どうしてこうなった。
甘い香りが漂う家庭科室で荒北は泡だて器を無心で動かしていた。
銀色のボウルにぶつかりカシャリと音をする。
白い生クリームはようやく固まってきたところだ。
目の前ではピンクのエプロンを着けた新開がバターを温めている。腕に当てて。
冷たいらしく時々ちらちらとこちらを窺っているが荒北は無視する。
一方、妙に三角巾が似合っている東堂がめん棒でバターの塊を叩いていた。
ガッシャン、ガッシャン。
鳴り響く音は机の断末魔に違いない。無心で棒を振り下ろす東堂を眺め、自然にため息が出る。
どうしてこんな事になった。
◆
“フクの為にケーキを作ろう”
そう言い出したのは東堂だった。
忘れもしない。あの日の休憩時間。荒北が教室で机に突っ伏して寝ていると急に回りの女子だちがざわめき始めた。
うとうとしていた荒北はうざいと思いつつも、夢の世界へとダイブしようと再度試みる。
あともう少し。あとちょっとで天国へ行ける。カクンと首が落ちる。夢の世界は目前だった。
しかし、その心地良い感覚は長くは続かなかった。
「おい、起きろ。荒北」
聞き覚えのあるうざい声が頭上より降り注ぐ。ざわめきがまた大きくなった。
うるせェ。寝かせろ。荒北は心の中で言い返す。
「起きろ、荒北」
だが、声の主には伝わらない。それどころか肩に手を置いて揺さぶり始める。
「いい加減、起きろ。いい話をもってきたぞ」
いい話ねェ。荒北は半信半疑で返事をする。もちろん心の中で。
「フクに関する事だ」
「
――福ちゃんの?」
つい声を出してしまった。荒北は舌打ちをする。
微かな音量だったが、東堂には十分聞こえたようだった。
「やっと起きたか」
満足そうな声が降ってくる。
「ッゼ」
荒北は顔をようやく上げた。案の定、そこには得意な顔をした東堂がいた。無性に腹が立つとはこのことか。荒北はその額に素早くデコピンをお見舞いしてやる。
すぐに女子から悲鳴が上がった。うるせェ。荒北は顔をしかめる。
だが、荒北が女子陣を睨む前に東堂が荒北に指を突きつけてきた。
「この美形に何をするっ」
忘れていた。一番、やかましいのは目の前にいる男だった。荒北は完全に呆れて東堂を見上げた。
「何しに来たんだ、おめェは」
「そうだ。良いことを思いついてな」
そう言うと東堂は荒北の前の席の椅子に勝手に座り込んだ。あー、山田カワイソウ。荒北はおそらく便所に行っている大人しそうな同級生に同情した。席に戻りたくても彼ならば東堂に強く言えないに違いない。
「知っているか。今度の三月三日は顧問が留守なんだ」
「ヘェ。じゃ、その日は自主練かヨ」
箱根学園自転車競技部では顧問がいない時に外を走ることは禁止されている。なので、そういう時は部活自体が休みになる。大抵の部員はそこで自主練に励むのだ。
またローラ回しか。がっくりとする荒北とは正反対に東堂が目を輝かせる。
「だからな、オレたちでケーキを作ろうではないか」
「ハァッ?」
思いもよらない発言に言葉を失う。
「何でだよ? まさかひなまつりだからとか言うつもりじゃねェだろうな」
「お前こそわかっていないな。その日はフクの誕生日だ」
再び目の間に指を突きつけられる。それを忌々しげに払いながら荒北は一拍子遅れて「アァ」頷いた。同時に東堂の意図にも気付いた。
「福ちゃんの為にって事か」
見かけによらず部長の福富は甘いものが好きである。
「そうだ。オレたちが練習後のフクにケーキを持っていってお祝いしてやるんだ」
良い案だろう。得意気に東堂が前髪に指を絡ませる。
「……まぁまぁだな」
荒北は腕を組んで顔をニヤリと歪めた。
なんだと。と血色ばむ東堂に荒北は言い放つ。
