学校から寮への道は案外遠い。特に部活が終わりの後は。
日が伸びたとはいえ今の時間はさすがに暗いな。と歩きながら荒北は心の中で独り言ちた。横を見ると共に歩く友人たちの顔を月明かりに浮かんでいる。揃って、暗い顔をしている。荒北、福富、新開、東堂は“作戦”を行った今朝以来初めて四人でゆっくりと顔を合わせていた。自然と話題は今朝の話になる。
「オレが悪かったよ」
ぽつりと新開が呟いた。
「普段買わない菓子だったんだ。あんなオマケがあるなんて、な」
「隼人、気を落とすな。予測する方が無理というものだ」
東堂が慰める。確かにあれは仕方がないだろう。荒北は別のことが気になっていた。
「新開、なんでおめー福ちゃんに触った時に照れてたんだよ」
荒北の問いかけに新開は頭を掻いた。
「なんか改めて触ると思ったら、恥ずかしくなっちまった」
「おめーなァ」
肝心な時に。と言えば、新開は困ったように眉を寄せた。
「靖友もやってみろよ」
新開の挑発に思わず隣の福富の様子をうかがう。福富もこちらを無言で見つめていた。何故か、カッと頭に血がのぼる。
「いや、いいわ。やめとく」
動揺を悟られないように荒北は早口で答える。そっか。と話題を振った新開は特に追及しなかった。
「しかし、噂は更に広まってしまったな」
東堂が憂い顔で言った。
「大丈夫だったァ? 福ちゃん」
福富は疲れた顔をして話し始めた。
「実力行使をする者が出てきたな」
「それは本当か」
「あぁ、転んだふりをしてぶつかろうとする者がいた」
「ちょっ、危ないじゃねェか」
インハイ前のエースになんてことを。荒北が色めき立つ。
「福ちゃん、そいつらの顔教えてっ。ブチのめすから」
「暴力沙汰の方が困る」
「福ちゃん」
福富はあくまでも自分のスタンスを崩さない。荒北には時々、それが歯がゆい。
「でも、寿一。のんびり構えている場合じゃなさそうだぞ」
「そうだ、フク。おまえが強いとはいえ心配の種は減らしたい」
今度ばかりは新開と東堂も荒北と同じ気持ちのようだ。
「では、どうする」
静かに福富が尋ねる。
「どうするってなァ」
打つ手がなかった。悩む荒北に福富は言った。
「いっそ触りたい奴には触らせればいい」
耳を疑う。まじまじと福富を見るが、本人はいたって涼しい顔をしている。
「福ちゃん、何を」
「それが一番の証明になるだろう」
オレは強い、といつもの調子で締める福富。
確かに、実行してもらって何もないことを確かめてもらうのが手っ取り早いのかもしれないが。
「だめだ」
「却下だ」
「福ちゃん!」
新開、東堂、荒北の発言が重なる。
「何故だ」
福富は納得いかないというように僅かに眉を寄せる。
「減るものでもないだろう」
「福ちゃん、そういう問題じゃねェから」
極力、感情抑えて荒北は言った。
――イヤだ。イヤだ。イヤだ。めちゃくちゃイヤだ。イヤだつってるだろ!
