窓から差し込む光が心地よい。教室を移動する為に廊下を歩いていた福富は側面に熱が当たる感覚に目を細めた。力強いその熱は軽やかな春の陽射しよりも夏の苛烈さを多く含んでいるように思えた。
もうすぐ夏が来る。待ち焦がれた夏が。
教科書を持つ手に自然と力が入る。レース直前のようなピンとした緊張感に身体がこわばる。
万全だろうか。
自らに問いかける。
万全だろうか。
「なに、怖い顔してんだよ。寿一」
気安い声が耳に触れ、福富は横を向いた。窓枠に手を置いた新開がこちらを見て笑っている。
「そんなんじゃ、女の子にモテないぞ」
余計なお世話だ。
「お前の方こそ何をしている」
新開の言葉を無視して問えば、新開はんー、と大きく伸びをした。
「日向ぼっこ、かな」
何故、わざわざ廊下に出る必要がある。そう言おうとして福富は言葉を飲み込んだ。新開の隣に歩み寄って気付いた。この窓から覗き込めばちょうどうさぎ小屋が見下ろせる。
「新開」
良い天気だよな、と福富の気持ちを知ってか知らずか新開は窓の外を見る。
「寿一のクラスは次、移動?」
「そうだ」
「そっか。オレは次、英語。なぁ、課題の長文読んだか?」
「いや、まだだが」
すると新開は得意気に鼻を掻いた。
「教えてやろうか? オレ、あれ去年の文化祭で観たから内容わかるぜ」
そういえば、演劇部が上演していたな。主役の男の演技がなかなか良かったらしい。だが、海外とは言え有名な作品だ。あらすじだけなら福富も知っている。
「結構だ」
断ると新開はふうんとつまらなそうに返事をした。
それっきり新開は口を噤んだ。福富も無言で外を眺める。
――何を考えている。新開。
心の底で忘れたはずの焦燥感がぞわりと動き出す。
万全だろうか。
頭の中で再び自分の声が響く。
万全だろうか。総北と、金城と戦うに相応しいチームを作れるだろうか。
渦のように脳を掻き乱す問いに福富は唇を噛む。
問題などない。
新開は戻ってきた。左が抜けなくとも奴は最速だ。今度こそ一緒にインターハイの舞台を走る。 そして、優勝する。
福富には見える。インターハイという大舞台で水を得た魚のように生き生きと走る新開の姿が。必ず奴は自らの走りでもってその名を全国に知らしめるだろう。
「なぁ、見てみろよ。月があるぜ」
肩に軽く手を置かれ、福富の思考は中断した。隣にいる新開に視線をやると彼は人差し指を伸ばして空を指している。
それを辿ってみれば、なるほど青空に 円形を損なった月がひっそりと浮かんでいる。 昨晩見た姿とは違い、銀色に輝きはなく新開に言われなければ気付かなかったかもしれない。
太陽の光を反射することで発光する月は、その光源が存在する日中では雲よりも目立たない。
「哀れだな」
気付けばそう 口にしていた。へぇ、と隣の新開が可笑しそうに言う。
「なんで?」
何故か。そんな事は決まっている。あれは
――。
「弱い」
答えた瞬間、新開が噴き出した。寿一らしい、と言いながら肩を震わせ笑う。福富の肩に置かれたままの新開の手がぐっと掴んできて、福富の制服に皺ができる。
「笑い過ぎだ」
「悪い、悪い」
本気とは思えない謝罪の言葉を口にしながら新開は手を離した。まだ可笑しいのか口元が緩んでいる。
「月を弱い言う人間がいるとは」
「月そのものが、と言うわけではない」
闇夜に存在する月が輝かしければ輝かしいほどに、場違いのように日中に晒された月が見ていられない。歯痒く感じる。そうまるで
――。
福富は隣の横顔をそっとうかがった。
だからこそ、次に発せられた新開の言葉に身体を強張らせた。
「オレは、結構好きだな」
微笑みを湛えたまま新開は言った。
どこか切なさを含んだその声色が福富を過去へと誘う。
広島のインターハイに向かう前日、福富は新開と会った。
新開は夏休み中もうさぎの世話をする為に家には帰らずに箱根に残っていたのだ。福富はその日、軽めの調整を終えるとすぐに寮へと戻らずうさぎ小屋へと向かった。その頃には長く浮かんでいた太陽も沈みかけていた。
「寿一」
子うさぎの小屋の前でしゃがみこんでいた新開は福富の姿を認めると目を細めた。赤色を帯びた茶色の髪が更に赤く夕日に染め上げられている。
福富は少し離れたところで立ち止まった.
