パンドラの箱をブチ開けろ


 

「サボりか、靖友?」
 投げかけられた声に振り返ると、新開が立っていた。
「休憩」
 木陰に座っていた荒北はボトルから口を離して反論した。ちょうど、コースを走り終えて戻ってきたところだ。この暑さでは休まないとやっていられない。
「知ってる」
 飄々と言ってのけると新開が隣に座る。
「おめーこそサボりじゃねェか」
 さっさと走ってこい。と睨むが新開は意に介さないようだ。ここ、涼しいな。などとほざいている。
「そうだ。靖友。反省文提出したか?」
「してねェ」
 あの後。顧問からは大目玉をくらうわ、無断外出を問題にされるわで大変だった。赤い髪の少年が口添えをしてくれたお陰で、反省文提出でお咎めなしということにはなったが。元は言えば元凶は少年だ。荒北は納得していない。もっとも件の噂の収束に一役買ったそうだから、許してやろうとは思っている。
「早く書かないとまた怒られるぜ」
「ッセ」
 説教はまっぴらだ。荒北はボトルに口をつける。一口飲んで新開へと再び話しかける。
「でもよ。オレは信じらんねェよ」
「なにが」
「奴を入部させちまうなんてよ」
 赤髪の少年は全てが終わった後に、福富に頭を下げてマネージャーでいいから置いて欲しいと願い出たのだ。これには荒北も驚いた。そして、頷いた福富に更に驚いたのだった。
「福ちゃんも何を考えてんだか」
「良いんじゃないか。真面目にやっているようだし」
 確かに、部員からマネージャーとしての評価は悪くない。元運動部だったせいか、よく気が利くし動いてくれている。奴もいずれロードバイクに乗るのかもしれない。自分と同じように。ふと思った。
「まーた、福ちゃんのファンが増えちまったな」
 なんだかんだで嬉しそうな荒北に新開は微笑んだ。
「確かに、寿一は変な奴に好かれるけど。オレが思うにあいつは」

「荒北さん」

 新開の声は第三者に遮られた。
「部室へ、福富主将がお呼びです」
――噂をすればってやつか。
 荒北はダルそうに立ち上がって、声の主へ歩き出す。
「今、おめーのことを話していたところだ」
 少年は戸惑ったように新開と荒北を見比べる。
「悪くは言ってねェよ」
 すれ違いざまに少年の頭を小突く。その髪は赤から荒北と同じ漆黒へ変わっていた。


 荒北が部室に入ると中には福富しかいなかった。
「来たか」
 彼は荒北を一瞥すると手に持っていた資料を渡してきた。
「週末に走るコースなんだが、どう思う? 意見を聞きたい」
 クリアファイルを受け取って、中の資料を見ると福富が隣から覗きこんでくる。
――福ちゃん、近過ぎじゃナァイ?
 睫毛がはっきり見える。通った鼻筋も。そして、固く引き結べられた唇。キスしたい。そう思った自分を思い出して、血が上る。頭を冷やすために手元の資料に集中しようとする。
「あー、ここ行くよりこっちの方が良いだろォなァ」
 必死に冷静を装って説明する荒北だったが。
――隣からすっげェ良い匂いがする。
 これでは集中などできそうもない。己の鼻の良さを恨む。
「福ちゃん」
「なんだ」
 福富の低音が間近に響く。これもやばい。
「近ェって。離れよ」
 これ以上そばにいられたら、自分を保っていられる自信がなかった。一生、福富の友人で居続けると決めた。やすやすと破るわけにはいかない。
「何故だ」
 不思議そうに福富は言った。
「男同士でベタベタするのイヤじゃナァイ?」
 荒北は一般論を振りかざし、諭す。自分が嫌だからとは言えなかった。
――好きだよ、福ちゃん。
 心の中では何回も告白しているから。胸の痛みと共に。手に力が入り、資料に皺が寄る。
「だからね、福ちゃん」

「お前はオレが好きなのだろう」

 唐突に放たれた爆弾に荒北は心臓が止まったと思った。慌てて福富の顔を見る。
「ふ、福ちゃん」
 なんで。なんで。動揺する荒北にいつもの鉄仮面で福富は告げる。
「あの時、言っていただろう」
――意味わかってねェんじゃねェのかよ。
 酷い騙し打ちがあったもんだ。
「言ってねェ」
「言った」
 荒北の悪あがきも福富は認めない。絶望だ。福富が荒北を呼び出したのはこの話をするためだったのだろう。真面目の福富のことだ。きっとあの日からどう断ろうか考えていたのだろう。
――キモチワルイ思いをさせちまったな。
 もう終わらせてやれ。投げやりに荒北は言い放った

「そうだよ。言ったよ。オレは福ちゃんが好きだよ」
「アシストがホモで軽蔑したかよ。安心しな、インハイが終わったら消えっからァ」

 そして、絞首刑を待つ囚人のように荒北は福富の言葉を待つ。優しくなんてしなくていい。容赦なく切り捨ててくれ。

「諦めるのか」

 ぽつりと福富が囁く。
「オレの知る荒北はそう簡単に諦める男ではない」
「福ちゃん」
「目の前の獲物を必死で追い、必ず仕留める」
 そこで、言葉を切って荒北を見つめる。

「オレをオトしてみろ、荒北」

「な、なに言ってんだよっ」
 オレのこと気持ち悪くないのかよ。荒北が問う。
「悪い気はしなかった」
 さらりと言ってのけると鉄仮面は続ける。
「荒北、お前に諦めなど似合わない。全力を尽くせ」
 人事のように命令する王様に、やっぱりよくわかってねェよなと荒北は思った。それでも
――好きでいていいんだ、福ちゃんのこと。
 信じられない思いだ。沈んでいた心が一気に浮上する。
「ねェ、福ちゃん。それってオレと付き合えるってこと?」
 悪い気はしないんだろォ。と心臓をばくばくさせながら訊く。
「わからん。今はダメだ」
 生真面目に福富は首を振った。
「今は?」
「インハイで優勝したら考えてもいい」
――あぁ、このエース様は本当にどこまでも。
 抱きしめてしまいたい衝動を抑える。代わりにイタズラをひとつ思いついた。
「ねェ福ちゃん、ケツ触らして」
 荒北は返事も待たずに鍛えられた尻を撫でる。
「荒北っ」
 福富の頬にうっすら朱がさす、
「インハイで優勝できるようにおまじないだよ」
 誰に触られても平気だって言ってたよなァ。意地悪く笑う。
「言った。しかし、そう赤い顔で触られてはオレとて照れる」
「うっそ、マジかよ」
 慌てて頬を触る。その様子がおかしかったのか、福富が微笑する。暖かい気持ちが荒北の心を満たす。
――福ちゃんを好きになってよかった。
 叶わないと思った。諦めようと思った。知らないままでいたかったと後悔した。開けてはならない箱を開かれ、あらゆる苦しみは解き放たれた。最後に残ったものは何だったか。金色に輝く希望を前に、荒北は再び誓う。王者に似合いの冠を必ず彼に、と。


 熱い夏はもうすぐそこまで来ていた。



【パンドラの箱をブチ開けろ】

2015/03/21