覚えているだろうか。
あの日、二人で眺めた桜の木を。
青い空に薄桃色の花びらが美しく舞っていた。
思い出す度に鼻の奥がつんとしてしまう。
お前は覚えてなどいないだろう。
それでも、いつか問うてみたい。
失望する恐怖に耐えて。
答えなどわかっているのに。
なぁ。
初めて出会った日を覚えているか?
◆
自転車で走るのは楽しい。それが遮るものが何もない平坦であれば、最高だ。
新開は上機嫌でペダルを回す。薄暗くなった道路は車の行き来も少なく、着物でロードバイクを漕ぐ新開を見咎める者もいない。
新開は更に脚に力を込めて、加速していく。向かい風がぐんと重くなる。
箱根学園の自転車競技部が終わった後、時々新開はこうして外を走らせてもらっている。
良い気分転換になるだろうと、新開を右手に封印している福富も快く送り出してくれる。暇な時など一緒に走ったりする。今日は、用事があるとかでまだ学校だ。
恨めしそうに新開を見送る福富の顔を思い出して頬が緩む。まるで遊びに行く兄に置いて行かれた弟のようだった。
仕事なんてサボっちまえばいいのに。新開は心底同情する。
人間って奴は自ら窮屈な檻に入りたがる変わり者ばかりだ。まぁ、人間に進んで封印されているオレが言えることじゃないけどな。
新開は後ろのポケットから固形の補給食を取り出した。新発売のチョコバナナ味。咥えると程よい甘さが口の中に広がる。
よし、もうひと漕ぎ。ハンドルをしっかりと握り直す。前を見据えて走りだそうとした時、新開の横を鋭い槍のような風が通り過ぎた。
新開は前を見る。ロードバイクに乗った男が颯爽と走っていた。
ジャージの上からでも確認できるよく鍛えられた筋肉が見て取れる。新開など気にも止めていないのか。短く刈り込まれた頭は前方を向いたままだ。
久しぶりに楽しめそうだ。新開は口の端を上げると脚にぐっと力を入れた。
男に追いついて横に並ぶ。
「よう、一人で走ってんのか?」
新開の声に長い睫毛に覆われた目がこちらを向いた。
「あなたには関係ありません」
冷たくそう言うと彼はケイデンスを上げる。あっという間に引き離された。
やっばいな。楽しげに唇を舐めて、新開はその背を追いかけた。
走っているうちに彼が人間ではない事に気が付いた。
その後。何度か追いついて離され追いついては離されとまるで鬼ごっこのように走っていた。
新開に並ばれる度に彼は律儀に驚き加速する。その度に、微かに妖気がするのだ。
自転車はともかくロードバイクに乗る妖怪は珍しい。
新開の周囲では福富の影響もあって多少いるが、こんな風に道の上で出会うのは初めてだ。
妖怪と走るのは単純に好きだ。卑怯という感じがしないからだ。人間相手だとこうはいかない。
新開が最後に妖怪とレースをしたのは、石垣にとり憑いた御堂筋と戦った時だ。あのレースぎりぎりまで勝てると思ったのにな。今回の相手はどうだろうか。新開は隣を盗み見る。
アブアブアブ。
奇妙な掛け声と共に彼が速度を増していく。
彼はこっちを見ない。意識していないはずはないのだが、それを出したくないのだろう。プライドが高い。
新開もケイデンスを上げて、横をキープする。
「なぁ」
声を掛けても彼は応えない。仕方なく新開は続ける。
「終わりにしようぜ」
その声に男が反応する。
この先はもうすぐ山岳に入る。自分も、おそらく彼も苦手な坂道だ。その前に全力スプリントを楽しみたい。
「山の手前の信号機、そこに先に着いた方が勝ちだ」
悪いけど、オレが勝たしてもらうよ。そう言って新開は指で作った銃で男を撃ちぬいた。
男の目が丸くなる。
「ふ、ふざけいているんですか」
顔を真っ赤ににして男は叫んだ。見かけどおり真面目な性格のようだ。
「本気さ」
新開が笑うと男は前を向いた。
「いいでしょう。見せてあげますよ」
「僕の本気を」
空気が変わった。強いプレッシャーがひりひりと肌を刺激する。
アブッ。
