、今感じる妖気は生半可な力ではない。
 荒北の全身を眺めていると、荒北の尻尾がそわそわと揺れ始めた。
「福ちゃん、ちょっと山ん中行かねェ? ここで話すの落ち着かねェ」
 オレ、狼だから。と荒北は殊勝な態度で言った。
「そうなのか、わかった」
 すぐにでも動こうとする福富に新開は警告する。
『大丈夫か、寿一。罠かもしれないぜ』
『荒北はそんな卑怯な奴ではない』
 それに。と付け加える。
『そのためにお前がいるのだろう』
 その言葉に新開は片目を瞑った。
『言ってくれるぜ』
「福ちゃん?」
 荒北が怪訝な顔でこちらを見ている。それを合図に新開は気配を消した。おそらく、荒北との逢瀬を邪魔しなように気を使ってくれたのだろう。新開はあれで気がきく。
「いや、なんでもない。早く行こうか」
 福富はそう言いながら自転車を停めて、ガードレールを乗り越える。地に着けた足裏から柔らかい土の感触が伝わってくる。ほんの一歩程度の差なのに、違う世界に紛れてしまった気がしてしまう。山というものは独特の雰囲気がある。
 そのまま進むのも気が引けて。福富は振り返って荒北が来るの待つ。しかし、荒北は一向にガードレールを越えようとはしない。薄闇の中、強張った顔で福富を見つめている。その手にはボトルが握られていた。
「荒北?」
 名を呼ぶと荒北はゆっくりと頭を振った。
 なんでもねェ。そう言うなり軽やかにガードレールを飛び越える。そして、ボトルを福富に投げて寄越した。
「喉乾いてるんじゃナァイ。やるよ」
 荒北の言う通りだった。この暑い中全力でペダルを踏んでいた為、身体中の水分は汗として流れていた。思い出した強烈な飢えに福富はボトルに口をつける。ごくごくと擬音が聞こえそうな勢いで飲んでいく。嚥下の為に動く白い喉を荒北はじっと見つめていた。
「ありがとう」
 飲み終えてボトルを返せば荒北は顔を赤くしていた。
「倒れられたらオレが困るから」
 早口で呟くと荒北は受け取ったボトルを投げ捨てた。
「荒北、物を粗末にするな」
「ヘイヘイ」
 聞いているのかいないのか。荒北はおざなりに言って山の中へと進んでいく。仕方なく、福富もその後ろに続いていく。
背後でカコンとボトルがコンクリートに落ちる音がした。

