コレクター


 

 ピンポーン。
 間の抜けたインターフォンの呼び出し音に金城は、読みかけの本をそっと閉じた。
 今日の講義は午後のみなので、午前中に読み切ってしまうつもりだったが。仕方がない。この部屋にアポなしで来る人間など、決まっている。
 おそらく予想は間違っていないだろう。少しだけ浮ついた気持ちで玄関へと向かう。
 ドアを開けると予想通り彼の恋人が立っていた。
「おかえり、荒北」
 と言えば、あぁ。と小さく返事をした。
 左肩にバッグを引っかけて右手に長方形の箱を抱えている。
「これ、東京土産だから」
 金城にずいっと箱を差し出す。どうやらひよこの形をした有名な銘菓のようだった。
「わざわざありがとう」
「じゃーな」
 そのまま踵を返して帰ろうとする荒北に金城は慌てた。
「荒北、中に入らないのか?」
「レポート、多いんだろ」
 そういえば、荒北が東京に出かける前に課題が多いと愚痴っていたことを思い出した。
「大丈夫だ。まだ締切は先で、今は息抜きに本を読んでいたところだ」
 そう。と荒北は静かに返事をした。
「荒北?」
 普段とは違う様子に戸惑う。具合でも悪いのだろうか。それとも
「うっせ。疲れているんだよ。こっちは朝帰りなんだから」
 力なく言うとふらふらと部屋の中へ入っていった。仕方なく金城も後を追った。


「お茶だ。ペプシじゃなくて悪いな」
「あぁ」
「昼食はどこで食べようか。家で食べていくか?学食にするか?」
「あぁ」
 やはり様子がおかしい。金城はテーブルを挟んで向い座る荒北の様子を盗み見る。
 荒北は頬杖をついて虚空を見つめている。何を話しても上の空だ。荒北にしては珍しい。
 荒北という人間は非常に嗅覚が鋭く、野生の動物のように周囲に敏感な男だ。
 その男がこんな風に無防備な姿を晒していると不安になる。
 金城の、恋人の前だから、緊張を解いているのならば嬉しいがそんな様子ではない。
 やはり東京で何かあったのだろうか。
 急に東京行きになった時は、文句を言いつつも早く用事が終われば友人たちに会えると楽しそうだったが。
 金城が思案に耽っているとふと紙を破く音が聞こえた。
「荒北?」
 見ると荒北がテーブルの上に置いていた東京土産の包装を解いていた。
「腹減ったから喰うわ」
「自分の土産を、か?」
「オレが喰いたいから買ったんだヨ」
 不機嫌そうに言うと箱からひよこの形をした菓子を取り出した。
 すぐ食べるのかと思いきやひよこをまじまじと見つめている。
「どうした」
「福チャンてさァ」
 出た。内心ため息が出る。狭量な男だと思われそうで言えないが、恋人の口から他の男の名前が出て嬉しいわけがない。
 いや、と金城は思う。
 正直に言えば通常は全く気にならない。他ならぬ“福ちゃん”だからこそ、穏やかでいられない。
 そんな金城の様子を意に介さず、荒北は続けた。
「高一のころ、ひよこみたいな髪型してたなァ」
 そう言うとひよこに頭からかぶりついた。その姿はナニかの比喩のようで、金城は目を逸らした。
「あっめ」
 目を細めて荒北は呟く。
「だろうな」
 元々荒北は甘いものを好まない。お茶を飲めと手を差し出すとその手を掴まれた。
 長く、自転車乗りらしく少しごつい荒北の指。ぎょっとする金城に荒北はにやりと笑った。
「慰めろヨ、きんじょー」