彼が一気に加速する。前に出た男の背がすぐに遠くなる。
「ヘェ、やるな」
まだあんな力を隠し持っていたのか。だが、それは自分も同じ事だ。
男は知っているのだろうか。
――箱根の直線に鬼が出ることを。
ぷつんと糸の切れる感覚がする。抜かせ、抜かせ、抜かせ。心を燃え立たせるコールが鳴り止まない。
視野が極端に狭くなり、追っている背中以外に見えなくなる。目の前を飛ぶ蝿のようだ。
叩き潰してやるよ。だらりと舌が垂れた。
全力で走った後のこの開放感はいつだって気持ちが良い。
先に約束の信号機の下を駆け抜けた新開は額の汗を拭った。前方にそびえる山道を見上げながら、徐々に脚を緩める。
いい勝負だった。ゴール手前で追い抜いた背中を思い出す。
そろそろ彼が来る頃だろう。新開は何て声をかけようか考えながら振り返った。
しかし、予想に反して彼はまだのろのろと走っていた。信号機までまだ辿り着いていない。
彼は睫毛に縁取られた目を大きく開いて新開を見つめていた。
その口は呆けた様に開かれている。
「おい」
どうかしたのか? そう発せられる予定の言葉は男の背後を見て塗り替えられた。
「危ないっ」
男の背後からもうスピードの大型トラックが走って来ていた。運転手の男は携帯電話に夢中で前を見ていない。
――ぶつかる。
男が音に気がついて振り返るも、トラックはもう目前だ。
咄嗟に新開は自転車から飛び跳ねる。風と化したように一直線に男の元へ駆けた。
そして、腕に彼を抱えて再び道の端へと跳躍する。その際に彼の自転車を乱暴に蹴り上げる。
派手な音がして自転車がガードレールにぶつかる。その音に運転手は首を竦めるとやっと周囲に目を向けた。
倒れた自転車を奇異な目で見ながら、トラックは去って行った。
「大丈夫か」
新開は腕の中にいる男を覗きこむ。長い睫毛を伏せていた彼はその声にぱちりと目を開けた。
それから、数秒目を瞬かせると顔が朱に染まる。
「だ、大丈夫です」
そう言って新開の胸を押して離れようとする。未だ抱きしめたままの事を思い出した新開は彼を解放する。
「悪かったな、自転車」
いえいえいえ。男は新開の言葉にもげそうな勢いで首を振る。
「こちらこそ、ありがとうございました。貴方は命の恩人です」
男は深々と頭を下げる。
「是非、恩返しをさせて下さい」
新開は指で頬を掻いた。
「そんな大げさ」
いえ。男は興奮したように顔を突き出した。
「あなたは美しくて、速くて、強い」
彼の視線が新開の頭へ注がれる。角は隠れているはずだが、何かを察したのだろう。
「あなたの眷属にして下さい。必ず役に立ってみせます」
そう言って拳を握る男の目が熱を帯びて輝く。
「ちょっと待てよ。ええっと」
「泉田塔一郎と申します」
言い澱む新開に泉田が優雅に名乗る。以後、よろしくお願いします。再び頭を下げる泉田は既に新開の眷属になった気でいるようだ。
「顔を上げろよ、泉田」
新開は優しくそう言うと、泉田は期待が篭った目で新開を見た。新開は続ける。
「そんなんいいって。もし、どうしても恩返しがしたいって言うのならさ」
そう言って右手を差し出す。
「またオレと一緒に走ろうぜ」
妖怪かつスプリンターという者は今までいなかった。彼と定期的に走れたら楽しいに違いない。
しかし、泉田は躊躇うように新開の目を見つめるばかりだ。
「泉田」
もう一度言うと泉田はおずおずと手を伸ばす。
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくな、泉田」
触れられた手を握りしめて新開は笑う。ふと、泉田越しに一本の樹が見えた。
ヒュウ。と思わず口笛を吹く。
どうしたんですか。と辺りを見回す泉田に新開は指差す。
「見ろよ」
楽しみだな。そう呟く新開の視線の先には蕾をつけた桜の樹があった。
福富の様子がおかしくなったのは、それから数日経った後だった。