「どうした?」
いつもより遠い距離感に新開は柔らかい声色で尋ねる。
福富はゆっくりと息を吸った。
言いたい事はたくさんあった。だが、伝えるべき事は一つだ。
「行ってくる」
福富は静かに言った。
「あぁ」
それで新開は全てを察したようだ。緩やかに新開が立ち上がる。
真っ直ぐに福富の目の前までやってくる。
「行ってこい」
そう言いながら新開は握りしめた拳を前に突き出す。差し出されたそれに福富も拳を合わせる。
「必ず優勝する」
だから、来年はお前も。そう言いかけた福富を新開は切なさが入り交じる笑みで遮った。
「来年の話をしたら鬼が笑うぜ」
それにさ。そう話す新開の唇の動きがやけに遅く感じたことを覚えている。
「
――オレ、来年だってどうなるか、」
そこまで言って新開は口を噤んだ。流石に失言だと気が付いたようだ。福富も尋ねるようなことはしなかった。ただ黙って目を逸らす新開を眺める。闇を濃くした赤がそこへ落ちる。溶け合うように。
「新開」
語気を強めた自分の言葉が空気を震わす。新開がはっとしてこちらを見る。福富はその目を睨み返す。
消えてしまうと思った。ロードレーサーとしての新開が。勝利を渇望する鬼が。あの日、追いかけた背中が。
不安げに揺れる大きな瞳を見返しながら、福富はその中に鬼を探す。対戦相手を震え上がらせた闘志を見出そうともがく。
――それでこそお前だろう。
いつも飄々とした態度で、だがロードの事では誰よりも熱く、勝利に対してどこまでも真剣だった。
太陽が光を引き連れて地平線の向こうへ沈む。新開は身じろぎもせずにこちらを見つめている。福富も瞳を逸らさない。周囲の音が消え、二人だけの空間にいるように錯覚する。
――新開。
もう一度、心の内から呼びかける。
新開がロードの世界に戻ってくると福富は信じている。確信していると言ってもいい。新開が持って生まれた才能というものはそういう類のものだ。
なのに、何故こんなにも不安なのだろうか。
福富は自身に苛立ちながら、福富は新開の腕を掴んで強引に引き寄せた。
そして、はっきりと宣言する。
「必ず」
間近に見える新開の顔に漂っていた笑みが消える。
「優勝して帰ってくる」
噛みしめるように告げる。それは誓いであり、祈りだった。
無機質なチャイムの音が廊下に響き渡る。福富は目を瞬せた。過去の幻想が消える。
「悪いッ。次、移動だったよな」
両手を合わせる新開に首を振ると福富は足早にその場を立ち去った。
冴えない教師の声が耳を上滑っていく。抑揚のない声は眠りを誘うらしく隣の生徒は既に夢の世界へと旅立っている。
新開と別れた後、教室に着くとまだ教師はいなかった。何食わぬ顔で席に座る。するとすぐに教師が入ってきた。
いつもの平穏な授業が始まる。
福富は少しだけ乱れた呼吸をこっそりと整える。それだけが非日常的だった。
教師がコツコツと音を立てながら黒板にチョークを滑らしていく。福富はそれを無心で写しながら、再び新開の事を考えていた。
寿一。あの鳥、いなくなっちまった。
中学生だったある朝。新開は福富には会うなりそう言った。
テスト前で朝練がない日だった。福富が教室の自分の席に座ると、すぐに新開がやってきた。福富は何か起きたのだとすぐに悟った。不思議なほど新開には表情がなかった。
