鬼の脅威はひとまず去った。今、彼は福富の右手で眠っている。
「さて」
その一部始終を眺めていた金城が福富へと向き直る。
「こちらの決着はどうする?」
その声に福富は無言で金城を見た。そして、そのまま金城の正面まで歩く。
「なんだ」
その迫力に金城は錫杖を構える。
「金城」
押し殺したような声が福富の口から漏れる。
「すまない」
頭を下げ、もう一度繰り返す。
「すまない、金城」
「一体、どうしたんだ」
金城は怪訝な顔をする。無理もないと福富は心に杭を打ち込む。彼は何も知らない。
「人化しても無駄なんだ、金城」
「どういう事だ」
金城の顔色が変わる。勘のいい男だ。気付いたのかもしれない。
「一度死んだ者は他者の生気なしでは生きられない」
金城が息を呑む音が聞こえる。それでも、福富は淡々と伝えた。
「お前はあの日、オレが殺した」
あの日、夢中で掴んで持ち帰った蛇は既に事切れていた。
その死骸に罪悪感を抱いている時ふと思い出した。最近、反魂の術について書かれた記述を見た。反魂の術とは人を生き返らせるという禁術だ。と言っても、誰も成功した事がないとかで福富家の蔵書の中に隠されることもなくひっそりと眠っていた。
試してみたい。うまくすればこいつを生き返らせられる。好奇心も多少あった。福富はこっそりと蛇の死骸を宿まで持ち帰った。
インターハイ最終日のミーティングを終え自由時間になると、福富は散歩に行くふりをして宿を出た。
生温かい風が強く吹いていた。それに髪を撫でられながら、福富は人気がない場所を探す。
いくつかの近隣の旅館を通り過ぎると、何もない空き地のような場所を見つけた。ぼうぼうに草が生えたそこは立て札が立っており、将来は立派な建物が建つ予定らしい。そんな事とは関係ない福富は、素知らぬ顔で不法侵入する。
草を蹴散らして進み、ちょうど大きな石を見つけてその前に座る。鞄から蛇を取り出し、石の上に置いた。
蛇は目を開いたままで、恨めしそうに福富を見ていた。
そんな目で見るな。今、生き返らせてやる。
福富は両手を合わせると、うろ覚えの文言を唱える。本に載っていた一番簡単な方法だ。
やがて徐々に右手に熱が集まってくる。燃えているのではないかと思うほど熱くなったところで、福富は右手を蛇の身体の上に乗せた。全霊力を蛇へと注ぎこむ。火花がいくつも散っていた。
福富も本当に生き返らせられるなどとは信じていなかった。その右手が何処へと沈むまでは。
「なっ」
突如、蛇に乗せていた右手が消えた。いや、見えなくなったと言うべきか。指先の感触は確かにあり、動かぜば沼に手を突っ込んだような感触がする。
どういう事だ。
福富は必死に本に記述された事を思い出す。
――肉体に霊力を注ぐことで、あの世への道が開かれる。そこで魂を掴む。
すっと血の気が引く。それでは、オレの右手はあの世にあるということか。
この時になって、福富は事の重大さを思い知った。
必死で右手を動かし、魂を探す。だが、いつまで経っても指先には何も当たらない。次第に絶望が福富の心を染めていく。
何故だ。何故だ。
汗が吹き出て、呼吸が荒くなっていく。からからと乾いた喉で無理やり唾を飲み込んだ時、指に何かが当たった。
福富は夢中でそれをたぐり寄せる。それは柔らかく抗するように動いた。福富は逃さないように強く握りしめて持ち上げる。
水面から手が出たような感触がしたと思ったら、目の前に閃光が弾けた。咄嗟に目を瞑る。
しかし、その拍子に福富は右手を開いてしまう。指の隙間から何かがすり抜けて行った。
福富が再び目を開けると、長い草が揺れているのが見えた。辺りを見回す。野放図にされた草そこかしこに生えたその風景が懐かしい。蛇を置いていた石を見ると、死骸は跡形もなく消えていた。
夢でも見ていたのだろうか。
福富は自分を落ち着けようと何度も呼吸を繰り返した。
そして、右手を見た。あるはずのものがなかった。
福富が話し終えても金城は微動だにしなかった。
重苦しい沈黙が続く中、福富は思う。
あの頃の自分はなんて傲慢だったのだろうか。ちょうど霊に対抗する術を習い、簡単な除霊くらいならば独りでできるようになっていた時期だった。インターハイのメンバーにも選ばれ、正に怖いものがなかった。
なんでもできると思った。不可能な事などないと。
その感覚は思春期ならば多かれ少なかれ抱くものなのかもしれない。だが。
福富は金城の顔を見る。
沈むような瞳にまたひとつ心臓に穴が開く。
福富は越えてはいけない一線を越えてしまったのだ。
