始まりは簡素なメールだった。
『今、都内にいるんだけど。夜、空いてるか?』
次の講義の教室へと向かってキャンパス内を歩いていた新開は携帯に表示された名前に目を見開いた。
素早く携帯の画面へと指を滑らす。
『突然だな。オレは大丈夫だよ。今どこ』
多少、驚きはしたものの友人に会える嬉しさに口の端が上がる。
新開はいくつかの店の候補を思い浮かべながら、文字を入力していく。
最後に友人にとっての重要な情報を入れるのも忘れない。
『寿一は今日はいないぜ』
――残念だったな。靖友。
約束通りの時間に待ち合わせのモニュメントの前にいくと既に人がたくさんいた。
まだ来ていないか。と周囲を見回していると、後ろから肩を乱暴に叩かれた。
「邪魔だから、道の真ん中でぼーっとすんなヨ」
「靖友!」
懐かしい顔に新開は自然と笑顔になった。
じゃ、行こうか。と新開が促し、二人は駅前の喧騒から離れた。店に向かう道すがら、お互いの近況について話す。
久しぶりに会った荒北は何も変わりがないようだ。
相変わらず、痩せてて、眼つき悪くて、口が悪くて
そして
――「福ちゃん」「福チャン」とうるさい。寿一はいないのに。新開は苦笑する。
「変わらないな、靖友」としみじみと言えば
「おめーもな」と即座に返された。その言いようがまた高校時代を彷彿とさせて
「なに、ニヤけてるだヨ」
「靖友だな〜って思って、さ」
ばきゅんと指させば
「おめーも相変わらずだな」
呆れたように、しかしそこはかとなく嬉しそうな荒北に、新開はまた笑ってしまった。
焼き鳥が美味しいとネットで評判の店に入って一時間ほど。すっかり高校時代のノリに戻ってしまっていた。
「そうそう、そこで東堂がさァ」
向いに座った荒北が悪い顔をして頷く。
鉄板のネタ、東堂の勘違いヤローお騒がせ事件(命名:荒北)で盛り上がっていると、不意に無機質な電子音が響いた。
新開は机の上に無造作に置かれた荒北の携帯を一瞥する。
一瞬だったが、ディスプレイには金城と表示されているのが見て取れた。
荒北はわりィ、と一言謝り、電話にでた。
「オレだけどォ」
「あぁ、いま新開と飲んでる」
なんだか急に現実へと引き戻されてしまった気分だ。暇になった新開はぼんやりと目の前の荒北を眺める。
総北高校の金城は、荒北と同じ大学へと進学した。そこでもロードを、当然だが、続けていて荒北とは今やチームメイトの間柄である。
かつての箱根の運び屋が、今は金城を運んでいる。その事実に新開は卒業から数年経っても未だに馴染めない。
嫌だとか、そういう類の感情ではない。ただ淋しいだけなんだ。
結局はただの感傷なのだと思う。
実際、荒北と金城は良いコンビだった。息の合ったエースとアシストだと、大学自転車競技者やファンの間では有名であった。
――寿一はどう思ってるんだろうな。
新開はここにはいない“親友”について思いを巡らす。
多分、尋ねれば「良いコンビだと思う」と真面目に答えるだろう。
だが、新開が聞きたいのはそんな返答ではない。脳裏に過去の記憶が蘇る。
いつだったか。大学一年の時だっけ。とにかく熱い夏の日だった。過酷なレースだったが、辛くも優勝した寿一にお祝いしたくて。オレはクールダウンを済ませ、すぐに大学のテントから飛び出した。
幸いなことに見慣れた金髪頭は見つけるまでに時間はかからなかった。だけど、オレは声をかけることができなった。
腕組みしてどこか遠くを見ている寿一が、無表情だったから。
靖友に鉄仮面と評されたこともあったが、寿一は実は思ったことが顔に出るタイプだ。
箱学の後輩たちはオレをエスパーだと騒いでいたようだが、なんてことはない。長い付き合いのオレからすれば顔を見るだけで、寿一が何を考えているかはすぐにわかる。
だから、寿一の顔から何も読み取れないなんてことは、本当に久しぶりだった。
あ、と思って視線の先をたどると遠くの方に靖友と真護クンがいた。
なにを話しているかわからないけど、二人とも笑顔で。いや真護クンは笑顔で靖友は最初は眉上がってたけど最後は口の端上がってた。
何故だか、目を離せなかった。
『新開、どうした』
呼ばれてはっと横を見る。気付けば、寿一は真っ直ぐにこちらを向いていた。
『ぁあ、優勝おめでとう』
『ありがとう』
祝福の言葉を素直に受け取るその顔はいつもの寿一だった。
『次も勝とうな』
だから、オレもいつものオレらしく言葉を続けた。
本当は今すぐにで問いたかった。
――靖友が真護クンと仲良くて淋しい?それとも許せない?
