――赤が見える。
新開隼人という男は酷くわかりづらい。
福富の複雑な気持ちで手の中の物を弄んだ。
感情とは正反対に窓からは春の柔らかい陽射しが降り注いでいる。
早足で廊下を歩きながら福富は自分に腹を立てる。
今はインターハイ前の大事な時期だ。こんな事をしている暇などない。 何故、郵便配達の真似事をしなければならないのだろうか。 思わず手に力が入りかけて、はっとする。
福富は慌てて手中にあった封筒を取り上げた。
丸っこい筆跡で書かれた文字が目に入る。
『新開先輩へ』
裏面には可愛らしいハートのシールで封をしてあるだけで、 差し出し人の名前はない。
とりあえずどこにも皺がない事を確認すると福富はこの厄介な手紙を預かってしまった経緯を思い出す。
今朝、いつも通りに福富が朝早く登校すると見慣れない女生徒が三年の下駄箱の前に佇んでいた。
随分と思いつめたような顔が気になって福富は声をかけた。
「何をしている」
すると女生徒はびくりと肩を震わせた。彼女が恐る恐る振り返る。
「あ、あの」
か細い声が可憐な唇から漏れる。
「どうした」
「こ、こ、これっ」
勢い良く福富に向かって手が突き出される。手には桃色の封筒が握られていた。
「受け取ればいいのか?」
福富の言葉に彼女は小刻みに頷く。仕方なしに手紙に触れた瞬間、彼女は手を離した。
桃色が宙に舞い落ちる。
「おい」
福富がそれに気を取られているうちに、女子生徒が駆け出す。長い髪を振り乱した彼女の姿はあっという間に視界から消えた。
残された福富は床に落ちた封筒を拾おうとして、宛名に気が付いた。
「人違いだ」
呆然と福富は呟いた。
思い返しても腹立たしい。
新開に渡したいのならば直接渡せばいい。
福富は手に持った封筒を睨む。
もし仮にこれが東堂宛であったのならばどんなに気が楽だったことだろう。東堂ならば喜ぶに決まっている。
新開はどうだろうか。
表面上は喜んで見せるだろう。
「嬉しいよ」そう言って困ったように微笑む顔が目に浮かぶ。
新開はいつもその柔和な笑みで自身の本心を綺麗に包んでしまう。本当に切羽詰まった時でないとその感情を決してのぞかせない。昔からそうだった。
あれは中学に入学して一年も経っていない頃だ。
「どうしよう、寿一。どうしよう」
放課後、福富が下駄箱からちょうど靴を取り出すと外から新開が飛び込んできた。水を掬うようにその両手を合わせて新開は周囲を見渡す。
「どうした」
尋常ではない様子に福富は声を上げた。福富と目が合うと新開は安堵したように目を緩めた。
「これ」
新開が合わせた両手を福富に差し出す。そこには白い小鳥が横たわっていた。
「木の下で倒れてて、 」
「死んでいるのか?」
小鳥は目を閉じて先ほどから少しも動かない。
福富の問いに新開は首を振った。
「わかんねェ。でもまだあったかい」
「行くぞ」
「寿一?」
福富は手に持っていた靴を下駄箱の中へと押し戻した。そして、ぽかんとした顔でこちらを見ている新開にもう一度告げる。
「保健室の先生に見せる」
福富は強引に新開の腕を掴むと引き摺るように保健室へと向かった。
「軽い脳震盪ね」
カラスに襲われたのかも。保険教諭は新開から小鳥を受け取って一通り診た後、悲しそうに言った。
「頭に傷がある。びっくりして樹の幹に頭をぶつけたのかもしれないわ」
最近、この中学の周りでもよくカラスを見かける。福富は太い嘴を見せつけて飛ぶ、その姿を思い出す。あれに襲われたらこんな小さな鳥などひとたまりもないだろう。
「こいつ、無事なんですよね」