 森の中が涼しいというのは今も昔も変わらない。居並ぶ木々を眺めながら、福富は口を開く。
「いつからこっちに来たんだ」
「最近。オレ、大人になったら福ちゃんに会いに行くって決めてたから」
 高校生くらいに見えるが、人狼の世界では大人なのだろうか。それにしても、母校に勤めていて良かった。箱根以外にいたら、荒北と再開できないところだった。
「でも、参ったぜ。福ちゃん探そうにも手がかりねェし」
 ロードバイクに乗っている奴なら何か知っているかもしれないと追いかけていたら、相手が落車しちまった。と不満そうな顔をする。おそらく、これは今泉の事だろう。
「お前は目立ち過ぎるんだ」
「福ちゃんに言われたくないねェ」
 可笑しそうに笑うと荒北は立ち止まった。目的地に着いたのだろうか。
 そこはさっきまでの景色と違い、木々の密度が低かった。お陰で顔を出した月がよく見える。
「福ちゃん」
 荒北が振り返った。月明かりに照らされたその顔は思いつめている表情だった。。
 何が起こったのか理解する前に背に強い衝撃を感じる。
――ッ」
 福富は太い幹に背を預ける形で荒北に押し倒されていた。それをやった張本人は福富の肩に顔を埋めている。
「会いたかった、福ちゃん」
「あ、荒北」
 どうしたんだこれは。混乱する福富を置いて、荒北はひとしきり福富の匂いを堪能すると一度顔を肩から離した。
 ぎらつく目で福富を見つめる。その眼差しは興奮と緊張が交じり合った不可思議な色をしていた。
「ねェ、福ちゃん」
 吐息に乗せてそう言うと、荒北は福富の耳元へ顔を寄せる。
「つがいになってよ」
 囁く声が甘い。
「あらき、た?」
「オレとつがいになって。オレ、福ちゃん以外の奴なんて考えらんねェ」
 ちろり。福富の耳を舐めて、荒北は再び福富の肩に顔を埋めた。
「おい、荒北」
 福富が呼びかけても荒北は表情を見せない。よくわからないが、恥ずかしいのだろうか。
 そこではっと思いつく。荒北は家族が欲しいのかもしれない。
 荒北は幼い頃から一匹狼だった。群れと言うものに憧れを抱いていてもおかしくはない。
もしかして、荒北は福富と別れてからずっと独りだったのかもしれない。独りで食べて、寝て、自転車に乗って。
 荒北の孤独を思って、福富は胸がいっぱいになる。
 やっと群れが形成できる大人になって、彼は自分の家族を作ろうとしている。
 その最初の相手に福富を選んだのは、彼が福富以外の仲間を知らないからなのだろう。
 何故なら、人狼の仲間から知識を得ていれば“つがい”なんて言葉を福富相手に使わない。
 つがいとは狼の群れの中心になる夫婦のことだ。
「荒北」
 福富は胸に湧いた感情のまま、荒北の背に腕を回した。優しく抱きしめる。荒北の肩が大きく震えた。
「ふ、福ちゃん」
「大丈夫だ、荒北」
 お前はもうひとりではない。そう告げながら、頭の中では自分のマンションがペット可だったかを必死で考える。
 そんな福富の内心を知らない荒北は顔を上げる。
「福ちゃんっ」
 そう行って荒北は福富の唇にキスをした。驚いて後ろに下がろうとするが、背後の樹のせいで動けない。
「ふっ」
 荒北の舌が口の中に入ってくる。慣れていない福富を嘲笑うように口内を蹂躙していく。追いだそうとした舌すら絡め取られる。
 だんだんぼんやりとしていく頭で福富はある事を思い出す。口の周りを舐めたりするのは犬の愛情表現の一つだ。おそらく狼もそうなのだろう。人の姿でやってはいけないと今度、教えなければ。
 福富が見当違いな事を考えている間に満足したのか、荒北は口を離した。
「あ」福富の漏らした小さな声に荒北の耳がぴくりと動く。
「福ちゃん」
 荒北は熱のこもった目で福富を見ていた。
「ありがとう、福ちゃん」
 先ほどのキスの余韻で思考は靄で覆われていたが、心底嬉しそうに笑う荒北に福富の心も暖かくなる。
 良かった。じんわりと広がるこの喜びを荒北にも伝えようと口を開こうとした瞬間。
「ワリィ、もう我慢できねェ。子ども……作ろうぜ」
 荒北の言葉に福富の思考が一気に停止する。
 子ども? 荒北は何を言っているんだ?
 ぐるぐると疑問が頭を駆け巡る。ぼーっとする福富に荒北は唇を舐める。
「いいよねェ? 福ちゃん」
 福富の高い鼻にちゅっと口付けると荒北は福富のワイシャツに手をかける。
「面倒くせェ」
 言うなり両手でワイシャツを左右に引っ張る。勢い良くボタンが弾け飛んでいく。その音で福富の意識は覚醒した。
「おい、物を粗末にするなと言ってるだろう」
「ごめんねェ」
 しおらしく謝ると荒北。しかし、すぐに露わになった福富の胸をまじまじと見る。
 その無遠慮な視線に羞恥を煽られる。男の胸など見られて減るものでもないのに。だが、隠すのも変に意識しているようで恥ずかしい。よくわからないが早く終わって欲しい。
 福富は祈るような気持ちで荒北をうかがう。その荒北は手で口を抑えていた。それでもなお抑えきれなかった呟きが漏れ聞こえる。
「かっわいい」
 何がだ? 疑問に思う間もなく荒北が胸に顔を寄せて。
「ひっ」
 胸の先端を口に含んだ。生温かい感触に鳥肌が立つ。
 どういうつもりだ。流石に我慢出来ずに引か剥がそうと荒北の頭を掴む。が、荒北が反対の尖りを抓った。
「痛ッ」
 今まで経験したことない類の痛みに福富は慄く。思わず荒北の顔を覗きこむ。荒北は不安そうな福富を笑った。鋭い犬歯が見える。
「痛かったァ? でも、もし無理やり外そうとしたら」
 噛んじゃうかもねェ。優しく囁かれた脅し文句にぞっとする。もしあの歯に噛まれたら。
 自然と福富の腕から力が抜ける。それを良いことに今度は丁寧に舐められる。あまりのくすぐったさに目を開けていられない。
「ここからミルク出ねェかな」
 片手では捏ねたり挟んだり潰しながら、荒北は呟く。
「出るわけ……ないだろう」
 目まぐるしくもたらされる刺激に息を乱しながら福富は荒北の言葉にあることを思いつく。
 荒北は福富を母親代わりにしようとしているのか。
 福富の考えを見透かしたかのように荒北がキツく胸を吸う。
 ん。唇を噛んで耐えた。妙な声が出てしまいそうになる。荒北は純粋に母親が恋しくて甘えているのに。
 群れを追い出された幼い荒北。その時には実母が既に亡くなっていたことは想像に難くない。だから、これは代償行為なのだ。そう考えると無碍にもできない。後でよく教育はするとしても、今だけは存分に甘やかしてやるべきではないか。
 福富が迷っている間にも荒北は胸を弄び続ける。妙な感覚が徐々に強くなっていく。
「ほら、福ちゃん」
 荒北の嬉しそうな声に下を向いた。荒北は先ほどまで舌で弄んでいた先端を示ししていた。そこは荒北の唾液で濡れ、赤く色づきぷっくりと立ち上がっていた。そのいやらしさにさっと顔に朱が差すのがわかった。
「ち、違う」
「ナニが違うって」
――っ」
 荒北が指でそれを弾いた。鋭敏になっているそこには過ぎた刺激だった。
「エッロ」
 甘い毒が囁かれる。ぞくぞくと背筋が痺れた。
「あ、らきた」
 力なく制止しようとする福富の頭を撫でる。
「ごめんねェ、福ちゃん」
 蕩けそうな顔で荒北は続けた。
「次は反対だよ」