――それとも羨ましい?
「おい、新開。大丈夫かヨ」
荒北が新開の顔の前でひらひらと手を振る。
「あれ、靖友、電話は」
「とっくに切ったよ」
このバカチャンが、と悪態をつきジョッキをあおる荒北。いつの間にか考え事に没頭してしまったらしい。バツの悪さをごまかすように、新開もグラスに口をつける。
「それにしても、靖友は真護クンと仲が良いだな」
「はぁぁ、なんだ、急に」
気持ちわりィ。
ぼそっと呟いたかと思う矢継ぎ早に話始めた。
「ま、別に仲悪いってわけじゃないけど」
「あいつをゴールまで運ぶのが今のオレの役割だし」
「金城の実力は、オメーも知ってるだろ」
「アシストとして不満はねェよ」
「あー、あいつ真面目チャンなわりにどっかズレてるんだよな」
「あと、ホント諦めが悪い男でさァ」
時折、悪態を織り交ぜつつ話される金城についての話。
新開はこの荒北のマシンガントークに非常にデジャブを感じた。
――あぁ、そっか。そうなんだ。
「真護クンが好きなんだ。靖友」
微笑ましいなと新開は友人に笑いかけた。
ロードに乗り始めてまだ一年も経っていない頃の荒北を思い出す。こんな風に福富に対して悪口だか惚気だかわからないことを喋っていた。その時も新開は同じことを思ったものだ。
のちのち恋愛感情まで発展するなんて、
荒北が福富を好きになってしまうなんて思いも知らずに。
わかってしまったのは、新開も同じ人間を愛していたから。
「あ、もしかして無自覚だった?」
からかい混じり続ける。高校時代には言えなかったセリフ。対象が福富でなけれなこんなにも軽く口から出ていく。
高校生だった頃の荒北は自身の恋を自覚していないようだった。
尊敬や感謝などの言葉で誤魔化して、すり替えて、見ないふりをしていた。
なかったことにされる想いを知って、放置したのは罪だろうか。
新開は思う。
でも、どうしても言えなかった。ヤストモはジュイチがダイスキなんだよ、なんてことは。
――オレの勘違いかもしれないだろう。
何度も何度もそう自分に言いきかせた。
――靖友は純粋に寿一が好きなだけだ。オレとは違って。
勘違いを払拭するため、新開は注意深く荒北のことを観察することにした。といっても、福富を見ていると自然に視界入ってくるのだが。
――靖友が寿一のことよく見つめているのも友情。
ほら、寿一て時々びっくりするほど天然だろ。心配で目が離せないよな。
――靖友が寿一の言葉に真っ先に反応するのも友情。
小声で言った寿一の言葉にもすぐに応えてみせる。靖友って耳が良いんだな。
尽八が大声で言ったこと聞いてないこともあるのにな。
――靖友が寿一に時々そっと触れるのも友情
肩に腕を回したり、仲の良い友人なら普通だよな。
触れる時に一瞬だけ不安な顔をしているのは、えーと,
赤い顔して寿一に見えない角度で微笑んでいるのは
――
嗚呼素晴らしき友情。泣きたかった。
否定する材料を見つけるはずが状況証拠ばかり集まっていく。
だんだんと新開は荒北を観察することが辛くなっていった。荒北の姿が痛いほど昔の自分と重なる。
同時にある可能性に思い至る。
もしも、荒北が福富へと向ける感情の正体を知ったら、同じように新開の福富への想いも気が付いてしまうのではないだろうか、と。
気付いて欲しい。
気付いて欲しくない。
新開はずっと孤独だった。
同性の親友に恋をしてしまったことを誰にも打ち明けられず、一人悩み苦しんだ。
だから
――もし、靖友が寿一が好きだって気付いて、悩んだら、相談乗ってやろう。
同性に恋をすることは、きっと悪いことじゃないさ。
なんてさ、オレが言って欲しかったこと全部言ってやるよ。
ライバルだとかそんなことは関係ない。
元々望みがない恋。出口のない迷路にいるようなものだ。
もう限界だった、一人で抱えるのは。誰かとこの想いを分かち合いたい。
仲間が欲しかった。教えてしまおうか。せめてヒントだけでも。
だが、できなかった。恐ろしかった。友人の人生を変えてしまうかもしれない。
同性に恋する辛さを新開はよく知っている。
この重い十字架を友に背負わせて良いものだろうか。
知らない方が荒北は幸せだ。そうに違いない。きっとそうだ。
白々しいキレイゴトだと新開は自嘲する。
そんなものは建前だ。ライバルは少ない方が良い。醜い嫉妬の心が躊躇わせたのだ。
恋を自覚した荒北がどう動くかなんて、新開には予測できない。もし積極的にアプローチするタイプだったら。
新開の目から見ても福富は荒北のことを気に入っている。
万が一、少し世間からずれている福富が勘違いして付き合うなんてことになったら。
