箱根学園自転車競技部は全国に知られた強豪校だ。その存在は箱根学園校内でも一目を置かれている。部員たちは常に他の生徒の手本になるようにと、厳しく指導されている。特に主将ともなれば、文武両道は勿論のこと生活態度の良さも当然求められる。遅刻なんてもってのほかだ。
「福ちゃん、まだ来てねェの?」
サイクルジャージに着替えた荒北は周囲を見回す。
放課後の練習前には主将が練習メニューを部員の前で発表することになっている。しかし、部員の大半が集まってウォーミングアップを始めている時間だというのに、未だに福富の姿が見えない。几帳面な福富は遅れる時にはきちんと連絡を事前に入れる。福富と同じクラスの者ももう来ているため、ホームルームが長引いているわけでもない。ちなみに副主将である東堂の姿も見えないが、おそらく“巻ちゃん”に電話しているのだろう。これはよくあることだ。
「そういえば、遅いな」
隣で屈伸をしていた新開が頷いた。荒北と同じく既にサイクルジャージに着替えている。
「何かあったんじゃねェだろうな」
赤髪に一年とはまだ、話をできていなかった。休み時間に行ったが、不良らしく既に早退していた。と、言ってもクラスメイトに訊いたところ、奴は髪こそ真っ赤だがオレみたいなヤンキーではないらしい。悪い仲間とつるむわけでもなく、授業中も大人しい。困ったことと言えば、時々ふらっとどこかへ行くことだけらしい。どんなワルかと思っていた荒北たちは拍子抜けした。しかし、肝心の噂を流した動機まではわからなかった。結局、まだ何も解決できていない。
「靖友は心配性だな」
口では茶化すものの、新開も表情が硬い。
「てめーもな」
荒北が言うと新開へらっと笑って荒北の肩へ手を置いた。
「しょうがない。心配性同士、寿一を探しに行くか」
「仕方ねェな、うちのエース様は」
言いながら新開の手を振り払う。と同時に軽薄な声が聞こえた。
「いやー止めといたほうがいいじゃない?」
チャラい髪型に太い眉。自称、福富のそっくりさん。その男の名は。
「今井。どういう意味だァ?」
睨む荒北に今井は首を振る。
「荒北、顔が怖いから」
「オレも詳しく訊きたいな、今井」
今度は今井の肩を新開が掴む。目が笑っていない。
「新開も。お前らこえーよ!」
荒北たちの剣幕に怯える今井。
「オレはただ多分福富は告白されてるから野暮なことはするなって忠告をだな……」
「はァ? なんでんなこと知ってんだよ」
問い詰める荒北に今井は得意気に答える。
「今朝、下駄箱であいつはラブレターを持っていた」
「ラブレター?」
首を傾げる新開。
「白い封筒だったな。福富に訊いたら『下駄箱に入っていた』て言ったぞ。ラブレターしかないだろ」
きっと放課後に告白のお呼び出しだったんだー。と脳天気に今井が喋る。
「オイ、新開」
「あぁ、おかしいな」
新開が顎に手を当てる。
「おかしいって何がだよ」
今井が疑問の声を上げる。
「わかんねェのか。福ちゃんを好きな女がインハイ前のこの時期に告白するか?」
成功率限りなく低いうえに、大好きな福富の練習の邪魔になる。デメリットしかないと告げる荒北に、今井は答えに詰まる。
「で、でも女の子がメリットとかアタシ関係ないわって子かも」
「そもそも寿一は告白されたからって練習に遅れる奴じゃない。断ってさっさと来るよ」
中学の頃からそうだから。涼しい顔で新開が言う。
「え。つまり?」
「福ちゃんは今は告白されてないってこと」
まだわからない様子の今井に説明してやる。そうだろと新開に視線を送れば何やら考えている。
「でも、その白い封筒は気になるな」
「んなこと、後で福ちゃんに聞けばいいだろ」
今は福富を探すことが先だ。荒北は新開たちに背を向ける。
「靖友っ」
新開言い終わるより早く、
「皆、集まれ」
東堂の大声が響いた。ジャージに着替えた東堂は少し離れた位置に立っていた。
「今日はフク、いや福富主将が休みだからオレがメニューを発表する」
次々の東堂が今日の練習メニューを指示していたが、荒北の耳にはひとつも届いていなかった。
――福ちゃんが休み?