新開がタオルの上に乗せられた小鳥を心配そうに覗き込んだ。小鳥は未だに微動だにしない。
「ええ」
保健医が頷く。
「ここで見ていてあげるから、あなたたちは部活に行ってらっしゃい」
そういえば。福富は時計を見る。とっくに部活が始まっている時間だ。
「ヤッベ」
新開が頭を掻いた。
「先輩に怒られるっ。寿一、行くぞ」
「あぁ」
「スミマセン。また後で来ます」
名残惜しそうに新開が小鳥を一瞥する。それに保険教諭が頷くのを確認した後、慌ただしく鞄を持って二人は保健室を出た。長い廊下を足早に通り過ぎる。
隣で新開がヤベーヤベーと言葉とは裏腹に余裕の表情で騒いでいる。やっといつもの調子を取り戻したようだ。
「なんだよ」
福富の視線に気付いた新開が怪訝な顔をする。
いや。と福富は軽く首を振る。
「お前でも取り乱す事があるんだな」
言うと新開は僅かに頬を赤くした。
「そりゃ、あるさ」
「初めて見た」
「なんか恥かしいな。忘れてくれよ」
新開が頬を掻く。その仕草が妙におかしく思えた。
「断る」
「寿一」
咎めるように新開が名を呼ぶ。それをを無視して福富は新開の驚いた顔を反芻する。
あの顔を自分だけが知っている。そう思うと悪くなかった。まるで地球からは見ることのできない月の裏側を覗いた気分だ。
「寿一ってば聞いてるのかよ」
唇を尖らせる新開に見つからないように福富はこっそり微笑んだ。
うさぎ小屋の前に新開の姿を認め、福富はその眉間の皺を深くした。
手の中の封筒を意識する。それに気付いて更に苛立ちを募らせる。
馬鹿馬鹿しい。
手紙を渡すくらいで何を苛立っているんだ。
ザクザクと尖った感情をぶつけるように福富が地面を踏みしめて歩いていくと、新開が振り返った。
「随分、機嫌が悪いな」
ウサ吉が怯えちまう。そう笑う新開に福富は封筒を差し出した。
「なんだよ」
「お前にだ 」
それ以上は一言も言う気はない。
「へえ」
微笑みを顔に乗せたまま新開は封筒を福富の手から抜き取った。ほっとする。これで責任は果たした。後は新開と共に部活へ行くだけだ。
しかし
――。
紙を破る音に福富は固まる。
目の前で薄紅色の切れ端が風に舞い上がる。新開は器用に封筒の上部だけ指で切り取ると中身を取り出した。躊躇なく白い便箋に視線を走らせる。
思わぬ気まずさに福富は唇を噛んだ。
これがどういった類の手紙かわからないほど鈍くはない。
新開はかざすように片手で手紙を持ったまま黙って読んでいる。
立ち去るべきなのだろうか。
手紙とは言え、これは告白と同じだ。第三者がいるべきでないように思えた。
視線を向ければちょうど新開が手紙から顔を上げた。その表情がふっと緩む。春風に溶ける雪のような変化だった。
「おいで」
柔らかな声が耳朶を打った。福富は息を呑む。新開。掠れた口から呟きが洩れた。
その時、するりと脚の表面を何か温かいものが撫で通り過ぎた。白と茶のそれははしゃぐように新開へと向かっていく。
「猫……?」
「あぁ。時々、餌をやってたら懐かれちまって」
ちょっと待ってな。新開は足元に身体を擦り付けている猫に優しく呼びかける。そして、上着のポケットを探ろうとして苦笑した。未だ手の中にある手紙の存在を思い出したのだろう。
新開は視線を文面へともう一度走らせると、躊躇なく足元に置いていた自らの鞄へと放り込んだ。
あ、と思っている間にも新開は大袈裟に上着のポケットを叩いて声を上げた。
「寿一。なんか食べ物持ってねェ?」
しゃがみ込んで残り物のパンを差し出すと猫は猛烈な勢いで食いついた。かなりお腹を空かせていたようだ。
「悪いな」
「いや」