頭の中では絶叫しているし、想像上では福富の肩を掴んで揺さぶっている。
何故、この男には伝わらないのだろうか。
「フク、触らせると言ってもだな。皆、お前に直接要求してこないのだろう」
「どうやって触らせるつもりなんだ? 寿一」
自由に触ってくれって言い回るつもりか。東堂の言葉を継いで新開が笑う。
「それは嫌だ」
「そうそう、福ちゃん。諦めな」
躊躇する福富にこれ幸いと詰め寄る。ここできっちり納得して諦めさせないと、独断で実行されるかもしれない。そうなれば、夜も心配で眠れない。荒北は必死だった。
「だが、荒北の」
「オレ?」
福富からの当然の名指しに驚く。
「荒北の名誉が」
どうやら福富は、荒北がまじないのお陰でインハイレギュラーになったという噂の方を気にしているようだった。
心がじんわりと暖かくなる。
「そんなん見る人が見れば実力だってわかるから。いつも福ちゃん言ってんじゃん。でも」
照れくさくて、頭を掻く。
「あんがと、ネ」
小さい声で礼を言うと、福富は僅かに眉を下げた。滅多に見れない表情だ。
――あれ、福ちゃんも照れてるのォ? かっわいい。
同級生に対する感想として『可愛い』は変なのかもしれない。だが、福富ならば仕方がないと思う。この男はぱっと見は 金髪強面鉄仮面でガタイも良いから誤解されやすいが、知れば知るほどその不器用な性質がいちいち可愛い。最初は、荒北も『いやいやいや、男に可愛いとかねェーーーからっ』と抵抗していた。しかし、福富と過ごすうちにいつしか自然と受け入れるようになってしまった。可愛いものは可愛いのだから仕方がない。荒北の家で飼っている犬
――アキチャンを愛でるのと一緒だと近頃は開き直っている。
「荒北」
「ん」
福富に名を呼ばれてふわふわとした気持ちで返事をする。
「でも、オレはお前が誤解されたままなのは嫌なんだ」
彼の金髪が月明かりにを反射して淡く光を放つ。薄暗い中、彼だけが輝いて荒北には見えた。眩しい。
「オレだって、福ちゃんが危ない目に遭うのはイヤだよ」
この光を放つ存在を守りたいと思う。誰にも汚させはしない。そのためならオレは。
『なぜ、お前が必死になるのだ』
以前に言われた言葉が浮かぶ。
――なんでだろうなァ。
荒北の思考はいつもそこで止まる。何故かと問われても答えは決っている『福ちゃんは特別』だからである。なのに、今は何かが引っ掛かる。更に思考の糸を手繰り寄せようとしたところで、声が響いた。
「とにかくだ」
東堂がパンっと手を叩いた。
「各自、明日までに対策を考えよう」
◇◆◇◆◇
「と言われてもねェ」
自販機の前で荒北はため息をついた。風呂で濡れた髪がぽたぽたと肩のタオルへと落ちていく。投入口へ小銭を入れて迷わずボタンを押す。勢いよく落ちてきたペプシを取り、一口飲む。炭酸がカッと喉を通り過ぎる。風呂上がりペプシは最高だ。
「結局、放っておくしかねェよなァ」
噂なんてものは突けば突くほど広がるものだ。おそらく一週間も過ぎれば、みんな飽きてくるだろう。新しいオモチャに群がっているだけだ。福富の言うとおり、触れたい輩がいれば触らせるのもひとつの手だ。問題があるとすれば。
――オレが我慢できるかってェこと
沸き上がってくる醜い感情を押し流すようにペプシに口をつける。
――オレ、おかしいのかもしんねェ。知らねェ誰かが福ちゃんに触るのが嫌だなんて。
嫉妬。独占欲。浮かぶ言葉は友人に対しては過激な感情だ。こんな想いは知らない。これはまるで
――
――違ェ。福ちゃんは恩人だ。普通のダチとは違って当たり前だ。特別なんだ。
振り払うようにペプシを飲み切る。
「おー、荒北じゃないかー」
間の抜けた声に荒北の思考は中断された。ほうと息をはく。
チャラそうな男が手を振って歩いてくる。どこかで見た顔だ。名前は知らないが同じクラスだったかもしれない。
「アァ?」
男の馴れ馴れしい態度に嫌な予感がする。半眼の荒北を気にすることもなく、男はにこにこと言った。
「お前、福富と仲良いよな?」
「別にィ」
早くこの場から離れよう。歩こうとした荒北の肩をチャラ男が掴んだ。
「待ーてよ、荒北」
「っせ。離せ」
即座に払いのける。
「悪かった、悪かった」
男は両手を上げておどけて見せる。ここまで気に触る男も珍しい。
「なぁ、お前も知ってんだろ? あの噂」
「知らねェなァ」
またまた〜と男は笑う。