「どーせなら、アップルパイにしようぜ」
自転車競技部の部長はりんごのシュッとしたところが好きらしい。
◆
その結果がこの惨状である。
どこで間違えた。荒北は懸命に腕を動かしながら考える。
あの後、新開も仲間に引き入れた。そして、東堂と新開が放課後に家庭科室を許可をとった。
ここまでは何も問題がない。
『この美形と隼人が頼めば簡単な事だ』とかなんとかカチューシャが言っていた気がするが、気のせいだろう。
前日の買い出しも福富に怪しまれないように新開が後輩の練習を見ると言って連れ出している間に、荒北と東堂で済ませた。少し前まで品薄だったいうバターもぎりぎりの量を買うことができし、りんごも紅玉? という品種をわざわざ取り寄せた。準備にぬかりは一切なかった。レースだったか完勝間違いなしの勢いだ。
一つ誤算があったとすれば、福富が三日の自主練に参加しない事くらいだ。
「どっか買い物に行くらしいぜ」
新開からそう聞いた時、荒北は別段問題に感じなかった。アップルパイを渡す場所が寮になるだけだ。
とにかく無事にアップルパイを完成させる事が肝心だ。三人は頷き合い、昨夜がっちりと握手を交わしたのだった。
しかし、荒北たちは知らなかった。アップルパイは普通のケーキよりも少しいやかなり難しいという事を。
放課後、家庭科室に集まった三人はいきなりある問題にぶつかった。
「バターを室温に戻す??」
レシピを指で辿っていた東堂が大声を出した。
「まずいぞ」
「おい、どうした」
小麦粉を計量していた荒北が怒鳴る。目盛りが揺れた。
「バターなら冷蔵庫に入ったままだぜ」
そう言って新開が冷蔵庫へと走る。
「いや、どうも生地に混ぜ込むバターは室温にする必要があるらしい」
「なら、出しておけばそのうち使えるんじゃねェの?」
「いや、それでは間に合わんだろう」
東堂が重々しく首を振る。いくら使用許可を取っているといっても、流石に夜までは家庭科室も貸してもらえないだろう。片付けの事まで考えるとなるべく早く完成させなければならない。
「とりあえず計るな」
新開が包丁を持った。
「頼む」
短く応え東堂は顎に手を当てて考え込む。
そんなに真剣に悩む事なのか。東堂は変な所で頭が固い。荒北は計量した小麦粉をふるいも掛けながら声をかける。
「レンチンすりゃいいんじゃねェ?」
「駄目だ。やり過ぎて溶けたら取り返しがつかん」
バターに余分はない。
「いっそ火にかけるか? いやより駄目だ」
東堂が一人で言って一人で首を振る。八方塞がりな空気が漂う。
「できたぜ」
そんな空気を吹き飛ばすよう新開が両手を掲げて東堂へ駆け寄る。その手にはラップに包まれたバターがひとつずつ握られていた。
「バターて結構固いんだな。指で触ってる部分はすぐ柔らかくなっちまったけど」
照れたように笑う新開。その言葉に荒北と東堂は目を見開いた。
「それだッ」
「なぁ、おかしくないか」
腕にラップに包まれたバターの塊を押し当てながら新開は荒北に訴える。思わず荒北は目を逸らした。
“人肌でバターを温めよう”そう提案したのは東堂だったが、荒北も同じ考えだった。
「すまない、隼人」
東堂が神妙な顔をして謝る。
「冷たいだろうが我慢してくれ。筋肉量が一番多いお前が適役なのだ」
筋肉は温かいからな。東堂が新開の目を見る。
「せめて腕じゃなくて掌で……」
筋肉は温かいからな。同じことを繰り返して東堂は新開の頼みを一蹴した。
すまなそうな顔をする東堂。正直、見慣れない三角巾のせいでギャグにしか見えない。
新開も苦笑するしている。
――すまねェ。
荒北は心の中でだけ新開に頭を下げる。
――これも福ちゃんにうめェアップルパイを喰わせてやる為だ。耐えろ、新開。