 荒北はオレの脇腹の傷に執着している。正確には高校二年のIHでついた傷にだ。
 そのことを知ったの大学に入学してすぐだった。
 部室で着替えていると、隣で同様に着替えていた荒北がオレの脇腹をじっと見つめていた。
『どうかしたか?』
『っ。なんでもねェ』
 荒北はそういうとさっさと練習へと行ってしまった。  その時は特に気にも留めなかった。
 しかし、その後も度々同じようなことがあった。同性とはいえ、身体を見つめられるということはひどく居心地が悪い。
 ついにオレは、懲りずにまた脇腹を見ている荒北に言ってやった。
『この傷が気になるのか? これは高二のIHの時の傷だ』
 やっぱりね。そう呟くと、荒北はそれ以上何も言わず去っていった。
 オレはというと肩透かしにあった気分だったが、
 これで荒北が見てくることは減るだろうと安堵したのだった。
 確かに、それから荒北がオレを見つめることはなくなった。
 だが、意外な展開が持っていた。
 その日、オレは遅くまで練習していた。もう誰もいないだろう部室を開けると荒北がいた。
 荒北は既に私服に着替えており、これから帰るところなのだろう。
『荒北も今まで練習していたのか?』
『そんなとこ』
 携帯を弄っている荒北は素っ気なく答える。
 構わずオレは自分のロッカーへと向かった。
 目的地に着いたオレは真っ先に上のジャージを脱いだ。
 ふと視線を感じて振り返ると荒北がいた。
 荒北、と声をかける前にあいつはおどけた口調で言った。

『なァ、金城』
『福ちゃんがつけた傷跡、ちょっと触らしてくんナァイ?』

 人間、あまりに驚くと停止してしまうらしい。
 普段周りの人から落ち着いていると評されているが、この時ばかりは頭が一瞬真っ白になった。
 呆然とするオレを尻目に、荒北はどんどん近づいてくる。
 そして、遠慮がちに傷跡に触れた。
――この時のあいつの表情をオレは一生、忘れないだろう。
『あ、らきた』
 荒北の肩が大きく揺れる。
『わりィ』
 素早く手を離すとそのまま走っていってしまった。
 残されたオレは早鐘のように鳴る心臓に思考が追い付いていなかった。
 きっとこの時からオレは恋に落ちたんだ。

 それから、荒北は二人だけの時に度々傷跡に触れてくるようになった。
 もちろん、オレは断ったのだが。
 荒北があまりに必死でお願いだと何度も頭を下げるので折れてしまった。
 腹ぐらい良いじゃないか。そんな気持ちだった。……下心があったのかもしれない。
 最初こそ荒北は傷跡に触れるだけだったが、次第に撫でるようになり、ついにはキスされた。
 言い訳にもならないが、この時はお互い酔っていて理性が持たなかった。
 気付いたらオレは荒北を押し倒してキスしていた。
 その行動に誰より驚いたのはオレだった。
 信じがたいことだろうが、オレはその瞬間まで荒北に好意を抱いていることを知らなかったんだ。
『すまない』
 オレは荒北を置いて逃げるように去った。
 それ以来、オレは荒北と絶対に二人きりにならないように、全神経を張り巡らせた。
 完全に荒北を避けるのには、チームメイトである以上無理だった。
 荒北はあの夜のことについて何も言ってこなかった。オレが避けていることにも気付いているかも微妙だった。
 だが、お蔭でオレは自分の気持ちについて、よくよく向きあうことができた。
 何事もなかったかのように時が流れた。
 戻ってきた日常に、少しばかり油断していたのかもしれない。
 その日、部活前に着替えていると先輩に声をかけられた。
『金城、その傷ってレース中についたのか?』
『はい。……昔、落車した時に』
『へぇー。隙あり!』
 普段からスキンシップが少々過剰な先輩は軽くパチッと傷跡を叩いた。
 驚いたが、相手は先輩だ。笑顔で流す。
 その瞬間、ロッカーを叩きつけたかのような大きな音が響いた。
 思わず振り返る。荒北だった。
『荒北ー、ロッカー壊れるから優しく閉めてね』
 先輩がのんびりした口調で諭す。
 荒北はスミマセン、と謝ると部室から出て行った。オレとは一度も目を合わさなかった。