朝練で顔を合わせた時には元気そうだった。逆に、寝不足でひどい顔をしていた荒北の心配までしていたくらいだ。午後に急に体調を崩したのだろうか。嫌な胸騒ぎがする。
「
――以上だ」
いつの間にか東堂の話は終わっていた。荒北は東堂に向かって走りだした。と同時に隣で動く気配を感じる。新開だ。
「おまえら待てよ」
後ろから今井が喚いているが無視だ。隣を走る新開よりも先に着きたい。荒北がスピードを上げる。少し離したと思ったらすぐに抜かされた。荒北は唇を舐め、一気に加速する。あっという間に抜き返し、そのまま東堂の目の前と滑り込んだ。
「まったく何事だ、お前たちは」
後輩が慄いているぞ。と東堂は呆れた。荒北は乱れた呼吸を整えるために息を大きく吸う。その間に新開も到着した。
「寿一は風邪?」
「やはりフクのことか」
東堂は大きなため息をついた。
「実はオレも詳しくは知らんのだ。顧問から聞いたのでな」
どういうことだ。口を開きかけた荒北は東堂が片手で持っている物に気が付いた。白い封筒だ。
「おい、それ」
「あー福富が持ってた封筒じゃん」
間の抜けた声に遮られる。今井だ。
「フクが持っていた? 確かにこれはフクから預かったものだ」
東堂は首をひねる。首をひねりたいのはこっちだ。
「ちゃんと説明しろよォ、東堂」
「いや、説明するも何も。五限後の休憩時間に急にフクが来てだな」
『オレが戻らなかったら見てくれ』と差し出してきたのだが。
言葉より先に手が動いた。東堂の手から封筒を奪い取ると、乱暴に中を開ける。中には紙切れが一枚。素早く取り出して読む。
「荒北、勝手に」
騒ぐ東堂を新開がたしなめる。今井は状況がわからずにぼんやりとしていた。
ぐしゃり。
紙切れを潰して、地面に叩きつける。
――福ちゃん。
「靖友」
新開の静止を無視して、いや荒北の耳には届いていなかった。ただ福富の元へ行かなければ。その一心で駆け出していた。
紙切れには乱れた字でこう書かれていた。
『噂を流した犯人を知っている』『教えて欲しければ一人で来い』『待ち合わせの場所は……』そしてご丁寧に最後に名前が書かれていた。赤い髪の一年の名が。
◇◆◇◆◇
荒北はロードバイクが置かれた駐輪場に来ていた。肩で息をしつつ、ざっと見渡す。
――ねェな。
福富の愛車がない。待ち合わせに指示された場所は学校からは少し遠い。福富ならば徒歩ではなくロードに乗っていくだろう。やはり、彼は一人で言ってしまったのだ。
――あんの鉄仮面。
苛立ちと不安。今は考えている時間はない。
荒北はビアンキに跨がる。福富にもらったイタリアの空の色をしたロード。こいつに不可能なんてない。絶対に追いつく。そう誓って、荒北は地面を蹴った。
速く。それだけを考えてビアンキを飛ばしていた荒北に一台のロードが右隣に並んだ。黒と赤の車体のサーヴェロだ。
「新開」
「後から尽八も来ている」
「お先に靖友っ」
不敵に口角上げる新開。その表情にはいつも余裕はない。
そして、あ、と思う間もなく追い抜かされる。ぐんぐんと新開の背中が遠ざかる。ゼッケン四番の本気は伊達ではない。
――クソッ。負けてらんねェな。
荒北は更にケイデンスを上げ、加速していく。限界まで速く。それだけを考えて。
整備された車道からデコボコとした地面へと変わったことで、荒北は目的地が近いことを悟る。赤髪の一年が指定した場所はとある雑木林の入り口だった。転ばないように速さを調節しつつ向かうと、見覚えのあるロードが停めてあった。新開のサーヴェロと
――福富のジャイアント。荒北は周辺を探る。特に人影はない。
――中に入っちまったか。
雑木林といってもそれなりに広い。探し出すのは困難だろう。それでも。荒北はビアンキをジャイアントの隣に停め、咄嗟に持ってきた運動靴へと履き替える。
――行くしかねェだろ。
おそらく新開もそう思ったに違いない。荒北は息を整えて、ゆっくりと林の中へと足を踏み入れたのだった。