「それでは、オレは折込み用のバターを成形しよう」
そう言って東堂はどこから取り出したのかめん棒を天井へと掲げた。
そして、話は冒頭へと戻る。
荒北はレース中のような冷めた表情でバターを叩く東堂の姿を眺めていた。
大丈夫だ。自分に言い聞かせる。
東堂は実家が旅館な事だけあって料理が上手い方だ。音が多少大きいだけで問題はない。
自分が神経質になって勝手に不安に思っているだけだ。
荒北は心を無にして生クリームをかき混ぜる。
だが、東堂が奏でる音楽は更に激しさを増していく。まるでロックだ。胸に広がる不安はなくなるどころか膨れ上がる。
堪らず荒北は身体ごと向きを変え、東堂を視界から外す。
聞こえない。何も聞こえない。
だが、それを許さない男がいた。
「靖友。いいのか」
新開だ。彼は腕にバターを押し当てながら懸命に声を出していた。
「寿一を喜ばせたいんだろ」
「新開」
目を見開く荒北に新開が微笑む。
「言おうぜ、東堂に」
お前、本当に大丈夫かってな。家庭科室は東堂のせいで騒音に満ちていたにも関わらず、その声は荒北へとまっすぐに届いた。
「でも、新開おめェ……」
「オレの事はいいんだ。寿一の為なら喜んで腕一本くらいを差し出すさ」
そう言って新開は当てていたバターを裏返す。冷えたままの反対側を躊躇なく肌へと押し当てる。
なんて献身だ。荒北は思わず奥歯を噛み締める。
――オレだって、福ちゃんの為なら。
「靖友」
そんな荒北の気持ちを知ってか知らずか、新開は荒北を促す。
「わかってんよ」
そう応えた時、荒北は既に身を翻していた。
「東堂ッ」
「あー、すまんよ。荒北」
だが、向かう途中であっさり東堂が動きを止めた。不吉な言葉と共に。
「
――どうした」
手遅れ。その言葉が頭の中を駆け巡る。荒北は急いで東堂まで歩み寄り、台の上のバターを覗きこんだ。
「なんでこうなるんだヨ」
そこには平らな八角形となったバターの姿があった。ただ平らにするよりも余程難しそうだ。
「オレは山に愛されているからな」
答えになっていない答えを東堂は言った。
「得意そう言ってんじゃねェよ」
どうすんだよ、これェ。焦る気持ちに荒北はぐるぐると泡だて器の回転速度を上げる。
「お前こそどうするんだ、それ」
東堂が呆れたように荒北が大事に片手に持ち続けているボウルを指さした。
「どういう意味だよ」
「さっきから疑問だったんだが、アップルパイに生クリームは必要ないぞ」
「アァッ?」
ぴたりと荒北が動きを止める。
「じゃ、なんで準備してあんだよ」
言われてみれば確かに昨日の買い物の時にはなかった。だが、他の材料と一緒に当然のように机の上に置かれた“混ぜて”と言いたげなその姿に暇だった荒北は思いっきり釣られた。
「冷蔵庫にあったお菓子研究部の材料を間違えて出してしまったようだな」
「クソッ」
荒北は放り投げるようにボウルを机に置いた。
「まぁ、菓子研にはオレから謝っておくよ」
新開がのんびりと言った。そういえば、この男は菓子研からよくおすそ分けをもらっている。
「たくっ。こんなんで福ちゃんにうまいアップルパイ食べさせてやれんのかヨ」
荒北は頭を抱える。残酷にも時間はどんどん過ぎ去っている。まだアップルパイのアの字さえできていない。
そんな荒北を新開が指で撃ち抜く。
「本当に靖友は寿一が好きだな」
「ッセ。てめェと一緒にすんじゃねェっ」
「違うぞ、隼人。荒北はフクが好きな自分が結局好きなのだ」
「ただのナルシストじゃねェかっ。おめェと一緒にすんなっ」
ドン。荒北はテーブルに拳を叩きつける。
「オレはただ福ちゃんに喜んでもらいてェだけだっ」