あの鳥。二人の間でそう呼ばれる鳥は一羽しかいない。以前、新開が見つけて保健室で保護した小鳥だ。
保健の先生は“脳震盪を起こしているだけ”と言っていたが、目覚めてたあの鳥は飛ぶ事ができなくなっていた。昼休みに新開と共に保健室を訪れた福富はそこで首を傾げて羽根をバタつかせる小鳥を発見した。
「おかしいわね。どこも怪我なんてしていないはずよ 」
先生は顎に手をやった。
「でも、先生。こいつ、飛びたがってるのに」
新開が小鳥を指差す。白い羽根を広げて小鳥は哀しそうにピイと鳴いた。
「心理的なものかもしれないわ」
「しんりてき?」
「先生、それは」
福富は小鳥へと視線を向けたまま口を開く。
「トラウマ、というものですか」
「そう。落下のショックが大きかったのね」
先生は労わるように小鳥の頭を指で撫でた。小鳥が迷惑そうに目を閉じる。
「どうすれば治せますか」
中途半端に広げられたままの白い翼を凝視したまま新開が尋ねた。先生はそっと小鳥から手を離しため息をつく。
「わからないわ。でも、多分自然に治るはず」
「本当?」
「えぇ。ただのショック状態だから落ち着けば大丈夫よ」
「良かった」
思わず口からこぼれた言葉が別の声と重なる。福富は新開の顔を見た。福富の視線に気付いた新開が安堵したように微笑む。
「本当に良かった」
しかし、結局その鳥は福富たちが部活を終え帰る時刻になっても飛び立つことはできなかった。
保健室へと再び福富と共に訪れた新開は、困り顏の養護教諭の前で懸命に羽根を動かす鳥を目にするなり宣言した。
「オレが連れて帰ります」
そしてこう続けた。
「ほら、おいで」
驚く福富と先生を尻目に新開は小鳥の目の前へと差し出す。突然、現れた人間の手を小鳥が首を傾けて見つめる。
「飼うつもりなのか」
あぁ。福富の問いに新開は力強く頷く。
「こいつが飛べるようになるまで面倒みる」
家に使っていない鳥籠があると新開は説明した。昔、新開の両親がインコを飼っていたらしい。
「大丈夫かしら。突然、連れて帰って」
不安そうに呟く先生に福富は首を振る。
「新開のご両親なら大丈夫です」
あの 人たちならば笑って受け入れてくれるに違いがない。
「それならいいけど」
先生がため息混じりに呟く。その視線の先では小鳥が新開の指をついばんでいた。
「イテッ」
新開は苦笑してそっと両手で小鳥を包み上げた。
「寿一、帰りにペットショップ寄っていい?」
構わない。そう言う前に小鳥がピュウと鳴いた。
こうして新開の家に家族が一羽増えた。
それ以降、新開との会話に時々に “あの鳥”が登場するようになった。
小鳥は福富の予想通り新開の家に暖かく迎えられたようだ。特に新開の弟も気に入って、二人で世話をしているそうだ。
福富が新開の家に遊びに行くと新開は小鳥を見せてくれた。鳥籠へ新開が手を入れると小鳥は器用に新開の指へと脚で跳ねて飛び移る。新開が籠からその手を取り出すのを見ている時、福富は決まって複雑な気持ちになる。
数度羽ばたいてはやめる白い羽根。小鳥はなかなか飛べるようにならなかった。
その鳥が “いなくなった”?