福富が女の子と付き合うことはぎりぎり許せる。うそだ、許せない。
それでも、福富の幸せを思えば我慢することができる。
同性はダメだ。考えただけでも、ぞっとする。
考えすぎだとは思う。それでも、寄り添うエースとアシストを見ていると言い表せない不安に襲われた。
結局、新開は荒北に自覚を促すことはなかった。
そして、荒北に一方的な奇妙な連帯感を抱いたまま、今に至る。
「なにが無自覚だった? だ」
荒北は静かに言った。
金城のことは嫌いじゃねェよ?と荒北にしては珍しく歯切れが悪く続けた。
新開は予想と違う反応におやっと思った。いきなり同性が好きだろうと指摘された場合、友情の範疇だと思うことが普通だ。
普段の荒北ならば、照れて否定するか悪乗りするかのどちらかだろう。
「……靖友」
「おめーは誰かと付き合ったことがあるか」
唐突に荒北は話題を変えた。
「ないぜ。忙しくてな」
「そうか」
それっきり荒北は黙ってしまった。
新開は新開で荒北の言葉の意味を酒が回った頭で考えた。
金城の話題を出した直後に、交際経験を尋ねられた。
どういう意味だ。まるで関連がない。
ないはずなのに新開の脳は勝手に接点を見出そうとする。
じわりと嫌な汗が出る。
沈黙を破るようにカランとグラスの氷が鳴った。それをきっかけに新開は口を開いた。
「それってどういう
――」
「わりィ。忘れろ」
新開が言い終えるよりも早く荒北はぶっきらぼうに言い放った。
もしかして、靖友は真護君と付き合っているのだろうか。質問の順番に意味などないはずなのに、新開の脳はそう結論づけた。
ありえない。そんなはずはない。証拠がない。
即座に否定の言葉が浮かぶ。
だが、荒北の不自然な態度に掻き消される。経験上、嫌な予感は当たる方だ。
そんな―ー新開は無意識に自身の手を握りしめた。
ずっと、ずっと靖友は寿一が好きでいるものだと思っていた。オレと同じように。
それは都合の良い幻想だったのか。
荒北は新開が思うより遥かに遠い場所へ行ってしまったのだ。
足踏みする新開を置いて遠くへ、福富に教えられたように前だけを見て。
――羨ましいよ、靖友。
オレはあと何年、片思いを続ければいいんだろうな。
きっと、オレはこの先も諦めることも忘れることもできない。
手を伸ばせば、届く距離を保ったまま“親友”という仮面を被って
ずっとずっと寿一の傍にいるだろう。
「新開」
ぎょっとした荒北の声に新開は初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「悪い、酔いがまわったかな」
目を擦って涙を止めようとするが、新開の意志を無視してとめどなく溢れてくる。
泣き続ける新開を荒北は呆然と見ている。
笑わなくてはと思うのに、涙が。
「あ、れ、」
「ごめん」
「ごめん、靖友」
どうか、今だけは許して欲しい。
知られることなく消えていった恋のために泣くことを許してくれ。
オレだけが弔ってやれるのだから。
靖友の分もオレはずっとずっと寿一を好きでいるから。
だから
――さようなら。
◇◆◇◆◇
明早大学の食堂は広い。白を基調としたシンプルな内装に、長テーブルがいくつも置かれている。
そのだだ広い食堂も正午を過ぎればお腹を空かせた学生で混雑して、席を探すのも困難になる。
運よく午前の講義が早く終わった福富は一人で早い昼食をとっていた。
本日のB定食はからあげ定食だった。大きなから揚げが4つ乗った皿にキャベツの千切りが添えてある。本当は3つなのだが、食堂のおばちゃんが「あんた、運動部だからね」と内緒で1つ追加してくれた。
日本でロードレースがマイナー競技とはいえ、大きな大会で優勝する福富は親兄弟の名声もあって有名人だった。
さっくりと上がったから揚げを口に運び、噛みしめる。美味しい。
福富は特別にから揚げが好きではなかったが、昨日私用のため会えなかった友人が好きだったことを思い出しなんとなく選んでしまった。荒北とは久しぶりにゆっくり話がしたかった。福富はため息をついた。
時々、レースでは顔を合わすが他大学のため長話をする暇などない。前もって連絡をくれれば用事をずらしたのだが。
釈然としない思いでご飯に手を伸ばすと向いの椅子が引かれる音がした。顔を上げると新開が大盛りのカレーライスを持って立っていた。
「おはよう、寿一。前いいか?」
福富が返事をするより早く新開はさっさと座り、いただきますというとカレーにスプーンを突っ込んだ。