うっそうと生い茂る木々のせいで、雑木林の中は薄暗かった。お陰で暑さは少しだけ軽減されているが、視界が悪いということは人を探す上ではだいぶ不利だ。おまけに道らしい道もない。神経を研ぎ澄ませるが、人の気配はない。ただポキポキと荒北が小枝を踏む音がするだけだった。焦燥感だけが募っていく。先に入った新開は福富に会えたのだろうか。携帯電話を置いてきたことが悔やまれる。はぁと荒北は苛立ちを晴らすように頭を大きく振り、先へと急いだ。
歩いても歩いても代わり映えのない景色が続く。時々、外から紛れ込んだと思われるサッカーボールや壊れたテニスラケットなどがあるくらいだ。太陽が木で覆われているせいで時間帯すらあやふやだ。こうしてひたすら一人で歩いていると気が滅入ってしまいそうだ。ついに荒北は立ち止まった。
――どこにいるんだ。
昨夜の夢を思い出す。福富に追いつけない夢。冗談ではない。昨夜、絶対にインハイで優勝させると誓ったんだ。
「ふざけんなァ」
己を鼓舞するように荒北が叫ぶ。その時、強い風が吹いて木の葉が舞い上がった。ヒラヒラと上からこの木の葉が落ちてくる。その一瞬、荒北の大好きな匂いを微かに感じた。
――福ちゃん。
疲れていた事も忘れて風上へと走りだした。はやくはやくはやく。
金髪頭見えた時、心底荒北は安堵した。安心したのだが、心配し過ぎた反動だったのか。ふつふつと自分でも制御できない激しい感情が湧いた。気付いたら、福富目がけて足が動いていた。
「福富ィィ」
学生服を着た福富が振り返る。向こう側には赤い髪の少年もいたが、荒北の眼中には入らなかった。
「荒北?」
福富は直進してくる荒北を見て驚きの声を上げる。荒北は勢いそのままに飛びつくように福富に頭突きをかます。「なっ」鈍い音がして、福富は尻もちをつく。一応、手加減はした。ちょっと痛む額を抑えながら、人差し指を突きつける。
「勝手なことしてんじゃねェよ、この鉄仮面!」
一方の福富は地面に尻をつけたまま、はてなマークいっぱいだという顔で荒北を見ていた。
「荒北、」
「どんだけ心配したと思ってんだ」
「すまなかった、だが」
「言い訳すんな」
ぴしゃりと切り捨てると福富は微かに眉が動いた。
「心配をかけたかもしれないが、オレは間違ったことなどしていない」
お前に批判されるいわれはないと、その瞳が告げている。
「へェ、それどの口で言ってんのォ? 福チャン」
唸るよう荒北が言う。
「だから、悪かったと言っている」
福富は語気を強めて言い返した。
「だが、これはオレの問題だ。自分で解決する」
「お前には関係ねェってか」
乾いた笑いが荒北の口から漏れる。人間、怒りを感じ過ぎると笑ってしまうらしい。
「そうは言っていない」
「言ってんだよっ!」
激情というマグマが全身を駆け巡る。あつくて死にそうだ。
発露を求めて、真っ直ぐに福富を見る。
「オレはねェ、福ちゃん」
福富も荒北を見つめていた。出会った頃と少しも変わらない凛々しい顔で。
ブレーキが壊れる音が聴こえる。
次々と感情が溢れだしてきて。もう止まらない。
「大好きなんだよっ福ちゃんのことが」
「だから、関係ないとか言うんじゃねぇっ!」
静かな林の荒北の絶叫が響き渡った。
言いたいことを言い終えた荒北は大きく息をはいた。
福富は珍しいことに口を僅かに開けて荒北を呆然と見ている。
「おい、なんとか言ったら」
威勢よく始まった荒北の口上は尻すぼみで消えていった。頭が急速に回転していく。
――オレ、今、好きって言わなかったか?
一気に血の気が引いていく。必死で思い返すが、言っている。確実に言っていた。荒北は大声を上げて、その場から逃走してしまいたかった。だが、そんなことをすれば、本気だと自分で宣言しているようなものだ。
――うまく誤魔化さねェと。
「荒北」
福富が砂を払って立ち上がる。
「な、なんだよ」
福富の一挙一動に怯える荒北。何か言わなければ。言葉が出てこない。
「心配かけてすまなかった」
穏やかに福富は言った。荒北は目を見開く。
――それだけかよ?