福富は新開の顔を凝視する。相変わらず新開の表情は無そのものだ。
「悠人が」
悠人とは新開の弟の名だ。彼もロードをやっている。新開とは違って山が好きらしい。福富は新開によく似た顔を思い浮かべる。
「鳥籠の掃除をしようとしたんだよ」
そこで初めて新開は眉を僅かに下げた。
「掃除?」
「あぁ。昨日、寿一と走りに行っただろう。だから」
悠人だけで掃除を。新開はぽつりと言った。
新開の家の庭には水道が通っていて、かごの掃除にはよく利用していた。その日、悠人はいつも通り水道の近くに鳥籠を置いた。普段ならあらかじめ別のケージに家の中で移しておく小鳥を中に入れたまま。
「悠人は優しいから、外の空気を吸わせてやりたかったんだ」
しんみりと新開は言った。その声は騒がしくなってきた教室の中でも不思議とはっきりと聞こえた。
「でも、その時に悠人はある事を思い出した」
かごの入り口を開けた瞬間だった。あ、と悠人は小さく声をあげた。
――今日の宿題のドリル持って帰ってきたかな。
急に頭の中が不安でいっぱいになる。担任の先生は厳しくて、学年いや学校中で有名だ。この前も宿題を忘れた隣の隣の席の女の子が授業中にずっと立たされていた。その日の宿題自体はそんなに難しい内容ではなかったが、ドリルを学校に忘れていたら解く事もできない。
悠人は勢いよく立ち上がった。そして、自分の部屋へと駆け出した。
部屋に戻った悠人はランドセルをひっくり返す。散らばる教科書を掻き分けて目的のノートを探す。だけど、見つからない。
慌てて本棚の前に立ってその日に学校へ持っていない教科書の背表紙を指で辿る。国語、社会、理科。やはり目的のものはない。
どこへやったのだろう。
悠人は額に手を当てた。落ち着いて考えてみる。
学校にはあった。ランドセルにも入れたような気がする。それからどうした。
咄嗟に悠人は自らの机の上へと視線を走らせる。机の上には今は何もない。
そこで悠人はやっと思い出した。ドアを開けて部屋を出る。向かうところはリビングだ。そういえば、忘れないようにと帰ってすぐにリビングで取り出しておいたのだった。
リビングの机の端に置かれたドリルを見つけて悠人はやれやれとため息をついた。
そこへ、耳をつんざくような鳥の鳴き声が聴こえた。断末魔のようなそれを聴いて悠人ははっとした。鳥籠を外へ出したままだった事に気がつく。
再び悠人は駆け出した。重たいドアへ体当たりのようにぶつかって外に出た。
「猫がちょうど庭から出て行くところだったらしい」
なんでもないように新開は喋り続ける。
「猫が」
「ケージの中は白い羽根がいくつも落ちていてさ。肝心の中身はーー」
そこで新開は口を閉ざした。
何が起こったかは明白だった。
悠人が離れた微かな隙を野良猫は見逃さなかったのだ。
福富は言うべき言葉が見つからず黙り込む。同級生たちの明るい声が響き渡る中、新開と福富の間だけ重い暗幕が垂れ下がったように静謐だった。
どこか異様な雰囲気を感じたのか、いつも寄ってくる友達たちさえやってこない。二人の世界を遮るものは何もなかった。
どれくらいそうしていただろう。
ようやく新開の唇が動いた。
「だから、もう “あの鳥”はいないんだ」
囁くようにそう言うと新開は自分の席へと歩いていった。
「
――新開」
絞り出すように福富が呼びかける。だが、新開はそれには振り返らなかった。
同時にチャイムが校内に鳴り響く。耳慣れたそれを聴きながら福富は奥歯を噛んだ。
新開は泣かなかった。
「あー、この問題わかる人」
力ない教師の声が教室に響く。福富は意識を現実へと戻した。隣の生徒は完全に机に突っ伏して本格的に眠っている。
福富が顔を上げると困ったように教室を見回していた教師と目が合った。仕方なしに手を上げる。
あからさまにほっとする教師の顔を眺めながら福富は再び新開の事を考えた。
意識的なのか無意識なのか。新開は感情をあまり見せない。唯一、ロードの時だけは例外だ。
だから、インハイでの落車事件の真相を告げた時の新開の反応は福富にとっては予想外だった。
苦しげに顔を歪める新開に福富は切り裂くような痛みと共に、微かな優越を感じた。
福富はため息をはく。
異常だ。
他の誰にだってこんな気持ちになった事はない。新開だけ。新開だから。
自分にとって新開は何だ。
“
――運命なんだ”
揺れる電車の中で。耳に吹き込まれた声が脳裏に甦る。うなじに感じた新開の息づかいまで思い出し、福富は顔が熱くなっていくのを感じた。
どうしてあの時のことを思い出すだけで自分はこんなにも動揺してしまうのだろうか。わからない。今、黒板に書かれている問題より難問だ。
「福富」
教室をわざとらしく見回していた教師がようやく名を呼んだ。
福富は余計な思考を中断して、返事をした。