もう昼だぞ。と言おうとした口は新開の顔を見て、固まってしまった。新開の両目が腫れて薄ら赤くなっていた。女性に人気の爽やかな容姿が今は少しばかり残念だ。
新開は昨夜に荒北の会っていたはずだが、何かあったのだろうか。
「新開、目が腫れてるが」
あれこれ考えても答えは出ない。福富は諦めて直接聞くことにした。
あぁ、これ?と新開はカレーに目を向けたまま答えた。
「昨日、飲みすぎちまった。初めて知ったよ、泣き上戸だったんだな、オレ」
珍しい。と福富は驚いた。
新開はどうやらザルらしく、今まで酔った姿など見たことがなかった。そもそも新開の性格からして、自制が利かなくなるほど飲むことなどないだろうと思っていた。
そんなに昨夜は盛り上がったのだろうか。やはり無理にでも行くべきだったか。
「二日酔いのせいで、午前の授業はサボったのか」
羨ましいので、少しだけ意地の悪い質問をしてやるが、そんな福富の心情を察してか軽く笑って返された。どうやら今はカレー優先らしい。
なんとなく決まりが悪くて、無言でご飯を食べる。
しばらくお互い、食べることに集中した。珍しいことではない。
元々口数の少ない福富は相手が喋らないとこうなることが多い。
新開相手に気まずいということはないが、昨夜のことが気になって仕方がない。
向いの様子を窺うと、既に半分は食べ終わっている。トッピングの茹で卵をスプーンに乗せたところで新開はやっと口を開いた。
「靖友は元気そうだったよ。寿一に会いたかったって」
「そうか」
新開はいつも的確に福富が欲しているものをくれる。付き合いが長いからだろうか。
時々、親以上に自分のことをわかっているのではないかと思う。
「なぁ、寿一」
「なんだ」
いつの間にか新開は顔を上げて福富の顔をじっと見つめていた。
「靖友と真護君のことどう思う?」
「……良いコンビだと思うが」
唐突な質問の意図がわからず、新開を見つめ返す。
情けないと思う。過ごした年月は同一なのに、何故こうも差があるのか。
福富には新開の考えが、ことにロード関連以外の事象にはわからないことが多い。今の質問だって、福富が答えずとも共に走ったことがある新開もよく知っていることだろう。
しかし、新開は疑問には答えをくれず更に続けた。
「羨ましいって思うか?」
「どっちが、だ?」
「どっちだと思う?」
新開は曖昧に笑っている。
更なる問いに福富は箸を止めて考えた。
つまり、この質問は福富が共に走りたいと思うタイプを訊いているのだろうか。
非常に回りくどいが。そう福富は理解した。
しかし、それならば答えは決まっている。
「荒北も金城の走りもオレはよく知っている」
うん。新開が小さく頷く。
「二人がいたら同じチームだったら、心強いだろうな」
そうだな。新開がそっと目を伏せる。
「だが、オレは羨ましいとは思わない」
その答えに新開は目を見開いた。
なんで。声には出さなかったが、口の動きでそう言ったのが見て取れた。
何故、そんな当たり前のことを訊くのだろうか。
「新開、お前がいるからだ」
福富の答えに新開はぽかんと口を空けた。
そして、一拍子後にすごい勢いで残りのカレーを口に詰め込み始めた。
「おい、新開」
「このカレーすっごい辛いな」
呆気にとられる福富に新開は明るく話しかける。
「いや、ここのカレーはそんなに辛くないはずだが、」
「そうか。今日は辛いけどな。目にくるぜ」
新開は辛いものが苦手だったのだろうか。まったくの初耳だ。
辛いと言う割にはスプーンいっぱいにカレーを乗せてリズミカルに口へ運んでいく新開。
どうしたというのだろうか。
軽く首を傾げる福富に新開は口を開いた。
「なぁ寿一」
「なんだ」
「オレはさ、ずっと寿一の、……味方だから」
「誰が離れていっても、オレだけは」
言った新開は俯いていて、表情は見ることはできなった。
そして何事もなかったかのように、皿の端に残ったカレーを集め始める。
「それは心強いな」
どうやら新開の友情スイッチを押してしまったらしい。
時々、新開はこんな風に熱烈な告白めいたこと言ってくる。友達思いの親友がいてくれて幸せだ。と福富は思った。
そして、新開に見放されぬよう強く在ろうと改めて決心する。
そこでようやく残されていたから揚げに箸をつける。同時に声が聞こえた。
「ごちそうさん」
そう言うなり新開はトレーを持って立ち上がり、そのまま福富に背を向けて歩いていこうとする。
「新開」
取り残された形になった福富が慌てて名を呼ぶと、くるりと振り返った。
「待ってな。美味いデザートを買ってきてやるから」
赤い目をした新開はそう言って綺麗に笑ったのだった。
【同士よ、さらば】