福富と同様にしゃがんだ新開が愛おしそうに猫を見つめる。
「こいつ。いっつも腹空かせてんだ」
お前みたいだな。福富がそう言うと新開は嬉しそうに頭を掻いた。
「そうだよな。ホント、猫の方がまだオレっぽいよな」
「どういう意味だ」
福富の問いに新開は薄っすらと笑った。
「さっきのファンレターなんだけど」
「ラブレターの間違いではないのか」
「違うよ」
新開は可笑しそうに言うと肘で福富の事を突付いた。
「それで不機嫌だったのか。やきもちなんて可愛いな」
「気持ちの悪い事を言うな」
なるべく感情のこもらない声色で言ったつもりだが、新開はにやけたままだ。時々、この男は全てを知っているのではないかと思う。
「それよりも、さっきの話だが」
言うと新開は曖昧な表情を作った。
「あぁ、それね」
「待て。誤魔化そうとしているな」
鋭く睨めば新開は「わかった、わかった」と手を振った。
「ファンレターに書いてあったんだ。」
――月みたいだって。
新開は顔に憂愁の色を浮かべて喋る。
“前に図書室で本を読んでいる先輩をいつも見ていました”
“穏やかな先輩はまるで月みたいで素敵です”
“また図書館で会いたいです”
福富は腕を組んだ。
「それはファンレターか?」
「付き合って欲しいとは書いてなかったぜ」
とぼけているのか本気なのか。新開は首を傾げる。
福富はため息混じりに言った。
「それにしてもまだ図書室に行っているのか」
新開は二年のある時期、図書室に入り浸っていた。
「時々。最近はそういえばあまり行ってないな」
新開はあっさりとそう言うと猫の背へと手を伸ばした。
「そんな暇ねェしな」
「そうだ」
慣れた手つきで猫を撫でる新開を見ながら、福富は力強く頷く。
「インターハイが終わるまでそんな暇はない」
一分一秒も惜しんで練習すべきだ。図書室に行く時間があったら筋トレでもしている方がいい。
ましてや恋や愛などに惑わされるなど言語道断だ。
「わかってるよ」
新開は猫から手を離すと静かに立ち上がった。
「そろそろ行くか」
「あぁ」
連れられるように福富も立ち上がる。するとその脚に猫が身体を擦り寄せてきた。
「懐かれたな」
困惑する福富に新開が可笑しそうに言った。
――やっぱりそいつ、オレと似てるな。
その日の夜。夕食を終えて部屋へと戻ってきた福富はすぐに机へと向かった。明日は英語の小テストがある。いくら部活が忙しくても学業は疎かにしてはいけない。いつもそう父は言っていた。 福富も同感だ。成績を落とせば補習を受けることになり、結局は練習する時間が減ることになる。
ノートと教科書を机の上へと広げる。いざペンを握リ締めて書き出そうとした時、涼しい風が福富の頬を撫でた。
反射的に顔を上げる。窓が微かに空いているのが見えた。夕食に向かう前に暑いと窓を開けた事を思い出す。そのまま開けっ放しにしていたらしい。
不用心だったな。
福富は立ち上がり、 窓のサッシへと手を掛ける。窓を閉める前に福富はガラス越しに夜空を見上げた。
高い位置にぽつりぽつりと星々が見え、それを見守るように月が銀色の光を放っていた。欠けているにも関わらず冴え冴えとしたその輝きに福富は思わず手を止める。
ーー月みたい、か。
図書室で本を読む新開。福富も見た事がある。静寂に溶け込みながらも物憂げな横顔がとても絵になっていた。誰かが月と喩えてもおかしくはない。
だが、それは奴の本質では決してない。
福富は知っている。自転車に乗った時の新開を。しなやかな肉食獣を思わせる眼光を。飄々とした仮面の下に隠された熱い生の鼓動を。激しい闘争心を。
何故、皆はわからない。