 違う。違う。違う。
「やめ……んっ」
 荒北は甘えているだけだと。他に意味はないのに。
 腰は熱く溶けて立っていられなくなる。ずるずると幹に背を預けて座りこんだ。
 福ちゃん。
 切羽詰まった声に顔を上げる。途端にキスをされる。何度も。何度も。
 水音と荒い呼吸だけが聞こえる。お互いに近すぎてどちらの自分のものかもわからない。
 やっとキスから解放され、福富は荒北を睨んだ。息を乱し、目に涙を浮かべて。
 ごくりと荒北の喉が動いたのがわかった。
「もう無理。我慢できねェ」
 そう荒北は言うと今まで無視していた下肢に触れる。足先から上へ優しく緩やかに。
 這い上がる嫌悪と心地良さに福富は激しく動揺する。やめろ、やめてくれ。願いは音にならず、吐息に紛れるだけだった。
 そして、布越しに局部へと荒北の指が辿り着いた。
 一瞬で頭が真っ白になる。すでに緩く反応しているそこに荒北は嬉しそうに目を細めた。
「感じてる? 福ちゃん」
「ちがっ――
 反論しようとする福富を無視して、荒北は更に指先を辿らせる。奥まった場所へと。
「あ、」
 小さく身体が震える。
「オレの赤ちゃん、いっぱい孕ませてあげる」
 低い声で囁くと、福富にわからせる為か荒北はそこをぐっと押した。その切迫さに福富は気付かない。
 脳は熱に侵され、濃厚な性の気配に身体がナニかを期待している。激しく鼓動が波打って。荒北を見つめることしかできない。
 頭のどこか遠くで声が聞こえる。それは一陣の風が頭の中を通り抜けた。そして、次には嵐のように大音量が鳴り響いた。
『寿一っ』
 じゅいち。じゅいち。
 鬼の必死な声が吹き荒れる。
『しん、かい?』
『寿一』
 返事をした福富に新開は安堵の表情を見せる。が、すぐに険しい顔をした。
『早くオレを呼べよっ』
『ダメだ』
 反射的に言葉が出る。
『寿一っ』
 鬼の形相。洒落でもなく新開は人の一人や二人殺しそうな顔をしている。余計に呼び出すわけにはいかない。
『荒北は勘違いしているだけなんだ。オレが説得する』
『勘違いしているのは寿一だろ』
 どうしてわかってくれないんだ。と新開は苦しそうに眉を寄せた。その表情に罪悪感を覚える。新開。もう一度、呼びかける。
 すると、首筋に痛みを感じた。意識が現実へと引き戻される。
「福ちゃん、何考えてんの?」
 首に息がかかってくすぐったい。荒北の熱をすぐ近くに感じる。
「荒北」
「オレの事だけ考えてて」
 そう告げると荒北はバックルに手をかける。気付いた福富が身体を起こそうする、しかし間に合わない。
「やめ――
「好きだよ、福ちゃん」
 ベルトが一気に引き抜かれた。
 