だからとっとと作業続けんぞ。そう続けるはずだった。だが、荒北は新開と東堂の顔を見て言葉を飲み込む。嫌な予感がする。
「靖友、大人になったな」
新開が白々しく指先で涙を拭う仕草をする。
「ハァ?」
――どうでもいいけど、その手絶対に洗えよ。新開。
荒北の細い目が更に半分になった。
「これもフクとオレの教育の賜物か」
東堂が腕を組んで頷く。
「てめーに教育された覚えはねェっ」
思わず荒北は東堂を指さす。
「荒北。人に指を向けてはならんよ」
「て・め・ェ・が言うな、東堂」
「オレは?」
新開が手を挙げる。
「すっこんでろ」
怒鳴っても新開は酷いなと笑うだけだ。全く懲りていない。
駄目だ。荒北は悟った。こいつらとケーキ作りなんて無理だ。どいつもこいつもマトモじゃねェ。
自分の事は棚に上げて荒北は天を仰ぐ。白い天井が眩しい。眩暈がしそうだ。
――神様、この野郎。
つい信じてもいない存在に語りかける。だが、今日だけは信じてやってもいい。だから、もしもいるのならば。
とっとと出て来やがれ。
「何をしているんだ」
家庭科室のドアが開く。聞こえてきた低音に荒北は振り返った。
「嘘だろォ」
買い物へ行っているはずではなかったのか。
「福ちゃん」
「寿一」
「フク」
三つの声が重なる。
ドアの前には本日の主役である福富は仏頂面で腕を組んでいた。
「フ、フクこれはだな」
東堂が前にでてあたふたと言い訳を始める。しかし、福富はそれを無視して部屋へ入ってくる。鞄を机の上へ置くと辺りを見回した。
「まだ生地もできていないのか」
独り言のようにそう言うと、福富は鋭い目で荒北を見た。
「荒北」
思わず背筋が伸びる。
「お前とオレは生地作りだ。ボウルと粉とバターを用意しろ」
その言い方はまるでレース中にオーダーを出しているかのようだ。だが、荒北はいつものようにすぐに返事をすることはできなかった。
「ちょ、福ちゃん」
頭が追いつかない。
そんな荒北を置いて福富は続ける。
「新開と東堂はコンポート作りだ。まずリンゴを切ってくれ」
「オーケー寿一」
バキュンと請け負う新開。対して東堂は困惑した声を上げる。
「まさか、フク。知っているのか」
「お前たち、秘密にするのならもっと小さな声で話せ」
お前たちの計画はすぐにオレの耳にまで入ってきたぞ。福富はそう言うと鞄からグリーンのエプロンを取り出した。準備万端である。
「それから先生にも遅くなる事は伝えたから時間は気にしなくて大丈夫だ」
荒北たちは顔を見合わせる。仕方がない。
こうして四人でのアップルパイ作りがスタートした。
◆
それから数時間後。やっとパイをオーブンにぶち込む事ができた。
荒北は椅子に座ってへたり込んでいた。
――疲れたァ。もしかして、自転車乗っている時よりも疲れてるんじゃナァイ。
ぼんやりと東堂と洗い物をしている福富を眺める。
本来ならば主役に洗い物などさせるべきではないのだが、福富がやるときかないのでお願いした。
――しっかし。
荒北はさっきまでの様子を思いかべる。ここまでこれたのは間違いなく福富のお陰だ。あたふたする荒北たちに的確な指示を出し導いてくれた。それを見ていた東堂も本来の調子を取り戻して大いに貢献した。案外、部長副部長は良いコンビなのかもしれない。
それにしても。荒北は唸る。福富自身アップルパイを作るには今日が初めてだったらしい。
『だが、レシピをちゃんと読めばできるはずだ』
そう言って実際に作ってしまったのだから凄い。荒北だったらまずレシピなど面倒くさくって見ていられない。
――福ちゃんてやっぱ真面目だよな。
荒北は口の端を上げる。
そう思うと普段はしゃんと伸ばしている背を少し丸めて洗う福富がなんだか。可愛く思えた。