福富の脳裏に中学時代から耳にした声が甦る。
『新開、サッカー部の方が向いてそう』
『もったいねー。なんで自転車競技部?』
『あの格好いい人、誰?何部の人? え、自転車?』
『新開がバスケ部とかサッカー部だったら女子人気ヤバかったな』
奴らは新開の本質を知らないくせに勝手な事を言う。平気で自転車から新開を引き離そうとした。
新開が部活を休んでいた時も酷かった。嘘か本気かわからない口調で他の部活に勧誘する者が多かった。新開逃げるように過ごしていた図書室でさえそれは行われた。
あの頃の新開は福富と顔を合わせるとよくその話をしていた。
その度に福富は心の中で苛立ち、同時に漠然とした大きな不安を感じた。
――新開はもう自転車に乗らないのではないか。
馬鹿な。そんなはずはない。
思う度にそう打ち消した。何度も。何度も。そして必ず最後にこう結んだ。
――オレは新開を信じている。
だが、その信頼は砂でできた城のように簡単な事で揺らいだ。
今でもよく覚えているのは、とある秋の午後の事だ。
数学の授業の最中だった。前回習ったところのおさらいが中心で既に理解している福富にとっては退屈な時間だった。
ロードに乗りたい。そう思って窓の外は見れば雲一つない青空が広がっていた。
『新開ー』
微かに聞こえて名に福富はぎくりと身体を強張らせる。
校庭ではちょうど新開のクラスが体育をやっていた。サッカーをやっているようだ。福富の視線が吸い寄せられるようにフィールドを走る赤茶色の髪の男へと向かう。
サッカーボールが新開へと回ってくる。ワンバウンドしたボールを新開は足先でふわりと蹴り上げる。ボールはそのままキーパーの脇をすり抜けてゴールネットを揺らした。女子のはしゃぐような甲高い声が響く。それを何食わぬ顔で享受しながら新開はクラスメイトと楽しそうにハイタッチをしていた。
その姿に胸に焦げ付くような痛みを覚えた。
『自転車なんかより新開はサッカーの方が向いてる』
過去の亡霊の声がぐるぐると脳内を巡る。
福富は自分を保つ為にペンを強く握りしめた。
そうしなければ、違うと大声で叫んでしまいそうだった。
お前の居場所はそこではないと言ってしまいたかった。
新開のスプリントは天性のものだ。
福富はゆっくりと息を吐く。
努力ではどうにもならないものを奴は持っている。
福富は初めて目にした時の新開の走りを思い浮かべる。心が湧き立つように震えた。強烈なプレッシャーを放ちながら、背後から風のように自分を追い抜いた新開。
美しい、と思った。
恐ろしい、と思った。
その一瞬だけ福富は自らが選手であることを忘れて、ただただその走りに見惚れた。魅入られたと言っても良い。あの日、新開が見せた才能は鮮烈に福富の心に焼き付いていた。
窓の外では引き続き新開が楽しそうにボールを蹴っている。
偽者め。吐き気がした。
新開は必ず戻ってくる。呪いのように頭の中で福富は繰り返す
福富は気付いていた。
新開には無数の選択肢がある。自転車しかない自分とは違って。
だが、福富はそれを見て見ぬふりをした。
親友を信頼するという大義名分を被って。
そして、無理やり押さえつけた感情は“あの日”最悪な形で暴走した。
「福ちゃーんっ」
宿題ちょっと見せてくんナァイ。
乱暴にドアを叩く音と共に声が聞こえ、福富の思考は中断された。
「今、行く」
そう応えながら福富はもう一度月を見上げる。銀色の光が冴え冴えと夜空に響き渡り、主役とばかりに真ん中に鎮座している。
月とは皮肉な物だな。
福富は腕を組む。
月は太陽がなければ輝けない。決して。