 息を詰める。そこへ、信じられない声が聞こえてきた。

「鳴子くん、本当にこっちかな? 戻った方がいいんじゃ」
「大丈夫や。小野田くん。ワイを信じろ」

 小野田と鳴子。遠くの方で二人の声が確かにした。
「来るなっ」
 咄嗟に叫んでしまった。その迫力に手を止めて荒北は周囲を見渡す。そして、ぎょろりと動いた目玉が何かを捉えた。
 福富もその視線の先を辿る。木々の合間から二人の姿が見えた。
「パツキン教師」
「福富さん」
 口々に叫ぶ二人。それを不機嫌そうに荒北は眺めた。
「邪魔じゃナァイ」
 ベルトをその辺に放ると荒北はゆっくり立ち上がった。その手にはいつの間にか鋭い爪が並んでいる
 福富の血の気がすっと引いていく。やめろ。そう言う前に荒北が走り出す。遠ざかる荒北の背の向こうに目を見開く鳴子と怯える小野田の姿が見えた。
 守らなければ。オレの生徒たちを、守らなければ――
 福富は左手で右手の手袋を掴んだ。そして、抜き放つ。
「出ろ。新開」
 風の奔流が右手を中心に巻き起こる。
「オーケー、寿一」
 実体を伴った軽やかな声が耳元で聞こえたかと思うと、すぐに遠ざかった。それは突風のように駆けていき、あっという間に荒北の前へと立ちはだかった。
「アアン?」
 怪訝な声を上げる荒北。
「初めまして、オレは新開隼人」
柔和な笑みを浮かべて鬼が言う。ふわりと白い着物が舞った。
「鬼とは驚いたァ。福ちゃんも物騒なもん飼ってんな」
 尖った牙を見せつけて人狼も名乗る。凶悪な笑みとともに。ピンと糸が張ったような緊張が両者を包んだ。
「なんや、コレ。寒気がするわ」
「ちょっと鳴子くん」
 新開の後ろで小野田たちが小声で話す。それを聞きながら新開は肩に担いでいた大きな棍棒を強く握りしめた。
 そして、真っ直ぐ腕を伸ばし手で作った銃で目の前の狼を撃ち抜く。

「寿一に手を出した罪は重いよ。靖友クン?」


2015/02/07