どうやら、福富は先ほどの荒北の発言を完全に友情ゆえのものだと捉えたらしい。ほっとしとような、残念なような。複雑な気持ちだ。
「いいよ、福ちゃんが無事だったし。オレの方こそ、ごめん」
福富の額は薄っすら赤くなっていた。
「痛かったでしょ。帰ったら手当する」
じゃ、帰ろう。と荒北は笑ったのだった。
「待てよ、茶番は終わったか」
不機嫌そうな声が響いた。その声の主は短い赤い髪を逆立て、荒北たちを睨んでいた。。手にはナイフを持っている。
「終わったよ。全部、てめェも」
「うるさい」
男が激高する。そして、自らの首筋にナイフの刃をあてる。
「待て、早まるな」
「どういうことだよ」
制止する福富に荒北は問う。状況がわからない。
「奴はオレの目の前で死にたいらしい」
福富の答えは更に理解できなかった。
「はァ?」
「オレがエリートだからだそうだ」
それだけ言うと顎で赤髪の男をしゃくった。あいつに訊けとでもいうように。
「なんでてめェは死にたいのォ?」
仕方がないので尋ねる。あまり興味はないが。
「ムカつくんだよ」
恨みを込めるように低い声で男は言った。
「恵まれた環境で挫折なんて知りませんって顔しやがって」
「だから、くっだらねェ噂流したのか」
逆恨みもいいところだ。
「ちょっと貶めてやりたかっただけだよ」
まさか、あんなに広がるとは思わなかった。とあざけ笑う。
「しかも、熱心に犯人探しをするお仲間までいるし」
「バレそうになって自棄になったか」
荒北の鋭い視線を受けても男は怯まない。
「別に。ちょうど死にたかったし」
「だから、大事な大会前の主将さんに見てもらおうと思ってね」
少年はは口を歪ませる。
「悪趣味なヤローだ」
吐き捨てるように言う。どうするべきか。荒北は考える。
おそらく少年が首を切って死ぬことはない。赤髪の少年がどんなに覚悟があろうと、まだ高校一年だ。生き物には生存本能がある。致命傷までは傷つけられないはずだ。ただ、気が変わって少年がこちらにナイフを向けてきたら厄介だ。早めに走り寄って力ずくでナイフを取り上げてしまうか。だか、少年までいささか距離が離れている。近寄る前に首を切る可能性がある。致命傷までいかなくとも、首には大きな動脈や大事な神経がある。あまりおおごとにはしたくない。
横目で福富を窺うと固い顔で腕を組んでいる。
「さっきから言っているが、そんなことをしても無駄だ」
オレは強い。堂々といつものセリフを福富は言ってのける。
「へぇ、主将さん目の前で人が死ぬところ見たことある?」
ないでしょう? じゃ、無駄だってわかんないじゃん。少年は笑う。
「ある」
福富は少年から目を逸らさずに言った。
「それに近い状態へさせたことはある」
――総北の主将は死んでねェよ。福ちゃん。
ダメだ。福富の前で血は流させるわけにはいかない。絶対に一年前の落車事故を思い出す。平常心でいられるわけがない。
――全然、大丈夫じゃねェ。
奥歯を噛み締める。八方塞りだ。
「バーカ!」
悔しそうな荒北の表情に少年が喚く。
――手がねェわけでもねェ。
荒北は足元を見る。幸か不幸か。そこには軟式の野球ボールが転がっていた。
――ボールを当てて隙をつくる。それしかねェ。
問題が二つ。一つは少年が荒北の投球に気が付かれないようにしなければならないこと。避けられたら元も子もない。二つ目、ボールが軟式であることだ。硬式であれば、どこへ当たっても悶絶する威力だが、軟式はそうではない。適切な場所へ正確に当てる必要だある。狙うとしたら、右肘。肘に強い衝撃が加わると、手がしびれて握力が落ちるはずだ。ナイフがうまく握れなくなったところを取り押さえればいい。しかし、
――できんのか、オレ。
荒北は自分の手を見つめる。ボールに触れなくなって久しい。当然だ、ずっと遠ざけていた。どうする。失敗したら、状況は悪化するだけだ。かといって少年がいつ行動を起こすかもわかったものではない。どうする。
「荒北」
呼ばれて隣を見る。福富は静かに頷いた。その目はレース中にオーダーを告げる時と一緒だった。
――なんで。
福富に荒北の考えなどわからないはずだ。第一、福富は荒北が野球をやっていたことを知らない。いや、そうではないのだろう。
――お前が思いついた作戦をやれってことか。