「あー福ちゃんスキスキ。結婚したい」
突然、隣から無理やり裏返したような声が聞こえた。
「……何の真似だ」
「靖友の心の声」
先ほどまでオーブンの前に張り付いていた新開がいつの間にか隣にいた。
「そーかよ」
突っ込む気力もなかった。荒北は適当に頷く。
「
――やっと、認める気になったのか」
「ヘイヘイ」
新開のおふざけになどいちいち付き合っていられない。ノリの悪い荒北に呆れたのか新開が黙る。
しばらく、流れる水の音、東堂の明るい声、そして微かに相槌を打つ福富の声だけが聞こえた。
制服の上からでも鍛えられている事がわかる福富の背を荒北は飽きもせずに眺め続ける。
自転車で走る時。その背はとんでもなく近く、そしてまた遠かった。
「靖友」
急に荒北の視界から福富の背が消える。代わりに、柔らかい微笑を浮かべた新開が目の前に立っていた。
滑るように新開が片手を差し出す。
「ようこそ」
荒北は差し出された手を凝視する。意味がわからない。するとその手は強引に荒北の右手を捕まえてた。
「てめっ」
止めろ、気色悪ィ。振り払おうと手を動かす。だが、新開はがっちりと掴んで離さない。
ふざけんな。荒北は勢い良く顔を上げて。息を止めた。
「し、んかい?」
新開の瞳を見た瞬間、何か得体の知れない大きな不安が心をよぎった。頭の中で警告音が鳴る。これ以上、踏み込んだら危険だ。新開はそんな荒北を見て哀しそうに笑うと、あっさりと手を離した。
「なんてな」
「おい」
「靖友って案外騙されやすいんだな」
「てめェ」
オーブンから甲高い機械音が鳴った。
「おっ、できたできた」
言うやいなや新開は荒北の事など忘れたようにオーブンへと駆けていく。
「なんなんだヨ、あいつ」
残された荒北は呆れたように呟いた。理解できない。どうして。
どうしてオレはこんなに苛立っているんだ。
荒北は手を握りしめる。
いつものくだらないお遊びに本気でキレているわけではない。
ただ、新開が駆け出すほんの一瞬。あいつは
――福ちゃんを見た。
それだけの事。なのに何故か黒い炎が胸を焦がして消えない。
――そんな目で福ちゃんを見んな。新開。
心が勝手にそう叫で。止まらない。
「靖友ー。早く来い、うまそうだ」
嬉しそうな新開の声が聞こえる。荒北ははっとする。そして、緩く頭を振った。
どうかしている。新開は別に福富を見たわけではないだろう。ただの気のせいだ。
そう言い聞かせて荒北は心に燃え広がる火を強引に消した。
この時、荒北は知らなかった。その火がやがて炎へと変わり心を燃やし尽くしてしまうことを。今はまだ知りもしなかった。
◆
「できたぞ」
綺麗に切り分けられたアップルパイが一つずつ皿の上に乗っている。ちゅうど四枚。
焼きあがった時点でホールごと福富にプレゼントしようとしたのだが、福富は皆で食べると頑として譲らない。結局、荒北たちが折れた。なんせ相手は本日の主役である。
「まだだ」
皿を席に運ぼうとする東堂を福富は制す。彼はいつの間にか冷蔵庫の前に立っており、冷凍庫から白い容器を取り出した。
「今日はこれを買いに行っていたんだ」
アイスの容器のようだ。そういえば、よく福富はファミレスでアイスの乗ったアップルパイを食べている。
荒北が合点している内に福富は大きなスプーンでアップルパイへとアイスを乗せていく。
「好きだねェ、福ちゃんそれ」
迷いの一切ない動きに荒北は感心する。それを馬鹿にされたと感じたのか福富が応えた。
「アップルパイに」
「うん」
表情を変えずにゆっくりと福富は言う。荒北は余計な事を言わずに頷く。
「アイスが乗っていると幸せな気持ちになるんだ」
それは
――。
「フクは甘いものが好きなんだな」