「オレが妖怪となったのは何故だ」
それは。ようやく発せられた金城の言葉に福富は息をはく。
「オレの霊力が身体に入っているからだと思う」
生者は何もしなくとも自然に魂と身体が結びついているが、死者はそうはいかない。別の力で無理やり繋がなければならない。おそらく過剰に注がれた霊力が変質して妖力となったのだろう。源となる力が元は人間の霊力だった為、金城は人の形をしているのだろう。
そうか。金城は静かに頷いた。そしてまた、沈黙が降りる。
堪らず福富は口を開いた。
「金城、すまない。謝っても許される事ではないのはわかっている」
あの日からずっと反魂の術は失敗したものだと思っていた。
「もしお前がどうしても人化の術を行いたいのならば、オレの頭蓋骨を使え」
全ては過去の事だと思っていた。あの蛇は常世で穏やかに眠り、福富は罰を受けたと。
「適合する頭蓋骨でなくても、十年は保つはずだ」
福富の知らぬ所でずっと苦しんでいたなんて。福富は顔を歪める。
金城は何も言わない。静謐な瞳で福富を見ている。
「だから、今泉は」
「福富」
有無を言わせぬ低音が響いた。
「大丈夫だ。もうオレは人化の術は行わない。意味がない」
第一。と金城は呆れたように言う。
「お前がいないければ誰があの鬼を封じるんだ」
福富は言葉に詰まる。それは。
「正直、戸惑っている」
金城は福富から視線を逸らす。
「普通に暮らしていきたいと願ってここへ来た」
しゃらんと錫杖が揺れる。
「確かにこの体質を呪った事は数え切れない」
恩ある人を傷つけた。だが、と金城は続ける。
「それらはもしあの時に死んでいたら得られなかったものだ」
蛇のまま死んでいたら、出会わなかったこと、知らなかったこと。
福富、オレは。金城は福富の目を見る。
「お前を憎いとは思わない。感謝したいとも思えないが」
「金城」
「ただ、今後どうすればいいのかわからない」
人になってあの山奥の寺へと戻るつもりでいた。自分が死者であるのならば、戻るわけにはいかない。
そう淋しそうに告げる金城に福富は問う。
「この後、どうするつもりだ」
「人を襲う化け物にでもなるかな」
おどけたように金城は言う。福富はため息をつく。
「できない事を言うな。金城、お前は」
「人間が好きなのだろう」
放たれた弾丸に金城は動きを止める。
「
――何故、そう思う」
声を震わす金城に福富は首を傾げる。
「お前は極力、人の命を奪わないようにしていた。邪魔をするオレでさえ。そもそも」
嫌いだったら、人間になりたいなどと思うはずがない。
福富の言に金城は動揺したように目を逸らした。図星なのだろう。
だったら。そう口から衝いて出た。
「オレのところへ来い」
「お前がそうなったのはオレのせいだ」
「オレは強い。毎日、少しくらい生気を取られたくらいでは何ともない」
普段からは考えられないほど、饒舌に福富は金城を口説く。
その様子に金城が驚く。
「福富」
「だから、何も心配せずにここで暮らせばいい」
二人の間にしばし沈黙が流れた。福富は金城を見つめる。その大きな瞳には何の感情も読み取れない。
やがて金城が笑い出した。はじめは喉を震わせて次第に大きな声で。
「とんだお人好しだな、福富寿一」
「なに」
「それに、オレはそんな軽い男ではない」
金城は福富に背を向ける。その耳が微かに赤く染まっていた。
「おい、金城」
「ありがとう。福富」
金城がそう言った瞬間、闇が訪れた。洞窟を照らしていた光の球体が消えていた。
「福ちゃーん」
背後で荒北の声が聴こえる。福富はようやく身体の力を抜いた。
福富が残っていた僅かな霊力で光を生み出した時、金城の姿は何処にもなかった。
◆
「おう、福富も今日は朝食これか」
嬉しそうに発せられた声に福富は振り向く。そこには石垣が片手を上げて立っていた。
石垣に保健室で会ってから、数週間後の朝。福富たちは購買部に来ていた。
「あぁ。たまには朝からパンでもと思ってな」
実は新開が食べたいと騒いでいたせいでもある。
「そうか。オレは炊飯器のタイマー忘れてな」
朗らかに石垣が笑う。
最近、朝食用にと朝もパンを売るようになっていた。売っているのはもちろんこの男だ。
「二人とも、とっとと選ばないとホームルームに間に合わないじゃナァイ?」
のんびりとパンを選ぶ二人に呆れたように荒北が呟く。
「お、ウナギパンや。そうそう福富、今日から養護の先生が新しく来るの知っとるか?」
「そうなのか」
金城が今泉を浚いに来た時に居合わせた養護教諭はトラウマになってしまったのか学校を辞めてしまっていた。