「俺は信じてねーよ? でも結構いま流行ってんだよ」
ぶっちゃけ、試してみたくな〜い? 歯を見せて男は笑う。荒北は無言で右手を強く握る。殴ってしまわないように。
「協力してよ」
「はァ? 直接、本人に言えよ」
存分に変態扱いしてやるから。
――あ、でもそんな汚い言葉を福ちゃんに聞かせるのもムカつく。
「ムリムリ。あいつノリ悪そうじゃん」
荒北の思いを知ってか知らずか、チャラ男は苦笑いをして断った。
鉄仮面でよかった。生まれて初めて福富の表情筋に感謝した。
「なー頼むよ」
チャラ男はしつこく食い下がる。
「じゃ、三万」
できるだけ悪い顔をして指三本立てる。
ほんのデキ心だった。元ヤンの迫力にビビって男は逃走する、はずだった。
「のった!」
「待てェェェ!」
三万だぞ。三万。戦慄する荒北。高校生が容易く出せる金額ではない。
「おめー、よォォく考えろ」
「なに焦ってんだよ、荒北」
対するチャラ男は動じない。
「あ、焦ってねェよ。金額を間違えた、五万だ!」
これでどうだと、五本指を広げた手の平を突き出す。流石にたかが噂に出す金額ではない。
「ごめん」
チャラ男の謝罪を荒北は鼻で笑う。ほら、やっぱり無理じゃないか。
「夏休みにバイトして払うから」
チャラ男は申し訳なさそうに言った。
「いやー助かるよ」
「ん? 荒北?」
驚きのあまり二の句も継げない荒北にチャラ男は勝手に一方的に喋る。
――あれ、これヤバイんじゃナァイ。
これでは、荒北が福富の尻を売ったも同然だ。援助交際。何故かそんな言葉が頭を駆け巡る。
「やっぱ、ダメだっ」
むしろ最初からダメだった。冗談でも言うべきではなかった。悔やむ荒北にチャラ男がへらへらと笑う。
「金額が気にいらないのか?」
目だけ笑っていない。
「いくら? いくらでも出すよ」
「おめー」
何が目的だ。と荒北が問うよりも早く男が荒北の両肩を掴む。
「お願いだっ!金なら出す! さきっちょだけ、さきっちょだけでもいいから」
男の表情は鬼気迫るものがあった。
「お、お落ち着け」
――なんかどさくさ紛れてとんでもねェこと言ってねェか。
人間、理解できないものには恐怖を感じる。荒北も例外ではなかった。男の指が肩へと食い込む。痛い。
誰でもいい、助けてくれ。
そう思った瞬間だった。
「お前たち、何をしている?」
声のした方へ視線を向ける。
そこには、風呂あがりなのであろう、肩にタオルをかけた東堂が青ざめた顔して立っていた。
「まったく驚いたぞ。荒北が援交しているのかと思った」
「するか、ボケナス」
あの後。どうにかチャラ男を落ち着かせることに成功し、談話室のソファに東堂と二人で座っている。
さっきのチャラ男だが、どうも妹が登校拒否になってしまったらしい。意外に妹思いだったチャラ男は、くだらない噂に 縋ってしまうほど心配でノイローゼ寸前らしい。
――だからって、福ちゃんのケツを貸すわけにはいかねェ。
荒北は先程の様子を思い出す。
沈痛な面持ちで語るチャラ男に、突然東堂が大声で笑いだした。
『事情はわかった。ならば、今年やるオレたちのインターハイに妹を連れて見に来い』
『はァ?』
意味がわからない。しかし、東堂は男に再度、妹を連れてくるように言い含めると
『行くぞ、荒北』
すっきり顔で話は終わりとばかりに荒北を連れて、その場を去ったのだった。
「それにしてもインハイに来いだなんてどういうつもりだァ?」
横目で東堂を睨めば、奴は涼しい顔をしている。
「今年のインハイ。巻ちゃんとオレとの決着をつける最後のレースになる。きっと白熱した展開になるに決っている。それを観れば、妹さんもライバルが欲しくなって学校に行くだろうっ」
愚問だな。と勝ち誇る東堂に荒北は何か言う気力はなかった。
――すまねェ。チャラ男。今度、ペプシを奢ってやるから。
「しかしだ。フクの噂も困ったものだな」
「そもそもそんな噂どこから出たのかねェ」
考えてもみれば突拍子もない話だ。
「それはオレも不思議に思っていた。ファンクラブの子に聞いた話だとどうも一年から流行り始めたらしい」
「一年? 福ちゃんと接点ねェじゃん」
まさか部内の後輩が流したとは考えたくはない。では、一体誰が? 何の目的で?
「明日、真波にでも訊いてみるか」
「知ってっかねェ、不思議チャンが」
訊いてみるしかあるまい。と東堂は欠伸混じりに言い、その日はそこでお開きとなった。