荒北の思考が停止している間にすかさず東堂が口を挟む。
「寿一、これもあるぜ。靖友作だ」
新開が荒北が間違えて作った生クリームを見せる。福富の目が少しだけ輝いたように見えた。
「アイスと生クリームの両方でアップルパイを食べてみたかった」
ありがとう、荒北。
福富がそう言って荒北を見る。
「そりゃ、良かったねェ」
そう言われて悪い気はしない。荒北の頬が一気に熱くなった。自分はいつからこんなに単純な人間になったのだろうか。
「寿一、オレの山盛りな」
「わかっている」
二人の会話に東堂は頭を抑えた。おそらく栄養について諸々言いたい事を我慢しているのだろう。
「……オレは紅茶を淹れてくる」
ため息をつく東堂に荒北は声をかける。
「オレはペプシあるからいらねェ」
「それはならんよっ」
そして、いつものように四人で席についた。
「うまそうだな」
福富が目を細めた。フォ―クでアイスクリームをつつく。心なしか嬉しそうだ。
「だが、大事なのは中身だ。さぁ、フク」
「福ちゃん、食べてみてよ」
荒北たちが促すと、福富は器用にアップルパイを切り分けてフォークで突き刺した。サクっと軽い音がしたそれを口へと運ぶ。その光景を三対の目が見守った。
「どう?」
新開が恐る恐る訊く。荒北も思わず唾を飲み込む。東堂も喋らない。
「寿一」
もう一度新開が呼びかけると、福富はふっとその表情を優しくした。
「うまい」
たった一言。だがそれは春の日差しのように、荒北の心を暖かくする。
「福ちゃん」
気付いたら声を出していた。感情が先走って言葉になっていく。
「わりィ。手伝ってもらっちまって」
プレゼントなのだから本来ならゲストにやらせるなど言語道断だ。
だが、福富は荒北の言葉に首を振る。
「いや、気にするな。オレも作ってみたかったんだ」
そう言うとフォークを皿の上に置いた。
「本当にお前たちといると退屈しない」
順番に荒北、東堂、新開の顔を見る。
「お前たちのような友が持てて本当に良かった」
――きっと、オレは今とんでもなく変な顔してるだろォよ。
荒北はニヤけそうになる口元を必死で噛み締める。ちらりと東堂と新開を見れば、目が合った。きっとオレたちは同じ事を考えている。荒北は確信する。
――それはこっちの台詞だっての。福ちゃん
こちらの気を知らない福富は次々とアップルパイを口へと運ぶ。本当に好物なのだろう。
荒北はその様子を見守りながらふとある言葉が思い浮かんだ。
それはあまりにも自分のキャラとは外れている内容で。
思わず荒北は頭を掻く。今日の自分はやはりどこかおかしい。
「靖友、顔が赤いぞ」
「ッゼ」
「どうした、荒北。熱でもあるのか」
「東堂は黙ってろ」
「おい、お前たちも早くアップルパイを食べろ。冷めるぞ」
「ヘイヘイ。福ちゃん」
「ヘイは一回だ」
他愛もない会話を交わしながら、荒北はそっと福富の横顔を眺める。いつになく柔らかい雰囲気に荒北は息を吐く。
さっきの台詞も思うくらいならば許されるだろうか。今日だけは。
心の中でなぞるように荒北は告げる。
――生まれてきてくれてありがとう。福ちゃん。
オレと自転車を出会わせてくれてありがとう。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
一度だけでは止まらなかった。どれだけ言っても言い足りない。重い想い。
「荒北」
不意に福富と目が合う。心臓が跳ねた。
「アイス、溶けているぞ」
早く食べろ。そう言う福富の顔は見れなかった。荒北は誤魔化すように冷たいアイスを口へ押しこむ。
舌の上で甘い“幸せ”が優しく溶けていった。
【You Make Me Happy】