これも過去の自分が招い罪のひとつか。
ため息混じりに福富は焼きそばパンに手を伸ばした。と、手と手がぶつかる。どうやら隣の人間も同時に手を伸ばしたようだ。
「すいませ
――」
顔を上げた福富は口をぽかんと開く。白衣を羽織った男が立っていた。福富と目が合って薄いレンズ越しの目が笑う。
「今日からこの学校に派遣された養護教諭だ。よろしく、福富」
男が手を差し出す。頭の中が疑問符でいっぱいになりながらも福富はその手を握る。
「金城」
「てんめェ、どうしてここにッ」
福富の声と被るように荒北が金城を指さす。
『靖友、オレの真似か?』
いつの間にか新開まで起きている。頭が痛い。
そんな福富の横で金城が爽やかに石垣に挨拶している。
「で、何をしに来た?」
手段を問うのは時間の無駄だろう。金城ほどの妖力があれば普通の人間などどうにでも誤魔化せる。
福富の問いに金城は振り返った。
「お前に会いに」
「ハァッ?」
青筋を立てる荒北を目で制しつつ福富は尋ねる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だが」
金城は焼きそばパンを手に取りながら言った。
「よくよく考えてもわからないから確かめる事にした」
「確かめる?」
怪訝な顔をする福富に金城は向き直る。
「お前の事を考えると胸が、震えるんだ。こんな気持ちなったことがない」
一歩。金城が福富に歩み寄って顔を寄せる。
「これが」
「これが?」
光に透けた緑の瞳が美しくて。
「これが恋なのか? 福富」
一瞬、見惚れた。
『寿一ッ』
「福ちゃんッ」
内と外の声にはっと我に返る。福富は目の前の端正な顔を睨んだ。
「ふざけるな。金城」
すると金城は意地悪そうに口の端を上げた。
「つれないな。あんなに熱烈にプロポーズをしたくせに」
そんなこと言った覚えはない。
しかし、脳が急速に回転を始めひとつの台詞を弾き出した。
――オレのところへ来い。
再生された自分の声に顔が熱くなる。あれはそういった意味ではない。口を開く前に荒北が吠えた。
「ちょっと福ちゃんどういう事ッ」
オレ、聞いてないヨ。興奮して耳と尻尾が飛び出る。
それを見て福富は咄嗟に石垣へと視線を向けた。驚いてショックを受けていないといいが。
「ウナギパンてほんまのウナギ入ってへんよなー」
幸いな事に石垣は一切こちらを見ていなかった。呑気にパンを選んでいる。まるで結界でも張ってあるかのようだ。実際、“あいつ”が張っているのかもしれない。
胸を撫で下ろした福富だったが、顎を掴まれる。一難去ってまた一難。今度は何だ。
「よそ見は感心しないな」
心地よい低音が耳をくすぐられた。
「金城」
無理やり正面を向かせられると、そのまま引き寄せられ
――。
「させるかよッ」
二人の間に荒北が割り込む。その勢いのまま金城に喰ってかかる。金城は金城で興味深そうに荒北との応酬を楽しんでいる。
二人とも福富の事などすっかりと忘れているようだ。
脱力してはぁと息が落ちる。
その様子に脳内でくすりと笑う気配がした。
『本当に変な奴に好かれるな。寿一は』
「言うな、新開」
ダメ押しのような言葉にがっくりと肩を下げる。ついでに新開がオレも混ざりたいと騒ぐので解放してやる。もうどうにでもなってしまえ。風が巻き起こる。
「靖友ー」
「おい、新開っ。ぜってェ食うなよっ」
両手にパンを抱える新開を荒北が追いかける。その様子に自棄になるんじゃなかったとさっそく後悔する。そんな福富の隣に誰かが並んだ。
「面白いな」
金城だった。福富は愉快そうに荒北たちを眺める金城に問う。
「で、本当の目的は何だ」
「さっき言っただろう」
福富は金城を睨む。すると金城は苦笑して両手を振った。
「わかった。わかった」
さっきのも半分は本気だぞ。と前置きして金城は話し始めた。
「オレはあれから亡者について調べた」
どの文献も亡者の最期は決まっていた。正気を失い人を襲う。生気を求める化け物になる。
「お前をそんな風にはさせない」
福富の言葉に金城は軽く目を伏せた。
「いいんだ、福富。だが、もしオレがそうなったら」
「お前の手で殺してくれ」
一瞬、全ての喧騒が消えたように感じた。
静寂の中、福富は頷く。
「わかった」
それをお前が望むのならば。
永遠にお前の傍にいよう。お前がその日を恐れなくなるまで。
「誓おう」
そう言って福富は思った。
こちらの方が余程プロポーズみたいじゃないか。金城。
【激突!鬼vs蛇 右手に秘められた過去】