鉄仮面から感情を読むことができるようになったと思っていたが、福富も荒北の表情から感情を読み取れるようになっていたらしい。それだけ長い時を過ごしたということか。こんな時だというのに、口角が上がりそうになる。
荒北は福富へ頷き返し、小声で言った。
「あいつの気を引いて、福ちゃん」
「おいっ!なにコソコソしてんだよ!」
少年が叫ぶ。
「何を怯えている」
福富が一歩、少年の方へと進む。
「来るなっ!怯えてなんかねェよ」
また一歩進む。
「本当は死にたくないんだろう」
「うっせー黙れよ!」
少年は完全に福富に気を取られている。荒北は素早くボールを拾いあげた。
――たくっ、オーダーきついぜッ。
ボールを手のひらに収め、肘を後方に引き、投げる。指先からボールが離れた瞬間、荒北は確信した。当たる。球がぐんぐん飛んで行く。少年が目を見開いた時には。肘の少し上にぶつかって、跳ねた。少年の手からナイフがこぼれる。
「今だ!」
荒北が走りだすと同時に、聞き慣れた声が聴こえた。東堂だ。声と同時に少年の後方の草むらから東堂と新開が飛び出してきた。新開は素早く少年を羽交い締めにする。少年も必死で暴れるが、新開はびくともしない。傍らで東堂がナイフを拾い上げる。荒北はそのままスピードを落とさず、東堂へと走る。
「待たせたな、フク、荒北」
駆け寄る荒北を東堂は笑顔で迎えた。
「遅ぇよ」
「隙を窺って隠れていたのだから、仕方あるまい」
お陰で皆、無事ではないか。と東堂が胸を張る。
「しかし、助かったぞ。荒北」
「なんだよ」
東堂に礼を言われる覚えはない。
「お前が大声を出してくれたお陰でここに来れたのだからな」
思わず荒北は東堂の両肩を掴んだ。すっかり忘れていた。
「おい、なんて言ったか覚えているか」
視線で人が殺せそうなほどの眼力で東堂を睨む。
「知らんよ。内容までは聞こえなかった」
東堂の答えにほっとして、手を離す。ちょうど福富が歩いてきたので、東堂は荒北の剣幕にはさして気に留めずに、福富の方へ駆け出した。荒北は新開へと近づく。既に羽交い締めは解除され、少年は新開の横で大の字になって倒れている。その顔は妙に穏やかだった。
「おい、新開」
「靖友、お疲れ」
爽やかな顔にも流石に疲労の色が濃い。
「こいつはオレが見てるから、おめーは福ちゃんの顔見てこい」
「大丈夫か?」
「多分な」
新開は大きな目でオレをじっと見た。そして、何かを納得するように頷いた。
「靖友が言うなら大丈夫だな」
「意味わかんねェな」
新開は何も言わず、俯いた。そこには鮮やかな赤い髪が草の上に広がっている。
「キミは、寿一は挫折を知らないって言ったけど」
「挫折をしてないわけじゃない」
「いや、寿一だけじゃない。自転車競技部のレギュラーで挫折を知らない者は少ないよ」
しばしの沈黙の後、少年は口を開いた。
「それを俺に言ってどうすんですか」
「さあね」
新開はパワーバーを取り出して、齧る。
「新開」
荒北の肩をそっと叩くと、新開は彼の同郷の友へと歩いて行った。
少年と二人だけになった。話したいことがあった。だが、いざ二人になると何を話せばいいかわからない。沈黙が流れる。不意に少年が小さく呟いた。
「腕落ちてないじゃん、荒北投手」
少年の発した言葉にぎょっとした。
「おめー、オレのこと知ってんのか」
実は家近いよ、と少年は微笑んだ。その笑いは先ほどとは違い平穏なものだった。これが彼の素なのかもしれない。
「なぁ、荒北さん。教えてくれない」
少年は荒北を見ない。ずっと木で覆われた空を見ている。太陽は見えない。
「なんだよ」
「なんでチャリ部に入ったの」
少年の両目が濡れていく。
「サッカーは俺のすべてだったんだ。それを忘れて、なかったことにして」
「違うものに打ち込むなんて」
震える声は荒北を責めているかのようだ。
「俺にはできない」
できないよ。少年は止めどなく涙が流す。荒北は少年から視線を逸らした。そして、目を細めて少し遠くを見つめる。
「なぁ、知ってっか」
そこには、東堂と新開に囲まれた福富がいる。薄暗い中で、より一層金髪が輝いて。まるで太陽だと。荒北は思った。ずっとこの光を追い続けていた。許されるのならば、これからも。
「自転車ってのはよ」
荒北の視線に気付いた福富が親指を立てる。
「前だけを見て走るモンなんだぜ」
そう言って荒北は彼にしては珍しく、微笑んだのだった。