 そして、夕刻に事件は起こった。
『なァ限界なんだけど』
 触らして。
 背後から聞こえた声に舌打ちをしたくなった。
 これはいつかの再現なのだろうか。部室で着替えるオレ。後ろにいるのは
――荒北。……ダメだ』
 努めて冷静に告げる。
『なんでだよ』
 荒北が眉を吊り上げる。他の人間には触らせたくせに。言外にそう言っている。
 わかってもらわなくては。覚悟を決める。
『オレが我慢できない』
『はァ、どういう意』
『欲情する』
 なっ――と絶句する荒北。
『好きだ、荒北』
 考えて考えて。悩んで悩んで悩み抜いて。やっとわかった。
 この同性の友人を愛している。この瞬間、誰よりも。
『だから、すまない』
『このバカチャンが』
 荒北は露骨に舌打ちをし、一気に距離を詰めた。
『荒北っ』
 正面から抱きしめられる。
『上等だァ。キスでもなんでもすればいい』
 すぐ近くで荒北の声が聞こえる。
『意味がわかっているのか』
『オレも考えた、あれから。オレは、嫌だとは思わなかった』
 抱きしめられている身体が痛い。
『それは』
『おめーのこと好きかもしんねェ』
 もう堪えることなどできなかった。オレたちは我を忘れて噛み付くようにキスをした。

 キスを終えた後、赤い顔をした恋人が囁く。
「これで金城はオレのもんだから。その傷、他の奴には絶対に触らせんなよ」
 素っ気ない荒北が見せた可愛い独占欲。幸福で眩暈がしそうだった。


 二年のIHで負った傷がふたりを結びつけた。
 では、荒北にとってそもそもこの傷跡はどんな意味を持っていたのだろうか。
 慰めろと宣言した荒北は、金城のシャツを捲り上げて件の傷跡の撫でている。優しく、優しく小動物でも愛でるように。
「新開にばれたかもしんねェ」
 ぽつりと荒北が呟いた。
「何か言われたのか?」
 箱根学園の元エーススプリンターを思い浮かべる。
 普段の柔和な様子とレース中で見せる激しさ、彼もなかなか面白い男だ。
「別に」
 別に、か。だが、この反応。何か荒北には感じ取れるものがあったのだろう。
 荒北の勘はよく当たる。
「ばれたとして、困るか?」
 左手で荒北の頭に触れる。そのまま癖のないサラサラとした髪の感触を楽しむ。
――困る、だろうな。
 新開に知られたことが問題なのではなく、それ故に起こりうる事態を恐れている。
 荒北には、おそらく誰よりも知られたくない人がいる。

 付き合っているうちに、わかってしまったことがある。
 数年前の自転車雑誌。地方の土産物のキーホルダー。何の変哲もないシャープペン。合格祈願のお守り。制服のカフス。練習メニューが乱雑に書かれたノートの切れ端。
 古びたバーテープ。アップルパイのレシピの切れ端。
 荒北の部屋に大切に大切に仕舞われているそれらの品々と彼の愛車、
 そして――この傷跡との共通点。
 ああ、そうだ。
『その傷、他の奴には絶対に触らせんなよ』
 そう言った恋人の顔は可愛い独占欲からなんて表情ではなかった。もっと――凶悪な――
 心が冷える。
 おそらく荒北は自身の異常さに気付いていない。
 だから、金城も何も言わない。言う気もない。
 この傷への執着が本来は別の人間のものだろうとも、今さら手放す気などないのだから。
 だが、予感がする。近い将来、嫉妬に狂ってオレは訊いてしまうのだろう。

――オレはお前のお気に入りのひとつでしかないのか。荒北。

 金城の問いに荒北は答えない。黙って傷跡に口付ける。
 その姿は敬虔な信徒が祈りを捧げているかのようだった。



【コレクター】

2015/03/14